1 風が吹く丘で
穏やかな風が吹き抜ける、雲ひとつない抜けるような青空。きらめく湖を見渡す丘の上にある墓地にその女性は訪れていた。2歳ぐらいだろうか、お供え用の花束を抱えた小さい女の子と手を繋いで歩いている。
やがて2人はあるお墓の前で立ち止まり、手に持っていた花を添える。
小さい女の子が「じーじ、ばぁば?」と声を出す。その女の子を見つめて、優しく女性が微笑みかける。
女の子が危なっかしい手つきで、柄杓にすくった水を墓石にかける。大半の水は墓石に掛かる前に地面に吸い込まれてしまった。そんな女の子の手に女性は優しく手を添えて微笑んでいる。女の子の「じーじ、ばぁば、つめたい?」と無邪気にはしゃぐ声が墓地の中に木霊していた。
やがて女性は花を添えて、墓石に向かって手を合わせる。それを見た女の子も真似をして手を合わせていた。
遠くから男性の「おーい」と呼びかける声が墓地の風に乗って流れてきた。女の子がその声に反応して「パパー」と手を大きくブンブン振る。
その女性には聞こえてないのか、声に反応することはなかった。手を合わせたままじっと目を閉じている。
やわらかな風が丘の上を走り、女性と女の子の髪を優しく撫でる。まるで大切なものを愛しむような優しい風だった。
◇◇◇◇◇
*この1話の以降は「やわらかな風が吹く丘の上で待つ君に、この言葉を音にして届けられたら」とほぼ同じ内容です。
地面が揺れる。頭痛がする。最悪だ。
「二日酔いでー、休みなんてー、花のアラサー、あるまじきー」
わたしは自分でもよくわからない歌をつぶやきながらオフィスのエレベーターを待っていた。
昨日寝たの何時だっけ?朝起きてシャワー浴びて出社する私、えらくない?
昨日はプレゼンがうまく行ったので、お祝いにプロジェクトメンバーと飲みに行ったのだ。もちろん一緒にプロジェクトをやっている親友の美咲も。
私と美咲以外は、終電までに解散したが、私が調子に乗って「もう1軒」と美咲を誘った。
いつものパターンだ。そして酔い潰れて結局美咲とタクシーで帰るのも、いつものパターン。
エレベーターが開き、人が雪崩れ込む。始業時間が近いこともあって満員だ。ヤバい、私相当酒臭いよね。マスクをして、その匂いでさらに気分が悪くなる。
エレベーターの表示が38になり、人を押しのけるようにして降りた私は、思わずエレベータホールにある椅子に座り込んだ。
こりゃ今日ダメかも。ヤバいなぁ。みっともない。こんな姿会社の人にみられたら。
花のアラサー、あるまじろー。
こりゃ、思い切って有給を取ったほうが良かったか。インフルですー、生理痛でー、理由は何でもいい。
嘘も方便、今日も快便、早弁駅弁東北弁ー、
意味不明の呪文のような言葉が頭を駆け巡った。
「あの、大丈夫ですか?」
誰?幻覚?
ガンガンする頭を抑えながら薄目を開けると男性の靴が目に入った。ヤバい、こんなところ会社の人間にみられたらみっともない。花のアラサー、あるまじき!
「大丈夫です。ちょっと気分が悪くなって」
私はなんとか普通の声を出すことができた。
「ちょっと待ってください、これ飲んでください」
そう言ってスポーツドリンクのペットボトルを差し出してきた。
「二日酔いの原因は、脱水と空腹、糖分不足が原因です。これを飲めば少しは楽になります」
私はありがたくスポーツドリンクを開けて飲んだ。不思議なことに、胃のむかつきや頭の痛みがちょっと楽になった気がする。
「ありがとうございます。あの、なんで私が二日酔いって?そんなにひどい有様でしたか?」
男性は、少し間を開けて答えた。
「見た目はわからないですが、雰囲気で」
そういう男性を見あげた私はギョッとした。
肩幅が広くてスポーツ選手のような体。整った顔立ち。だが何よりも目を引いたのが、目の周りにひきつれたような跡があったこと。
そして白杖を持っていた。
「あ…」
私は次の言葉がでなかった。この人、目が...
私が戸惑っていると、男の人は顔に手をやって照れたように笑って、
「はは、驚かせてしまいましたね」
と言い去って行ってしまった。まるで健常者のような足どりで。
私はもらったペットボトルを握って、ただボーっと見送っていた。
誰?今の?
椅子に座ったまま呆然としていると、エレベーターの音が響き、次のカゴの到着を知らせてくれた。扉が開き、ちらほらと降りて来た人の中に、見覚えのある顔がこちらに向かってきた。
(絵里おはよう。二日酔い?)
(あ、美咲)
美咲が手話で話しかけてきた。私も手話で応じる。二日酔いのせいか、いつもより手が動かない。
(午前中は適当に過ごしていいけど、午後には戻ってよね)
(わかってます。午後には復活するから)
(あ、ちゃんとスポドリ飲んでるね。よしよし)
(スポドリって?)
(え?二日酔いの時はスポドリが効くんだよ。昨日変える時渡したじゃん。寝る前に飲んでねって)
まったく覚えていない。
(これは、さっき別の人からもらったの)
(別の人?)
(なんか知らない男の人にもらって)
(何それ?大丈夫なの?)
(多分)
(まあ、変なものじゃなければ、気の利く男だったってことね。このフロア、ジュースの自動販売機なんてないでしょ?わざわざ下のフロアまで買いに行ったか、たまたま持っていたのかもしれないけどね)
確かに、このフロアにジュースの自販機はない。一階下に行かないと。
あの人、わざわざ。
(美咲、この会社って視覚障害者の人っている?)
(どうしたの?突然)
(さっきそれっぽい人とすれ違って)
(詳しくはないけど、いても不思議じゃないよね。私だって障害者だし。この会社は毎年障害者枠で最低1名は採用しているって聞くから)
(そうだよね。この会社で視覚障害者でもできる仕事ってどの部署だろう?
(ずいぶんこだわるね。今は色々なサポートツールがあるから、あまり職種は選ばないんじゃないかな?開発部とか)
(開発部?)
(でも私が知っている限り、視覚障害者の人はいないと思ったけど)
(そうか、そうだよね)
私は、無意識に自分の胸が高鳴っているのを感じていた。
え?こんなことで?こんなスポーツドリンク1本で?100円ぐらいなのに?
私ってチョロい?
心の言葉とは裏腹に、心臓の鼓動は高鳴るばかりだった。
<つづく>




