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日本史・異聞編纂録 国鉄総裁はなぜ死んだのか 〜ルポ下山事件〜  作者: 九条ケイ・ブラックウェル


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第三篇 闇市の古物商の証言

この証言者の名は、どの記録にも存在しない。


警察の聴取記録にない。

新聞の取材メモにない。

国鉄の内部文書にも、GHQの報告書にも——どこにも、ない。


事件当夜、現場付近にいた民間人として、この男の名が出てきたのは、全く別の経路からだった。

その筋の人物であることのみ明記しておく。

ただ——教えてくれた人間は、名前を告げた後、こう付け加えた。


「生きていれば、の話ですが」と。


生きていた。

東京の外れで、小さな修繕屋を営んでいた。

古物商の鑑札は、とうに返していた。

看板もなかった。

壊れた傘や、鍋の取っ手や、靴の踵を直す、小さな店だった。


取材を申し込むと、男は黙って店の奥へ引っ込んだ。

しばらくして戻ってきて、「座れ」と言った。

椅子は一脚しかなかった。

私に座らせて、自分は作業台の端に腰を下ろした。


取材の間中、男の手は動いていた。

誰かの靴の底を、黙って貼り直していた。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


——本日は、ありがとうございます。


 礼はいい。


(靴底に接着剤を塗りながら、こちらを見ずに)


何が聞きたいんですか。


——あの夜のことを。


 あの夜、というのはいつのことです。


——昭和二十四年七月五日の夜を。


……。


(手が、一度だけ止まる)


誰から聞いた。


——それは言えません。


そうですか。


(また手を動かして)


まあ、いい。

どうせそういうことは伝わるものだから。


で——何を知りたいんですか。


——あの夜、現場付近で人を見たと聞きました。


見ました(間を置かずに)


——詳しく、聞かせてもらえますか。


詳しく、ねえ。


(靴底を台に押しつけながら)


当時、私は綾瀬の方に店を出していた。

闇市ってやつです。

正確には闇市の端っこ、というか——もう闇市とも言えないような場所で、古い道具を並べていた。

終戦からずいぶん経っていたから、本当の意味での闇市じゃない。

ただ、公式の市場でもない。そういう場所です。


夜は遅くまで店を開けていた。

夜の方が客が来ることもあった。

昼間は働いている人間が、夕方から出てきて、鍋だの靴だの探す。

そういう時代でした。


——七月五日の夜、何時頃のことですか。


夜の九時か十時、そのくらいです。

明るくはなかった。

でも真っ暗でもなかった。

線路の方から光が来ることもある。


私は店じまいをしていました。

布をかけて、軽いものを引っ込めて、重いものはそのままにして。


そのとき、線路の方を、人が歩いていた。


——何人いましたか。


二人です。


——どんな人間でしたか。


一人は——背が高かった。

がっちりした体つきで、帽子をかぶっていた。

歩き方が、ゆっくりだった。急いでいる感じがしなかった。


もう一人は、小柄だった。

帽子はかぶっていなかった。

そっちは——少し、足もとがおぼつかない感じがした。


——「おぼつかない」とは。


酔っているのかな、と最初は思った。


(少し間を置いて)


だが今から思えば、違ったかもしれない。


——どういう意味でしょうか。


疲れた人間の歩き方と、酔った人間の歩き方は、違います。

酔っているのは、外側が乱れる。

疲れているのは、内側が抜けている。


あの小柄な方は——内側が抜けている歩き方だった。


(靴底から目を離さずに)


あの頃は、そういう人間は珍しくなかった。

だから気にしなかった。


——二人は何をしていたのですか。


歩いていた。


それだけです。


線路の方へ向かって、並んで歩いていた。

大きい方が、小柄な方の少し後ろにいた。

どこかへ連れていく、というのでもない。

ただ、並んで歩いていた。


——話していましたか。


遠かったから、声は聞こえなかった。


ただ——大きい方は、ずっと小柄な方を見ていた。

前を向いて歩きながら、何度か、横の人間を確認するように目をやっていた。

気にかけているというか——離さないようにしているというか。


そういう感じでした。


——その二人が、気になったのですか。


そのときは、そこまで気にしていなかった。


翌日、下山総裁の遺体が発見されたというニュースを聞いて——昨夜の二人を思い出した。


場所が、近かったから。


——警察に話しに行ったのですか。


行きました。


(少し、間が空く)


——何と言われましたか。


担当の人間に話した。

メモを取っていた。

「わかりました。確認します」と言われた。


それだけです。


——その後、連絡は。


ありませんでした。


(短く)


聞き取りに来ることも、なかった。

追加で話を聞きたいということも、なかった。


私の証言は、どこかへ消えたんでしょう。

記録に残っていないということは、そういうことです。


——消えた理由に、心当たりはありますか。


……(靴底を置いて、別の靴を手に取って)。


ない、と言えば嘘になる。


ただ、確かなことは言えない。


——警察に話しに行った後、何かありましたか。


次の日から、客が来なくなりました。


(静かに、事実を述べるように)


——突然、ですか。


突然、というほどでもなかった。


最初の一日は、偶然かと思った。

二日目も来なかった。

三日目に、いつも来る常連の顔が見えなかった。


四日目に、隣の店のおやじが教えてくれた。


——何を教えてくれたのですか。


「あそこには近づくな、という話が出ている」と。


——誰が流したのですか。


わからない、と言われた。


ただ——いつの間にか、そういう空気になっていた、と。


(少し間を置いて)


闇市というのは、空気で動く場所です。

誰かが「あそこは危ない」と言えば、みんなが避ける。

理由なんか要らない。

空気だけで、人は動く。


私の店には、一週間で誰も来なくなりました。


——それが、警察に行ったことと関係していると思いましたか。


思いました。


だが証明できない。

証明できないことは、言えない。


ただ——タイミングだけは、確かです。

警察に行ったのが、何日か経ってから客が来なくなった。

それだけは確かです。


——怖かったですか。


怖い、という感覚とは少し違った。


(靴の踵に錐を当てながら)


じわじわと、静かに、何かが変わる感じです。

怒鳴られるわけじゃない。

脅されるわけじゃない。

何も言われない。

ただ、誰も来なくなる。


あれが一番、こたえました。


声を上げる相手がいない。

戦う相手が見えない。

ただ——静かに、外側から、輪が縮まっていく感じです。


一ヶ月後には、店を畳みました。


——見た二人について、もう少し聞かせてください。大きい方の男は、どんな人物でしたか。


……。


(錐を置いて、少し考えるように)


普通の男でした。


——普通、とは。


目立たない、という意味です。

背が高くて体つきがいいのに、目立たなかった。

それが——今から思えば、おかしかった。


ああいう体格の人間は、どこにいても目に入る。

なのにあの男は、景色に溶けていた。


——どういう意味でしょうか。


帽子の角度、歩幅、歩く速さ——全部が、その場の空気に合っていた。

夜の道に、ちょうど馴染む歩き方をしていた。


(少し間を置いて)


訓練された人間の歩き方に見えた。


——「訓練された」。


私は戦争に行きました。

だから、わかる。


軍隊で叩き込まれると、歩き方が変わる。

音を立てない歩き方。

気配を消す歩き方。

それを、体が覚えている。


あの男の歩き方は——そういう歩き方でした。


——顔は覚えていますか。


暗かったから、はっきりとは。


ただ——振り返りませんでした。


——振り返らなかった、というのは。


普通、夜道で誰かの気配がすれば、人間は振り返ります。

あの男は一度も振り返らなかった。


私が店じまいしている物音がしたはずです。

布をたたむ音、木箱を引く音——それなりに音はした。

なのに振り返らなかった。


周囲の音を、全部わかった上で、振り返る必要がないと判断していた。

そう見えました。


——小柄な方は。


……。


(少し長い間)


あちらは覚えていない部分が多い。


ただ一つだけ、覚えていることがある。


——何でしょうか。


煙草の火です。


小柄な方が、途中で足を止めて——煙草に火をつけた。

マッチを擦る音がした。

小さな火が、一瞬、顔を照らした。


(静かに)


その顔は——怒っていなかった。

悲しんでいなかった。

怖がってもいなかった。


疲れた顔でした。


長い仕事を終えた人間の顔です。


——「長い仕事を終えた」。


そう見えた、というだけです。

あの一瞬の、マッチの火の中での話だから、確かなことは言えない。


ただ——その顔だけが、二十年経っても、頭に残っている。


——その小柄な男が、下山総裁だったと思いますか。


(長い沈黙)


思う、とも思わない、とも言えない。


顔を確認できるほど近くなかった。

暗かった。

一瞬しか見ていない。


ただ——翌日、新聞に載った写真を見たとき。


(そこで少し止まる)


似ていた、とだけ言っておきます。


——「大きい方の男」と一緒にいた理由を、どう考えますか。


考えないようにしてきました。


(静かに、しかし明確に)


考えれば、私もその話の一部になる。

一部になれば、店が潰れるどころじゃなくなるかもしれない。


だから——考えないようにした。


二十年間。


——今は、考えますか。


……。


(手元の靴を、作業台に置いて)


今更考えても、何も変わらない。


ただ一つだけ——ずっと気になっていることがある。


——何でしょうか。


あの二人は、どちらも急いでいなかった。


夜の道を、ゆっくり歩いていた。

どこかへ連れていかれる人間の歩き方でも、逃げる人間の歩き方でもなかった。


そのことが——一番、説明がつかない。


——つまり。


つまり——二人とも、あそこへ行くつもりで、歩いていた。


(静かに、窓の外を見て)


どちらかが、どちらかを連れていったのか。

それとも——二人で、行くと決めていたのか。


私にはわからない。

だが、急いでいなかったことだけは、確かです。


——最後に聞かせてください。なぜ今、話してくれたのですか。


あなたが来たから。


(それだけ言って、また靴を手に取る)


——それだけですか。


それだけです。


来る人間がいれば話す。

来なければ話さない。

二十年、誰も来なかった。


(少し間を置いて)


来てほしかったわけじゃない。

でも、来たから話した。


それだけのことです。


——もし、もっと早く誰かが来ていたら。


同じことを話したかどうか、わからない。


あの頃はまだ——怖かったから。


——今は怖くないのですか。


怖くない、とは言っていない。


(手を動かしながら、静かに)


ただ、怖いまま黙っていることにも、飽きた。


そういうことです。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


一時間ほど話して、店を出た。


別れ際に、男は一度も立ち上がらなかった。

送り出しもしなかった。

ただ作業台の上の靴底を押さえながら、「気をつけて」とだけ言った。


路地に出てから、私は少し立ち止まった。


「大きい方の男」。

目立たない体格。

景色に溶ける歩き方。

振り返らない背中。


第一篇の庶務係が語った「新しい鍵」と、

第二篇の記者が語った「複数の方向を向いた証言」と

——この「大きい方の男」が、頭の中で重なり始めていた。


まだ輪郭しかない。

名前もない。所属もない。


だが——確かに、いた。


あの夜、下山と並んで歩いた男が。


急がずに。

景色に溶けながら。

一度も振り返らずに。


私はメモ帳に、この男のことを書き留めた。

詳細の欄には、何も書けなかった。

ただ欄外に、一言だけ書いた。


「訓練された人間」と。


それだけが、今のところ確かなことだった。

最後までお読みいただきありがとうございました!

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