どこかで狂った始まりの風景、その終わり
――それは、今から二十年以上も前の話。
ウェス・デル研究所の第一研究室。不審者も逃げ、明かりも消えた暗闇の中。シェンツィ・アートパッツォは人を呼ぶために、暗がりの向こうにうっすらと見える自分の机、その下にある警報装置まで行こうと最後の力をふりしぼり。――壁際にまで移動したところで、それ以上移動する力が残されていないことを悟り、壁際にもたれかかる。
(……やっちゃった、なぁ)
そのまま力なく腰を下ろしたシェンツィは、無理に身体を動かすことをやめたからだろうか、やや軽くなった痛みに、後悔の思いを抱く。
(――なんで声なんかかけたの。我ながら、無能も良いところだわ)
たまたま忘れ物を取りに来ただけだった。第一研究室に誰かがいることに気付いた時、相手はまだ気付いていなかった。わざわざ声なんかかけずに、そのまま立ち去って警備員の詰め所に行って、人を呼べば良かったのだ。――あんな、研究結果が書かれた「紙切れ」なんかはほっておいて。
(あんな紙切れなんかのために声をかけて、危険を冒して……、……なんのことはないわね、バカバカしい)
その時のことを思い出して、突然、自分がなぜこんな危険なことをしたのか思い当って、シェンツィは、心の底から呆れたように、笑う。――笑うしかないだろう。なにせ、研究成果が奪われることを嫌ったのではなく。ただ、私「たち」の研究成果を手荒に扱われることに我慢がならなかった、それだけの理由でこうなったということに、ようやく気付いたのだから。――そして、手にしていた銃を奪われたことで我を忘れ、無謀にも飛び掛かっていったのだから。
(アストクン、怒るだろうなぁ)
暗がりの中、痛みと意識が遠ざかっていく中、シェンツィは一人思う。
始めはたまたま、研究のサンプルがこの国にいることを知って、会ってみようと思っただけだった。一目見て確信した。――あれは、才能がありながら虐げられた人間だと。どこにでもいる、どこにでもある、人の形をした不条理だと。
――そして、たった一度見ただけで、どうしても欲しくなった。
無茶もした。軍を通してアストクンのアイボウクンを解放させたときは、相手に盛大に呆れられもした。アストクンの血を採取して、分析して濃縮して混ぜて塗って煮詰めて舐めて戻して、考えられるだけのことをして。
アストクンはそのたびに、いやな顔をして、叫んで、悪態をついて、暴れて、フフ、うるさかったなぁ。
この前も、怪しい奴に忠告したとか言ってたわ。
その前は、自分は自分で守れと、シュバルアームを作り始めて。
そもそも、あの机の下に警報装置なんて付けたのもアストクンだし。
シェンツィは暗がりの向こうにある机に手を伸ばす。すぐ目の前にありながらも、手を伸ばしても届かない、そこまで行くこともできない、どこまでも遠い、机の下の警報装置。――そして、もうそんな力もないのか、伸ばした手をすぐに下ろす。
シェンツィは手のひらを見る。暗がりでよく見えない、血に濡れた手を。追い求めたのは魔法だった。だけど本当にそうなのか。血ばかりを見てきた気がする。生まれが狂った人間を見てきた。その血を弄り回した。狂った血をありきたりな血に変えた。何がしたかったのか。血を狂わせたかったのか。そうだ。小さい頃に思ったんだ。聖人さまを見たいと。それは正しかったのか。もうわからない。暗くて何も見えない。――自分の血は本当に赤いのかも。
――ふと、視界の端に、何かの光が入る。
シェンツィのすぐ横、床に転がったシュバルアームの鈍い金属光。その光に向かって、力なくシェンツィは手を伸ばす。その手がシュバルアームに触れる。そっと握り、身体のそばへと引き寄せ、両の手で持ち上げる。
(……クン、バカなこと、しな……といい……、……ああ見え……の子、……さしいから、……)
やがて、自らの血に濡れたシュバルアームを、どこか大切そうに両手で優しく持ちながら、静かにその銃身を見つめ。その瞳を閉じ。穏やかに、その意識は少しづつ遠のいて。
――やがて、シェンツィ・アートパッツォは、誰に看取られることもなく、静かに息を引き取った。