第一篇 国鉄職員・庶務係の証言
国鉄本社の庶務係として、下山総裁の失踪当日まで総裁室付きで働いていた人物である。
名は、伏せる。
本人がそう望んだ。
理由は聞かなかった。
聞く必要がないと思ったし、聞けば話してもらえなくなる気がした。
取材の申し込みに対し、最初は断られた。
二度目も断られた。
三度目に、「一時間だけなら」と言われた。
実際には、三時間話した。
場所は、本人の指定した喫茶店だった。
国鉄本社からも、かつての自宅からも、遠い場所だった。
私が着いたとき、すでに奥の席に座っていた。
入口に背を向けた席だった。
それについては、何も聞かなかった。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
——本日は、ありがとうございます。
三度も来るとは思わなかった。
(コーヒーカップを両手で包みながら、静かに)
正直に言えば、三度目も断るつもりだった。
だが女房が「話した方がいい」と言った。
女房がそう言うのは珍しいことでね。
だから来た。
それだけのことです。
——奥様が、そうおっしゃった理由は。
聞かなかった。
女房の言うことには、理由を聞かない方がいいことがある。
長く一緒にいると、そういうことがわかってくる。
(少し間を置いて)
ただ——あの人も、ずっと気にしていたんだと思います。
私が黙って抱えているのを、見ていたんでしょう。
二十年近く。
——二十年間、誰にも話さなかったのですか。
話す相手がいなかった、というより。
(ゆっくりと首を横に振って)
話せば、私がその話の一部になる。
そう思っていた。
話の一部になりたくなかった。
——今は、なってもいいと思っている。
なってしまった、という方が正確かもしれません。
あの日から、私はもうあの話の一部なんです。
話すかどうかに関係なく。
それに気づくのに、二十年かかった。
(苦笑して)
遅すぎますよね。
——失踪当日の朝のことを、聞かせてください。
昭和二十四年七月五日。
火曜日でした。
天気は、晴れていた。
夏の朝で、もう朝から暑かった。
総裁は、いつも通りの時間に出勤されました。
黒塗りの車で、九時少し前に本社に着いた。
私は玄関で迎えました。
それが仕事でしたから。
——そのときの総裁の様子は。
普通でした。
(間を置かず、しかし静かに)
普通だった。
それが——おかしかった。
——「普通すぎた」ということですか。
そうです。
私は総裁付きで何ヶ月か働いていた。
毎朝、顔を見ていた。
人の顔というのは、毎日見ていると、少しの変化がわかるようになる。
あの頃の総裁は、ずっと疲れた顔をしていた。
疲れている、というより——重いものを持っている顔、とでも言えばいいか。
十万人の整理。
その名簿を抱えて、毎日来ていた。
肩が下がっていた。
目の奥に、何かが溜まっているような顔だった。
それがあの朝——なかった。
——重さが、なかった。
顔が、軽かった。
(少し考えてから)
軽い、という言葉も正確じゃないかもしれない。
吹っ切れた、という感じでもなかった。
なんというか——片付いた顔、とでも言えばいいか。
長いこと懸かっていた仕事が、ようやく片付いた。
そういう顔をしている人間を、私は時々見ることがあった。
あの朝の総裁は、そういう顔をしていた。
——何が片付いたと思いますか。
……。
(長い間、コーヒーカップを見つめて)
それを二十年間、考えてきた。
わからない。
今でも、わからない。
ただ——何かが片付いていたことだけは、確かだと思っています。
——総裁室に入ってから、何か変わったことはありましたか。
私は総裁室の外で仕事をしていました。
室内に入るのは、呼ばれたときだけです。
あの朝は、二度呼ばれた。
——最初は。
書類の確認でした。
前日から積まれていた決裁書類を、幾つか処理された。
いつも通りの仕事でした。
ただ——処理の速さが違った。
——いつもより速かった。
速かった。
総裁は仕事が丁寧な方でした。
書類を読むとき、何度も戻って読み直す癖があった。
急かされても、慌てない方だった。
だがあの朝は、読んでいる時間が短かった。
サインをする手が、迷わなかった。
私はそれを見ながら、今日は何か急ぎの用でもあるのかと思っていた。
——二度目は、どんな用件でしたか。
鍵のことです。
(少し、姿勢が変わる)
二度目に呼ばれたのは、九時を少し回った頃だったと思います。
部屋に入ったら、総裁が机の前に立っていた。
机の引き出しに、手をかけていた。
私が「何でしょうか」と言ったら——。
(そこで少し止まる)
「これを預かっておいてくれ」と言われた。
——「これ」とは。
鍵です。
小さな鍵でした。
机の上に置かれた。
私は受け取った。
——その鍵は、何の鍵でしたか。
その場では、聞きませんでした。
——なぜ。
(少し間を置いて)
聞けなかった、という方が正確かもしれない。
総裁の顔を見たとき——聞いてはいけない気がした。
聞けば、知ることになる。
知れば、私もその何かに関わることになる。
そういう感覚が、体の方が先に感じたんでしょう。
——受け取った後、総裁は何か言いましたか。
「よろしく頼む」とだけ言った。
それだけです。
それ以上は何もなかった。
私は「承知しました」と言って、部屋を出た。
鍵をポケットに入れて、自分の席に戻った。
——その後、総裁は。
十時頃、外出されました。
「少し出てくる」とだけおっしゃって。
行き先は言わなかった。
それ自体は珍しくはなかった。
総裁はよく、そういう形で出かけることがあった。
だから——私は普通に「行ってらっしゃいませ」と言った。
(静かに、しかし確かめるように)
それが最後でした。
——鍵を返してほしいという連絡は、来ましたか。
来ませんでした。
夕方になっても戻られなかった。
夜になって、騒ぎになった。
翌日、遺体が見つかった。
鍵は、ずっとポケットの中にあった。
——その後、鍵をどうしましたか。
持っていました。
誰にも渡しませんでした。
——上の者にも。
渡しませんでした。
(静かに)
聞かれなかった、というのもあります。
だが、それだけではない。
私は、あの鍵を出した瞬間に、何かが決まってしまう気がしたんです。
総裁は「預かっておいてくれ」と言った。
私は預かった。
その人は戻らなかった。
そのことを人に言えば、総裁が本当に“戻らない人間”になってしまう気がした。
子供じみているでしょう。
自分でもそう思います。
でも——あの時は、そうだった。
——その後、総裁室に入ることはありましたか。
ありました。
失踪から二日か三日して、部屋の片付けに人手が要るということで、呼ばれたんです。
机の上のものを運ぶだけのつもりで入った。
そのとき見ました。
——何を。
右の引き出しが、開いていた。
——……。
私は、すぐわかりました。
あの朝、総裁が手をかけていた引き出しです。
鍵は私のポケットの中にある。
触らなくてもわかっていた。
ずっと持っていたから。
それなのに——引き出しは、もう開いていた。
——中は。
空でした。
少なくとも、私の目にはそう見えた。
文具も、便箋も、私がそれまで見ていたようなものは何も入っていなかった。
きれいに、中だけが残っていた。
そのとき初めて、私はわからなくなったんです。
私の持っている鍵は、本当にあの引き出しの鍵だったのか。
そうだったとして、では誰が開けたのか。
総裁は何を私に預けたつもりだったのか。
鍵だったのか。
それとも——別の何かだったのか。
あれを見て、私は余計に何も言えなくなった。
——なぜ。
事実が、一つではなくなったからです。
私は鍵を預かった。
総裁は戻らなかった。
だが引き出しは開いていた。
この三つが、一緒に並んだ瞬間に、口が利けなくなった。
何を言っても、どれか一つしか本当にならない気がした。
そうではなかったのかもしれませんが——あのときの私は、そう思った。
——その鍵は、今も。
あります。
(男はそこで立ち上がり、持ってきていた古い革鞄を膝の上に置いた。鞄の中から、小さな缶を取り出した。菓子缶ではなく、古い煙草缶だった。蓋を開けると、紙に包まれた小さなものが入っていた)
これです。
(男は包みを開いた)
——これが。
ええ。
変わったところのない、小さな鍵です。
ただ——見覚えのない鍵でした。
少なくとも、私が普段総裁室で目にしていた鍵ではなかった。
新しかったようにも思います。
使い込まれた感じが、なかった。
ぴかぴかだった、とまで言うと、自分の記憶に自信がなくなるが——少なくとも、古びた鍵ではなかった。
——総裁が、あらかじめ用意していた。
そう思ったことはあります。
思ったことはありますが——断言はできません。
二十年前の朝のことですから。
ただ一つだけ、今も変わらずに思うことがある。
総裁は、あの鍵を私に渡すつもりで、あの日を迎えていた。
それだけは、たぶんそうだろうと。
——なぜ、そう思うのですか。
手渡し方です。
迷いがなかった。
机の上で探して、見つけて、思いつきで渡したような手つきではなかった。
私が部屋へ入ったときには、もう決まっていた。
私に渡すことが。
——なぜ、今、話してくださったのですか。
年を取ったからでしょう。
それに——。
(男は鍵を見たまま、しばらく黙った)
鍵を持ったまま死ぬのも、違う気がしてきたんです。
私の役目は、持っていることではない。
預かったという事実を、誰かに渡すことなんだろうと思った。
ただ——鍵そのものは、お渡しできません。
——なぜですか。
まだ、預かっているものですから。
——総裁が「片付いた顔」をしていたとおっしゃいました。今から振り返ると、その「片付いた顔」が何を意味していたと思いますか。
……答えが出ない問いには、答えない方がいいと思っている。
(少し考えてから)
ただ一つだけ。
私はあの朝、総裁が怖い顔をしていなかったことを、ずっと覚えています。
追い詰められた人間の顔ではなかった。
死を覚悟した人間の顔でもなかった。
何か——大きなものを手放した人間の顔だったと思う。
——大きなもの、とは。
わかりません。
ただ手放した後は、人は軽くなる。
あの朝の総裁は、軽かった。
(少し間を置いて)
軽い、ということは——何かを、置いてきた、ということだと思います。
どこかに。
誰かに。
何を置いてきたのか。
私にはわからない。
鍵を渡されたとき、私はその「何か」の端っこに、少し触れたのかもしれない。
だから聞けなかった。
今でも——そう思っています。
——最後に聞かせてください。下山総裁は、どういう方でしたか。
(少し驚いたように、それから静かに)
そういう質問をされると思っていなかった。
みんな、事件のことしか聞かない。
あの朝のことを聞く。
鍵のことを聞く。
見たこと、聞いたことを聞く。
人のことを聞かれたのは——初めてかもしれない。
(しばらく、手元を見てから)
真面目な方でした。
それだけでは足りないかもしれないが——真面目、という言葉が一番近い。
仕事を、仕事として全うしようとしていた。
感情で動かなかった。
損得で動かなかった。
ただ、やるべきことをやる人だった。
だから——十万人の整理という仕事も、引き受けた。
引き受けたくなかったはずです。
でも、誰かがやらなければならない仕事だった。
それを、引き受けた。
(少し間を置いて)
そういう人が——なぜ死ななければならなかったのか。
自殺なのか、他殺なのか。
私には、わからない。
わからないままです。
ただ——どちらであったとしても。
(ここで、声が初めて少し揺れる)
あの朝、私に鍵を渡した人間が、その日の夜には死んでいた。
それだけのことが、二十年経っても——どこかに刺さったままです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
三時間の取材を終えて、店を出た。
夏の夕方だった。
まだ明るかった。
男は煙草缶を鞄にしまうとき、鍵を紙で包み直した。
証拠品を扱う手つきではなかった。
誰かから借りたものを、傷つけないように返すまで預かっている——そういう手つきだった。
別れ際に、一つだけ聞いた。
「あの鍵は、本当にその引き出しの鍵だったと思いますか」と。
男は少し考えてから、答えた。
「わかりません。
だが——総裁は、そう思って私に渡した。
私は今も、そう思っています」
それだけ言って、男は駅の方へ歩いていった。
私はしばらく、その背中を見ていた。
ポケットの中の鍵。
後日、すでに開いていた引き出し。
そして、中には何もなかったという事実。
帰りの電車の中で、私は何度も考えた。
あの鍵は、何を開ける鍵だったのか、ではない。
誰の沈黙を開ける鍵だったのか——と。
そしてもう一つ、気になっていることがある。
総裁はなぜ、自分ではなく、この男に鍵を渡したのか。
その問いを、私はその場で聞かなかった。
聞くべきだったのかもしれない。
だがあの喫茶店で、煙草缶の中の小さな鍵を見たとき、私は妙に、そこから先へ踏み込んではいけない気がした。
その感覚を、私はまだうまく説明できない。
最後までお読みいただきありがとうございました!
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