第二篇 朝日新聞記者の証言
昭和二十四年七月六日付の朝日新聞朝刊に、下山総裁の轢死体発見を伝える第一報が載った。
署名はなかった。
当時の社会面記事に署名が入ることは、まだ少なかった。
その記事を書いた記者を探すのに、三ヶ月かかった。
新聞社への問い合わせは、二度とも「担当者不明」として処理された。
三度目に、別の経路で名前を教えてもらった。
誰から聞いたかは、書かない。
男はすでに定年退職し、東京郊外の小さな家に住んでいた。
電話で取材を申し込むと、最初は黙っていた。
長い沈黙の後、「何を知りたいんですか」と聞いてきた。
「あの朝、何があったかを」と答えると、また黙った。
それから「来てもいいですよ」と言った。
訪ねると、縁側で煙草を吸っていた。
灰皿には、すでに何本かの吸い殻があった。
私が来る前から、待ちながら吸っていたのだろう。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
——ありがとうございます。突然の連絡にもかかわらず。
突然でもなかったですよ。
(煙草を灰皿で押し潰しながら)
いつか誰かが来ると思っていた。
二十年かかったけど。
——なぜそう思っていたのですか。
あの事件は——終わっていないから。
手続きは終わった。時効になった。書類の上では片付いた。
でも、終わっていない事件というのがある。
当事者の体の中で、まだ続いている事件が。
あの事件は、そういう種類のものだと思っていた。
(新しい煙草に火をつけながら)
だからいつか、誰かが来る。
記者か。研究者か。あるいはあなたのような人間か。
誰かが来て、聞く。
そのときに話せるかどうかは、そのときになってみないとわからなかった。
——今は、話せますか。
話せる程度には、遠くなった。
(少し間を置いて)
もう怖くなくなった、とも言える。
怖いものが変わった、と言った方が正確かもしれない。
——「怖いものが変わった」とは。
若い頃は——仕事を失うことが怖かった。
家族を養えなくなることが怖かった。
名前が消えることが怖かった。
定年になって、子供が独立して、女房も死んで。
今さら何を失うというんだ、という話です。
(短く笑って)
失うものがなくなると、人は少し自由になる。
あまり、嬉しくない種類の自由だけど。
——第一報を書いたのは、どういう経緯でしたか。
夜回りからです。
当時の社会部の記者は、夜に警察や消防を回る。
異変がないか、事件がないかを確認する。
地道な仕事です。
足で稼ぐしかない。
七月五日の夜、綾瀬の方で轢死体が出たという話を聞いた。
最初は普通の事故だと思った。
当時は線路での事故が多かった。
それほど珍しい話ではなかった。
だが——被害者の身元を聞いたとき、手が止まった。
——下山総裁だとわかった瞬間のことを。
現場の警官に名前を確認したとき——正直、聞き間違いだと思った。
国鉄総裁が、線路で死んでいる。
そんなことが起きるはずがない、と。
だが間違いじゃなかった。
私はそのまま電話ボックスに走って、デスクに電話した。
「下山総裁が死んでいる」と言ったら、デスクも最初は信じなかった。
「本当か」と三回聞いた。
「本当です」と三回答えた。
それから、社に戻って原稿を書いた。
朝刊に間に合わせた。
——あの第一報を書いたとき、事件についてどう思っていましたか。
特ダネだと思っていた。
(煙草の煙を吐いてから)
正直に言えば、そうです。
記者として、これほどの話はなかなかない。
興奮していた。
だがその興奮が、数日で変わった。
——どのように変わったのですか。
怖くなった。
(静かに、しかし確かに)
これは普通の事件ではない、とわかった。
普通の事件でないということは——普通の取材が通じない、ということでもある。
——取材を進める中で、何があったのですか。
色々と、あった。
(少し間を置いて)
全部は話せない。
話せない理由は、私が知らないことがあるからです。
知らないことについて話すと、嘘になる。
嘘はつきたくない。
——話せる範囲で、教えてください。
取材を始めて最初の一週間で——いくつかのことに気づいた。
一つ目。
証言が、合わない。
事件当日の下山総裁の行動について、複数の人間に話を聞いた。
だが証言が、細部で食い違う。
どこにいたか。誰といたか。何をしていたか。
普通の事件でも多少のズレはある。
だがあの事件の食い違い方は——普通じゃなかった。
——どのように、普通じゃなかったのですか。
整合性がなかった、というより——整合性が、壊れていた。
(煙草を灰皿に置いて)
証言というのは、嘘をついていなくても食い違うことがある。
人間の記憶は不正確だから。
見ていないものを見たと思ったり、聞いていないことを聞いたと思ったりする。
だが——同じ方向に食い違う証言と、バラバラに食い違う証言は、違う。
あの事件の証言は、バラバラじゃなかった。
ある方向に向かって、整然と、食い違っていた。
——「ある方向」とは。
……(しばらく縁側の庭を見て)
自殺に見せる方向、と言えばわかりますか。
——二つ目は、何に気づいたのですか。
取材相手が、減った。
昨日まで話してくれていた人間が、次の日に「やっぱり話せない」と言う。
電話に出なくなった人間もいた。
ある人間は、引っ越していた。
一週間の間に、取材できる人間が半分になった。
——誰かに、止められたと思いますか。
思う。
(間を置かずに)
ただ——誰が止めたのかは、わからなかった。
わからなかったから、書けなかった。
名指しできない記事は、書けない。
少なくとも、まともな新聞記者はそう思っていた。
あの頃は。
——「あの頃は」とおっしゃいましたね。
今は違う、ということじゃないですよ。
(苦く笑って)
ただ——名指しできなくても、書くべき事実があることはある。
そういうことを、後になって知った。
知るのが遅すぎた。
——担当を外れたのは、どういう経緯でしたか。
デスクに呼ばれた。
取材を始めて十日ほど経った頃です。
「別の仕事に移れ」と言われた。
——理由は。
「諸般の事情」と言われた。
(静かに)
今でも覚えている。
その言葉を。
「諸般の事情」。
私は「どういう事情ですか」と聞いた。
デスクは答えなかった。
もう一度聞いた。
デスクは「とにかく、そういうことだ」とだけ言って、立ち上がった。
それで終わりでした。
——抗議しなかったのですか。
した。
デスクの上に行って、部長に直談判した。
「この取材を続けさせてほしい」と言った。
部長は私の顔をしばらく見てから——「お前、子供はいるか」と聞いた。
——それは、どういう意味だったのでしょうか。
私は当時、子供が生まれたばかりだった。
それを部長は知っていた。
(短く、乾いた声で)
どういう意味か、説明が必要ですか。
——……いいえ。
そうですよね。
私は部長の部屋を出て、自分の席に戻って——担当を外れた。
それだけのことです。
それだけのことが、二十年経っても——ここに刺さっています。
(胸のあたりを、軽く手で触れる)
——取材の中で、最も印象に残っていることは何ですか。
一つだけ——あります。
担当を外れる直前に、ある人物に会った。
名前は言えない。
国鉄の、偉い人だったとだけ言っておきます。
——何を話したのですか。
私が質問する前に——その人物がこう言った。
「記者さん、あなたはこの事件の何を知りたいのですか」と。
私は「真相を知りたい」と答えた。
その人物は少し考えてから、こう言った。
「真相というのは、一つじゃないかもしれない」と。
——どういう意味だったのでしょうか。
その場では、わからなかった。
帰り道に考えた。
次の日も考えた。
担当を外れてからも、ずっと考えた。
二十年経って——少しわかってきた気がする。
——今は、どういう意味だったと思いますか。
……。
(長い沈黙の後、煙草に火をつけながら)
この事件には、複数の「本当のこと」がある。
そしてそれらは——必ずしも、同じ方向を向いていない。
そういう意味だったんじゃないかと、今は思っています。
——「同じ方向を向いていない」とは。
例えば——。
(ゆっくりと言葉を選んで)
被害者が、同時に、何かの当事者である場合がある。
それは珍しいことじゃない。
事件というのは、白と黒だけでできているわけじゃない。
ただ——それを記事にするのは、難しい。
難しいというより、怖い。
正確に書かなければ、誰かを傷つける。
正確に書いたとしても、誰かを傷つけるかもしれない。
だから——書かなかった。
書けなかった、と言ってもいい。
(少し間を置いて)
それが正しい判断だったかどうかは、今でもわかりません。
——もし今、あのとき書いた記事を書き直せるとしたら、どう書きますか。
書き直さない。
(間を置かずに)
書き直せるとしても、しない。
——なぜですか。
あの記事は、あの時点で書けることを、書いた。
間違ったことは書いていない。
書けることだけを、正確に書いた。
それ以上でも以下でもない。
(少し間を置いて)
ただ——一つだけ、後悔していることがある。
——何でしょうか。
タイトルです。
あの朝刊の見出しは「国鉄総裁轢死体で発見」だった。
私が書いたわけじゃない。
デスクがつけた。
「轢死体」という言葉が、引っかかっている。
——なぜですか。
轢死体、という言葉は——電車に轢かれて死んだ、という意味を含んでいる。
私はあの時点で、それが本当かどうか、確信がなかった。
遺体を見た。
疑問を感じていた。
だが見出しに「轢死体」と書かれた。
第一報を書いたのは私だから、多くの人間は私がそう判断したと思った。
(静かに、しかし重く)
判断していなかった。
疑問を感じたまま、原稿を書いた。
見出しはデスクがつけた。
それだけのことです。
だが——「轢死体」という言葉が、その後の事件の見られ方を、少し決めた気がしている。
最初の言葉というのは、強い。
その後に続く言葉の方向を、決めてしまうことがある。
それが——後悔している、一つのことです。
——最後に聞かせてください。下山総裁は、なぜ死んだと思いますか。
(長い沈黙)
答えられない問いには、答えない方がいいと思っている。
ただ——一つだけ。
あの事件が終わっていない理由は、真相がわからないからだけじゃない。
(庭の方をしばらく見てから)
真相がわかったとしても——それで全部が片付くわけじゃないから、終わらないんだと思います。
誰が何をしたかがわかっても。
なぜそうなったかがわかっても。
それでも残るものがある。
——残るもの、とは。
下山定則という人間が、あの朝、本社に出勤してきたこと。
普通に仕事をして、書類にサインして——鍵を誰かに預けて、出かけた。
その事実は、何があっても変わらない。
(少し間を置いて)
その事実の意味を、誰も最後まで説明できていない。
それが——この事件が終わらない理由だと、私は思っています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
取材を終えて玄関を出ようとしたとき、男が後ろから声をかけてきた。
「一つだけ、聞いていいですか」
振り返ると、男は縁側の柱に寄りかかって立っていた。
「下山総裁の部下で、庶務の人間に話を聞きましたか」
聞いた、と答えた。
男は少し目を細めた。
「鍵の話を、しましたか」
した、と答えた。
男は黙った。
しばらくして——
「そうですか」
とだけ言った。
それ以上は何も言わなかった。
私は「鍵について、何かご存知ですか」と聞いた。
男は首を横に振った。
「知らない。ただ——」
そこで少し止まってから——
「あの朝、総裁が何かを預けていたとしたら。
それは鍵だけじゃなかったかもしれない、と思っただけです」
何を、と聞こうとした。
男はすでに縁側に背を向けていた。
「もう十分話しました。お気をつけて
それが最後の言葉だった。
私は一人で門を出た。
鍵だけじゃなかったかもしれない。
その言葉を、帰りの電車の中で何度も反芻した。
答えは出なかった。
出なかったが——この取材を続けなければならない理由が、またひとつ増えた気がした。
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