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第2話 打算的な旅立ち

「あなた、は?」


 初めて発せられたその声は、森の奥でそっと湧き出す清流のようだった。

 澄んでいて、耳に心地よく、どこか懐かしさすら覚える。

 それはただの問いかけであるはずなのに、胸の奥にふわりと波紋を残す、不思議な響きを携えていた。


「……俺は旅の者だ」


「たびの……」


「道中に発見した洞窟に入ったところ、結界のような魔術に囲まれているお前を見つけた。

 お前はいったい何者だ?」


「……わかりません」


 女は視線を下げ、続ける。


「ここがどこなのかも、なぜここにいるのかも、貴方が仰るその結界のような魔術も。

 ――そして、自分が何者なのかも。

 なにも、わかりません。ただ、とても。

 とても長い間眠っていたような気がします。何十、いや、何百年……」


 記憶喪失、か。

 嘘をついている様子はない。


 無論、人間ならとっくに寿命が尽きているところだが……。

 エルフは長寿だと伝承には残されている。

 あるいは、あの結界魔術に対象の時を止めるような効果があるのか。

 本当にありえない、空想のような話ではある。

 が、そもそも魔道人形が出現した時点で、俺の理解の範疇から逸脱している。


 俺は女を地面にそっと座らせる。


「体に異常はないか?」


「異常……ですか? いいえ、特に痛みもなく、何も感じません」


 問いかけに、女は一度瞬きをしてから、ゆっくりと視線を自らの体に落とした。

 その動きは恐ろしく慎重で、まるで壊れ物を扱うかのように、両手をそっと肩に添える。

 そこから滑らせるように腕をなぞり、細い指先が腰や足元へと移る。

 触れた肌に痛みも違和感もないことを、一つ一つ確かめるように。


 彼女の身にまとわれていたのは、淡い銀青のドレスだった。

 魔力の残滓が空間に舞うたび、織り込まれた不思議な繊維が虹色の光を静かに返す。

 縁には細かな宝石があしらわれており、それらがまるで星々のように瞬いていた。

 王都の一流の服飾職人でも、到底編み出せるとは思えない意匠。

 それらは明らかに高貴な身分に相応しい、気品と神秘を併せ持った衣装。


 足元には、同じ柄のショートブーツが履かれていた。

 歩くためというより、式典や儀式の場に相応しい、美しさを重視したつくり。

 だがそれも、不思議なことにまったく汚れがついていない。

 この足場の悪い、ぬかるみだらけの洞窟をどう進んできたのだろう。


 確認を続けるなか、女の指が鎖骨のあたりで動きを止めた。

 その胸元には、一粒の大きな宝石があしらわれたネックレスが静かに揺れていた。


 透き通るような翠。

 だが、ただの宝石ではない。

 内に魔力のきらめきを閉じ込めたかのように、光の加減で奥深い輝きを見せる。


 女はその宝石に指を添え、不思議そうに見つめた。

 まるでそれが自分にとってどんな意味を持つのか、思い出そうとしているかのように。

 その瞬間、空間に反応が起きた。


 キィン……


 空中に魔力が集まり、宝石から淡い光が静かに広がる。

 その輝きは彼女の胸元からふわりと舞い上がり、

 やがて俺たちの目前に、蒼白の光で構成された()()を描き出す。


「これは……」


 それは羊皮紙や絵筆では描かれえない、立体的な世界地図。

 繊細な魔力の糸が大陸の輪郭をなぞるように輝き、周囲には波立つ海と点在する小島が浮かぶ。

 全体の構図は、あたかも神が天上から俯瞰した世界そのもののようで、どこか現実離れした神秘があった。


 目を引くのは、地図の下半分を占める大きな大陸。

 緩やかな海岸線と、中央に走る山脈が印象的なその地は、人間たちが住まうここ。

 俺たちが今立っているこの大地だ。


 その北西には、もう一つ大陸が浮かぶ。

 形は歪で、森と沼が多く、未踏の領域を思わせる未整備な地形が目立つ。


 そして地図の右上、遥か彼方。

 厚く引かれた海の帯を超えた先に、荒々しく鋭い輪郭を持つ大地。

 そこは地図の中でもひときわ重苦しい色合いを帯び、

 まるで魔力が染み込んでいるかのように、周囲に黒いもやが揺れている。


「地図、だな」


 思わず漏れた俺のつぶやきに答えるように、光の地図は脈動する。

 呼応して溢れ出た金色の光の粒子は、空中に浮かぶ地図の一部へと導かれていく。

 それは、広大な海原を超えた先、三つある大陸のうち、もっとも左上に位置する場所。

 その大陸が光を受け、拡大する。


 曲線を描く海岸線に、緑に覆われた内陸部。

 周囲には無数の山脈や川が複雑に交錯し、地図とは思えぬほど緻密な情報が刻まれている。

 人族が栄えるこの大陸以外、ろくに調査も進んでいない現状。

 この地図だけでも、学者や王族は喉から手が出るほど欲しがるだろう。


 輝きはさらに収束し内陸深く、山々に囲まれた秘境の一点へと吸い込まれる。

 そこに浮かび上がる不思議な文字。

 俺の知らない言語だ。


「――リィエンティア」


 女の唇が、懐かしむように小さく言葉を紡ぐ。

 地図を照らす光はなおも穏やかに輝きながら、そこが彼女にとって特別な場所であることを静かに語っていた。


「地名……か?」


 女は黙ったまま、しばらくその地図を見つめていた。

 やがて、ぽつりと口を開く。


「そこに、行かなければならない気がします」


 女の瞳に宿る微かな決意。


「どうしてかは、わかりません……でも、そうしないといけないと思うのです」


 まったくと言っていいほど根拠はない。

 けれど、本当に心の底からそう思っているのだということは、彼女の声音と、言葉の温度が証明していた。


 俺はそんな女の横顔を無言で見つめた。


 この女は、自らの意思で動けるほどの力を持たない。

 記憶もなく、おそらく、この世界の知識もそれほどない。

 ただ課せられた使命に従うように、心だけが前に進もうとしている。


 ……ふむ。利用価値は十二分。

 まず何より美しい。そして価値の測れないほど希少な存在。

 ボスを納得させるに相応しい宝。

 ……いずれ、俺を自由にさせる宝。


 俺はそっと目を伏せた。

 思考を巡らせながら、表情に何の色も乗せず、冷静に言葉を紡ぐ。


「あの場所に行きたいのか」


 女は俺を見て、こくんと頷く。

 その反応で、俺の決意は固まった。

 導くフリをすればいい。

 連れていくフリをして、アジトまで導けばいい。

 あとはボスに引き渡すだけ。

 それで、俺の目的は果たされる。


「さっきも言ったが、俺は旅の者だ。

 行く先々で住民の依頼を受けたり、人助けをしたりしながら世界各地を巡っている。

 早い話が、冒険者の真似事だ」


 まあ、まったくの嘘なのだが。

 ()()()だと思わせておいた方が誘導もしやすいだろう。

 女はぱちぱちと瞬きをして俺を見た。


「その地図が指し示す大陸――『ファルネス大陸』は、未踏の大地だ。

 生態系も文明もわからない。冒険者の中でも、好んでそこへ向かう者は稀だ。

 ……女一人では、まずたどり着けない」


「ッ……そう、ですか」


 肩を落とす女に、俺はわざと間をおいてから続ける。


「だが――こうして出会ったのも、ある種の運命かもしれない。

 俺自身、未知の土地や遺跡、伝承には興味がある。

 俺自身も辿り着ける保証は無いが……お前が望むなら、そこまで案内してやってもいい」


「え……?」


 女は目を丸くしたあと、ふわりと微笑んだ。

 その笑顔はまっすぐで、無垢で、俺の内側まで見透かすような危うさを孕んでいた。


「ありがとうございます。とても、心強いです」


 まるで救いの手を差し伸べられたかのように、彼女は俺の言葉を受け入れた。

 欺きに気づいていない。

 疑いも抱かない。

 人を信じるということが、当たり前に根付いているのだろうか。

 そのことに、俺はわずかに眉をひそめた。

 理由もなく。


「行こう、ここにいても仕方がない。まずは外に」


「はい……!」


 俺が歩き出すと、少女がその隣に並ぶ。

 しばらく進み、崩れかけた石段をゆっくり登ると、微かに差し込んでくる陽光が目に入った。

 暗く湿った地下洞窟の終わりが、すぐそこに見えていた。

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