八話・狂愛
恋なんてしたこと無かった。縁が無かったのかもしれないし、単純に嫌われていただけなのかもしれない。どちらにしろ、学生生活をしている中で恋愛なんて出来るなんて思ってなかった。
高校二年のあの日。初めて告白された。話したことも無い女子から。いつもならなにかの罰ゲームかと思うが、その時はそんな事思わなかった。人生で初めての、しかも出来ないだろうと思っていた事が起こったのだ。なんて返事しただろうか。変な声してなかったか、目は泳いでなかったか、話し方は変じゃなかったか。とにかくその告白を受け、念願の「恋愛」を経験した。
人は何かに飢えている時、それを満たす存在に出会うと、それに対して狂気的な感情を向けるのかもしれない。もちろん、当時はそんな事自覚できなかった。今もしていない。
彼女は、嫌われ者の自分にも満面の笑みを向けてくれた。自分を認めてくれた。受け入れてくれた。そんな彼女を、何としてでも自分だけのものにしたかった。今思えばあれは「狂気」だったのだろうか。
八月の日。校舎裏に彼女に呼び出される。何か話があるのだろうか。すると後ろから四人の生徒が出てきて、自分を笑ってくる。彼女は気まずそうな顔だった。悟った。嘘だった。全部、あの告白も、笑顔も。
でも怒りは感じなかった。逆に邪魔だと感じた。自分と彼女の恋を邪魔する四人が。
嘘だろうと関係ない。あの時、自分はもう「狂気」に埋もれていた。
自分はもう、彼女を「愛して」いたから。
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「成美!」
「・・・優香?」
扉の前にいたのは渚岡優香だった。来てくれた。頼れる唯一の親友が来てくれたのだ。間に合った。ストーカーが、逢坂雄一が来る前に来てくれた。咲洲は急いで鍵を開けて、渚岡を部屋の中に入れる。
「成美!大丈夫?!」
「優香!怖かったよおぉ!」
咲洲は部屋に渚岡を入れるなり抱きついて泣く。渚岡は最初は固まっていたが、すぐに優しく背中をさすってくれた。
「もう大丈夫・・・・・・大丈夫だから・・・」
渚岡は優しく声をかける。
「葉山さんは・・・・・・来てないんだ・・・・・・」
「うん・・・電話の向こうで誰かに襲われたみたいで・・・・・・来る途中で見なかった?」
「いや、見てない。私も気をつけて来たんだけど・・・・・・警察に連絡は?」
「あ、してない・・・・・・匡平くん!早く警察に連絡しないと!匡平くんが!」
慌てて立ち上がるが足が思うように動かず、転んでしまう。渚岡は咲洲を支えると優しく抱く。渚岡は咲洲の頭を静かに撫でながら言う。
「落ち着いて。・・・・・・どうして私に連絡くれたの?」
「・・・・・・匡平くんが襲われて・・・頼れる人が優香しかいなかったから・・・」
「そうなんだ・・・嬉しいな・・・そうだよね、私しかいないもんね」
渚岡は頭を優しく撫でながら言う。咲洲は胸辺りに顔を預けている状態なので顔は見えなかったが、きっと微笑んでくれているだろう。
「成美は昔からちょっと泣き虫なところあるよね」
「昔って、私たち入社からの付き合いだから二年くらいじゃん」
「いやいや、上司に怒られたり、失敗したり・・・・・・色々泣いてたじゃん」
「酷い!親友だと思ってたのに・・・」
「ごめんごめん(笑)」
渚岡と他愛もない話をする。きっと咲洲を落ち着かせるために話してくれている。渚岡も本当は巻き込まれたくないのに、巻き込まれても嫌な顔しないで来てくれた。こんな親友を持てて幸せだと感じる。
渚岡は咲洲の頭を優しく撫でる。
「今日も掃除機なんてかけてるからびっくりしたよ。全然休んでないんだもん」
「だって、最近掃除できてないし、やっちゃおうと思って・・・・・・・・・」
少し怒られてシュンとしながら答える。少し、何とも言えない感覚に陥る。体験したことの無いことを一気に体験したからだろうか。
「なんか見てると放っておけないんだよね。可愛く見えてきちゃって」
「う、うん・・・可愛いって・・・私はソッチ系じゃないよ?」
渚岡は優しく頭を撫でている。顔が見えない。何かおかしい。何か。
ふと、思い出す。
掃除機。今日、確かに掃除機をかけた。なのに何故仕事をしていたはずの、職場にいたはずの渚岡がどうして、それを知っているのか。
「ねぇ・・・優香?顔を見せて?なんか怖いよ?」
「ん?私が怖いの?どうして?」
「だって・・・・・・」
「あぁ良いね、その子犬みたいなところも好き。・・・・・・昔からそういう所が好きなんだ・・・・・・・・・『なっこちゃん』」
最後の言葉を聞いた瞬間、背筋が凍るような感覚に襲われた。なっこちゃん。それはある時言われていたあだ名だった。と言っても学校のクラスで言われていたあだ名とかではない。
ある時、その時の為だけに適当に考えたあだ名。
その時とは。
高校二年の。
ある人と罰ゲームで付き合ってた時。
その人を自分の部屋に招き入れた時。
そこで自分をそう呼んでくれと言った。
その時。
そのあだ名を知るのは、ただ一人。
「どうして・・・・・・・・・・・・・・・それを」
咲洲は顔を上げて渚岡の顔を見る。渚岡は笑っていた。目を見開き、口を吊り上げて。歯茎が見えるくらいに。笑っていた。
その顔は、その時、部屋に招き入れた日。勢いで男女の行為をしそうになったとき。
その時見た「狂気」だった。
その人は━━━━━━━━━━━━
「やっと気づいてくれたんだね。なっこちゃん」
逃げる気力などなかった。口にハンカチを当てられる。何か仕込まれていのか。ハンカチの匂いを吸い込むと、咲洲の意識は闇に落ちていった。
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有明と行寺は車を全速力で、もちろん速度違反にならない範囲の最高速で走らせていた。全てが分かったのは数十分前。ダークウェブで九年前と同じアカウントが三年前に日本行きの飛行機のチケットを購入していたのを突き止めた二人は、羽田空港から三年前のその日の空港の防犯カメラの映像を洗いざらい見ていた。
有明が見ていた画面に映っていたのは、一度だけこの事件の捜査で会っていた人物。
蛍村ではなく、咲洲成美の同僚であり友人だった、渚岡優香だった。
それが分かってから、急いで渚岡の戸籍を調べたところ、三年前に渚岡優香の名前で戸籍を違法に買っていた。それ以前は戸籍を持っておらず、ダークウェブで身分を偽造し、それでカード等も作っていたようだった。日本に入るのと同時にそれまで使っていた個人情報は全て消去し、日本に入るとすぐに戸籍を購入、その戸籍情報で暮らしていた。
すぐに渚岡優香の務める都内の商社に向かうと、既に仕事を終えて早めに帰宅したと伝えられ、恐らく最後に狙っている咲洲成美の元に向かうだろう、と目星をつけ咲洲の自宅マンションに向かった。しかし咲洲成美と渚岡優香は既におらず、咲洲の彼氏である葉山にも連絡が取れない状況だった。
渚岡の自宅を調べ、自宅に向かった。部屋に入るとリビングは玄関は普通だった。しかし、襖の向こうには大量の写真、チャック付き袋に仕舞われた髪やちり紙が大量に貼らていた。「成美が使ったティッシュ」「成美が触ったペン」「成美が使った割り箸」など。写真には成美の普段の姿はもちろん、被害者の行動を映した写真も大量にあった。
そして机に貼られた地図には、深谷市にある、彼等の唯一の接点である東京名西大学深谷高校の場所に×印がついていた。
そして今に至る。
「本当に渚岡優香が逢坂雄一・・・・・・でもどうして・・・どうやって生きてたんでしょう?」
「さぁな。どちらにしろ、逢坂雄一は生きていた。そして日本に帰ってきて、四人を殺し、咲洲成美をストーカーし、その罪を全てもう一人の咲洲成美のストーカーだった蛍村に擦り付け、警察の警備を剥がし、咲洲を連れ去った。彼氏の葉山も」
車を全速力で走らせている行寺の顔が強ばる。
「何をするつもりなんでしょう?咲洲成美は「恨み」ではなく「愛情」の対象のはず。殺すとは・・・」
「ピュグマリオンって知ってるか?」
突然の有明の問いに答えられなかった。有明は続ける。
「ギリシャ神話に出てくる男で、現実の女性に幻滅し、理想の女性を彫刻として彫る。いつしか彼は彫刻の女性に恋をするようになり、服を着せ、食事を与え、話しかけたりした。そして人間になるように願い、アフロディーテが彫刻を本物の女性にして結婚する・・・・・・普通に聞けば愛の物語だが、彫刻に恋をして本気で人間にして欲しいと願う時点で狂気だ」
有明の話を行寺は静かに聞く。
「もし逢坂雄一の咲洲成美に対する愛が『狂愛』だったら、咲洲成美が理想の女性だったら・・・・・・」
「例え殺してでも自分のものにする・・・・・・」
行寺は自分の言葉を反芻し、顔が強ばる。有明は赤色灯を車の屋根につけ、サイレンを鳴らす。
「愛なんて、聞こえがいいだけだ。その実、愛に人は惑い狂う。一種の狂気なのかもな」
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咲洲成美は目を覚ます。周りは薄暗く、古い蛍光灯がチカチカしていた。周りは何かの道具や部品、壊れた鉄柱等、無造作に置かれていた。部屋はかなり広いらしい。奥が暗くなっておりよく見えない。咲洲は身体を動かそうとする。しかし動けない。よく身体を見ると、背中に冷たい感覚と、身体中に何かを巻かれている感覚を覚える。どうやら、鉄柱に鎖で縛り付けられているようだ。そして首には犬がつけるような首輪。さながら悪さをして仕置されているペットのようだった。
しばらく動くと奥から足音が聞こえる。
「・・・・・・優香?・・・・・・優香なの?」
薄暗い人影を、古い蛍光灯が照らす。そこには、頼れる唯一の親友である渚岡優香がいた。いつもみたいに優しく笑っていた。
「目が覚めたみたいだね。ごめんね?乱暴なことしちゃって・・・・・・でもようやく会えたんだもの。渚岡優香としてではなく、逢坂雄一として・・・」
その名前を聞いてどうか夢であって欲しい、という淡い希望は砕かれた。何を言っているのか分からなかった。渚岡優香は女性で、逢坂雄一は男だ。何をどうやったら彼女が逢坂雄一になるのだろうか。それに答えるように渚岡は語る。
「本当だよ?・・・・・・そうだな・・・なっこちゃんさ、左脇腹に少し大きなホクロがあるよね・・・?」
「ひっ・・・」
そう言って渚岡は咲洲の服を破り捨てていく。薄いシャツ一枚になり、そのシャツを捲りあげていく。白い肌が顕になる。左脇腹には少し大きなホクロがあった。
「ほぉら・・・・・・あったあった・・・・・・はぁぁいいねぇ!ほんっっっと綺麗だよおぉ!」
鼻息を荒くして渚岡は咲洲の腹を舐める。舌の嫌な感覚が襲う。一層嫌悪感と恐怖を駆り立てる。
「やめてぇ・・・・・・どうしてよぉ・・・・・・どうして・・・?!」
そこまで言うと今度は顔を舐めてくる。遊んでいるのか、口は避けている。
「べろべろべろべろべろ〜・・・・・・あはははははぁぁぁ!いい匂いぃぃ!ずっとこうしたかったんだよ!ずっと!」
手を、頬を、舐める。髪の匂いを思いきり吸う。咲洲はただ悲鳴も挙げず、恐怖に溺れるしか無かった。渚岡の目は見開かれ、口は裂けんばかりに吊り上がる。その顔には最早渚岡優香の面影はなかった。
「入社した時から、隣になった時から、初めて食事した時から、遊んだ時から!君を六年越しに見つけた時から!ずぅぅぅぅぅっっっっっと!こうしたかったんだよ!」
顔を掴んで狂気の笑みで叫ぶ。咲洲はもうまともに言葉を発することはできなかった。
渚岡はしばらく反応を楽しむと、奥から何かを掴んで持ってくる。
そして咲洲の前に放り出す。それは、頭から血を流した葉山匡平だった。
「匡平くん・・・・・・・・・?・・・・・・・・・いやァァァァァァ!!」
「あはははははははは!!!!そんな顔も綺麗だよなっこちゃん!!」
「誰かぁ!誰か助け・・・?!」
咲洲はいきなり殴られる。
「どうしてそんなに怖がるのぉ?!僕は!こんなにも君を愛してるのに!九年前からずっと!愛してるのにぃぃぃぃぃぃぃ!」
息を荒くすると、渚岡は人が変わったように咲洲の頬を撫でる。
「ごめん、ごめんね?痛かったよね?・・・でも君がいけないんだよ?僕は怖くないよ?ただ、君を愛してるだけなんだよ?」
もう人間とは思えなかった。情緒はあまりにも不安定、人格がいくつもあるのでないか、と思うくらいの人の変わり様だった。
「それにその男はまだ殺してない」
渚岡は足で乱暴に葉山を仰向けにさせる。葉山は虚ろな目で咲洲を見る。
「成美・・・・・・大丈夫・・・か?」
「っ!」
咲洲は声にならない嗚咽と共に首を上下に振る。それを見て安堵した表情を浮かべた葉山を渚岡は蹴りつける。葉山は呻き声をあげ、転がる。手足は鎖で縛られている。
葉山が生きており、安心したからか少し冷静さを取り戻した。
「優香・・・・・・いや、逢坂くんなの?・・・・・・でも、どうして・・・?九年前に死んだはず・・・?」
咲洲の問いに渚岡は嬉しそうな表情を浮かべると、近くにあった椅子を持ってきて座る。
「九年前、確かに逢坂雄一は死んだ。いや、そう思わせただけだよ」
「そう思わせた?・・・・・・どうしてそんなことを・・・・・・」
そこまで言うと咲洲は渚岡の顔を見て短く悲鳴をあげる。狂気に歪んだ顔で言う。
「なっこちゃん、あの日言ったよね?罰ゲームだってバラした日。僕はそれでも愛を伝えようとした。そしたらなっこちゃん、『生理的に無理!』って言ったよね?」
「っ・・・」
確かに言った。あの時は逢坂雄一を騙した罪悪感と自分は悪くないという葛藤の末出てきた言葉だった。このままだと逢坂雄一は本当におかしくなってしまう。惨めに見えたのか。こちらから断れば終わると思って言ったのだ。そう言えば終わると思っていた。
「だからさ、生理的に大丈夫な同性になれば、なっこちゃんはまた僕と愛し合ってくれるって思ったんだよ!そういうことでしょ?!」
「そんな・・・・・・まさか・・・・・・性転換したの・・・?」
「うふふふふふふふふふ・・・・・・・・・どう?綺麗な女の人になったでしょ?」
不気味な笑みを浮かべる。どこからどう見ても女性だ。しかし近年は性転換技術も発達してきている。しかし日本にそこまでの技術はあるのだろうか。そしてそれがどうして強盗殺人に繋がるのだろうか。
「僕はあの日、女になると決めた。その為に必要なのは莫大な金。そして障害は親と逢坂雄一の生存。現金三千万円が家にあったからそれを盗んだ強盗が家族を殺した強盗殺人にしようと思った。親を殺すのは簡単だけど、問題は僕自身が警察に死んだと思わせること」
渚岡は楽しそうに話すと、咲洲に顔を寄せて語る。
「そこでなっこちゃんの弟くんに目をつけた」
「私の・・・弟?」
咲洲の弟は九年前の、強盗殺人の日に行方不明担っている。何故ここで弟の存在が出てくるのか。とてつもなく嫌な予感がした。
「僕と身長も体格も同じくらいの弟くんを家に呼び出した。お姉ちゃんに振られて辛いって言ったら飛んできてくれたよ」
くつくつ笑う渚岡を見て人間じゃないと思う。逢坂雄一と弟は一度だけ家に招き入れた時に顔を合わせていた。それからの交流は知らなかったが、どうやら繋がっていたらしい。咲洲はこの先を聞きたくないと思った。何となく分かっている。逢坂雄一が何をしたのか。
「僕は弟を家に呼び出して殺した。それを逢坂雄一として警察に認識させる。でもただ殺しただけじゃすぐバレるから、歯を砕いて灯油を撒いて家と死体を燃やした。鑑定が出来ないくらい死体の損傷が激しければ、警察は家族の人数と死体の人数で判断する。殺されたのは逢坂家の親子、強盗に入った犯人が一家を惨殺して放火した・・・・・・こんなに上手くいくとは思わなかったけどね!」
楽しそうに話す渚岡。咲洲はもう立つ力さえなかった。弟は死んでいた。無惨にも殺され、その上遺体を痛めつけられ、燃やされた。自分はそんな弟をまだ生きている、いつか帰ってくると信じていた。それが一気に、飴細工のように砕けた。
「そんな・・・・・・」
「お姉ちゃんに罰ゲームでフラれて悲しいよォ・・・って言ったらすぐに来てくれたよ。慰めてくれたから、そのまま殺っちゃった」
そう言うと葉山が唸る。渚岡は葉山の所へ向かうと懐から刃渡り十七センチ程のサバイバルナイフを取り出して葉山の胸辺りに突き立てる。咲洲は叫ぶ。
「やめて!・・・お願い・・・やめて・・・・・・何でもするから・・・・・・」
「ふーん・・・・・・・・・確かにこのまま殺すのはつまらないしねぇ・・・」
ニヤニヤしながら渚岡はナイフを葉山から話す。そして椅子に座り直すと再び語る。
「見事警察を欺いた僕は、両親の金が止められる前にダークウェブから金を盗み、架空の銀行口座に振り込んだ。そして僕はタイに行った。タイって性転換手術が発達しているからね。バレないようにそれはもうしっかりやってもらったよ・・・ほら、この胸だっていい出来でしょ?」
自分の胸を掴みながら話す。咲洲はあまりにも突拍子もない話で内容が頭に入ってこなかった。ただ一つ、彼女は、彼は咲洲に近づいて自分のものにする為に狂気とも呼べる行動をしていた事だけは理解出来た。
「完全な女になるにはやっぱり一年二年はかかるよね。それに顔も整形したりするとさらに時間はかかる。でも苦じゃなかったよ。だってこれを乗り越えれば僕はなっこちゃんに愛してもらえるって分かってたからね!」
笑いながら語る。ナイフを手で弄びながら咲洲の顔に迫る。
「そうして六年が経った。その間海外から彼奴らを探そうとしてたけど、そんなスキルないし、日本で探した方が手っ取り早いって思ったから三年前に日本に戻ってきた。・・・・・・でもなっこちゃんだけはずっと見てたからね!ずぅぅぅぅぅと!見てたからねぇぇぇ!」
そう言われてふと思い出す。確かに何度かバンコクやサウジアラビアから携帯に電話がかかってきたことがあった。その時はただの間違い電話だと思っていたが、もしかしたらその中に逢坂雄一の電話があったのかもしれない。
「三年前って・・・優香は大学生だって・・・」
「嘘に決まってるじゃん?!信じちゃうなっこちゃん可愛いねぇぇぇ!!」
咲洲の顔にキスをしまくる渚岡。すると渚岡の足元で音がする。それは葉山が這い寄って来て渚岡の足を頭で殴った音だった。
「やめろ・・・・・・成美に・・・・・・手を出すな!」
渚岡はしばらく無表情だったが、すぐに怒りに顔を歪ませ、葉山を蹴りつける。
「邪魔なんだよ!馴れ馴れしく僕のなっこちゃんを呼んでんじゃねぇよ!テメェなんかがなっこちゃんに相応しいわけねぇぇぇだろ!本当はすぐにぶっ殺して内蔵抉り出して豚の餌にしてやってるところを生かしてやってるんだから感謝して黙って寝てろぉぉぉ!」
殴り、蹴り、物を叩きつける。鈍い音と葉山の短い呻き声が響く。
「フー!フー!フー!フー!」
息を荒くしながら咲洲に向き直る。渚岡は再びニコリと笑うと葉山を蹴り飛ばして咲洲の方へ戻る。
「匡平くん!」
「感心しないなぁ・・・あんな奴にお熱なんて・・・・・・僕は!ずぅぅぅぅぅっっっっっと!高校生の時から!愛してるって言ってるだろォォ!」
「やめて!私はあなたなんか好きじゃない!」
そう言われて渚岡は泣きそうな顔をする。
「どうして?僕はなっこちゃんの為なら何だって捧げられるよ?」
「やめてよ・・・・・・もうやめて・・・こんなの愛なんかじゃない・・・・・・」
ボロボロと涙を流しながら渚岡に、逢坂雄一に訴える。
「愛は!他者を傷付けることでも!自己犠牲でもないの!お互いを本気で好きになって、全てを受け入れられる覚悟があるから愛なの!自分の愛だけを押し付けてそれ以外を拒否するなんてそんなのただの自己中だよ!」
咲洲の声が響き渡る。渚岡はそんな咲洲を見て、ふっと笑う。
「何言ってるんだい?」
静かに言う。笑いながら。
「先に僕を裏切ったのは君だろ?どうして僕が怒られるの?誰が悪いの?あの時騙したのは誰?君だよねぇ?なっこちゃんだよねぇぇぇぇぇ?!」
渚岡は狂気の形相で咲洲に近づき、ナイフを頬に突き立てる。チクリと鋭い痛みが咲洲を襲う。
「被害者面しないでよ。自分は言われただけ、乗り気じゃなかった。だから自分は悪くない。自分のことを棚に上げて僕を悪者にしないでくれる?!どんな理由が!心境があろうと実際にやったのは君だろ!」
「っ!」
そうだ。あの時から、逢坂雄一が死んだと思った日から。罪の意識に苛まれていた。自分は悪くない。言われただけ。騙すなんて乗り気じゃなかった。そう言い聞かせるしかなかった。じゃないと本当に死にそうだったから。でもこれでわかった。全ては自分があの日逢坂雄一を騙した事から始まったのだ。人の恋心を踏みにじり、人生を踏みにじった。殺されても仕方ない。そう思った。
しかし。
「でも僕は君を殺さない」
目の前には優しく笑う渚岡。もうその笑顔も狂気にしか見えなかった。
「だって僕は・・・・・・・・・君を愛しているから」
満面の笑みで言う。もうダメだ。何を言っても無駄なのだ。逢坂雄一の恋は、正気の沙汰では無い。人を四人も殺すに至った程の、ただの狂気だ。
諦めかけた。
すると、足元から葉山の声がする。
「ふざ・・・・・・けるな」
「・・・・・・あぁ?」
殴られて、蹴られて。身体中が激痛に襲われているはずなのに。それでも身体を起こす。渚岡を、逢坂雄一を真っ直ぐ見る。
「僕は愛してるから・・・・・・お前も僕を愛せってか?ははっ・・・・・・笑わせるなよ・・・気付いてないのかよ・・・そいつが・・・・・・・・・咲洲成美が今!心から愛しているのはこの俺だ!お前じゃない!俺なんだ!」
咲洲は涙を流す。逃げてもいいはず。自分は関係ない。咲洲成美が過去に勝手にやったことだと。逃げてもいいはずなのに、葉山は逃げなかった。「恋」ではできない事だ。できるならば、それはきっと「愛」だった。どんな時でも、どんなに醜い過去があろうとも。それら全てを受け入れる。押し付けるのではなく、認めてもらう。
葉山はきっと咲洲が過去に騙したことを許さないだろう。しかし見捨てはしない。それを見つめ直し、罪を認識し、一緒に乗り越える。ただ許す逢坂雄一の愛とは違う。自分を一方的に押し付ける愛とは違う。
そこには、ただ、「相手を大切にしたい」という紛れもない愛があった。
渚岡は、顔を歪ませる。今まで以上に。この世の全ての憎悪を一つに集結させたようなおぞましい狂気に顔を歪ませる。
「うざいんだよ・・・・・・・・・何の苦労もしてないテメェなんかに!人に愛されたテメェなんかに!僕の!愛を!知ったように語るなぁァァァァァァァ!!!!!!」
涙を流し、怒りに顔を歪ませ、時折笑いながら叫ぶ。もう人の顔ではない。ただの悪魔に見えた。そして渚岡は葉山に近づくと。
そのナイフを振り上げ、左腕に深々と突き刺した。
「ああああああああぁぁぁ!!!!」
「あはははははははははははははははははは!!!!」
「匡平くん!!!やめて!!お願い!!やめて!」
身体を精一杯動かす。背中が、腕が、足が擦れる。鎖で皮膚が裂ける。しかし痛みなど感じている余裕はなかった。
渚岡はナイフを左右に動かす。狂気の笑みで葉山を見る。
「そんなに愛してるなら!咲洲成美を助けないなら!今!ここで死ねぇぇぇ!自分で心臓を刺して喉をかっ捌いて死ねよ!」
「っ!!」
「大事なんだろ?咲洲成美を助けたいだろ?愛してるんだろ?なら死ねるよなぁ?彼女の為だったら。『愛』があるなら!その命を犠牲にしてでも助けられるよなぁァァ?!」
渚岡は葉山の左腕からナイフを引き抜く。痛みに顔を歪ませる葉山の上半身を起こし、手の鎖を解こうとする。そして懐から拳銃を取り出す。葉山に反撃されるのを防ぐ為だろう。そして渚岡は葉山にナイフを握らせる。
「さぁ、早くしろよ。助けたいだろ?死なせたくないだろ?お前が死ねば咲洲成美は助かる」
拳銃を葉山に向かながら下がり咲洲の所までくる。そして咲洲の頭に拳銃を当てるとそのまま鎖を解いて歩けるようにする。
「お前が今ここで死ねば!咲洲成美は無事に帰してやるよ!なぁ!」
「ひぃぃ!」
「成美・・・!」
拳銃を突きつけられ短く悲鳴をあげる咲洲を見て葉山は苦渋の顔をする。ナイフの刃に映る自分の顔は、とても醜かった。死ぬのが怖い。もちろんそれ以外に助かる方法があるのならそちらをとる。でも相手は拳銃を持っている。ナイフを捨てて襲いかかっても殺されて終わりだ。
「早くしろよ・・・・・・お前が死ねば咲洲成美は助かる。逃げれば殺す・・・・・・もう選択肢はないんだよ・・・・・・愛は、犠牲の上に成り立つんだ!誰かを愛した時点で、他の愛していた人を犠牲にする!綺麗な愛なんて存在しないんだよ!」
逢坂雄一は叫ぶ。
違う。愛は犠牲の心なんかじゃない。血が流れることがあっては決してならない。
それに葉山が今ここで死んでも逢坂は恐らく咲洲を連れていくだけだ。葉山が死ねばもう邪魔するものはいない。どっちにしろ絶望的状況だった。
「成美・・・・・・俺は、ダメな男だ。助ける、なんて豪語しておいて結局この様だ・・・・・・許してくれ・・・」
葉山はナイフを首に突き立てる。その顔には、涙が伝っていた。
「やめて・・・・・・お願い・・・・・・やめて・・・・・・私は・・・・・・匡平くんが死んだら私は・・・・・・・・・」
生きる意味がなくなる。その言葉が出てこなかった。
逢坂雄一は笑う。口を吊り上げる。裂けんばかりに笑う。目を見開き、息を荒くする。
「さぁ・・・・・・・・・・・・」
葉山は目をつぶる。ナイフに力を込める。
そして、呟いた。
ごめん、と。
「死ねぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
「やめてぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!!!!!!!!!!!」
ただ、絶叫した。
その絶望に。
その狂愛に。