つめたい 2
突然のことに驚いて、彼女は悲鳴を上げた。
「きゃあああ!・・・・あ・・あ、あ・・・」
「・・・わ、悪い。水、持って・・・・? 何だ? これ・・・あ・・・・!!」
あまり触ったことのない、丸くて柔らかいものの感触。見ると、彼の左手は、彼女の胸のふくらみを、しっかりと掴んでいた。
「・・・これ、ワザと?・・・今、指、動かしたら、ハリ倒すからね・・・!」
彼女はうつむき、両の拳を握り締めて、肩をワナワナと震わせていた。
・・・ヤバい! ヤバい! すっごい、怒ってる。ヤバい!
「あわわ。す、すまん! でも、事故なんだ! 吐いたものが引っかからないように、しようとしただけ・・・」
あまりの怒りに、またまた、顔が赤くなっている。頭から湯気が立ち昇りそうな勢いだ。キッと、彼を見据えて、彼女は言い放つ。
「ウソよ! じゃあ、あの、迷い無しに一直線って感じは何?! ふざけんな!!」
「・・・ま、迷い無し? 一直線? ??」
「もぅ、たくさん! 泣いちゃうくらい怖いし、死ぬほどビックリするし、失礼だし、吐くし、ドサクサに紛れて、む、・・胸・・・ワシ掴み!・・・このっ!!」
彼女は、サッと手を伸ばすと、彼の、つむじ付近で、ピンと立って生えていた髪の毛を摘むと、無理矢理、引き抜いた。
「痛って!」
「これ! この髪の毛! それに、あなたの名前と顔! わたし、覚えたからね! 呪ってやる! 呪ってやるんだから! バカっ!!」
てっきり、殴られるか、蹴られるかすると思っていたのに、呪ってやる、とは。だが、彼女の真剣な表情は、呪いこそが、自分の切り札だと言っている気がする。
・・・マジにヤバいな、これ。・・・俺、そんなに、やらかしてたのか・・・
「・・・そうか。・・・うん・・・まぁ、それも、しょうがないな・・・」
彼女は、立ち上がって、地面に座り込んだままの彼を、精一杯、威嚇する。
「わたしの言ってること、解んないの? そうよね。わたしのコト、バカにしてるんだ。でも、・・・呪い殺すことだって、出来るんだよ! ホントなんだから!」
解らない。見たことないから。でも、バカにはしてないぞ。彼は、落ち着いた態度を崩さない。揺るがない。そして、やはり、思ったままを口にする。
「うん。見たことは無いけど、あんたが、そう言うんだ。きっと、そうなんだろう」
「こ、怖くないの?!・・・怖がりなさいよ!」
彼女の怒りの赤い顔は、いつしか、泣きそうな蒼い顔になっていた。
「・・・あんたの方が怖がってないか?」
「う、うるさい! 呪いがどんなものか、知らないクセに!」
「確かに知らない。でもそれは、問題じゃない。まぁ、死ぬのはカンベンだけど、それだけのことをやらかしたんなら、報いは、甘んじて受けるべきなんだ」
「む、報いって・・・そんな・・・」
だんだん萎んでいく彼女の怒りに、揺るがない彼は、知ってか、知らずか、とどめを刺すのだ。
「さぁ! やってくれ」
「・・・あうっ・・・う・・・」
「なぁ。もし、許してくれるのなら、・・・もっと、ちゃんと、謝る。いろいろ、すまなかった。この通りだ」
目の前の地面の小石を眺めながら、彼女の返答を待つ。これで、ダメなら、どうするか、と考えながら。
「・・・う・・・分かった。・・・許す。・・・許すから・・・土下座はやめて。・・・」
彼は、顔をあげる前に眼を閉じて、ほーっとため息をついた。いつの間にか、息を止めていた。後は、ちゃんと、お礼するだけだ。
「良かった。・・・それと。ありがとう。おかげで、ホントに助かった。だから、出来るだけのことをしたいんだ」
彼は、立ち上がって、彼女を見た。泣いてはいないようだが、ションボリしていた。
「・・・・」
「何かないか? 喜んでもらうには何をすればいい?」
答えを無理強いしないように、言ったつもりだった。ションボリしている彼女を見るのが、何となく辛いのだ。
「・・・・・・え・・・っと。・・・そんなに、・・・急に言われても、・・その・・わかんないよ」
「そうか・・・」
何をすればいいのか、言ってもらえないなら、考えるしかない。彼は、会ってから今までに、彼女が言ったことを思い出してみた。何かヒントになるものが、あるかもしれない。
彼は思い出す。考える。頭をフル回転させ、集中するうちに、心臓の鼓動が早くなる。そして、ひとつ、思いついた。
「あ。・・・そういえば、日が暮れるまでに帰りたかった、んだよな?」
「そうだよ。でもわたしん家は・・・」
「カオサ市。ここから山を下って、川ひとつ越えたとこ、だよな」
あえて、彼女の言葉を遮って、彼は言った。フル回転の頭に、ポーンという音とともに浮かんだ地名、地図、景色。それらが、イメージとなって、あるプランが出来上がる。
「え? 何で・・・知ってるの?」
「日没までは3時間。ここからだと、途中で、ゆっくり休憩しても、まぁ、20分だから、お茶して、ちょっと買い物するくらいの時間はある」
「ちょ、ちょっと、待って。20分って無理だよ、絶対。それに、何で、わたしの住んでるとこ、知ってるの?」
・・・おっと、いけない。
集中しすぎて、置いてけぼりの彼女に、やっと気付くと、彼は、その問いに答える。
「シュッとした身なりと、持ち物で分かる。あんたは、間違いなく都市生活者だ。それと、貧乏ではないけど、あまり裕福でもない」
「え・・・・」
「育ちは、しっかりしている。それに、ちょっとした言い回しに古風なところがあるから、もしかしたら、おじいちゃんこ、おばあちゃんこ、かもしれない」
「う・・・そ・・・」
「・・・って、思うんだが、どうだ? 当たってる?」
ここまで一気に喋って、彼は、彼女を見た。文字通り、眼を丸くした彼女が、答える。
「す、凄い凄い。何で? 何で分かるの? 何かコツとかあるワケ?」
「コツと言うより、・・・経験じゃないかな。よく見て、よく考えること。その繰り返しだと思う。」
「ふーん。・・・でも、経験って、・・・何か似合わない、そのセリフ」
・・・良かった。立ち直ったみたいだ。
彼は、元気を取り戻した彼女を見て思った。やっぱり、美人だ。しかも、笑ったほうが、良い。
「? 何か言った?」
・・・ヤ、ヤバっ! また、口に出てた?
「い、いいや! 何も・・・」
「そう?」
どうやら、はっきりとは、聞こえなかったようだ。危ない危ない。
「・・・・んじゃ、そろそろ行くか? 時間がもったいない」
「あ、そうだ。それって、不可能だよ、絶対。どうやって・・・」
眉をひそめ、小首を傾げる彼女を見て、彼は何だか楽しくなってきた。
「いーから、いーから。まずは、髪を後ろで束ねてくれ」
彼女は、ワケが解らないものの、ポケットから髪止めの輪ゴムを取り出すと、言われたとおりにした。
「?・・・こう?」
「そう、そう。そんな感じ」
「・・・で? どーするの?」
「こーする」
言い終わらないうちに、彼は、彼女を抱えあげた。
「わっ!」
「ありゃ。軽いな、あんた。ちゃんと食ってるか?」
「な、何よ、それ!・・・ちょっ、・・コ、コラ!・・・降ろせ!」
急にお姫様抱っこされた彼女は、戸惑っているようだ。しかし、彼は気にしない。
「ウニウニ、動かない! 行くぞ!」
「えっ! わ、わっ! は、走るの?」
「そう。走る」
「走るって・・・。わたし、抱っこしたまま? 街まで?」
「ん」
「えーっ!?」
いくら小柄だとはいえ、彼女は大人だ。普通は、大人を抱えたまま、走るコトなど出来ない。
しかし、普通の、どちらかといえば、少し痩せて見える彼は、見た目では想像できない体力を持っているのだ。大人の女性を、お姫様抱っこしたまま、走っているというのに、息があがる気配さえない。それどころか、普通に喋る。会話する。
「ま、山頂までは、マラソン程度だけどな。下りになったら、スピード上げるぞ」
「上げるったって・・・。走るんでしょ? 日没になんか、間に合うわけない、と思うけど・・・」
「へっ、へっ、へぇ。まぁ、見てなって。出来るだけ揺らさないように走るけど、しっかり、つかまってろよ」
「う、うん・・・。でも、やっぱり、無理だと思うなぁ。・・・ま、揺れないし、風も気持ちいいから、・・・・いっかぁ」
実際、抱っこされている彼女の体は、ピタリと静止したままだった。後ろに束ねた彼女の髪の毛先だけが、前から吹いてくる風に揺れている。彼女は、気持ちよさそうに、眼を細めた。それを視界の端に認めて、彼も、うっすらと笑う。
「さぁ、・・・もうすぐ山頂だ」
繋がったばかりの体で、思い通りに動くかどうか、不安だったが、山頂までの緩い上り坂は、彼にとって、良いウォーミングアップになった。
・・・よし! いけるぞ!
「・・・あ、れ?・・・なんか・・・体温・・・上がってない? それに・・眼・・・赤いよ?・・・」
彼女は、彼の異変に気づいて、体を固くする。しかし、当の本人はというと、全身にみなぎってくるチカラに、ワクワクしていたのだ。
・・・暖気、完了! さぁ、本気で・・・!
「・・・行っくぞぉぉぉぉ・・・!!」
跳ね上がる心拍数とともに、彼の脚と背筋、腹筋は、一気にパンプアップする。地面を蹴る小刻みな足音は、断続音から連続音に変わっていった。それでも、腕と胸筋は柔らかいまま、彼女の体をしっかりと抱きかかえ、しかも、揺らさない。
山頂を過ぎると、道は短い平坦路になり、すぐに大きく右に曲がっている。しかし、彼は、スピードを抑えるどころか、加速するのだ。
「え・・・ちょっと・・・前、前! 道、無いよ? や! 曲がってぇ!」
彼女は、彼の首にしがみつく。が、彼は、まったく気にせず、さらに加速する。
「ぉぉおおおおっ!!」
「ひぃぃ、っ・・・!!」
路肩を蹴る、バーン、という音とともに連続音が消えた。彼女は、薄目を開けて、そして、驚き、前に向き直った。
「・・・と、っ跳んだ?!・・・わ、ぁぁ・・・!」
前に進もうとする力が、眼下に広がった風景が、まるで空を飛んでいるように感じさせる。しがみついていた彼女の腕が緩んだ。
「たっかいだろぉ。・・・あ、ホラ、しっかり、つかまれ。着地したら、今度は、思いっきり低く、速く走るからな。滑るみたいに・・・」
二人は、山の斜面に広がる森に落下した。だが、不思議なことに、時々、葉がかすめることはあっても、枝に打たれることがない。まるで、木が二人をよけているかのように、葉と枝でできたトンネルが、開いては閉じる。そこに、速度を保ったまま、流れるように、進路、高度、向きを変え、最後は、フワリと元の道路に降り立った。彼女は、ため息をついて、彼に言う。
「今の・・・わたし達、踊ってた?」
・・・や・・・ただ、木や太い枝に、ぶつからないように、かわして、蹴ってただけなんだが・・・え?! そ、そんなキザなコト・・・えー?!・・・
彼は、その問いには答えず、市街のほうへ走り出した。彼女の視線を感じてはいたが、きっと赤面している自分が恥ずかしくて、彼女を見ることが出来なかった。
それからは、つづら折りの下り坂を低く、速く走った。時々感じる彼女の視線には目もくれず、ひたすら路面と、彼女を揺らさないことに集中した。赤面が治まる頃には、市街は、すぐそこに、迫っていた。