8.星空の中、これまでのことを振り返る
――それは、オルシーが初めて病院を訪れた日の記憶。
「ここはね、みんなで祈ってみんなで過ごす、そんな病院よ」
故郷の教会の神父さんからダーラを紹介されて。そのダーラに連れられて初めて病院に行ったとき、ダーラはそんな風に病院のことを説明してくれる。
そのままダーラに付き添われて、簡単な診断を受けて。その結果を聞いたダーラは、子供の頃の私にもわかるくらいに、とても悲しそうな顔をして。それでも、包み隠さずに、幼かった私に絶望的な診断結果を教えてくれる。
その頃はまだ、会ってまだ一日も経っていない優しそうなシスターが、なんでそんな悲しそうな顔をするのかもわからなくて。
――だって、わたしは「祝福されない子」だから。「大人になれない」なんて聞いても、それが当たり前のことだと、そんな風に思っていた。
診察も終わって、病院の礼拝室でダーラと祈りをささげた後、そのまま入院して。次の日には仲良しの子もできて。その日の内に、他のみんなは「治る」ことを教えてもらう。
本当は、自分が治るかどうかは言ってはいけないことになっているんだけど、そこはみんな子供よね。新しく来た子が「大人になれない」なんて、思ってもいなかったのだろう。だから、私が「私は大人になれない」って言ったら、周りの子供たちも、ほんの一瞬だけ静かになって。
でもみんな、すぐに元に戻って。村で「祝福されない子」と知れわたった時とは違う、みんなのその態度が少し嬉しくて。たくさんの子供たちと、いっぱい話をして、遊んで。最後に一つ、ずっと年上の男の子から、まるで誰かに宣言するように、お祈りについて話してもらう。
「僕たちはみんな、同じものを食べて、同じように遊ぶ。それは君も同じだ。だから僕たちは、他の子たちと同じように、君の元にも『ささやかな幸福』が訪れることを祈らせてもらうよ」
――その言葉は、オルシーが初めて触れた、この病院の中だけにある、少し変わったお祈りの決まりごとだった。
◇
「そうね、『治りますように』なんて、祈れる訳ないわよね」
あれから何冊も本を読んで。自分がかかっている病気のことも知って。どうして「ささやかな幸福が与えられますように」なんて祈るようになったのか。どうしてもっと普通に「元気になるように」と祈らせないのか。嫌という程理解をする。
治らないのだ、私は。治療方法のない病気とはそういうことなのだ。そのことは、これまで何冊も本を読んで、病院の人たちにも話を聞いて、本当に、これでもかというくらいに思い知らされた。
――教会なんて、宗教なんて、みんな嘘つきだ。今までずっと思ってきたことが頭をよぎる。
私があの病院に行って、知ったことは三つある。一つ目は、私が「祝福されない子」なんかじゃない、普通の人間だということ。二つ目は、どんな人間だっていつかは死ぬということ。そして最後は、死ぬことは怖いことではないと、教会の人たちが私に教えてくれようとしていること。
――死んだらどうなるなんて誰にもわからない。なのにあの人たちは、ダーラは、「死に絶望してはいけない」と思っている。死に絶望したら、今を精いっぱい生きることなんかできない。だから、死に絶望しないように、あの人たちは私たちに嘘をついているのだ。自分たちも一緒に信じ、祈ることができるような、善意で塗り固められた嘘を。
あの病院の人たちは、私のような「治らない患者」を「大人にする」ことを諦めて。それなのにまだ、あの人たちは、諦められない何かを抱えて必死になっている。祝福されない子供から大人になれない子供に言葉を変えて、一番大事なことは何もできないままで。それでも、何かできるはず、もっといい方法があるはずと信じて、今も戦っている。
――大人になれない私を置き去りにして。大人になれない子供を置き去りにして。「死ぬ怖さ」もわかっていないような人たちが何を言っているのかと、今までずっと、そんなことを思っていた。
でも、それはきっと、この遺跡にたった一人残った人も一緒で。これから起こるであろう大災害に立ち向かうために、たった一人、世界の果てに、世界で一番大災害から遠い場所に来てしまった一人の科学者。その人は、「大災害に立ち向かう」ことをあきらめて、それでもあきらめられない何かを抱えて、こんな場所にきてしまったのだ。
大災害に立ち向かう多くの人を置き去りにして。大災害から逃れる術のない人を置き去りにして。たった一人、何かを実現するために大災害の恐怖から逃げ去って。それでも、精いっぱい生きて、その抱えた何かを実現したんだ。
――ああ、そうだ。こんなことは当たり前のことで、ずっと前からわかっているのだ。
病院の人たちも、ダーラも、みんな今を精いっぱい生きてるんだ。だから私にも、今を精いっぱい生きなさいと、そう言ってるだけなんだと。
◇
星空の下、物思いにふけっていたオルシーは、揺れ動く感情に頬を濡らし。時に漏れそうになる嗚咽を抑え、深呼吸をして、まぶたを閉ざして。そうやって、荒れ狂う感傷を抑えながら。それでも、今ぐらいは良いかと、次から次へと浮かびあがる思考に身をまかせる。
ここにいた科学者は、どうして「記録を収めた施設を丸ごと空に避難させよう」なんて大それたことを考えついたのだろう。どうして、そんなとんでもない計画を実行に移そうだなんて思ったのだろう。
施設を建設している間、不安は無かったのだろうか。空の上へと運んでいる間、何を思ったのだろう。空の上で何を思ったのだろう。
そうして、空の上に上がった科学者は、故郷を遥か遠くに眺めながら、何を想ったのだろう。そんなことをオルシーは考えて。……ふと、その科学者はきっと、遥か空の上から、地上に残った苦難の道を歩く人たちに、ほんの微かでもいい、絶望に塗りつぶされないような「何か」が訪れるよう祈っていたのではないかと、そんな考えが頭をよぎって。
――そう思ったとき、オルシーは、自然と両手を合わせ、祈りを捧げていた。
◇
星空の下、オルシーは祈りを捧げる。それは、教会の敬虔な信者としての祈りであり、同時に、一人の人間としての純粋な祈りでもあった。
◇
貴方の願いは叶いましたか? 私には、それを知ることができません。でも、貴方の残してくれた「聖典」は、確かに生き残った人たちの大きな力になりました。
貴方が何を望んだのか、何故「聖典」を残してくれたのか、私にはわかりません。だけど、ひとつだけ、私からも祈らせてもらって良いですか。
――もし、あなたの願いにその先があるのなら。何かを願って聖典を残したのなら。貴方のその願いが叶い続けますように、と。
星空の下で、オルシーは、静かに祈る。それは、今までに会ったこともない人に向けた祈りで。今まで親しかった人たちに送った祈りと同じくらい、真摯な祈りで。
――同時に、その祈りは、自身も自覚していない、過去に生きたその人への、感謝の祈りでもあった。
◇
私は本当に、精一杯生きているのかしら。祈りを終えたオルシーは、星空を見上げながら、そんなことを想う。
過去から記録を残すためだけに残りの生涯を孤独に生きた人がいる。直せない病気を抱えた患者を前に、それでも何かをしようと必死になっている人もいる。
きっと世の中には、「どうにもならないこと」が数えきれないほどあって、みんな、「どうにもならないこと」を抱えながら、それでも前を向いて生きているのだ。
――精一杯生きるとは、きっとそういうことなのだ。
そうやって、できるだけのことをして。それでも、どうしようもないことがあって。それでも祈らずにはいられなくて。だからせめて「ささやかな幸福」を祈るのだ。「大災害が来ないように」なんて祈っても無意味だから。「治りますように」なんて祈っても無意味だから。
――その祈りは、私のように、精一杯生きているかわからないような人が相手でも、きっと意味がある祈りだから。
今まで私は、さまざまなことを祈ってきた。誰かに相談されたら、その人のことを祈ってきたし、親しいだれかが頑張っている時は、その頑張りが報われるよう祈ってきた。
ここにきたばかりの頃はお父さんとお母さんのことを祈って、ケイシーが来てからはケイシーのことを祈って。……思えば私は、今まで「自分のために」祈ったことはほとんど無かったような気がする。
これまでたくさんの本を読んできて、いろんな人の相談も受けて。それでも、私自身には、願いがほとんど無かった。何も願いを持てなかった。
――いや。一つだけ、やりたいことはあるのだ。ここに来てみたいと思ったのは、その思いがあったからだし、ここに来て、残された記録をみて、その気持ちはますます強くなった。
私は、自分が生きた証を残したい。何でも良い、何かを、……いや、できれば物語を残したい。私が何を考えて生きてきたのか、後々にまで残るような物語を。
今まで、心のどこかで、それは我儘ではないか、そんなことを考えていた。きっとみんな協力してくれる。応援してくれる。でも、それで良いのかと、ずっとそんなことを考えていた。何もできない私が、誰かに迷惑をかけてまで自分のやりたいことをして良いのだろうかと。
――そうじゃない。きっと逆なんだ。私が自分のために精一杯何かをしないと、誰も私のことを祈れない。「ささやかな幸せ」以外、祈ることができなくなってしまうんだ。
私は本当に、ケイシーの祈りにふさわしい人間だろうか。そんな考えが頭をよぎる。きっとケイシーは、私が何かを真摯に願えば、その願いが叶うことを一緒に祈ってくれる。だけど、私が何かを願わない限り、他の人も祈れない。――他の誰でもない、私がケイシーに「ささやかな幸福」を祈らせているのではないか、と。
瞳を閉じて、ケイシーのことを思い浮かべる。里帰りの前に楽しそうに準備をするケイシーの姿を。返ってきた後、楽しそうに両親のことを私に話すケイシーの声を。――本当はきっと、私と一緒に両親に会いに行きたいはずなのに、そんなことは一言も言わずに、黙って一人で里帰りするケイシーのことを。
きっと私は怖いんだ。あの人たちが今の私を見てどう思うのか。そんなことを思いながら、自分の手を見る。骨ばった、肉付きの悪い、皮ばかりの手。少し動いただけでガタがくるような脆い身体。もう歩くことすらままならない両足。
こんな自分を本当に両親は受け入れてくれるのか。拒絶されたらきっと、私の中にある大切なものが一つ壊れてしまう、それがわかっているから怖いんだ。でも……
――そうね、やりたいことをやってみよう。そうして、ケイシーが喜んでくれるのなら、一緒に両親に会いに行こう。
オルシーは心の中で、そう決意をする。――そのときにはきっと、私も胸を張って両親に会いに行けるようになっている、だから、まずは自分のやりたいことをやろう、と。
◇
オルシーは、目を閉じたまま、その場に佇んで。気持ちが落ち着いていることを確認して。涙を拭いて、大きく深呼吸をして。最後に、上体を反らすように背伸びをして。フィリが眠っているであろう小屋に戻るために、車椅子のハンドルを回し始める。
やがて小屋の前についたオルシーは、静かに小屋の扉を開けて。寝台に車椅子を寄せて、身体を乗せようとしたところで……
「――オルシー?」
布団に包まっていたフィリに、そっと声をかけられる。