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遥かなるモンブラン

掲載日:2026/05/10

 標高四千メートルを超える山の岩陰で僕の意識は徐々に遠のいていた。

「自分で覚悟して選んだことだからやむ負えないが、もう少しなのに口惜しいな」僕は寒さでほとんど動かくなくなった唇をかすかに動かした。

 話はひと月前に遡る。


はるかさん本当に行く気ですか?」

 僕が経営する洋菓子店【パティスリーHARUKA】の店員である武志が何度も聞いてくる。

「ああ、もちろん。現地のガイドとも契約済みだ。来週にはフランスに発つ」

「でも、いくら何でも究極のモンブランケーキを作るために。実際に山のモンブランに登って頂上の写真を撮ってくるなんて、発想が飛び過ぎてますよ。

 武は信じられないと言った顔で僕の目を見る。

「とにかく留守中は頼んだよ。万が一僕が帰って来なかったら、この店お前がやっていいから」

「縁起でもないこと言わないでください。ちゃんと五体満足で帰ってきてくださいよ」


 そう言われて僕はフランスへ渡った。登山は初日と二日目までは順調であったが、いよいよ頂上に向けてアタックという所で吹雪に見舞われた。視界を失った僕は現地ガイド二人とはぐれ、今は大きな岩の陰でかろうじて風を防いでいる。

 もちろん山を嘗めていたわけではない。大学時代は山岳部でカメラを担いで富士山や日本アルプス等を経験してきた。しかし、それでも自然の厳しさは人間の想像をはるかに超える。


 これまで年末の全日本ケーキコンテストでは後一歩のところで入賞を逃してきた。味には絶対の自信があったが、スイーツはそれだけでは駄目なのだ、見た目の独創性と美的センスも突出していないといけない。

「びゅう」

 一段と風が強くなる。目の前の吹雪はさながら真横に落ちる滝の様に右から左へと流れている。さらに意識は薄れていくが、頭はモンブランのことで一杯だ。

 今回のテーマであるモンブランはすでに研究され尽くしており、味も栗を使う以上、工夫のバリエーションは限られている。最後の一押しとして考えられるのは、名前の由来でもあるモンブラン山の頂上の情景を自ら写真に納め、ケーキで表現することだ。

(そのために危険を冒してフランスまでやってきたが、それももう叶わないのか・・)

 これまで意識を失わないよう、思ったことを口に出して喋ってきたが、いよいよ口も動かなくなってきた。「写真撮ったらすぐに帰ってきて下さいよ。悠さんがいない間、売上が下がってても文句言いっこなしですからね」武志の言葉が脳裏に浮かぶ。

(アイツとは僕が店を持つ前から一緒に働いてきて、独立する際にも迷わずついてきてくれたな。僕が死んだら店のパティシエはアイツ一人になるから大変だろうな。武志ごめんな)僕はゆっくり目を閉じた……。


 半年後。

 とあるホテルの宴会場の壇上にどうゆう訳か僕はいた。

「今回は大賞の受賞おめでとうございます」

 百人を超える来賓と報道陣の前で司会者は僕にマイクを向ける。

「いや、なんといって良いか。信じられない気持ちですね」

「しかも満場一致での受賞はこのコンテスト始まって以来との事ですよ」

「本当に運が良かったと思います」 

 僕はそう答えながら遠くを見てあの山でのことを思い出していた。


 あの時、岩陰で目を閉じて意識がなくなりかけたその時、遠くから僕の名前を呼ぶ声がした。

「タナカサーン! タナカサーン!」

 ガイド達の声だ。何とかまた目を開けると吹雪もいつのまにかだいぶ弱くなっていた。天候が回復し始めたので僕を探しに来てくれたのだ。

「おーい! こっちだ!」

 僕は最後の力を振り絞りかすれた声を出す。

「イタゾ、コッチダ!」

 英語で叫びながらガイド達が僕の前に笑顔でたどり着いた。

「ヨカッタ! タナカサン! アナタラッキーネ!」

 その時には、さっきまでの吹雪が嘘のように青空が広がっていた。

 ふと顔を上げたガイドが笑顔で僕の後ろを指さすので振り返ると、自分が身を預けていた岩の向こうにはモンブランの頂上が鮮やかに姿を現していた。

 雲ひとつない、生身のモンブランだ。

「想像以上だ」

 僕はさっきまで意識も絶え絶えだったのが嘘のように、飛び起き、鞄からカメラを取りだして夢中でシャッターを切った。

 その時、僕の頭の中には究極のモンブランケーキの姿が見えていた。このケーキはきっと今までにないモンブランケーキになると僕は確信した。

 後で聞いた所、あんな美しい山頂はガイドも見たことがなかったそうだ。

「……」


「田中さん、どうかされましたか?」

 司会者の声でハッと我に返る。

「あ、すみません、つい現地でのことを思い出してしまいました」

「そうですか。大変危険な冒険だったそうですね。聞くところによると田中さんは現役のパティシエで先週はケーキのコンテストでも優勝されたとか。まさに異例ずくめですね」

 僕は思わず苦笑い。ふと会場の後方に目を移すと、勝手にこのコンテストに応募した武志がニヤニヤしている。

「では、これで受賞者インタビューを終わります。今年の大賞は田中 悠さんでした」

 会場の万雷の拍手が僕を包む。

 僕が抱えているとクリスタルのトルフィーにはこう刻まれていた。

【全日本山岳写真コンテスト大賞『作品名 遥かなるモンブラン』 田中 悠】

                                        終


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