表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
日本史・異聞編纂録 国鉄総裁はなぜ死んだのか 〜ルポ下山事件〜  作者: 九条ケイ・ブラックウェル


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

5/6

第四篇 国鉄労働組合幹部の証言

下山事件において、国鉄労働組合は最初に疑われた側である。


十万人の整理解雇に反発する組合が、総裁を殺した。

あるいは、殺すよう命じた。

あるいは、殺すよう唆した。


そういう見方が、事件直後から流れた。

新聞にも出た。

GHQの報告書にも、その線での捜査記録が残っている。


結果として、組合員は誰も起訴されなかった。

アリバイが確認された者もいた。

証拠が出なかった者もいた。

捜査の向きが、途中で変わったという見方もある。


今回話を聞いた男は、当時の組合の中枢にいた人物である。

名は伏せる。本人がそう望んだ。


ただ、伏せる理由が「怖いから」ではないことは、話せばすぐにわかった。


「名前を出しても、何も変わらない。

変わらないことに名前を使うのは、嫌いなんです」と、男は言った。


取材の場所は、男が指定した。

都内の、古い蕎麦屋だった。

昼時を外した時間で、客は私たちだけだった。

男はすでに席についていて、お茶を飲んでいた。


卓上には、青い表紙の薄い帳面が一冊、伏せて置かれていた。

昭和二十四年七月五日、と鉛筆で書かれていた。

私は手を伸ばさなかった。男も、すぐにはそれに触れなかった。


私が来ると、男は湯呑みを置いて、まっすぐこちらを見た。

値踏みするような目ではなかった。

ただ——確認するような目だった。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


——本日は、ありがとうございます。


 座ってください。


 (お茶を一口飲んでから)


 何から聞きますか。


——単刀直入に伺います。事件当夜のアリバイを。


 構いません。


 (少しも表情を変えずに)


 七月五日の夜は、組合の会議室にいました。

 翌日の抗議行動の段取りを詰めていた。

 夜の七時半前から、日付が変わる頃まで、十人以上いた。


——その全員が証言していますか。


 しています。


 警察にも話した。

 一人ひとり、別々に。

 全員の話が一致した。


 当たり前です。

 全員、本当にそこにいたんだから。


 (そこで初めて、卓上の青い帳面に手を置く)


 これが、その夜の出席の控えです。

 念のために、私がその場で書いた。

 誰が何時に入ってきて、何時に帰ったか。

 全部ではないが、大枠は残っている。


——今も持っているのですね。


 持っています。


 捨てる気にはなれなかった。

 証拠というほどのものではない。

 だが——あの夜、私たちがそこにいたことだけは、誰にも書き換えさせたくなかった。


——疑われることへの怒りは、なかったのですか。


 ありましたよ。


 (静かに、しかし明確に)


 ありましたが、驚きはなかった。


 あの頃の空気を知っていますか。

 組合は危険だ、共産主義者だ、暴力を辞さない集団だ——そういう見方が、すでに広まっていた。

 GHQがそういう空気を作っていた。

 新聞もそれに乗っていた。


 だから総裁が死んで、一番に疑われるのは組合だと——私たちは最初からわかっていた。


——だから、会議の記録まで残していた。


 そうです。


 用心していた、ということでしょう。

 いつ何を聞かれても答えられるように。

 そういう時代だったということです。


——組合の立場から見て、下山総裁はどういう人物でしたか。


 仕事をする人でした。


 (短く、しかし考えてから)


 感情的な人ではなかった。

 私たちが抗議に行っても、怒鳴らなかった。

 叩き出しもしなかった。

 ちゃんと話を聞いた。


 聞いた上で、こちらの言うことを聞かなかったけれど。


——憎しみの対象ではなかった、と。


 少なくとも私には、そうです。


 十万人の整理を決めたのは、下山さんだけじゃない。

 GHQが決めた。

 政府が決めた。

 下山さんは、その命令を実行する立場にいた。


 憎むなら、命令した側を憎むべきでしょう。

 命令を実行した人間を殺しても、命令は残る。


 私たちは、そういう考え方でした。


——組合の中に、そうではない考え方の人間もいましたか。


 ……。


 (湯呑みを両手で包んで)


 組合というのは、一枚岩ではない。

 それは言っておきます。

 様々な考え方の人間が、同じ旗の下にいる。


 声の大きい者もいた。

 口の荒い者もいた。

 石でも投げろと言うような者も、いなかったとは言いません。


 だが——本気で人殺しの相談をした場を、私は知りません。

 少なくとも、私がいた場所では、そういう話は出ていない。


——「私がいた場所では」と限定されるのですね。


 限定します。


 知らないことまで、知らないとはっきり言うのが、いちばん誠実でしょう。


 ただ——私の知る限り、下山さんを傷つけようとした人間はいなかった。

 それだけは言えます。


——事件後、捜査が組合に向いていた時期のことを教えてください。


 しんどかった。


 それだけです。


 証明できないことを証明しろ、というのが一番しんどい。

 やっていないことを、やっていないと証明する方法は、本来ない。


 アリバイがある者はまだいい。

 アリバイがない者は、ただ「やっていない」と言うしかない。

 言い続けるしかない。


——捜査の熱が途中で変わった、と。


 変わりました。


 急に、です。


 最初のうちは、毎日のように人が来た。

 刑事も、役所の者も、よくわからない人間も。

 同じことを何度も聞かれた。


 それが、ある時期から急に薄くなった。

 組合への聴取が減った。

 質問の角度も変わった。

 こちらを見ていた目が、別の方を向いた感じがあった。


——理由に心当たりはありますか。


 ……。


 (少し間を置いて)


 心当たり、というほどのものではない。

 ただ、見ていたことはある。


——何を。


 ある人間が、ある場所へ出入りしていた。


——どういう意味でしょうか。


 そのままの意味です。


 組合の中の人間が、組合の仕事だけでは行かない場所へ行っていた。

 私はそれを、二度見た。


——どこで。


 日比谷です。


 進駐軍の車が止まる建物の前です。

 警視庁でもない。国鉄本社でもない。組合の事務所でもない。

 我々のような人間が、ふつうの顔で出入りする場所ではなかった。


——その人間は、組合の幹部だったのですか。


 幹部と言っても、上の方ではない。

 専従の一人です。


 普段は開襟シャツで、腕まくりをしているような男でした。

 それが、その日だけは背広にネクタイをしていた。

 靴も磨いていた。

 私は最初、別人かと思った。


 建物の前で、日本人の男と少し話して、それから中へ入っていった。

 私は道路の向こうから見ていた。

 向こうはこちらに気づかなかったと思います。


——その人物の名前は。


 ……。


 (長い沈黙)


 確信がないことは、言えない。


——今、名前を言いかけたように見えました。


 そう見えたなら、そうなんでしょう。


 だが——言いません。


——なぜですか。


 死んだ人間の名に、私の推測をぶら下げたくないからです。


 その男が、何をしに行っていたのか、本当のところはわからない。

 労働争議と関係のない用だったのかもしれない。

 別の誰かに頼まれただけかもしれない。


 ただ、私の目には——組合の外の、随分と外の場所に見えた。

 それだけです。


——その「随分と外の場所」が、下山事件に関係していると思いますか。


 思う、とも、思わない、とも言えない。


 (静かに)


 ただ、あの頃になって初めて知ったことがある。


——何でしょう。


 組合の中にいても、組合だけの人間ではない者がいる、ということです。


 我々は労働者の権利のために動いているつもりだった。

 そうではない目的で、同じ場にいる人間もいたのかもしれない。

 いや——どこの組織でも、そういうものなのかもしれません。


 それが、事件に直接つながるかどうかは、わからない。

 だが、捜査の熱の向きが変わった時期と、私がその男を見た時期が、妙に重なっている。

 それが、ずっと引っかかっている。


——下山総裁が亡くなったあとも、整理解雇は続きましたね。


 続きました。


 (少し表情が変わって)


 それが、一番嫌だった。


 下山さんが亡くなっても、整理は止まらなかった。

 別の人間が、続きをやった。

 私たちは抗議を続けた。

 だが、結果は変わらなかった。


 十万人は、職を失った。


——それについて、どう思いますか。


 どう思う、というのは。


——もし誰かが総裁を殺したとして、それは何のためだったのか、という意味です。


 ……。


 (湯呑みを置いて)


 それを、私も考えました。


 組合がやる理由は薄い。

 下山さんを殺しても、整理解雇は止まらないからです。

 恨みはあったかもしれない。怒りもあった。

 だが怒りだけで、あれほど先の見えないことをやるか。

 私はそうは思わない。


 合理的な理由がある殺しと、ない殺しがある。

 合理的な理由がない殺しというのは——もっと、厄介な理由がある場合です。


——厄介な理由。


 感情ではない。

 利益でもない。

 恨みでもない。


 それ以外の理由で、人が動くことがある。


 私は組合の人間ですから、利益と感情で動く人間は知っています。

 だが——そういうものを全部外した場所で動く人間というのが、世の中にはいる。


 もしそういう人間が動いたのだとしたら——私には、想像もできない。


——あなたは、下山事件の真相を知っていると思いますか。


 知りません。


 (間を置かずに)


——知りたいと思いますか。


 以前は思っていた。


 今は——どうだろう。


 (しばらく黙ってから)


 知ったところで、何が変わるかわからない。

 下山さんは戻らない。

 整理された十万人は戻らない。

 組合が叩かれたことも、変わらない。


 知ることで、楽になれるとも思わない。


 ただ——知らないまま死ぬのも、違う気がしている。


——この事件が終わっていないと思うのは、なぜですか。


 真相がわからないから、だけじゃない。


 (縁側のない店なのに、男はふと外の光を見るように顔を上げた)


 下山定則という人が、あの朝、本社に来て、普通に仕事をして、出ていった。

 翌日、線路の上で死んでいた。


 その間に何があったのか。

 それを知っているはずの人間が、どこにもいないように見える。


 いないわけがない。

 だが、誰も「知っている顔」をしない。


 それが妙なんです。


 誰も知らないはずがないのに、誰も全部は持っていないように見える。

 そういう事件でした。


 私も、その中の一人かもしれない。


——最後に聞かせてください。途中で飲み込んだ名前について。確信がないから言えない、とおっしゃいました。今後、確信が持てたとしても——言えないでしょうか。


 (長い沈黙)


 ……わからない。


 確信が持てるかどうかも、わからない。


 ただ——。


 (そこで少し止まって、また湯呑みを手に取る)


 あなたは、この後も取材を続けるんですか。


——続けます。


 そうですか。


 (お茶を一口飲んで)


 続けているうちに——その名前に、別の方向からたどり着くかもしれない。


——それは、ヒントですか。


 ヒントでも、何でもない。


 (静かに、しかし明確に)


 私の口から出れば、私の推測になる。

 別の場所から出れば、事実になるかもしれない。


 事実の方が——重い。


 それだけのことです。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


蕎麦屋を出た。

男は私より先に立って、青い帳面を内ポケットにしまい、さっさと店を出ていった。

見送りも、握手も、なかった。

角を曲がって、すぐに見えなくなった。


私は少しの間、店の前に立っていた。


「私の口から出れば、私の推測になる。

別の場所から出れば、事実になるかもしれない」


その言葉を、何度か繰り返した。


名前は、出なかった。

だが——名前があることは、わかった。


そしてその名前は、組合の外の「随分と外の場所」と、どこかでつながっている。


庶務係の鍵。

記者の見出し。

そして、組合幹部が飲み込んだ名前。


三つはまだ、つながらない。

つながらないまま、同じ方角を向いているようにも見える。


その見え方が正しいのかどうか、まだ私にはわからない。

ただ——わからないまま、次の取材へ向かった。

最後までお読みいただきありがとうございました!

少しでも面白いと思っていただけたら、下の☆で評価やブックマークをいただけると嬉しいです!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ