一話・ストーカー
「恋に狂うとは、ことばが重複している。恋とはすでに狂気なのだ」
━━━━━━━ハインリヒ・ハイネ
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六月。寒さが和らぎ、段々と夏の訪れが感じられるような気温になった。ピンクの花を咲かせた桜の木は散り、新たな命めある緑の葉をつけていた。
咲洲成美は都内の商社に勤めるOLだ。就職してから早三年ほど経ち、本人は仕事に慣れたと思っているが、周りからしたらまだ初々しいらしい。そんな初々しい咲洲にも彼氏がいる。葉山匡平は都内の会社に勤める会社員であり、友人の誘いで行った合コンで知り合った。今は二人で同棲している。忙しい日々ではあるが、それ以上に毎日が充実していた。
「うー、東京の電車ってまだ慣れないなー・・・」
「大学も東京だっただろ?」
「そうだけどさー」
咲洲と葉山は職場が近いのでよく一緒に通勤している。満員電車に揺られながら最寄りの北千住駅から新宿駅に向かう。
「はー、私が専業主婦にでもなれば満員電車になんか乗らなくても済むのになー」
「ははっ、今は無理だな・・・・・・もう少しだけ待っててくれな?」
しれっと逆プロポーズ的な事をした咲洲を葉山はのらりとかわす。付き合い始めて二年になる。もうそろそろ結婚も意識しても良いのではないか、と話してはいるのだが、まだ経済的にも余裕がないので中々踏み切れないでいる。
ムスッとする咲洲に葉山は思い出したように問いかける。
「成美、そういえばアレ、どうなった?」
「え?・・・あぁ、アレね・・・まだ続いてる」
葉山に問いかけられ少し気持ちが沈む。しばらく考え込んでから葉山に笑いかける。
「朝からこんな辛気臭い話はやめよ!・・・あ、新宿駅着いたから・・・降りるね」
「おう・・・・・・気をつけてな」
咲洲は話題から逃げるように電車を降りる。寂しそうにこちらを見る葉山の顔を見る。電車が動き出し、その顔が見えなくなる。
「はぁ・・・アレさえなければ、今人生で一番幸せなんだけどなぁ・・・」
少し落ち込む。しかし朝からこんなに落ち込んでしまってはいけない、と頬を叩き、職場に向かう。
咲洲の職場は新宿にある商社だ。ビルのワンフロアにある職場に入る。おはようございます!と元気よく挨拶すると、周りの人も挨拶をし返してくる。デスクにつくと、隣の女性が肩を叩いてくる。
「おはよ!・・・ちょっと元気なさげ?」
「おはよ、なんでそう思うの?ってか毎朝肩叩いてくるのやめてよ優香・・・」
「いいじゃん!景気づけだよ!」
そう言って明るい笑顔を向けてくる女性は同僚の渚岡優香だ。咲洲と同時に入社した同期で同い年なのだが、咲洲と比べて渚岡は大人の女性感があり、周りの同僚からも姉的な存在としてよく頼られている。実際に仕事が出来るので少し悔しいが。
「とまぁ言ったけれども。何か悩みでもあるの?話だけは聞いたげるよ」
自分よりもとても明るくて人に好かれやすくて、一言で言えば陽キャの渚岡がこんなにも気にかけてくれる事に感謝しながら、その好意を無駄にしたくないと思い、素直に相談してみる。
「うん・・・その、前話したと思うけど、アレがまだ続いてるんだ」
「あぁ・・・・・・『ストーカー』がまだ続いてるんだ」
渚岡が納得したように呟く。
そう、咲洲と葉山が通勤中に話していた「アレ」とはストーカーの事だった。
一ヶ月ほど前、咲洲が仕事から自宅に帰ると、自宅ポストに一通の手紙が入っていた。差出人名は書いておらず、中を見ると大学ノートの一ページにびっしりと咲洲への好意の言葉が綴られていた。当初はイタズラかと思っていたが、次の日、次の日も仕事から帰るとポストに必ず白い封筒が入っていた。内容は大体「今日の服綺麗だね」とか「化粧がちょっと濃いよ」という内容だった。そして一週間経った頃、封筒には写真が入っていた。その写真には通勤途中の、パジャマ姿の咲洲が隠し撮りされていた。
「それで、彼氏さんと警察には言ったの?」
「言ったよ。彼氏はすぐに警察に行こうって行ってくれて、警察に行ったんだけど・・・」
警察に駆け込み、手紙と写真を見せたが、「様子を見ましょう」だの「すぐには動けない」の一点張りだった。桶川ストーカー殺人事件以来、ストーカー規正法が成立し、ストーカー行為が違法になったが、それでも証拠が不十分であったり、何より警察自体が忙しかったりするとまともに対応されない事が多い。この場合、警察が動く場合はストーカー行為が事件などに発展した場合。つまり傷害や殺人事件にならないと動かないのだ。ストーカー規正法の意味が無いじゃないか、と葉山は憤っていた。結局、葉山と駅で待ち合わせして一緒に帰るという対策を講じているに留まっている。
「ダメじゃん警察!何か起きてからじゃ遅いのに!」
「まぁ、警察も忙しいんだよきっと・・・ほら、この前だって都内で殺人事件起きてたし・・・」
「もしそのストーカーが成美の事を殺そうなんて思ってたら・・・」
「や、やめてよ!怖いから!」
渚岡の肩を思い切り叩くと、すごい音が響き、皆が一斉にこちらを振り向き、渚岡が悶えていた。
「だ、大丈夫か?喧嘩はやめてな?」
「す、すみません・・・喧嘩じゃないので大丈夫です・・・すみません」
上司に心配され、縮こまる。肩を痛そうに抑える渚岡が立ち直ると咲洲の肩に手を置き、励ましてくる。
「私にも何か出来ることがあったら言ってね。まぁ私に出来ることなんてたかが知れてるけどさ」
ありがとう、と礼を言うと渚岡は笑顔を浮かべて仕事に取り掛かる。持つべきものは友だな、と思いながら仕事に向かう。
友。そういえば高校時代、人生で一番楽しい時間を一緒に過ごした友人達を思い出す。一緒に馬鹿やって、怒られて。懐かしい気持ちになりながら彼等は今、どこで何をしているのだろうか、と考える。
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警視庁捜査一課の有明悟は朝早くから駆り出され、欠伸をしながら現場にいた。すぐに不謹慎だと感じ、欠伸を誰にも見られていない事を確認してホッとする。すると後ろから若い男性に声をかけられる。
「有明先輩、欠伸してるの僕見てましたからね」
「行寺!おま、見てたのか・・・てか居たなら居たって言えよ。全然気づかなかったわ」
「なっ!僕はそんなに影薄くないですし、第一ずっと声をかけてました!」
そうかぁ?と間抜けた声をだして後輩に叱られる。行寺将大は有明の後輩で生真面目な性格をしている。眼鏡もしてるしいかにも生真面目だ。有明も一見だらしなさそうに見えるがこれでもそれなりに優秀な刑事ではあるのだ。
「それより早く行きましょう。鑑識も終わったみたいです」
「おう」
行寺に着いていく。有明と行寺は品川区の勝島運河にある広場に来ていた。その広場から運河の近くに行くと柵がなかった。これで子供でも落ちたらどうするんだ、と思った。しばらく歩くと運河の横にある遊歩道から運河にかけてブルーシートが掛けられていた。ブルーシートをくぐると地面に灰色のシートが敷かれ、その上に四人の遺体が横たわっていた。
「自殺・・・って訳ないよなぁ・・・一気に四人も」
「えぇ、四人とも腹部から胸部にかけて複数の刺し傷が確認できてます。殺人ですね」
「どこか別の場所で四人を殺害して、川にまとめて遺棄ってところか?」
「まぁ一人ずつ殺人したとして、まさか一人ずつ川に遺棄したとは考えにくいですよね。それならすぐ見つからなかった方がおかしいですよね」
遺体に目を向ける。特に皮膚がただれていたり溶けていたりしてはいないので、遺棄されてからそんなに時間は経ってないのだろう。
「死亡推定時刻は?」
「まだ定かではありませんが、恐らく死後一週間は経過してるだろうと」
「身元は・・・分からないか」
「えぇ、身元が確認できるものはまだ見つかってません。ちなみに凶器は遺体のすぐ側に浮かんでました。・・・第一発見者は近くに住む住人で、散歩をしていたところ、何か大きなものが浮かんでいるものが見え通報したそうです」
話を聞きながら遺体を観察する。全員服は着せられている。服は真っ赤に染まっていた。刺し傷を辿るように腹部から胸部に視線を移していく。顔を見たところで少し違和感に気づく。
「おい、これ・・・」
「あ、気づきましたか。四人の遺体にはもう一つ共通点がありまして・・・」
そこまで聞いて有明は答える。
「舌が、抜かれてるのか?」
「正確には切断されてます。生活反応は無かったので恐らく死後に切断されたと思われます」
つまり猟奇殺人。有明が最も苦手とする事件だ。
「何か意味があるんだろうなぁ。宗教的な何かか、それとも犯人特有の理由か」
「どちらにせよまともな人間じゃないですよ」
嫌悪の表情を見せる行寺の顔を見て苦笑いする。
「この世にまともな人間なんていねぇよ。人は誰だって殺人犯になりうるんだ。そう考えたら、この事件を『特別におかしな奴の犯行』で片付けていいのかね」
「え、だっておかしな奴だから理解出来ないんでしょう?」
行寺の至極真っ当な意見を受け、曖昧な笑みを浮かべて行寺の背中を押して現場を後にする。
捜査本部が設置され、捜査会議が開かれた。
主に殺害方法や死亡時期、身元の確認等が行われた。
「凶器は遺体のそばに浮かんでいた刃渡り十七センチのサバイバルナイフ、死因は失血性ショック死。遺体の身元を確認できるものはまだ見つかっていません」
捜査員が報告すると捜査一係長が問いかける。
「遺体は舌を切断されていたということだったが、その理由などについては?」
「その点についてもまだ判明していません。宗教的な理由か、犯人特有の理由か。両方の線で調べています」
「よし、まずは被害者の身元の確認を急げ。それと同時に舌を切断した理由についても調べる。以上」
管理官の呼び掛けに捜査員たちは勢いよく返事をする。
有明と行寺は会議室から出ると割り当てられた身元の確認に取り掛かる。
「ここ数週間で都内での行方不明届とかを調べていくか」
「凶器とかルート調べなくていいんですか?」
「あの凶器はどこにでも売ってるような市販品だし、今はネット通販とかあるからな。いくらでも偽造できるぞ」
とにかく地道に行くんだよ、と行寺を励ます。
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咲洲は仕事が終わり、帰宅の準備をしていた。同じく帰宅の準備をしていた渚岡から声をかけられる。
「今日一緒に帰る?まぁ駅までだけど」
「ううん、そんなに心配しなくて大丈夫だよ。それにもし一緒に帰ってるところをストーカーに見られてて、優香に危険が及んだらダメだし」
「気にしなくていいのに・・・まぁ成美は彼氏さんが守ってくれるか!」
このこの!と肘で脇腹を続いてくる渚岡を跳ねのけると職場を後にする。
「じゃまた明日ね」
「気をつけて帰りなよー」
エレベーターに乗り込む。
新宿駅に着くと、ホームで既に葉山が待っていた。
「あれ?今日は早かったね」
「まぁな。それより早く帰ろう。見てるかもしれないからな」
手を引かれ、電車に乗り込む。
帰宅ラッシュの満員電車に揺られ、北千住駅に着く。北千住駅から徒歩でマンションに向かう途中、何度か後ろを向いたりしたが、人の気配はない。
結局何事もなく、部屋の前に辿り着く。
「今日は誰もいなかったな・・・」
「うん・・・」
すぐに鍵を閉めると、郵便ポストを確かめる。すると手に嫌な感触が感じられる。手紙だ。
「ねぇ・・・匡平」
「ん?・・・・・・マジか・・・」
二人で仲良く絶句する。リビングで二人で手紙を開ける。まるでパンドラの箱を開けるような感覚だった。もちろん開けたことなどないが。
中には一枚の手紙と、写真が入っていた。
「え?!この写真、さっきの帰り道の・・・」
「ってことはさっき写真を撮られてすぐにプリントされて投函された・・・?」
ストーカーはすぐそこにいる。気味の悪い感覚が背中を襲う。
「手紙には?」
手紙を恐る恐る開くと一文。
「君にその男は相応しくない。何故だ」
言葉を無くす。その男とは恐らく写真に写っていることから察するに葉山の事だろう。つまりストーカーは葉山に目をつけた。
「どうしよう・・・このままじゃ匡平くんが?!」
「・・・もう一度警察に行こう・・・ここまで証拠が揃えばいくらなんでも動いてくれるだろ!」
急いで支度を始める葉山を見る。自分のせいで彼氏に危険が及んでしまうかもしれない。しかし今はとにかく警察に行かなければ。
誰かに見られている。
人間不信になりそうになりながら警察に向かう。