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妖隠録シリーズ

妖隠録 弐 ~ 人魚

作者: 香津宮裕介


 人魚を飼っているのだ。

 と男は云った。

 尾ひれのついた話かと思ったら、どうやら裏も表もないが身も蓋もない話らしい。

 良かったらこれから見に来ないか、と誘われた。

 男と私は、以前に共通の友人を介して知り合った間柄で、さして親しいわけでもなく、お互いの連絡先も知らない。

 えらく無表情で面白味もない男で、私としても特別親交を深めようという心づもりもない。

 三人で呑んだことが何度かあったが、そのときに世間話のように、最近人魚を買ったらしいとうそぶいていたのを記憶していた。

 もちろん酔っていたし、当人は肯定も否定もしなかったので、それきりだった。

 今日偶々、行きつけの書店でばったりと出くわして、出し抜けにこう誘われたのである。

 人魚を見に来ないか、と。

(人魚は売っているのですか)

 間抜けな質問をする私に、男は大真面目な顔で高かったよ、と頷くのである。

 折角なので是非とも拝見したいと申し出ると、男は表情を変えずに、くれぐれも内密に頼むよ、と公衆の面前でのたまうのだ。

 きっと男は、誰かに認めてほしいのだろう。

 人魚を所有していること、それを購入したという財力、あるいは第三者に自分が正常であると。

 ならば私は、公正な観察者でいよう。退屈しのぎにはなるかもしれない。

 ゆらゆらと陽炎の揺らめきのなか、道路の先々の逃げ水を追うように男は歩き出した。

 蝉の音もしない時刻。書店の冷房に逃げ込んでいた私も、この短い影の世界では黙り込むしかなかった。地面に落ちた汗も染み込むまえに乾いていく。

 やがてたどり着いた男の住処は、古びた日本家屋が立ち並ぶ町内の一角にあって、とりたて立派な佇まいとは言い難く、乱雑な印象を受けた。室内が薄暗いのは、もうじき訪れる黄昏のせいだけでもあるまい。妙に蒸して、私は首筋にねっとりとした湿気を感じていた。

 冷えた茶のひとつでも所望したい気持ちであったが、男は腰も据えずに行くので、黙ってついていくしかない。白い南京玉ビーズがあちこちに転がっていて、誤って踏んでは足裏を痛めた。

 雨戸を閉め切った軋む縁側を抜け、奥座敷に通される。男の顔には汗ひとつ浮かんでおらず、どこか涼しげであった。

 洩れる光に照らされて、きらきらと埃の舞う八畳間には、これから奇術のショウでも見せられるのかと、黒い幕のかかった巨大な水槽が置いてあった。そして恐らくは酸素だの温度だのを管理するための機械が取りつけられていて、それが発する熱で室内も外と変わらぬほどに暑かった。

 それだけで部屋はいっぱいで、どうやって運び込んだのかと感心せずにはいられない。本題はこの中身であるはずだが。

 彼女はとても人見知りなのだ、とはずかしそうに男は云う。そこにきて、ようやく彼は感情めいたものを見せた。

 彼女、ということは生物学上、人魚は女であるらしい。

 なにしろ日本の人魚というのは、猿と魚の掛け合わせであるから、そこに性別を求めるのは野暮である。そういう生物であると納得できればいいだけの代物だ。

 西洋型の人魚ならば、あるいは可能性もあろうか。上半身が成人であったら、乳房で判別もできよう。もっともそれは、人権の有無を憂慮すべきかもしれない。

(ほら、ご覧なさい)

 声を潜めて男は云った。

(もう少し、近くにおいでなさい。あれは明かりをとても嫌がるから、本当は日が落ちてからのほうがよいのだけれど、なにわずかばかり構いはしないでしょう。さあ、ここのところをそっと捲くってご覧なさい。ひょっとしたらいまは眠っているかもしれない。あれは夜行性だから、いまばかしはその寝顔をこっそりご覧になるとよい。あまりの美しさにきっと見惚れることでしょう。運良く起きていたら、泳いでいる姿を見ることもできるでしょう。水掻きもエラもなく、尾ひれだけで器用にくるりと回るのです。そうして偶に、こちらを見て笑うのです。それはそれはとても可愛らしい笑顔なのです。それから、とても美しい声で鳴くのです)

 この男はこんなにも饒舌であったろうか。年甲斐もなく頬を染めて、うっとりと目を潤ませ、まるで年頃の小僧が恋を語るように。

 黒の天鵝絨ビロードはひんやりとしていた。このまま汗ばんだ肌にまとえば、さぞや心地良いであろうな、とも思えた。それよりも、この大きな水をたたえた水槽に身を投じたほうが涼がとれるだろう。そこになんの畏れもなければ、だが。

 ひんやりとした水滴の浮く硝子越し。どれだけの重量があるのか、よくこれで畳が抜けぬものだと余計な心配もする。案の定、水槽が乗ったあたりは湿気を含んで歪んでいた。

 目を凝らす。

 薄い暗がりの水のなか。

 女がいた。

 膝を抱え、卵のように丸まって。浮かんでいた。まるで大きな泡か、胎児を思わせるそれは、どうやら眠っているようだった。

 どうです、いましたか。と男が呼んだ。

 ええ、と私は答える。

 人魚でしょう。と男の声が求めた。

 ええ、と私が応える。闇の奥から目を離すことができない。

 云ったものの、果たして本当にそうであるのか自信がなかった。眠っているようだと思ったが、死んでいるようでもあったのだ。おとなしく瞼を閉じていれば、生きているのか死んでいるのか、この暗がりでは容易に区別もつかない。

 途端に薄ら寒いものが背筋を流れた。もしそうであるならば、男が罪人である可能性がよぎったのである。

 よく知らぬが男には細君がいて、とある事情で死んでしまったり殺してしまったりして、ここに死体を沈めているのだとしたら。男ひとりにはいささか広く感じる屋敷に、同居人がいたとしてもおかしくはない。あるいはどこぞの美しい娘をかどわかして、男の暗い欲望を叶えるために水のなかに埋めてしまったのだとしたら。

 死体を腐らせない薬品があれば、ずっと液体に浸して、そのままで保つこともできよう。

 無論、浅はかな私の妄想である。

 だが、人魚を飼っているとうそぶく男の話と、どちらがよほど現実的だろうか。私はまだ男を疑っているのだ。

 どこで買ったのかと訊ねながら、まだそれから目を外せない。振り返って男の顔を見るのが怖かったからだ。

 少し渋るような口ぶりで、三重の海で、と返ってきた。中也の詩では北の海はなみばかりと言うが、少し意外な場所でもある。

(真珠の養殖が盛んな場所なのですよ。古くから、貝が人魚の涙を飲み込んだものが真珠になると伝えられていまして。ほらご覧なさいな、これが本物です)

 抗えきれずに顧みると、男は両の手にこぼれ落ちるほどの純白の玉を抱えていた。

(このひとつひとつすべてが月なのです。信じられないかもしれませんが、なに、すぐに見ることができますよ。夜の光のなかで、これらが一斉に意志を持ったように輝きだすんですから。まるで、天上の月に焦がれるように、迷い子が親を探し求めるかのように。そのさまはこの世のものとも思えないほどに美しく、妖しく艶めかしい光景です。寂寥と哀憐に満ち、見る者の情緒をなんとも刺激するんです。この手にある小さな一粒一粒が月なのです。落ちたる地上の月。僕の手のなかにある。人魚は月を生むのですよ。かつて月に水があったころ、人魚は月の住人だった。太古の大昔、この星に大量の水が降りそそいだ時代に、一緒に落ちてきた生き残りなんです。人魚の雫は望郷の涙。歴史と伝説と現実のすべてがここにあるんです。僕のこの手のなかに!)

 恍惚と、陶酔したような男の熱弁。その瞳に宿っているものは見果てぬ倒錯。流れるように畳を跳ねる無数の小さな石は、白く鈍く輝きだす。天上に散りばめられた星々のように。

 水音がした気がして、私は視線を向ける。

 天鵝絨ビロードの隙間から、女が見つめていた。月のような瞳の、美しい女だった。

 嗚呼。

 ああ。

 月に人を狂わす魔力があるのではない。太陽と月が裏表のように、人の心の裏を映すだけである。そこに一切の醜さは存在しない。罪も悪もない。生物が生物であること以上の正当性があろうか。

 ただ。

 月が、そこにあったのだ。

 赤く染まった天上の銀河。それは薄汚れた八畳間でさえも美しく彩る幻。そこにたたずむ私は、さながら牽牛星のごとくであろうかと愚かな願望を思い抱く。

 だが、手に持っているのは牛飼いの棒ではない。恐らくは水槽をかき混ぜたり、ひょっとしたらこれで彼女を脅したりしていたのかもしれない物である。

 息が上がっていて、喉が渇いていた。

 水槽にもたれると、ひんやりとしていた。

 背中から濡れた白い手が伸びてきて、優しく抱きしめてくれた。

 私は目を閉じる。

 そうして、夢を見る。

 人魚の夢を。

 私といる、真夏の夜の夢。

 落ちていく。

 ちゃぽん、と水の音。

 小舟に私。青ざめた月の光に、穏やかな水面も深い青に染まっている。

 縁にもたれかかるように彼女。半身は海の中。静寂の夜半。宵待の月だけが見ていた。

(あの月はわたくしが齧ったのです)

 だからあんなにも欠けてしまって、と恥ずかしげに俯きながら。

 どんな味がしたのだと問うと、得も言われぬと、そっと細く笑うのだ。肉食魚特有の鋸のような歯を見せて。深海に棲まう古代魚のごとく彼女は、やはり同じ世界には住めない。

(嗚呼、貴方)

 女が私を呼ぶ。媚びるように上ずらせて。

 求めに応じて身を寄せる私の首に、しっとりと冷たい肌を絡めてくる。そうして耳朶に、甘く吐息を吐きかけるのである。

(貴方、どうか。お願いですからねぇ、貴方)

 私は答える。

(少しばかり、齧らせてはもらえないでしょうか)

 私は応える。

 躊躇うことなく、左耳に刺さる確かな痛み。すぐさまなぶるように、愛撫するように、滑らかな舌が這う。

 小さく嚥下する音を聞いた。私の血と肉が、彼女の血と肉になるのだと思うと、

 それはとても、

 幸せな夢だった。

 きっと私はほほ笑んでいる。うつろに。

 視界が染まる。

 赤に。

 赤に。

 青ざめた世界に赤い私。口許を赤く染めて、恍惚に笑う白い彼女。

 どこまでも美しかった。

 このまま二人で、誰にも知られず何処かへ行って、そうしてひっそりと、静かに暮らしていけたら良いと思った。

 けれども、無粋に現実は戻ってくる。

 私は暗がりの八畳間にいて、冷たい水槽を背にたたずんでいる。冷蔵庫のような唸りだけがしていた。

 血だらけの左耳を押さえながら、足許の動かなくなった男を見下ろす。争ったすえに男に傷つけられてしまったのだ。

 どれほど時間が経っていただろうか。

 ふり返るとひんやりとした水槽の表面はびっしりと水滴を帯び、闇の底の色をしていた。

 その奥にどれだけ目を凝らしても、そこで飼われていたであろうものの姿は見つけられなかった。

 天鵝絨ビロードを剥ぐと、代わりにひとのこぶし大もあろうかという白い塊があるだけであった。


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