表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
日本史・異聞編纂録 国鉄総裁はなぜ死んだのか 〜ルポ下山事件〜  作者: 九条ケイ・ブラックウェル


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

6/6

第五篇 司法解剖医の証言

この証言者を探すのに、最も時間がかかった。


事件当時の司法解剖に関わった医師の名は、公式記録に残っている。

だが記録に名前があることと、その人物が話してくれることは、別の話だ。


最初に名前の出た医師は、すでに死んでいた。

二番目の医師は、会うことを拒んだ。

理由は言わなかった。

電話口で「お役に立てることは何もありません」とだけ言って、切った。


三番目の医師が、今回話してくれた人物である。

当時は若手の助手として検視に立ち会い、記録の補助をしていた。

今は都内の病院を退職し、郊外で静かに暮らしていた。


取材を申し込む手紙を送ると、一週間後に返事が来た。

短い手紙だった。


「一度だけなら、お話しします。

ただし、私が話せるのは数字と記録だけです。

解釈はしません。

それでよければ」


それでいい、と返事を書いた。


指定された場所は、病院の近くの喫茶店だった。

男はすでに来ていた。

白髪で、背筋が真っ直ぐだった。

医師らしい、と思った。

何かを確かめるような目をしていた。


卓上には薄い革の書類入れが一つだけ置かれていた。

私が座ると、男はすぐに言った。


「数字だけです。それを忘れないでください」と。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


——本日は、ありがとうございます。


 時間は一時間です。


 (時計を一度見てから)


 その中で話せることを、話します。


——わかりました。まず、事件当時のことを教えてください。あなたはどういう立場で関わったのですか。


 助手でした。


 検視の主担当は上の医師です。

 私は記録係。

 測定値を記録し、写真撮影の補助をし、報告書の下書きを作った。


 主担当の医師が確認して、署名した。

 最終的な報告書は、その医師のものです。


——あなた自身が書いたわけではない。


 書きました。


 (少し間を置いて)


 ただ——私が書いたのは、数字と観察事項だけです。

 結論は、上の医師が書いた。


——その区別が、あなたには重要なのですか。


 重要です。


 (間を置かずに)


 そこが曖昧になると、私が何を見て、何を見ていないかまで曖昧になる。


——では、数字の話をしてください。遺体が発見されたのはいつですか。


 昭和二十四年七月六日。


 午前零時三十分頃、発見の通報があった。

 私たちが現場に到着したのは、午前一時過ぎです。


——遺体の状態は。


 轢断されていました。


 (淡々と、事務的に)


 複数箇所で。

 電車に轢かれた場合に生じる典型的な損傷は、ありました。


——「典型的な」とおっしゃいましたね。


 そう言いました。


——典型的ではない部分は、ありましたか。


 ……。


 (少し間を置いて)


 私はまず、損傷の形そのものより、血液の出方を見ました。

 それから、体温。

 死後硬直。

 死後変色。


——その順番なのですか。


 死体を見るときは、そうです。

 見た目の派手さより、時間を語るものを先に見る。


——血液の出方に、何か違和感があった。


 違和感、という言葉は使いません。


 数字が、通常の轢断例と一致しなかった。

 それだけです。


——具体的には。


 轢断された遺体の場合、通常、損傷部位周辺にはかなりの出血が見られます。

 地面や砂利への染み込み、飛散、付着。

 生きている人間が轢かれれば、心臓が動いているから、血液の出方が違う。


 その夜、私が測定し、記録した数値があります。


 損傷部位周辺の血液付着面積。

 砂利への染み込みの程度。

 飛散の範囲。


 それらの数値は、報告書に記載されています。


——その数字は、何を示していましたか。


 数字は数字です。


 (静かに)


 私が言えるのは、通常、時速七十キロ以上で走行する電車に生体が轢断された場合にみられる出血量や広がり方と——一致していなかった、ということです。


——つまり、出血が少なかった。


 「少なかった」という解釈は、私の言葉ではありません。


 数字が、一致しなかった。

 それだけです。


——死亡推定時刻について、教えてください。


 体温の低下速度、死後硬直の程度、死後変色の状態——それらから、おおまかな死亡推定時刻を見ます。


 私が現場で測定した数値と、その計算式から導かれる幅があります。


——どのくらいの幅ですか。


 計算式によって違います。

 ですから、一つの数字だけを抜くのは不正確です。


 ただ、私が当時の計算欄に書いた幅は——発見の数時間前、でした。


——「数時間前」とは、どのくらいですか。


 四時間から六時間。

 もう少し幅を持たせる見方もできます。


——発見は午前零時三十分頃でした。四時間から六時間前とすると——。


 計算は、ご自身でどうぞ。


 (静かに)


——夕方から夜の早い時間、ということになります。


 私は今、計算していません。

 当時の数値から導かれる幅を申し上げただけです。


——その数値も、報告書に記載された。


 記載されました。


——正確に。


 数字そのものは、正確に。


 (ここで初めて、男は私をまっすぐ見た)


——「数字そのものは」と、限定されましたね。


 ……。


 (長い沈黙)


 私の下書きには、数字の後に、短い注記がありました。

 測定値と、通常の轢死体における標準的な所見との差について、数行書いた。


 最終報告書には、その注記がありませんでした。


——削除された。


 記載されていなかった。


 なぜそうなったかは、私にはわかりません。

 主担当の医師が判断したことです。


——あなたは、それについて何か言いましたか。


 確認はしました。

 「注記がなくなっているようですが」と。


 「不要だ」と言われました。


——それだけですか。


 それだけです。


 (静かに)


 私はそれ以上、何も言いませんでした。


——なぜ言わなかったのですか。


 若かった。


 (それだけ言って、少し間を置く)


 あの頃、私は医師になって間もなかった。

 上の判断に従うのが当然だと思っていた。


 それに——。


——それに。


 占領下でした。


 GHQがいた。

 警察の上に、別の力があった。

 若い助手が、報告書の注記一つで何かを言って、何が起きるか。

 そこまで想像できる年でもなかったし、想像したくもなかった。


 言わなかったことを、今更正当化するつもりはありません。

 ただ——そういう時代だったということは、言っておきたい。


——報告書の結論は、何でしたか。


 「轢死」です。


 電車に轢かれて死亡した、という結論でした。


——あなたは、その結論に同意していましたか。


 私は、報告書に書かれている通りのことを、下書きしました。


 (静かに、しかし確固として)


——それは、同意していたということですか。


 「同意」と言ってしまうと、正確ではない。

 「命令されて書いた」でも、正確ではない。


 報告書に書かれている通りのことを、下書きした。

 それが、私のしたことです。


 私は署名者ではない。

 だが、意見がなかったわけでもない。


 その区別だけは、しておきたい。


——先生に、何か特定の方向へ書くよう圧力はありましたか。


 ありません。


 (即座に)


 少なくとも、私に対して「自殺にしろ」と言った人間はいない。

 「他殺にしろ」と言った人間もいない。


 そこは誤解のないようにしておきたい。


——では、何が起きたのでしょう。


 何も起きていないのかもしれません。


 私は見たものを記録した。

 主担当の医師はそれを整理した。

 警察は受け取った。

 それだけかもしれない。


 ただ——。


——ただ。


 誰も私に、その数字が何を意味するのか、最後まで聞かなかった。


 (静かに)


 聞かれれば、私は答えたでしょう。

 答えられる範囲で。


 だが誰も、そこを強くは聞かなかった。

 数字は残った。

 注記は消えた。

 それで十分だったのかもしれません。


——十分だった、と。


 人によっては。


——今、こうして話してくださるのは、なぜですか。


 数字は残るからです。


 報告書は今もどこかにある。

 私が測定した数値は、その中にある。


 注記は削られたが——数字は残っている。


 数字は、嘘をつかない。


 (少し間を置いて)


 ただ——数字は自分では語らない。

 誰かが読まなければ、ただの数字のままです。


 私は、そのことがずっと引っかかっていた。


——削除された注記の文言は、今でも覚えていますか。


 覚えている、というより。


 (男はそこで、初めて卓上の革の書類入れを開いた)


 控えがあります。


——控え。


 癖です。

 数字を書いた紙は、捨てない。


 (薄い紙片を一枚取り出す。古い筆記用紙の端に、鉛筆で数行の字があった)


 主担当に渡す前の、私の下書きです。

 全部ではありません。

 切れ端だけ残っていた。


——見せていただけますか。


 ここでは読み上げるだけにします。


 (紙片を見ながら、抑揚なく読む)


 「本例における血液所見及び死後経過時間の推定値は、発見現場における轢断を一次的死因とする解釈と、必ずしも整合しない」


 以上です。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


男は紙片を元の位置に戻した。

畳む手つきは、医学資料を扱うものというより、長く捨てられなかった私的な紙をしまう手つきに見えた。


私はしばらく、その場で言葉が出なかった。


「本例における血液所見及び死後経過時間の推定値は、発見現場における轢断を一次的死因とする解釈と、必ずしも整合しない」


これを、もっと短い言葉に置き換えることはできる。

だが、その短い言葉の方が、むしろこの男の見たものを損なう気がした。


男は「可能性」という語を使わなかった。

「そのとおりだった」とも言わなかった。

ただ——数字が、最初に受け取った物語と整合しない、と言った。


帰りの電車の中で、私はメモ帳に三つの語を書いた。


血液。

時刻。

整合しない。


新しい事実ではない。

どれも、報告書の中に残っているはずのものだ。

ただ、それらをどう読むかを、誰も最後まで強く問わなかった。


その夜から、私は事件の時刻表を作り直さなければならなくなった。

失踪から発見までの時間ではない。

遺体が持っていた時間から。


そう考え始めたところで、第二篇の記者が見せた赤鉛筆の三文字——「早すぎる」——を、私は別の意味で思い出した。


何が早すぎたのか。

報道か。

説明か。

あるいは——死の方か。


そこまでは、まだ書けないと思った。

最後までお読みいただきありがとうございました!

少しでも面白いと思っていただけたら、下の☆で評価やブックマークをいただけると嬉しいです!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ