思い出
物体に宿る魔力の流れを円滑にし、災いや病から身を守るもの文字。
それが「聖字」と呼ばれるものだ。
「字」とは言っても、「聖字」は動物や植物などを象徴化して書かれたものであり、これを全く知らない人間が見れば子供の落書きか何かに見えるだろう。
しかし文字の一つ一つにもちゃんとした意味があり、その連なりにもまた意味がある。
元々は古くからある呪い(まじない)やお守りに使われていた模様やら何やらに「魔術」の要素を取り入れられないか研究して出来上がったブツであり、字の組み合わせ次第ではかなり危険なものも存在する。
その為、この技術を危険と判断した教会が法を作り、この技術の悪用を防いでいる。
そのため今現在、この技術を使える人間というのは相当魔術に詳しい人間か、または教会の中でかなり位の高い人間。
もしくは、こういった技術に長けた一族だけとなっている。
ちなみにトールの場合は最後の三つ目が当てはまる。
養父であるドワーフから教わったものの中にこの技術は当然のようにあった。
むしろ、武器や防具を作ることを得意とするドワーフたちが、災いから身を守る技術を知らないというのはあり得ない事だった。
元々魔力に関しては人間以上にあるドワーフだ。知っていてもおかしくはない。
なのでトールは聖字を書けるのだが、ここで問題が一つあった。
それはこの技術を使えるトールがかなり「若い」と言うことだ。
普通、この技術を教わって覚えるまでに3、4年はかかると言われている。
十代後半の人間がこれを出来ると言っても、傍から見れば「うぬぼれた奴」としか見えないだろう。
当然、トールがそう言って話したところで相手先が納得するはずがない。
その為、まずは学院長が先に話をし、納得して貰ってから仕事にかかる、と馬車の中でトールと学院長は話し合って決めていた。
しかし、馬車が先方の屋敷に着き、学院長の知り合いだという男とトールが会った時。
「なっ……!?」
男はトールの姿を見て異常なほどに驚いた。
まだ、トールが聖字を書けるなどと説明をしていないにも係わらずだ。
「ブレッド? 一体どうした?」
これには学院長も驚いており、男の名前を呼んだ。
「あ、いや、な、なんでもないんだ」
しかし、ブレッドと呼ばれた男はかなり動揺していたが、最後は「なんでもない」と答えた。
トールが見た限りブレッドと呼ばれた男は学院長とほぼ同年代で身なりや動作も貴族らしい品がある。そんな男があれほど動揺したのは何故だったのかと不安になったが、学院長がすぐにそのブレッド氏に自分の紹介をし始めたので意識をそちらに切り替えることにした。
「だから、ブレッド。今回はそういう訳で──」
「あ、あぁ、わかった。それでいい」
トールが学院長達の方を見ると、学院長はブレッド氏にトールが聖字を書ける事の説明をし、その説明にブレッド氏はそわそわした様子で首を縦に振っていた。
──だがこの間、ブレッド氏は何故もトールの方を盗み見ていた。
そして、学院長の説明が終わると学院長の後ろにいたトールに向かって緊張した顔でいきなり握手を求めてきた。
「……私はブレッド。そこにいる学院長の友人だ。……今日はよろしく頼む」
トールは差し出された手を見て、次に自分の手を相手の手に重ねてから自分の名を名乗った。
「トール=グラノアです。お子さんの為に全力で仕事をさせてもらいます」
「────ッ!!」
名乗った瞬間、トールはブレッド氏の手が震えているのを感じた。
さらにブレッド氏は目を見開き、まるで幽霊でも見たような顔で自分を見ている。
「…………」
何かおかしいと感じたトールだったが、この後すぐに学院長がこれからかかる仕事についてブレッド氏に説明を求めた為、トールはブレッド氏にこの出来事について尋ねることは出来なかった。
「では、ブレッド。仕事の説明を彼に」
「あ、あぁ」
だが幸いだったのは、この後に行った聖字を書く仕事が何事もなく進み、夕方になる前にはブレッド氏の子供の部屋のドアや窓枠に魔除けの文字を書き込む仕事は終わっていた事だ。
逆に不幸だったのは今回の仕事の礼としてブレッド氏に夕食の誘いを受けてしまったことだろう。
建前は仕事の礼、久方ぶりの友人とその教え子を歓迎したいと言う事だったが、トールはどうにも違和感があった。。
それはブレッドという男が最初、自分を見た時の反応が原因だ。
あの反応はどう考えてもおかしい。
まるで、『死んだはずの人間が目の前に現われたかのような反応だった』
さらに、この夕食の誘いの文句も少しおかしかった。
ブレッド氏は「もうじき妻も子も帰ってくる頃だからそれまで待ってくれ! ぜ、是非お礼に食事でも! そ、そうだ! 久しぶりに友人とその教え子が来ているんだっ! もっと色々と話を──!」
と、まるで時間稼ぎの様な事を言って学院長と自分を誘ったのだ。
こんな事があった為、トールはブレッド氏に対して色々と警戒してしまっていた。
しかし、時刻が夕方を過ぎた頃。
ブレッド氏の屋敷の玄関が慌しくなり、ブレッド氏が「妻と子が帰って来たんだ。二人とも、ちょ、ちょっと待っていてくれ。ト……き、君達二人に私の家族を是非とも紹介したい!」と言って応接間から飛び出していった。
夕食までの空き時間を応接まで茶を飲みながら世間話をしていた学院長と、その会話に相槌を打っていたトールはどたばたと走っていくブレッド氏を部屋の中で見送った。
「あいつもせっかちな奴だなぁ。家族の紹介なら夕食の時にでも大丈夫なのに。まぁ、それだけ妻と子が可愛いと言うことか」
「…………」
学院長のブレッド氏をからかう様な言葉を聞きながら、トールはふいに「家族」というものを思い出した。
ずっと、昔。記憶の奥深く。
ある二人の笑顔を思い出した。
──笑顔。
その笑顔を思い出すと、胸を掻き毟り叫びたくなる。
地面に伏して恥も外聞もなく泣き叫びたくなる。
切なくて、泣きたくなる。
温かくて、泣きたくなる。
もう、どこにもないから。
もう、その笑顔は失ってしまったから。
だから、その笑顔を思い出すと泣きたくなる。
悲しくて、悲しくて。
苦しくて、苦しくて。
……堪らなくなる。
もう一度その笑顔に向かって走り出したいと何度願っただろう?
一体、どれだけその笑顔の夢を見ただろう?
記憶の忘却を恐れ、何度二人の笑顔を紙に書いただろう?
二度と会えない、会う事の出来ない人達の顔を一体どれだけ瞼の裏に焼き付けたのだろうか?
忘れられない記憶。忘れてはいけない記憶。
大切な、大切な記憶。
トールにとってどんな宝よりも大切な宝物。
ほんの僅かなに残っている両親の思い出。
遠い、とても遠い思い出。
失った「家族」の思い出。
誤字脱字の報告と、感想を待っています。