22.狭まる網、迫りくるその日(中)
2018/10/5 誤字修正
「着きやしたぜ」
「……っ、ありがとうございます!」
今日はスクアッドさん?、片腕の人に馬車を走らせてもらって、オルシーのいる病院に連れてきてもらう。
最初は、片腕で馬車を扱えるのかな、なんて思ったんだけど。すごく自然に、片手で手綱と鞭を持ち替えながら、馬車を走らせるのを見て。見続けて。……気がつけば、病院の門の前で止まって、声をかけられたときに、じっと見続けてたことに気付いて、慌ててお礼を言う。
「ピーコック! 着いたって!」
「そんな大声出さんでも、十分聞こえとるわい」
ちょっと慌てたまま、馬車の中のピーコックに声をかけて。どこか呆れたようなピーコックの声を聞きながら、馬車を降りる。
「じゃあ、俺は馬車で眠ってるから」
そう言って、反対側から降りたスクアッドさんは、ピーコックが降りてくるのを待ってから、邪魔にならない場所に馬車を移動させて。
「じゃあ、みんなを呼んだあと、病室に行くね」
「おう。――今日こそ飛んで見せるわい」
馬車から降りたばかりのピーコックに声をかけて。そのピーコックは、妙に張り切りながら、庭の隅の方へとひょこひょこと歩いて。――まだ、みんな来てないのに、張り切りすぎだよねと少し笑って。
「それじゃ、行ってくるね。――今日こそ、飛べるといいね」
最後にそうピーコックに伝えて。オルシーに会うために、病院の方へと歩き出した。
◇
「……こんな感じでね。今日こそは飛んでやるって、ピーコック、張り切ってたよ」
「そう。――ええ、まずはいつも通り、失敗みたいね」
「ははは……」
オルシーと二人で窓の外を見て。もうそろそろいつもの光景になりつつあるピーコックの墜落とオルシーらしい感想に、思わず笑う。――ひどいなと思わないこともないんだけど。けどきっとオルシーは、ピーコックを目の前にしても同じことを言うし、ピーコックも多分気にしないで、憎まれ口を返す、そんな気がするから。
「で、やっぱり今日まで、ずっと練習してたの? フィリも一緒に?」
「うん。けど、わたしは何かしてた訳じゃないけど」
「ずっと見てた?」
「……えっと。最近は本を持っていって読んでるけど」
続くオルシーの質問に、少し考えて。最近、本を読んでばかりかな、なんて思いながら、そう答えて。そういえば、オルシーは普段何をしてるのだろう、少し気になって。……これ、聞いてもいいことだよね、よし、聞こう!
「……そう言えば、オルシーは普段、何をしてるの?」
「そうね。私も本を読んで過ごすことが多いわね」
「わたしと一緒? どんな本を読んでるの?」
「ふふ、一緒かしらね。――そうね、一度、一緒に行っても良いわね」
思い切って聞いてみて。オルシーも本を読んでるって聞いて、少し嬉しくなって。どんな本を読んでるか聞いてみたら、少し笑って。……あれ、この笑いかた、またからかおうとしてる? 少しだけ、ほんの少しだけ身構えて。
けど、思っていたような言葉ではなくて……
「ここの図書室。結構本格的なのよ」
からかうような口調でオルシーの口から出たのは、そんな言葉だった。
◇
「うわあ!」
思わず声を上げる。オルシーの病室やわたしの部屋の応接間?、ソファのある部屋よりも広いのかな? オルシーの車椅子を押しながら案内されたのは、そんな、本ばかりの部屋。
壁一面に棚が並んでて、部屋の真ん中にも棚が並べられて。その中には、隙間が無いくらいに本が並べられて。
「……そこまで驚くほどの量でも無いと思うけど。この病院は昔、研究施設だったみたいね。――その頃の名残りで、この病棟は、とにかく本が多いの。まあ、わたしは他の場所は知らないけど」
そう言いながら、車椅子の両側の車輪を自分で動かして、本棚の間に行こうとするオルシー。その動きに注意しながら、そっと後ろから車椅子を押して。
わたしが後ろから押していることに気付いているはずだけど、そのまま自分でも車輪を回しながら、オルシーは、どの棚にどんな本が入っているか、説明を始める。
「こっちの棚が物語やおとぎ話で、こっちが学術書。で、こっちが歴史関係の本と、あと宗教関連の本で……」
その説明を、最初は軽く「そうなんだ〜」とか言いながら聞いてたんだけど。その、まるで全部の本を読んだみたいな、そんな詳しい説明に、軽く疑問を感じて。少し聞いてみる。
「……えっと。もしかしてオルシー、ここの本、全部読んだ?」
「まさか。私が読んだのなんて、えっと、そう、せいぜい千冊か二千冊くらいかしら。――まあ、このあたりの、そう、童話や物語はかなり読んだわね」
少し首を傾げてから出てきた数字に、少しぽかんとして、車椅子を押すのを忘れて立ち止まる。そしたらオルシー、少し慌てて説明してくれたんだけど。……別に毎日治療しているの訳じゃないとか、ずっと身動きが取れないままだったから年に二百冊くらいは読んでるはずだけど、別に変な数字じゃないとか。本を読むくらいしかすることがなかったとか。
そうなのかなぁって思いかけたけど。やっぱり数がおかしいよね、うん。……わたし、今まで十冊くらいしか読んだことないって、言わないようにしよう、そんなことを考えながら。オルシー、どんな本を読んでいたのだろう、少し気になる。うん、聞いてみよう。
「どんな本を読んでるの?」
「そうね、このあたりかしら」
そう言って、本棚を指さしたオルシーの、その指先をたどって。そこに書かれている文字を読み上げる。
「えっと、宗教?、旅行記?、あと、お勉強の本? ……オルシーも勉強するの?」
「多分、フィリが想像しているのとは違う気もするけど。単純に、面白いから読んでるだけよ」
「……えぇー」
オルシーの説明に、少し疑問を感じながら。その「お勉強の本」を一冊手に取って。……やっぱり、私が知ってる「お勉強」と一緒だと思うけど。難しそうな数式に、わたしの知らない記号を使われているのを見て、ためいきを一つつく。――すごく難しいよね、これ。本当に面白いのかな?
「そうねえ、お勧めは……」
「! それよりも!」
そうやって「お勉強」の本に、軽く目を通していると、オルシーがそう言って、違う本棚の方に行くために、両側の車輪を握る手に力を入れ始めて。それを止めようと、慌てて言葉を考える。――オルシーが読むような難しい本を勧められても、困る!
「オルシーが心に残っている本を教えてほしい、かな」
――それは、フィリとしては、「オルシーの好きな本」を聞いたつもりだったのだろう。オルシーもそのことに気付きつつ。それでも、少し意味合いの違う本を手に取る。それは一冊の、ある神父の手記。
それは、やがて「新教派」と呼ばれる派閥を作る際に重要な役割を果たすことになる、一人の聖職者が残した、怒りの記録だった。
◇
今日、僕は一人の悲しい子供を看取った。――きっと僕は、今日の日のことを、一生忘れることは無いだろう。
昨今、順調に発展した技術。国の方針からだろう、当初は豊かさを求め、生産技術を発展させてきた我が国も、最近では他の分野にその技術が及ぶようになり。医療の進歩により、それまでよりも良い鎮痛剤や苦しみを和らげる方法も増え、それが患者に提示する治療方法を増やすことになる。
まあ、僕のような聖職者の立場としては、別の問題の種になることもあるのだけど。そんなことを考えて、軽く苦笑する。敬遠な信者の中には、治療行為やただの鎮痛ですら教えに反すると言って、僕のような聖職者に訴えてくる人もいるのだ。――試練から逃げている人がいると。
正直、僕としては、わざわざ苦しむことをする必要は無いと思うし、なんでそんな考え方をするのだろうと思うけど。――教えが悪い訳ではない。ただ、時代が先に進んだだけ。僕はそう思っているし、そう思っている人は他にもいるだろう。
そんなことを考えながら、まとまった休みを取って、新都ホープソブリンから故郷の田舎に帰る道すがら。教会の無い、小さな村で宿を取り。部屋でくつろいでいると、その宿の主人に、一つのお願いをされる。
――先の知れない一人の子供から、わずかな間痛みを消し去るために、なけなしの金をはたいて入手した鎮痛剤を投与しようとしている。そのときに、その子供の話を聞いてほしいという、そんな願いを。
◇
その女の子は、まだ五、六才くらいだろうか。もともと生まれたときから身体が弱く、少し動いては寝込んでいたような子だったらしい。
それでも、少しでも動けている頃はまだ良かったのだろう。少しづつ、動く時間は減り、寝込む時間は増えていき。やがて、動けぬままに苦痛に苛まれる時間が増え、安らかに過ごす時間が減っていき。
そして、最近ではもう、動くこともかなわず、寝たきりの生活を送っているらしい。
「少し話をしてあげるだけでいいんです。お願いできませんか?」
そう頼み込んできた両親から、事情を聞く。その子は一年ほど前に、一度だけ別の神父に教えを説かれたことがあること。その神父に「いい子にしていれば天国に行ける」と教わったこと。
その話を聞いてからずっと、その子は寝たきりで、「いい子でいられなかった」ことを心残りにしていること。――そして、自分は近いうちに天国に行くことになると、その子はすでに悟っているらしいこと。
その子に残された僅かな時間を、安らかに過ごせる助けになるのならと、その依頼を快諾し。
――翌日、医師に鎮痛薬を投与され。僕と子供以外の人は部屋から出て。その子供が落ち着くまでの間、静かに待ち続けた。
◇
「神父さま?」
「ああ、そうだよ」
やがて、痛みから解放されて。薬のせいだろうか、女の子は、少し眠そうな顔をしたまま、おとなしそうな声で話しかけてきて。
その声に、できるだけ優しく答える。
「いい子にしていれば天国にいけるって、ほんとう?」
「ああ、そうだよ」
女の子の素朴な問いかけに。どこまでも優しく答える。一切の疑問を持たないように。信用を、僕に心を預けられるように。
「ずっとお手伝い、できなかったけど」
「大丈夫。君はずっといい子だったって、お父さんもお母さんも言ってた。だから、君は天国に行けるよ」
子供らしいかわいい言葉に、にこりと笑う。大丈夫、そんなことで誰も気にしないよと、自信をもって伝える。
「ほんとうはね、なんで外に出られないのかって、ずっと思ってたんだ。お父さんも、お母さんも、神さまも、なんで外に出してくれないんだろうって」
「大丈夫。君がそう思うことも、みんな知ってて、それでもいい子だって思ってるよ。お父さんも、お母さんも、神さまも」
初めて出てきたかわいらしい懺悔の声に、大丈夫、その位で嫌いにならないし、神様だって認めてくれる。そう答えて。その声にようやく安心した顔を見せ。――僕の心のどこかに、チクリとなにかが刺さる。
「お父さんやお母さんを呼んでもいいかい?」
自分で、心のチクリに気付かないふりをして。話している間に目もさめたのだろう、笑顔で頷く女の子に声をかけて。両親や見舞いに来た子供たちを呼びに、部屋の扉を開け。廊下で待っていた両親に声をかける。
そうして、部屋の中に、女の子の大切な人たちが集まって。女の子は、集まった人たちと少しづつ話をして。やがて疲れたのだろう、すこしぐったりとしたところで、両親や医師を除いた、女の子と親しかった人たちは帰路について。
――やがて、再び眠る前に、両親に声をかける。
「ずっとお手伝いができなくて、ごめんなさい」
そんな謝りの声に、大丈夫、気にしていないから、ずっとここにいるから安心して眠りなさいと両親が声をかけて。そんな両親に向かって、全幅の信頼を込めて、女の子があいさつをする。
――おやすみなさい、と。
その言葉を聞いて、僕は、初めて気づく。この子は、「死ぬ」ということが何か、今まで知らないままだったということに。今も知らないままだということに。
そして、この時以降、女の子が目を覚ますことは無く。この言葉が、その女の子の最後の言葉になった。
――こうして、一人の女の子が、まるで眠るように安らかに、天国へと旅立っていった。
◇
その後、この子のことを思い出すたびに思う。――こんな馬鹿な話があるだろうかと。あの子はお手伝いをするために生まれてきた訳でもなければ、苦しむために生まれてきた訳でもないのにと。
あの子はただ、自分が満足に動けなくなって、必死になって愛情を確かめただけなのだ。生きるために。生きていくために。生きていていい、そう認められていると信じるために。
誰一人として、あの女の子の不幸を願った者はいない。誰もが心を痛め、誰もが治ることを願った。その女の子も、誰も恨まずに、ほんの少しだけ、ささやかな、愚痴のような言葉だけを残して。ただ「いい子」のまま、そして、子供のまま、天国へと旅立っていったのだ。自身に襲い掛かった理不尽に怒ることすらできないままに。
その生のあり方に、僕はどうしても納得が出来ずにいて。
――あの女の子が「この世に生を受け、生きる」ためにはどうすれば良かったのだろう。その問いの答えは、未だに見出せないままでいる。
◇
「私にはね、フィリ、この人の怒りが良くわかる。同じような状況だったら、私だってきっと怒る。でもね、それでも、――私はこの人たちが作った『新教』とかいうのが、大嫌いなのよ」
本の内容を話し終えたオルシーは、最後にそんなことを言って。話をしている途中の、普段とは違う、怖いような、逃げ出したくなるような、そんなオルシーの声に、なんでだろう、どこか聞いたことがあるような気がして。――ああ、そうだ。初めて会ったときの、けが人たちの中で「治してくれ」と叫んだジュディックさんの声に、何か似ているんだと、なんでだろう、全然似てるはずがないのに、そんな風に感じて。
――きっとオルシーの声には、死の匂いに気付いた人間の、悲鳴のような何かがあって。その何かを感じ取ったのか、少しの間、フィリは声を上げることができないまま、静かな時間が流れる。その静けさに気付いたオルシーは、少し気まずそうに、フィリに声をかける。
「ごめんなさい。――だけどきっと、今の私の怒り、フィリにもわかる日が来ると、私はそう思うわ」
それは、今のフィリにわからなくても。きっといつか、この怒りをわかってくれるだろう、そんな「祈り」のようなものが込められた、そんな声だった。
◇
図書室から出て。部屋に戻ろうとしたところで、慌ててオルシーの病室の方に走っていこうとするケイシーちゃんと出会って。「こんなところにいた!」慌てて声をかけてきて。「早く、一緒に、お庭に!」そうせかしてくるケイシーちゃんに、何があったのか、オルシーが聞いて。
「聖鳥さまがね、空を飛んだんだよ! 飛び続けてるんだよ!」
そう言って、ケイシーちゃんは、病棟の出入り口の方に車椅子を向けたわたしの背中を押すように、早く庭に出るようにと、急かすように背中を押して。
――やがて外に出て。彼女たちは、その光景を目にする。
◇
大勢の子供たちが見上げた空の上。空に浮かぶ白い雲を、鮮やかな青色が、風を切りながら横切っていく。普通なら飛ぶことのできないような巨体を、普通ではありえない片翼の鳥が、風を切って、宙を舞う。
鮮やかな羽根が陽光に照らされ。大きく片翼を広げ、羽ばたくその様子は、まるで見えない透明な羽根があるかのように。――地上から見上げ、指をさされ、はしゃぐように見上げる子供たちの声に後押しされるように、時に悠然と、時に空を切り裂くように。どこまでも自由に、一羽の巨鳥が、楽し気に空を舞っていた。
◇
「……あの鳥は」
うん、やっと飛べたんだ、良かった。ピーコックの飛ぶ姿を見て、少しだけほっとする。……いつかは飛ぶと思ってたよ? けど、それでもやっぱり、ちゃんと飛んでるところを見ると安心するなと、ピーコックに向けて手を振りながら、そんなことを思ったところで、オルシーの、どこか戸惑ったような声が聞こえてくる。
「なに?」
「――あの鳥は、一体何に怒っていたのかしら」
その言葉は、よくわからない言葉で。怒ってる? ピーコックが? 少し首を傾げる。
「だって、そうでしょう? あんなに何度も失敗して。それでも、あんな片方だけの翼で、何かに取り憑かれたように、何度も繰り返して。――普通、こんな短期間で飛べるようになるなんてならないわ」
その言葉に。今までのピーコックの様子を思い出す。何度か見た、朝、窓の外で羽ばたくピーコック。この病院で初めて飛ぶことに挑戦し始めたピーコック。訓練場宿舎の庭で、何度も練習したピーコック。――うん、確かに何かに取り憑かれたようにっていうオルシーの言葉、わかる気がする。オルシー、すごいなぁなんて思いながら。でも、やっぱり……
「別に怒ってはいなかったと……」
「かっかっか! そうじゃのう、怒っとったのかもしれんわ……、のわああぁぁぁぁ……っ!」
正直に、思ったことを口にしようとして。空からピーコックが、すぐそこの地面に降りようとして。……空中でバランスを崩して、頭から地面に突っ込む。
……えっと、ピーコック、大丈夫かな? 多分オルシーもびっくりしたのか、何も言わず、地面でピクピクしているピーコックを見続けて。――あ、起きた。こっちに歩いてきた。で、いつも通りに話し始めた。……ええぇ~。
「……翼を無くした、飛べんくなった。儂が何かしたのか? 儂が悪かったのか? ああそうじゃな、儂は『人と関わった』。それが原因かもしれん。じゃが、そんな理由で納得できるか? 納得するのか? 出来んじゃろうて。――ヌシはまあ、そんなようなことを思っとるんじゃろうて。でなくては、そんな『怒り』なんて言葉は出てこんけえの」
「……そうね、そうかも知れないわ。――で、どうなのかしら。貴方は何かに怒ってたのかしら?」
ほんとうに、びっくりするくらい普通に、いつも通り話し始めるピーコック。最初はやっぱり、オルシーもぽかんとしてたみたいだけど。ピーコックが話し終わったのを見て、はっとしたあと、普通に話しだして。――うん、オルシーもすごいなぁ。なんで普通にしゃべれるんだろう、そんなことを思いながら、話を聞いて。ピーコックの返事を待って。
「さて、どうじゃろうのぉ」
――結局、ピーコックから返ってきたのは、そんな、いつものふざけたような返事だった。
◇
「……面白いもんが飛んでるさ」
「あん? ……チッ、『強化』かよ。見えやしねえ」
首都ホープソブリン・マイニングからほど近い農村で。最後の補給のために村に立ち寄ったアストとマークスの二人は、ふと立ち止まり、空を見上げる。マークスは空のある一点を見つめながら、感心するような声をあげ。アストは同じ方向を向きながら、どこを見ればいいかわからないとばかりに、ぼやいたような台詞を吐く。
やがて諦めたように舌打ちをし、一人先へ進もうとするアストに、空の一点を見つめたまま、マークスが呟く。
「あと少しで、やっと終わりさね」
その声に、アストは立ち止まり。周りに人がいないのを確認して、腰の拳銃嚢からシュバルアームを引き抜き、手の中でクルクルと回し始め。――しばらく回し続けてから、何事もなかったかのように、拳銃嚢へとしまう。
視線を地上に戻したマークスは、そんなアストに、どこか懐かしむような視線を送り。一つ気分を切り替えたかのように、立ち止まったアストの元へと歩き出す。
「しかし、そこまでするかさ」
「あん? そりゃあお前、全てを忘れてのうのうと過ごしているような奴を殺っても意味ねえだろ。全部思い出してもらわないとなあ」
マークスの言葉に、始めは戸惑いの声を上げたアストも、やがて何のことを言っているのか悟り、面白そうに答える。――つい先日、この村にほど近い林の中で待ち合わせていた仲介役の男。本来の契約だと、その男に聖典を渡して終わるはずの仕事。
だが、あえて脅しつけて、伝言を持たせて追い返したことを思い出しながら
「ブツの代価は直接受け取りに行く。シェンツィ・アートパッツォの流した血の代価、その血で贖え。――血狂いの残党より、ねぇ」
「ああ。――それさえ終われば、この国でやり残したことはもうねぇ。あとは自由に、好き勝手に生きていくさ」
その伝言のわざとらしさに呆れるマークスに、ことさら気楽そうな声を上げるアスト。
「まあ、義理ってやつは、しょうがないさ」
「ああ、義理ってやつは、しょうがないな」
そんなことを言い合って、二人は村から出て、近くの林、馬を繋いだ場所へと、身を隠すように入りこむ。
――その気楽そうな声と、普段通りの立ち振る舞いに、十年もの間、潜伏して待ち続けた、執念のような何かを漂わせながら。
◇
「じゃあ今度、フィリの家に邪魔をしてもいいのね。――本当に良いのかしら」
「ん~! ピーコックも良いって言ってたし、大丈夫じゃないかなぁ。――メディーンが忙しくなくなったらって言ってたから、ちょっと先かなぁ」
「――あの鳥、本当に信用していいのかしら」
ピーコックを庭に残して。オルシーの車椅子を押して、病棟の中に入って。オルシーの病室まで歩く途中、そんな話をする。
前々から、わたしもオルシーを部屋に呼びたい、そんな話をしていたことをピーコックに話して。「どう思う?」ピーコックに意見を聞いて。――招待するときはメディーンも一緒にいた方がいい、そう考えると、もう少し先じゃろうなぁというピーコックの言葉に、ちょっと残念だけど、うん、やっぱりメディーンも一緒の方が良いよねと納得して。
早くその日が来るといいな、ちょっとわくわくしながら、本当に大丈夫かしらと、しきりと首をかしげるオルシーと一緒に、病室の方へと移動する。
――そんな平和な日常を過ごしながら。少しずつ、それでも確実に、「その日」は差し迫ってきていた。