9話
その日疲れた様子でかえってきたリーグはすぐに両親の部屋に報告に行った。そして報告が終ったらリーグはすぐにイレアナの家へと向かう。
イレアナの家はリーグの家のすぐ近くにあった。こじんまりとした屋敷のドアをノックすると、髪を下ろして寝間着の上にショールを羽織ったイレアナが顔を覗かせた。
「こんばんは」
「リーグ様…」
「君の紅茶が飲みたいと、そういっただろう?」
リーグの言葉にイレアナは呆れたようなため息をもらすと。静かにドアを開き招き入れてくれる。
「ご両親は?」
「もう寝ました。明日も早いので――」
イレアナはそういいながら、湯を沸かすために火種を枯れ木につける。
火をおこすことさえも重労働だというのに、この若様は―――。
心の内でそうため息をつきながらイレアナがリーグの方に視線をむけると、リーグはじっとこちらに視線を向けていた。一瞬あった視線にイレアナはいたたまれない気持ちになって慌てて逸らす。
「なんですか……」
「いいや。別に」
「………沸騰するまでもう少し時間がかかります」
「時間は気にしなくていいよ」
イレアナは更に深いため息をもらした。
「お酒を、飲んでいますね」
「よくわかったね」
少しほわほわした感じでご機嫌な様子なリーグはこちらに近寄ってくる。その足元は実に頼りない。
「今日は楽しかったようですね」
朝に駄々をこねた時とは違い、ずいぶんとご機嫌なリーグにイレアナは返す。
「……別にそれほど楽しくはなかったよ」
「そうですか」
「なんか怒ってる?」
「怒っていませんよ」
「こんな遅くに部屋にきたから?」
「確かに、それは非常識ですね」
使用人の家へやってきて茶を飲ませろなんて、非常識なご主人様だ。
ご自分の家で立派な紅茶を飲む方がよっぽどおいしいだろうに、こうしてやってきては私が中庭や森でとったもので作ったお茶を飲みたいと彼は請うのだ。
「イレアナ、今日は何?」
「ミントティーです」
最近お疲れのようなので、イレアナは心でそう言いながらそっとリーグに視線を向ける。
近くにいたリーグは頬笑みながらこちらに視線を向けてくる。
「好きだよ」
「えっ」
突然のリーグの言葉にイレアナはもっていた茶器を落としてしまう。
「君のつくったお茶が」
イレアナは一気に疲れて幸いなことに割れなかった茶器に手を伸ばそうとすると、イレアナより先にリーグがそれを持ち上げてしまう。
持ち上げた茶器をいっこうにイレアナに渡そうとしないリーグにイレアナは静かに声を張りあげる。
「冗談をいうのはおやめ下さい」
「冗談じゃない」
「ええ。………ええっそうですか」
「あっ。その感じは信じてないな」
目の前に立ちはだかるリーグが面白くないという顔をする。イレアナはそれを見上げながら一気に疲れて垂れてきた前髪をかき混ぜる。
「早くその茶器を渡してください。我が家にはそれ一つしかないんですから」
「えっ、そうなの?」
リーグの心底驚いた様子にイレアナは少し恥ずかしくなりながら手を差し出す。
「そうなんです。だから早く返して下さい」
イレアナの言葉にリーグは今度こそ素直に茶器を返してくれる。
茶器を手にしたイレアナは手早くお茶の準備をすると食卓の上にカップをおくと、リーグはおとなしく椅子に腰を下ろした。
「少し蒸します」
「ああ」
「…………」
「……………」
二人の間に微妙な沈黙が横たわる。
することがなくあとは待つだけになってしまったので、イレアナもとりあえずリーグの前に腰を下ろした。
リーグがこちらに視線を向けてくる。………彼がお茶にじっと視線をむけているのもどうかとおもうので、これはこれで正しい図なのだろう。
イレアナは落ち着かない気持ちで座りなおしながら、仕方なくリーグを見つめ返す。
「好きな人が、いるといったらどうする………?」
「………いるのですか?」
しばらく無言だった二人だがリーグが口を開いたことでそれは破られた。
しばらくリーグの続く言葉を待ったイレアナだが彼は一向に口を開こうとしないので、少し乾いた唇をイレアナは仕方なく湿らす。
「前も言いましたが、使用人たちはみんな寄宿舎時代に好きな人がいたのではと思っております」
「イレアナはどう思う?」
「私は―――リーグ様の寄宿時代のことを知らないので、なんとも言えません」
イレアマの正直な言葉にリーグは傷ついたような表情を顔に浮かべて見せた。
「知らない、か――。結構、傷つくな」
「でも、事実です」
こちらを責めるような物言いに反論する。
イレアナはあっちでリーグがどのような生活をしてきたかなんて知らない。知りようがなかったのだ。
だから、そうとしか答えようがないのだ。
そう自分に言い聞かせていると実に正直なイレアナの言葉にリーグは寂しげにほほ笑んだ。
イレアナはそれを見て自分の胸がざわめくのを感じた。
「いるよ」
「えっ」
「好きな、人」
リーグのその告白にイレアナは心臓が撃たれたかのような衝撃に襲われた。
使用人たちの下世話な噂話もたまにはあたるらしい。
やはり彼には恋い慕う人物がいたのだ、それこそ思うだけで彼に寂しげな表情をさせてしまうほどに恋想う相手が。
イレアナは知ってしまった事実に、リーグも彼が恋い慕う人物も両方とも可哀そうだと思った。報われないであろう二人の想いに、まるで自分のことのように胸が痛む。
息が止まりそうだと思いながら、イレアナはなんとか返事をする。
「そ……、そうですか」
「イレアナは、誰だと思う?」
先ほどから何度も堂々巡りだ。ふたたび同じ質問をしてきたリーグに、イレアナは疲れをあらわにした。
だからそんなことはこの森から一歩も出たことがない自分が知りようもないことなのだ。それなのにどうしてこう一々尋ねるような真似をするのだろうか。
イレアナは目の前の男をひどいと思った。
「……寄宿舎時代に、あちらで出来た恋人かと」
「違うよ」
「そうですか……じゃあ、もう私にはわかりません」
イレアナのつれない言葉にリーグは頭ごと顔を腕の中に埋めるとくぐもった声をあげる。
「……………君だと、言ったらどうする?」
「………リーグ様。それは、面白くない冗談ですね」
思ったより冷静な声が出た。
イレアナは頭がキンと冷えるような、冷たさを感じた。イレアナは真っ白になった頭の隅で、これ以上紅茶を蒸すと苦みが出てしまうと思う。
無理やりお茶の方に考えを向ける。許されるなら口に出してしまいたいほど、それほどにイレアナは動揺していた。
「冗談だと思うか?」
「冗談です。いくら、使用人だからって、していいことと、悪いことがあると思います」
言葉の最後がブルブルと震える。何故震えるのかは自分のことだけどわからなかった。
「冗談じゃないと言ったら」
「止めてください」
「困るか?」
「だから止めてください! 使用人にだって、私にだって、気持ちが、感情があるんです」
ひどい冗談を言うリーグに、イレアナは「ひどい」と涙を流した。
イレアナが瞬くたびに次々と零れおちる涙をリーグが指先を伸ばして拭う。イレアナはリーグの優しく触れてくる指先の体温を感じて、更に涙を流す。
ひどい冗談を言ったというのに、どうしてこうも優しく涙をぬぐってくれるのだろう。
そんなに優しく触れられると、愚かなことに彼の言った言葉が本当のように思えてしまう―――。
「ひどい人です。リーグ様は…」
「すまない、泣かせる気はなかったんだ」
「ひどいです……」
「すまない。でも、君が好きだよ」
そういって机の上手を握り締めたリーグに、イレアナはこの悪夢みたいな現実にめまいをして瞳を閉じる。
なんて、甘美で、苦い夢なのだろう。