プロローグ:神卸の儀
昔『神の依代』と謳われた少女の記憶。
※血流表現あり
高い高い霊山の崖に立つ。その下には森の中とは思えない、奈落の底のような大きな穴。まるでお菓子を喜んで食べる子供のように口を開けている。背後にそびえ立つ大きな鳥居の奥には、祝詞を唱える大人達。
祝詞が唱え終われば、この大穴に飛び込む。人々はこれを身投げと呼ぶが、私たちの一族内では『神卸の儀』と伝わっている。
神の加護を宿す人が目隠しをし、月黄泉大神伝承のある大穴へ身投げをすることで、その人の依代を使って、神が現世に顕現する…という儀式。
朱色と白色の着物に身を包み、大きな冠を被せられた『巫女』は、この儀式を経て神の依代となる。
吹き荒れる風に思いを馳せながら空を仰いだ。目隠しの奥でもわかる程清々しい晴天。今日は『私が私としていられる最後の日』。
ふと、別れも何も告げずに置いてきてしまった朱鬼の彼を思い出す。
森の中で一人寂しく暮らしていた彼を、怪我の手当てを理由に無理やり屋敷に連れ帰った。
最初は狼のように鋭かった眼光も、一緒に過ごしていくうちに優しさを帯びた青年の眼に変わっていった。自分の強大な力が原因で、権力者達が争いが起こすことに心を痛めていた。本当はとても優しい人。
だから何も言わなかった…。
自分を抑えることの苦しさを理解している彼なら、きっと全身全霊で止めにくる。そしてその全身全霊の強力な力は、彼自身をも壊しかねない。後戻りができなくなる。
だからこれでいい。
私は神様の依代になるべく生まれてきた存在。幼い頃からわかりきっていた事。依代になることで、望みが叶うのならば──。
少し後ろから女性の啜り泣く声が聞こえてくる。
いつもお世話をしてくれた使用人である彼女の笑顔と、いろんな場所に連れ回した護衛の彼の呆れ顔が脳裏をよぎる。
…使用人の彼女は先刻大暴れしたようで、今は大人達に取り押さえられている。
『それ以上何もしないで』といいつけたので無事ではあるはず。
ごめんね、泣かせちゃって。
みんなで過ごした大切な日々を振り返る。
周りの大人達は一線引いて接してくるけど、あの3人はとても親身になって一緒にいてくれた。名前を与えられない人生に、私という存在に名前をくれた。…とても嬉しかった。本当に大好きだった。
雫が頬を伝う。自然と涙が溢れていた。後悔はないはずなのに…。
「お時間です、巫女様」
祝詞が止み、背中に手を添えられる。
「…うん、わかった」
「──様!!」
「静かにしないか!お前はまだその名で巫女様のことをお呼びになるなんて…また引っ叩かれたいのか?!」
背後が騒がしくなり、私は少し強がって大きな声で彼女に言い聞かせる。
「大丈夫だよ!…私は大丈夫。だから無茶はしないで」
「やはり嫌です!!今からでも一緒に戻りましょう?!」
彼女の泣き叫ぶ声を聞きながら、ゆっくりと背中を押されながら前へと歩き出す。
──どうか泣かないで。幸せになってね。
心の中でそう思いながら歩みを進める。
その時、耳を聾する破壊音が鳴り響いた。遠くから大人達の怒号や悲鳴が聞こえ、近くにいる大人達も騒々しくなる。
「おい!何をしてい、ぐはぁぁ!!」
豪快な打撃音と共に短い断末魔が飛んで来て消えた。そして直後、決死の叫びを上げる男性の声が聞こえる。
「オラァ!!手前ら人の命をなんだと思っているんだ!いい加減目ぇ覚ましやがれ!いい歳して神なんていう幻想に縋って…恥ずかしくねぇのか?!」
「もう護衛の仕事は終わっただろう!?何故ここにいる、がはぁ!!」
「煩え!!!そんなの俺が儀式に納得していないからに決まってるだろうが!!俺は協力するなんざ一言も言ってねぇんだよ!!!」
護衛の彼がけたたましく怒号を響かせ、それと共に勢いよく風を切る音と乾いた打撃音が響いた。背後にいた目付役も慌てて走っていったようだ。
急な出来事に身動きができないでいると、視界を覆っていた布が解かれ、数刻ぶりに浴びた日差しに目を細める。瞬きをするうちに日陰ができ視界が開けた。
朱色の勾玉の首飾りが視界に映り込む。
「──良かった、間に合って」
頭上から、心底安堵したように優しい声色が聞こえる。
少し見上げると、番傘を差してこちらを見下ろす朱鬼の彼が居た。美しい銀の長髪が風になびき、朱色の瞳の目が愛おしそうに目を細くし、私を見つめていた。
困惑と喜びが混ざりなんとも言えない気持ちになった。…認めたくなかった、彼が来てくれて喜んでしまったことを。
「どうして…っ!」
力強く引き寄せられ再び視界が暗くなる。
「どうもこうもない!何故何も言わずに行ってしまうんだ…俺は!お前が居ないと…!!」
駄目だとわかっているのに、どうしようもなく嬉しい。
だがそんな状況が続く訳もなく…必死に言葉を紡ぐ彼の言葉を遮るように頭の中で囁き声がした。
『失敗だ、仕切り直そう』
その瞬間、背中と腹に激痛が走る。棒状のものが身体を貫き、喉の奥から鉄の匂いがし血を吐き出した。
頭上から苦しそうに唸る朱鬼の彼の声がした。
「か………っ!?」
貫いたものが引き抜かれ、身体に力が入らなくなり崩れ落ちる。最初に感じた痛みは不思議となく、意識が朦朧とし始め、視界が狭くなっていく。
不意に抱き寄せられ、最後の力を振り絞り、目を見開く。
私ごと彼も貫かれたのだろうか…腹部に風穴を開け、口から血を流し動揺し、苦痛に顔を歪め、瞳を揺るがせてこちらを見下ろしている朱鬼の彼がいた。視界がどんどん揺らいでいき、狭まっていく。
「な…かない…で…」
何かを叫ぶ彼が見えたのを最後に、意識が途切れた。