第四篇 国鉄労働組合幹部の証言
下山事件において、国鉄労働組合は最初に疑われた側である。
十万人の整理解雇に反発する組合が、総裁を殺した。
あるいは、殺すよう命じた。
あるいは、殺すよう唆した。
そういう見方が、事件直後から流れた。
新聞にも出た。
GHQの報告書にも、その線での捜査記録が残っている。
結果として、組合員は誰も起訴されなかった。
アリバイが確認された者もいた。
証拠が出なかった者もいた。
捜査の向きが、途中で変わったという見方もある。
今回話を聞いた男は、当時の組合の中枢にいた人物である。
名は伏せる。本人がそう望んだ。
ただ、伏せる理由が「怖いから」ではないことは、話せばすぐにわかった。
「名前を出しても、何も変わらない。
変わらないことに名前を使うのは、嫌いなんです」と、男は言った。
取材の場所は、男が指定した。
都内の、古い蕎麦屋だった。
昼時を外した時間で、客は私たちだけだった。
男はすでに席についていて、お茶を飲んでいた。
卓上には、青い表紙の薄い帳面が一冊、伏せて置かれていた。
昭和二十四年七月五日、と鉛筆で書かれていた。
私は手を伸ばさなかった。男も、すぐにはそれに触れなかった。
私が来ると、男は湯呑みを置いて、まっすぐこちらを見た。
値踏みするような目ではなかった。
ただ——確認するような目だった。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
——本日は、ありがとうございます。
座ってください。
(お茶を一口飲んでから)
何から聞きますか。
——単刀直入に伺います。事件当夜のアリバイを。
構いません。
(少しも表情を変えずに)
七月五日の夜は、組合の会議室にいました。
翌日の抗議行動の段取りを詰めていた。
夜の七時半前から、日付が変わる頃まで、十人以上いた。
——その全員が証言していますか。
しています。
警察にも話した。
一人ひとり、別々に。
全員の話が一致した。
当たり前です。
全員、本当にそこにいたんだから。
(そこで初めて、卓上の青い帳面に手を置く)
これが、その夜の出席の控えです。
念のために、私がその場で書いた。
誰が何時に入ってきて、何時に帰ったか。
全部ではないが、大枠は残っている。
——今も持っているのですね。
持っています。
捨てる気にはなれなかった。
証拠というほどのものではない。
だが——あの夜、私たちがそこにいたことだけは、誰にも書き換えさせたくなかった。
——疑われることへの怒りは、なかったのですか。
ありましたよ。
(静かに、しかし明確に)
ありましたが、驚きはなかった。
あの頃の空気を知っていますか。
組合は危険だ、共産主義者だ、暴力を辞さない集団だ——そういう見方が、すでに広まっていた。
GHQがそういう空気を作っていた。
新聞もそれに乗っていた。
だから総裁が死んで、一番に疑われるのは組合だと——私たちは最初からわかっていた。
——だから、会議の記録まで残していた。
そうです。
用心していた、ということでしょう。
いつ何を聞かれても答えられるように。
そういう時代だったということです。
——組合の立場から見て、下山総裁はどういう人物でしたか。
仕事をする人でした。
(短く、しかし考えてから)
感情的な人ではなかった。
私たちが抗議に行っても、怒鳴らなかった。
叩き出しもしなかった。
ちゃんと話を聞いた。
聞いた上で、こちらの言うことを聞かなかったけれど。
——憎しみの対象ではなかった、と。
少なくとも私には、そうです。
十万人の整理を決めたのは、下山さんだけじゃない。
GHQが決めた。
政府が決めた。
下山さんは、その命令を実行する立場にいた。
憎むなら、命令した側を憎むべきでしょう。
命令を実行した人間を殺しても、命令は残る。
私たちは、そういう考え方でした。
——組合の中に、そうではない考え方の人間もいましたか。
……。
(湯呑みを両手で包んで)
組合というのは、一枚岩ではない。
それは言っておきます。
様々な考え方の人間が、同じ旗の下にいる。
声の大きい者もいた。
口の荒い者もいた。
石でも投げろと言うような者も、いなかったとは言いません。
だが——本気で人殺しの相談をした場を、私は知りません。
少なくとも、私がいた場所では、そういう話は出ていない。
——「私がいた場所では」と限定されるのですね。
限定します。
知らないことまで、知らないとはっきり言うのが、いちばん誠実でしょう。
ただ——私の知る限り、下山さんを傷つけようとした人間はいなかった。
それだけは言えます。
——事件後、捜査が組合に向いていた時期のことを教えてください。
しんどかった。
それだけです。
証明できないことを証明しろ、というのが一番しんどい。
やっていないことを、やっていないと証明する方法は、本来ない。
アリバイがある者はまだいい。
アリバイがない者は、ただ「やっていない」と言うしかない。
言い続けるしかない。
——捜査の熱が途中で変わった、と。
変わりました。
急に、です。
最初のうちは、毎日のように人が来た。
刑事も、役所の者も、よくわからない人間も。
同じことを何度も聞かれた。
それが、ある時期から急に薄くなった。
組合への聴取が減った。
質問の角度も変わった。
こちらを見ていた目が、別の方を向いた感じがあった。
——理由に心当たりはありますか。
……。
(少し間を置いて)
心当たり、というほどのものではない。
ただ、見ていたことはある。
——何を。
ある人間が、ある場所へ出入りしていた。
——どういう意味でしょうか。
そのままの意味です。
組合の中の人間が、組合の仕事だけでは行かない場所へ行っていた。
私はそれを、二度見た。
——どこで。
日比谷です。
進駐軍の車が止まる建物の前です。
警視庁でもない。国鉄本社でもない。組合の事務所でもない。
我々のような人間が、ふつうの顔で出入りする場所ではなかった。
——その人間は、組合の幹部だったのですか。
幹部と言っても、上の方ではない。
専従の一人です。
普段は開襟シャツで、腕まくりをしているような男でした。
それが、その日だけは背広にネクタイをしていた。
靴も磨いていた。
私は最初、別人かと思った。
建物の前で、日本人の男と少し話して、それから中へ入っていった。
私は道路の向こうから見ていた。
向こうはこちらに気づかなかったと思います。
——その人物の名前は。
……。
(長い沈黙)
確信がないことは、言えない。
——今、名前を言いかけたように見えました。
そう見えたなら、そうなんでしょう。
だが——言いません。
——なぜですか。
死んだ人間の名に、私の推測をぶら下げたくないからです。
その男が、何をしに行っていたのか、本当のところはわからない。
労働争議と関係のない用だったのかもしれない。
別の誰かに頼まれただけかもしれない。
ただ、私の目には——組合の外の、随分と外の場所に見えた。
それだけです。
——その「随分と外の場所」が、下山事件に関係していると思いますか。
思う、とも、思わない、とも言えない。
(静かに)
ただ、あの頃になって初めて知ったことがある。
——何でしょう。
組合の中にいても、組合だけの人間ではない者がいる、ということです。
我々は労働者の権利のために動いているつもりだった。
そうではない目的で、同じ場にいる人間もいたのかもしれない。
いや——どこの組織でも、そういうものなのかもしれません。
それが、事件に直接つながるかどうかは、わからない。
だが、捜査の熱の向きが変わった時期と、私がその男を見た時期が、妙に重なっている。
それが、ずっと引っかかっている。
——下山総裁が亡くなったあとも、整理解雇は続きましたね。
続きました。
(少し表情が変わって)
それが、一番嫌だった。
下山さんが亡くなっても、整理は止まらなかった。
別の人間が、続きをやった。
私たちは抗議を続けた。
だが、結果は変わらなかった。
十万人は、職を失った。
——それについて、どう思いますか。
どう思う、というのは。
——もし誰かが総裁を殺したとして、それは何のためだったのか、という意味です。
……。
(湯呑みを置いて)
それを、私も考えました。
組合がやる理由は薄い。
下山さんを殺しても、整理解雇は止まらないからです。
恨みはあったかもしれない。怒りもあった。
だが怒りだけで、あれほど先の見えないことをやるか。
私はそうは思わない。
合理的な理由がある殺しと、ない殺しがある。
合理的な理由がない殺しというのは——もっと、厄介な理由がある場合です。
——厄介な理由。
感情ではない。
利益でもない。
恨みでもない。
それ以外の理由で、人が動くことがある。
私は組合の人間ですから、利益と感情で動く人間は知っています。
だが——そういうものを全部外した場所で動く人間というのが、世の中にはいる。
もしそういう人間が動いたのだとしたら——私には、想像もできない。
——あなたは、下山事件の真相を知っていると思いますか。
知りません。
(間を置かずに)
——知りたいと思いますか。
以前は思っていた。
今は——どうだろう。
(しばらく黙ってから)
知ったところで、何が変わるかわからない。
下山さんは戻らない。
整理された十万人は戻らない。
組合が叩かれたことも、変わらない。
知ることで、楽になれるとも思わない。
ただ——知らないまま死ぬのも、違う気がしている。
——この事件が終わっていないと思うのは、なぜですか。
真相がわからないから、だけじゃない。
(縁側のない店なのに、男はふと外の光を見るように顔を上げた)
下山定則という人が、あの朝、本社に来て、普通に仕事をして、出ていった。
翌日、線路の上で死んでいた。
その間に何があったのか。
それを知っているはずの人間が、どこにもいないように見える。
いないわけがない。
だが、誰も「知っている顔」をしない。
それが妙なんです。
誰も知らないはずがないのに、誰も全部は持っていないように見える。
そういう事件でした。
私も、その中の一人かもしれない。
——最後に聞かせてください。途中で飲み込んだ名前について。確信がないから言えない、とおっしゃいました。今後、確信が持てたとしても——言えないでしょうか。
(長い沈黙)
……わからない。
確信が持てるかどうかも、わからない。
ただ——。
(そこで少し止まって、また湯呑みを手に取る)
あなたは、この後も取材を続けるんですか。
——続けます。
そうですか。
(お茶を一口飲んで)
続けているうちに——その名前に、別の方向からたどり着くかもしれない。
——それは、ヒントですか。
ヒントでも、何でもない。
(静かに、しかし明確に)
私の口から出れば、私の推測になる。
別の場所から出れば、事実になるかもしれない。
事実の方が——重い。
それだけのことです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
蕎麦屋を出た。
男は私より先に立って、青い帳面を内ポケットにしまい、さっさと店を出ていった。
見送りも、握手も、なかった。
角を曲がって、すぐに見えなくなった。
私は少しの間、店の前に立っていた。
「私の口から出れば、私の推測になる。
別の場所から出れば、事実になるかもしれない」
その言葉を、何度か繰り返した。
名前は、出なかった。
だが——名前があることは、わかった。
そしてその名前は、組合の外の「随分と外の場所」と、どこかでつながっている。
庶務係の鍵。
記者の見出し。
そして、組合幹部が飲み込んだ名前。
三つはまだ、つながらない。
つながらないまま、同じ方角を向いているようにも見える。
その見え方が正しいのかどうか、まだ私にはわからない。
ただ——わからないまま、次の取材へ向かった。
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