16話
母と別れたアウラが自分たちの部屋へ戻ると、そこにはすでにリーグの姿があった。
父との話はそれほど長引かなかったらしい。静かに窓辺の椅子に腰かけているリーグの後ろにそっとアウラは近寄る。
後ろからリーグの頭の向こう側を見ると、そこからは中庭がはっきりと見え美しく咲き誇る花々の中に先ほどの女の姿があった。
「お話は早めに終わったのですね…」
「……あぁ」
アウラの言葉にリーグは気のない返事をしてくる。振り向きもせずに答えたリーグの首にアウラは手をまわした。
「………どうしたの?」
そこでようやくリーグはため息交じりに問いかけてきてくれた。アウラはリーグの首にまわした手にぎゅっと力を込めながら顔をリーグの肩に埋める。何も言わずに身体を寄せ来たアウラに、リーグは静かに口を開く。
「母に、何か言われたかい?」
「いいえ。とても優しくして下さったわ。あなたが小さい時の思い出話を聞いたわ。傷ついた小鳥やリス、時には鹿を拾ってきて周りの大人を驚かせていたって……」
助けられないと泣きわめいた、心優しいあなた。
アウラはうたいあげるように、リーグの耳元に唇をつける。
「わかっていましたけど、とても優しいのね………そしてとても残酷」
アウラの言葉に、ずっと窓の外に向けられていた瞳がやっとこちらを映す。アウラはそれに満足げに頷きながらリーグの頬に口づけを落とした。
「そんなあなたが大好きよ」
アウラの愛の告白に、リーグは喉を大きく鳴らした。
綺麗な花には虫が集まる。
イレアナは花壇の中で、虫を寄せ付けない効果があるという薬を薄めたものを土の上にまく。あまりにも茎の近くにまいてしまうと、薬の力に花が負けてしまうというのでイレアナはじゅうぶん距離をとって周囲に薬を振りまいていく。
強い薬なために手が荒れて痛かったが、効き目は抜群だった。
イレアナは液に触れないように気をつけながら、薬を土にたらし続けた。今日つくった分の液を全て流し終えて、ようやく息をついイレアナは、仕事の最中ずっと痒くてたまらなかった鼻の頭に指先を伸ばす。
やっとかゆみから解放されたことで、ふうっと息をついていると背後からクスクスと笑い声が聞こえてきた。
イレアナは鼻の頭をかいていた手を下ろすと慌てて後ろを振り返る。
笑い声は聞き慣れない若い女のものだった。
「ごくろうさま」
イレアナが振り向いたと同時に女は挨拶をしてきた。言葉を紡いで弓型に固定された口元はオレンジ色の口紅で彩られていた。明るい色だが下品ではなく品があり彼女によく似合っていた。
イレアナは頭にかぶっていた帽子をばっと外すと頭を下げる。
名前を聞かなくたってわかる。彼女が、リーグ様の―――。
かしこまったまま動こうとしないイレアナに、アウラは再びクスクスと笑い声をあげる。
「もう顔をあげていいわよ」
「は、はい。すみません」
イレアナは顔が赤くなるのを感じながら顔を上げると、アウラはマジマジとこちらの顔を覗き込んできた。
「…………あの、なにか、ついておりますか――?」
イレアナは眼帯を抑えて隠したい気持ちを抑えながら、おそるおそるアウラに問いかける。ここにいると自分の容姿について特になにも思わないですんでいたが、やはり初めて見る人間には自分のこれは奇妙にうつるらしい。
イレアナが動揺をかくしきれずに肩を動かすと、前髪が眼帯の上に落ちてきた。
「あなた、鼻が赤いわ」
「………先ほど、かいたので」
「それにその目。どうしたの?」
「これは、昔怪我をして、それで表に出しておくのは、よくないので――」
「見えないの? まったく?」
「……はい」
目の前に立つ若奥様はイレアナの返答に納得したのか、イレアナから目をそらして花壇に目を向ける。
「女性の庭師とは珍しいわね。………それはその目が原因?」
初対面の人間にずけずけと内側に踏み込まれるような問いをされて、イレアナは苛立つよりも先に委縮してしまった。
自分は彼女によく思われてはいない。人間付き合いをあまりしないイレアナでも、はっきりわかるほどの敵意を向けられてイレアナは混乱したと同時に納得もしていた。
思い当たる原因があったからだ。
「………はい。お屋敷に、使えるのは、向いていないと……」
「そう。若いのに大変ね」
アウラが指先を頬にあてながら、かわいそうだと口を開いた。
イレアナは自分がかわいそうだといわれたことに、更に顔を隠すように下を向いてしまう。目に入ったアウラの指先は、白く滑らかで傷一つなかった。あかぎれだらけの自分の指先を隠すように、イレアナは両手を握りしめる。
「あなた、ずっとここにいるの?」
アウラの言葉にイレアナは首を横に振りながら、ぶるぶると震える唇をなんとか動かす。
「いいえ。幸いなことで、結婚が決まっております…。私が、奥様にお使いできるのもほんの数カ月のことだと思います…」
残念です。アウラは情けない程に震える自分の声を情けなく思いながら、乾いた唇をかんだ。
「そう。それはよかったわね。ご両親もさぞお喜びでしょね」
「ええ」
「街の方へいかれるの?」
「はい」
「そう………。そうなの。なら、初めのころは、色々と嫌な想いをなさるかもしれませんね―――」
アウラの言葉にこちらを気遣い様な色が宿った。明らからにイレアナの瞳を見ながらいうアウラの視線から逃れるようにイレアナは瞳を閉じる。
「でも大丈夫よ。旦那さまがきっと守って下さるわ」
その言葉にイレアナは顔をあげると、アウラは聖女のような穏やかな頬笑みでこちらに視線を向けていた。
旦那さま、という声に甘さが宿っていた。
旦那さまといいながらリーグ様のことを思い浮かべたのだろう。そこには、愛し、愛されるものの確かな自信があった。何も言わずとも、牽制されたことに気がついたイレアナは頭を下げながら礼の言葉をいうことしか出来なかった。