鎖
──真夜中の学院。
その中にある研究室の一室にトールはいた。
そして、その手の中には以前製作した馬具の余りである鎖があった。
馬の装飾品として作られた物なので捕縛用の鎖とは違い、とても細くて長さも1メートルほどしかない。
だが、材質が材質のために強度は通常の鉄の何倍も強固だった。
「…………」
トールはその鎖を机に糸で固く固定し、次に研究室の金庫に入れていた自分の道具を取り出した。
金庫にしまっていた道具箱から取り出しのは、20本以上ある彫刻刀の数々。
ただその彫刻刀は通常の彫刻刀とは違っていた。
取り出した彫刻刀の刃先は全て透明な『水晶』で出来ていた。
鉄などと比べると遥かに脆い水晶はお世辞にも彫刻に向いているとは思えない。
普通の人間が見れば飾りや玩具に見えるような物を何故トールが持っているのかと疑問を浮かび上がるが、トールはその不思議な彫刻刀を鎖を固定している机の上に次々に置いていった。
そして、最後に墨のついた筆を取り出した。
それを固定した鎖の上にゆっくりと走らせる。
当然、それで金属製の鎖に色が付くわけはないが、『跡』は残った。
トールが筆を走らせた跡には黒く湿ったが残る。
記号の様な、文字の様な──模様。
一部の人間達が『聖字』と呼ぶものだ。
それを鎖の輪の一つに筆で描く。
それが描き終わると、今度は透明な水晶の刃先に指先を当てて意識を集中させていった。
「…………」
一分近くそれをすると、ミスリルに水晶の刃で出来た彫刻刀を当てた。
「…………」
トールは呼吸を止めながら、絶妙な力加減で彫刻刀に力を込めていった。
当然、鉄よりも硬度なミスリルがそれで何か傷がつくはずがない。
もしこの場に人がいればトールが一体何をしているのか大いに疑問を持ったかもしれない。
──だが。
『ずぶっ』
まるでバターを火であぶったナイフで切ったかのように、ミスリルで出来た鎖が玩具のような彫刻刀の刃が鎖にめり込んだ。
しかもそれは先ほど墨で跡を残した場所であり、トールはそこを何度か彫刻刀を往復させ、最後には鎖の輪の表面に透明な刃で聖字を刻み込んだ。
──水晶という物質には『魔』を封じ込める力があると云われ、古くから魔術師や占い師から重宝されてきた。
実際にその話は真実であり、水晶は多くの魔力を溜める事の出来る。
そして、ミスリルは製作者が魔力を込めながら加工してゆく金属だ。
今回、トールはミスリルと水晶の特性を利用し、水晶の刃先に込めた魔力の力を使ってミスリルに聖字という装飾を施した。
まるで焼けたナイフでバターを切るように、魔力を集中させた水晶の刃でミスリルに文字を刻み込んだ。
話を聞けば簡単な作業に聞こえるかもしれない。
だが、この作業にはとてつもなく精密な技術と集中力がいる。
一定時間の間刃の先に意識と魔力を集中させ、1cmほどしか横幅のない鎖の表面に文様を刻み続ける。
作業中は意識を常に刃先に集中させ、気力と体力が疲労していく中で何時間も同じ行為を続けていくのは途方もない重労働だ。
大の大人だって根を上げるようなこの作業をトールは夜中の間ずっと行っていた。
――八つ当たり。
自分の中にある暗い感情を吐き出すために、トールは過去に「何度」も作ったことのある武器を作り出そうとしていた。
作っているのは大昔、ドワーフが製作した武器の一つ、『グレイプニール』という鎖。
その力は強大で、どんな人や獣だろうと縛り上げられれば抜け出す事は不可能だと言われる強力な鎖だ。
ただし、トールが作っているのはそれを模した模倣品。
力も能力も『本物』には程遠い。
と、いっても本物は遥か昔に消失しており、材料の調達も不可能。
なので、どんなに腕の良い職人であろうと本物の製作は絶対に不可能だ。
しかし、『本物にどれだけ近づけることが出来るか?』というのがこの鎖を作り上げる時の最大の課題であり永遠のテーマなのだ。
腕に覚えのあるドワーフなら自分流のグレイプニールを製作し、その強度や力を他の者達と比べあう。
実際、ドワーフから鍛冶の技術を教わったトールは同じように自分流のグレイプニールを製作し、試した。
トールがその時製作したのは複数の金属を使い、作り上げたダマスカス製の鎖であり、その剛性と独特のしなりによりどんな獣だろうと鎖を引きちぎることは出来なかった。
──だが、今トールが製作しているのはその時に作った物とは全くの別物。
鎖はおそらくトールが何度か製作した中で最高の強度と攻撃性を持っていた。
……まるでこの時のトールの中にある感情を飲み込んだかのように、鎖は徐々に完成へと向かう。
名前通りに、製作者の怒りと悲しみを貪り喰らう。
──そうして、トールの『グレイプニール(貪り喰らう者)』は生まれようとしていた。