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フィリ・ディーアが触れる世界  作者: 市境前12アール
第三章 人の生きる世界と歩く道
50/96

幕間.科学者、諜者、狂った歯車(下)

「残酷な描写」があります。(軽めだと思いますが)。


2020.08.08 物語の矛盾点を修正

 軍の兵器採用試験を終え、幾日か過ぎたある日の夜。次の研究のために行われた組織改編の結果を確認していたアストとマークスは、組織図のある一点、第三研究室に室長補佐として新しく抜擢された男の名前を見て、一瞬だけ視線を止める。

 やがて、何事も無かったかのようにその先を見始めるアスト。その様子を見て、マークスは軽く肩を竦める。


「どうしたさ、随分と優しいことで」

「フン。一度忠告はしただろう。下手に脅して追い詰める位なら、少しくらい甘くした方がマシ、そう思っただけだ」


 付き合いの長さか、アストの内心を見透かしたようなことを言うマークスに、声をかけられたアストもその言葉を強くは否定せず。半ば言い訳するかのような言葉を返す。

 この研究所は事実上、軍の資金によって運営されている。軍が新兵器開発の名目で金を渡し、その研究の成果を兵器採用試験の場を利用して回収する、そんな仕組みだ。だからこそ、たとえ機密が漏れても、軍に漏れる分には資金繰りが悪化する訳もなく、結果として研究所の運営に影響しないという、普通では考えられないような現実がある。

 そういったこともあって、研究所のトップであるシェンツィ自身も、重要機密以外の機密であれば、軍に漏洩することをあまり気にしていない。ただ、今回、なぜ軍から諜報員と疑わしいような人間が送り込まれてきたか、アストたちは首を捻っていたが。まあ、権力争いとかのバカバカしい理由があるのだろうとは推測し、深く考えずにいた。――そして、それもあながち間違いとは言えないのだが。

 そんな事情から、例え疑わしい相手でも、第一研究室に近づきさえしなければ、まずは様子を見るという結論になるのも、そうおかしなことではない。だが、実の所、そんな杓子定規な理由だけで無く……


「そう言う事にしておくさ。――あれは、『下層出身』みたいだしさ」

「フン。まあ、俺たちみたいな『貧民街』出身じゃないだけマシな方だろうな」


 マークスの言葉に返すアストの言葉。共に最下層の暮らしを知るためか、その言葉に、軽く同情めいた響きが混じる。――彼らも以前は、生まれ落ちた場所から来る身分の違いに翻弄され、非合法なことにも身を染めていたのだ。疑わしいだけで排除するのも気が引ける話だった。もっとも……


「まあどっちにしろ、まずは忠告をした。これで何がしてくるようなら、手を打つだけだ」


 この「甘い」判断は、相手の行動があくまでも「許容範囲」の中に収まる時だけだ。そんな意志のこめられたアストの発言に、当たり前のようにマークスは頷く。一線を越えるようなら容赦はしない、それは二人にとって、当たり前のことだった。


――それでも。その判断には、話題となったその男の家で起こったことを知らないが故の「甘さ」が紛れ込んでいたのは、紛れもない事実だった。



「……うん? どうした、顔色がすぐれないようだが」

「いえ、なんでもありません」

「そうか。昇進に関しては、そこまで気負わなくていい。今までやってもらっていたことに立場が追いついただけだ。やることが変わる訳でもない。君なら大丈夫だ」


 自宅でトゥーパー局長からの銃撃を受けた翌日。とてもじゃないが、部屋を片付ける気など起きず。かといってそのまま荒れた応接室で過ごす気にもなれず。寝室に移動したものの、一睡もできないまま朝を迎え、そのまま研究所に出勤する。

 余程顔色が悪かったのだろう、第三研究室に入った所で、室長に心配そうな言葉をかけられ。自分でも説得力がないと思いつつ、何でもないと返事をする。多分、昇進に重圧を感じていると思われたのだろう、室長の励ますような言葉に、ほんの少しだけ日常を取り戻し。――ごく僅かとはいえ心が軽くなったからだろうか、少しだけ、今の状況の打開策を思いつく。


「はい。――次の室長会議は十五日後でしたよね」

「ああ。最も、実質的にはとっくの昔に室長補佐として動いてもらっているからな。正式に身分証が交付されるくらいの違いしかないだろうが」


 この先の日取りのことを室長に確認する。室長の、俺の重荷を取り除こうとしているのだろう、ことさら軽い口調の返事に笑いながら、内心で思う。――何だって良い。あと数ヵ月だけ、実行を先延ばしにするのに足るだけの口実さえあれば……


「……君。本当に大丈夫かね?」


 考え始めたところで、室長の心配そうな声が耳に入り、慌てて「大丈夫です」と返事をする。――正直、今の状態で普通に勤務するのは危険だろう。下手をすると無意識の内に、考えていることを呟きかねない。そんなことに、今さらのように気付く。


「申し訳ありません。午前中だけで良いので、仮眠室をお借りして良いですか?」

「そんなに体調が悪いのか? なら今日は休んでも構わんのだが……」

「いえ、大丈夫です。……では、申し訳ありませんが、午前中だけ休ませてもらいます」


 室長とそんなやり取りをして。仮眠室に向かうために第三研究室を出て。廊下を歩きながら思う。――今の状態で家に帰っても、あの家では眠れそうにない。むしろここで休んだ方が身体は休まるだろうな、と。



 午前中、仮眠室で仮眠をとる。奇妙な、どこか生々しい感触のある夢に振り回され、目が覚めた後もあまり眠った気がしない、そんな不思議な感覚を味わいながらも、午前の時間を終える。

 それでも、睡眠の効果はあったのだろう。午後はいつも通りに研究者としての仕事をし、定時に帰宅する。自宅に帰り、昨夜の銃撃の痕跡が完全に消えているのを見て、ふと思う。トゥーパー局長はこうやって、逃れられないのだと、無言の圧力をかけているのだと。

 今はトゥーパー局長の手のひらの上、このままではダメだと、そう確信する。それでも、今すぐ逃げることも出来ない。だから、局長の要求を聞きながら時間を稼ぎ、機を伺わなくてはいけない。


――そう思ったところで、通信機から呼び出しのベル音がリリリと、ささやかに鳴る。


 そうか、今度は監視しているぞという圧力か。帰ってすぐに鳴り出した呼び出し音を聞きながら、なぜか急に、無性に笑いたくなって。勢いのままに、通信機をつなぐ。


「うむ。昨日は大へ……」

「申し訳ありませんが。今日は疲れていまして、頭が働きません。明日にして頂けませんか?」


 繋いだ途端、通信機から聞こえてきたトゥーパー局長の声を遮り、自分の要求押し付ける。なぜだろう、通信機の向こうで、トゥーパー局長はきっと唖然としているのだろう、そう確信し。その顔が見れないことを残念だと感じながら、言葉を続ける。


「君は誰に口を聞いてい……」

「当然わかっております。ですが、昨日は(・・・)本当に(・・・)大変(・・)でして(・・・)。昨晩の話を蒸し返すことになりますが、私が裏切るつもりがないのは、見ている(・・・)ので(・・)あれば(・・・)わかる(・・・)と思います。今は休息こそが最も重要な任務だと考えております。――以上、失礼します」


 そう一方的に言いたいことを言って、通信を終える。どうせ今は局長の手のひらの上、この先時間を稼がなくてはいけない。なら、気が済むまで寝て何が悪い! そんなことを思いながら、湧き上がってくるような笑いをこらえ、寝室へと向かう。


――翌日の朝、軽い後悔をしながらも。あの位なら大したことにはならないだろう。まともな(・・・・)睡眠を取って判断力を取り戻した俺は、そんな確信を抱いていた。



 その日の研究所勤務も通常通りに終え。自宅の通信機で、改めてトゥーパー局長と話をする。今はまだ兵器採用試験も終わったばかりの、研究所全体が騒々しい時期。だが、それも次の室長会議を過ぎた辺りから落ち着いてくる。それまでの半月程度は、待つだけの価値があると、そう説得する。

 年単位、月単位の時間稼ぎはもはや無理だろう。だが、準備不足で失敗したら元も子もない、それは相手も同じ筈。まだ交渉の余地はあるはずだ。そう判断した俺は、一月程度を準備期間と定め、その間に必要な情報をできうる限り提供するよう、トゥーパー局長に要求する。

 犯行日の警護体制、第一研究室の内部見取り図、その他諸々。それが作戦を成功させるために必要なものなら、局長も否定はしないはずだ。――俺自身が生き延びるための手を打つためにも、今はとにかく時間を稼がなくては。


 一昨日のトゥーパー局長の「脅迫」、あの印象に騙されるな。局長は俺のことを常に(・・)目を配らせているようなことを言ったが、それが本当かどうかはわからない。もしかしたら、単にこの家を監視しているだけかも知れないのだ。

 俺にはもう、何が真実なのかわからない。ただ、局長に頼り切るのはまずい、それだけははっきりしている。今この時点で局長の不興を買うとしても、何としても時間は作らなくてはいけない、そんな覚悟を決めての局長への提案だ。――だからこそ、通信機の向こうで思案していたのだろう、無言だったトゥーパー局長が俺の提案を了承したとき、俺は安堵のあまり、全身から力が抜けるような気分を味わうことになった。



 それから約一月。室長会議も無事に終わり。トゥーパー局長から届けられた、ウェス・デル研究所の見取り図を机の上に広げる。トゥーパー局長の情報網を立証するような、警備体制から他の研究室の情報まで、実に細かく書き込まれた見取り図。――だがそこには、肝心の第一研究室の情報は何一つ書かれておらず。

 第一研究所のことがわかるのであれば、そもそも俺は必要ない。だからそれは当然のことだろう。それでも、見取り図を見て、少し笑う。――これならまだ、交渉の余地はあると。


 この数週間、俺は、自分の周りにいる諜報員がどの位いるのか、必死に探ってきた。――正直、監視の目に関しては、全くわからなかった。だが、すぐ近く、それこそ話し声まで聞こえるような距離で監視されているようには感じなかった。――その結果を受けて俺は、一か八か、密かに隠れ家を準備する。一度も足を運ばず、全て他人を介して手配をさせた、俺自身も場所しか知らない、そんな隠れ家を。

 そして計画を練る。とはいえ、大した計画なんて立てることなど、もはや不可能だ。精々が、盗み出した情報をその隠れ家に隠し、再びこの家の通信機を使って局長と交渉する、そんな大雑把な、計画なんて言えるようなものでないものだ。

 それでも、単に盗んで来ただけでは、口封じのために殺されてもおかしくない。だから、目標の「聖人の血」の情報を使って取引をする。今の俺が生き残るためにはそれしかないと、もはや自分でも妄想としか思えないような計画に一縷の望みを賭け。


――やがて、決行の時を迎える。



 早い時間に、室長と共に第三開発室の最終退場者となったある日。部屋を施錠し、研究室を出て、正門の前で室長と別れ。――第一研究室に忍び込むため、再び研究所へと戻ってくる。


「ご苦労さん。忘れ物をしたんだけど、取りに行っても良いかい?」

「は。どうぞ」


 ウェス・デル研究所の正門の前の詰所で、いつものように警備員に挨拶をして。正面玄関から堂々と、慣れ親しんだ研究所に入る。

 つい数ヶ月前、「第四試製砲・アンティアエリアン・アーティレリ」の開発が佳境だった頃はまだまだ活気があった、そんな早い時間。だが、その開発も終わった今は、研究所内もどこか閑散として。そんな人気の少ない研究所の廊下を歩き、先ほど施錠したばかりの第三研究室の鍵を開け、中に入る。暗い室内で、灯りも付けず、息を殺し。ただ、時が過ぎるのを待つ。

 やがて、夜も深まった頃合いを見計らって、そっと部屋を出て。完全に人気が無い、静まりかえった研究所の廊下を、闇に慣れた目で、音を立てないように進み。


――今まで一度も入ったことがない、第一研究室の扉を、そっと開ける。



 初めて見た第一研究室。暗がりの中に見えるその室内は、今まで見てきた他の研究室とはまた違った雰囲気を持つ場所だった。各人に机や棚が与えられ、一人一人の領域が明確に定義されていた他の研究室と比べ、この研究室にはその境界が曖昧だと感じ、――何故だろう、もう随分と昔の、軍研究所で共に開発していた「仲間」のことを思い出し。今はそれどころではないと、その思い出を追い払う。

 光源専用の魔法杖を取り出して、明かりを灯し。まずは一番立派な机の引き出し、次に壁に置かれていた本棚と、資料が保管されていそうな所を次々と漁り、めぼしい資料を鞄の中に入れていき。部屋中を探し回り、主だった資料はあらかた鞄に入れたところで……


「――何をしているのかしら」


 部屋の入口の方から、眩いまでの光に照らされ。誰何の声に、心臓がドクンと音を立て、跳ね上がる。


「動かないで。少しでも怪しい素振りを見せたら、撃つわ(・・・)


 ゆっくりと振り返ったその先には。左手に光源を持ち、右手に特徴的な形をした小型の銃を構えた、白衣の女性の姿が映る。


――それは、どんな運命の悪戯なのか。そこには、たまたまこの日、忘れ物を取りに研究室に戻ってきたウェス・デル研究所所長シェンツィ・アートパッツォが、この研究所で開発された世に二丁とない銃を構え、静かに立っていた。



「知らないといけないから説明するわ。これはね、こんな大きさでも一応『銃』でね。私のような素人でも簡単に扱えるように作られた、そんな代物よ」


 もちろん知っている。ウェス・デル第三試製銃・シュバルアームには、兵器としての性質とは別に、「誰にでも使える護身用の銃」という性質があるというのは、ここの研究者の間では有名な話だ。――なにせ実際に、所長が護身用に肌身離さず持ち歩いているのだから。

 この銃の開発をリードしていたアスト・イストレ所長補佐も、自身の安全に無頓着な所長のためにこの銃を開発したなんて言われている位だ。所長でも扱えるようにあの銃が作られていることは、疑いようもない。


「まずはその鞄を床に置いて。……そう。こんなことで命を失うのは馬鹿のすることよ。警備員が来るまで、そこで大人しくしてなさい」


 銃口を向けられ。所長の命令に大人しく従いながらも、思考を巡らす。相手は銃を持っている。撃ち殺されるくらいなら、所長の言うように、大人しく捕まった方がまだマシだろうか。――駄目だ。トゥーパー局長の権力が官憲にまで及んでいるのは確実だ。ここで捕まれば、確実に口封じされるだろう、どんなことをしてでも捕まる訳にはいかない。そんな決意を固め、所長の隙を伺う。

 その所長は、こちらに銃口を向けたまま、壁際を伝い、多分所長の席であろう、見通しの良い場所に置かれた机の方へと移動をする。――確か、その席の下には警報装置のスイッチらしきものがあった筈だ。押されては面倒なことになる。だが、警報装置を作動させようとするのならと、思考を巡らせ……


――思った通りに、所長の注意が机の下に向き。膝を曲げ、その身を屈める。


 その隙を見て、所長に向かって駆けだす。気付いた所長が急いで銃を構えるのに先んじて、机を飛びこえながら、銃を持つ手を抑え。――その勢いのまま、所長の頬を殴りつける。


 所長の手から銃が落ち。

 その銃に飛びつき、拾い上げ。

 急ぎ振り返り、銃口を向ける。


――だが、所長はその銃口を無視するかのようにとびかかり、俺の腕へとしがみつき。


 銃を奪おうとしたのだろう、俺が手にした銃を握りしめ。奪い去ろうと引いてくる手を力の限り振り払う。なおも離れず、執拗に腕にまとわりつく所長を持て余し。あまつさえ、噛みついてくる所長を振り飛ばし、なおもしつこくつかみかかる所長ともみ合いになり、握りしめた銃に力が入り。


――鈍い爆発音が鳴り響き、その腕に衝撃が伝い、銃を握った拳に、生暖かい液体が伝い、腕を濡らす。


 血に濡れた手を見て。床に崩れ落ちる所長と、その床を濡らす液体を見て。自分が何をしたかを自覚した俺は、銃を落とし、鞄も何もかもを捨ておいて、その場を逃げ出した。



 翌日の朝、いつものように研究室へと出勤した研究員たちは見る。血だまりの中で、自らの血に濡れた「シュバルアーム」を両手で大切そうに持ちながら、壁にもたれかかるように座り込んだシェンツィ・アートパッツォの姿を。


――まるで寝顔のような安らかな表情を浮かべながら、彼女は一人、静かに息を引き取っていた。



 その日の夜、息を荒げた警備員から急を告げられ、シェンツィが搬送された病院へと駆けつけたアストとマークスは、そこで待っていた、すでに遺体となって横たわっていた彼女の姿に呆然とすし。どうすれば良いか、判断することも出来ないまま。研究所が主体となって行われることとなった彼女の葬儀に、まるで考えるのを拒否するかのように、流されるように奔走し、身体を動かし続ける。

 良くも悪くも目立っていた、シェンツィ・アートパッツォという科学者。その彼女の葬儀には、軍研究所時代の彼女の同僚やその上司たちに加え、政治的に対立していたであろう軍の技術官僚たちも参列し、黙祷し。また、葬儀に参列できなかった年端もいかない子供たちも、研究所から少し離れた場所で、静かに祈りを捧げていた。


 葬儀の翌日、軍研究所から、ウェス・デル研究所の全てをそのまま受け入れると発表された時、研究員の間からは、安堵の息が漏れる。

 ウェス・デル研究所を非凡たらしめていたのは、所長のシェンツィ・アートパッツォの才能に寄るところが大きい。それは研究者たちが抱いていた当たり前の事実。その彼女を失った以上、いずれ研究所が行き詰まることは明白だった。

 同時に、アストとマークスは、第一研究室の機密と共に姿を消す。その話を聞いた研究者たちは、納得したかのように頷きあう。


――彼らが所長以外の研究者の下で働くとは思えない。それが、彼らと共に働いていた研究員たちの、共通した認識だった。



 シェンツィ・アートパッツォを殺害し、全てを投げだし逃げた男は、準備してあった隠れ家へと駆け込み。この先どうすれば良いか、必死に考え続け。どれだけ考えても答えは出ないまま、ただ時間だけが過ぎていく。

 血にまみれた夢にうなされ、眠ることもできないまま。答の無い問いに囚われ、事前に準備しておいた食料を消費しながら、心をすり減らしていく。やがて食料も尽き。――その頃には、男の心は摩耗しきっていた。



 ふらりと、たべものを求めて外にでる。ここ、どこだ? あまりなじみのないばしょだな、そんなことをかんがえながら、ふらりと歩く。むこうが人がおおいな、おおどおりだろうか、そちらへと歩く。あれ、どこかで見た服だな、こちらに向かってくる人をみて、そんなことを思い。――ああ、軍研究所のけいび員かと、制服をみて、ぼんやりと思う。

 そのまま男たちに引きずられて、軍研究所まで歩いて、……ああ、なつかしいなぁ、あいつらげんきかなぁ、そんなことを考えて。研究所っていうことは、たぶん局長かななんてことも考えて。――軍研究所の正門を通り抜けようとしたその時に、外からこちらに歩いてくる一人の男の姿を見る。


 その男が浮かべた表情に、その昏い視線に、――そして何より、だらりとぶら下げた右手に持った、見覚えのある武器に、体全体が恐怖を、血を、何よりも、自分の犯した罪を思い出す。


 その男の右腕が動く。俺の左腕から衝撃が伝わる。左側を抑えていた男の側頭部から飛び散った血が頬を濡らす。続けて右側からも衝撃が伝わり。抑え込まれていた身体が自由になる。思わず男の方を見る。その男は何か銃をいじった後、こちらに銃口を向け。――何故だろう、あの男は俺を殺しに来た訳ではないと、直感で悟る。


――あの男は、俺を苦しめに来たのだと。


 今までの自分が抜け殻だったことを悟る。摩耗しきっていたことを悟る。――そして、あの男から逃げなくてはいけないことを悟る。

 立て続けに響く銃声に、周りに広がる混乱の悲鳴の中。俺はただ、そこにいる「人の形をした悪意」から逃げようと、軍研究所の中へと駆け込んだ。



 男は、混乱の軍研究所の中、特別貴賓室を目指して走る。トゥーパー局長が居るのならそこだろうと。その行動に目的があった訳ではない。理性が働いた訳でもない。それでも、外にいるであろう「人の形をした悪意」をどうにかできるのであれば、トゥーパー局長しかいないだろうと。たったそれだけのことを考えて、走る。


――だが、たどり着いた特別貴賓室には誰もおらず。無人のソファと、机の上に飲みさしの茶が、取り残されるように置かれていただけだった。



 軍研究所の奥にある特別貴賓室の片隅で。一人の男が、ソファの影で、なかば腰を抜かしながら身を潜ませる。普段は、静寂さを誇るこの部屋に、悲鳴まじりの混乱の声が微かに響き、聞き覚えのある銃声が近づいてくる。


 やがて、その音も遠ざかり。代わりに、ほんの微かな足音だけが漏れ聞こえ。その耳を澄まさなければ聞こえないような音が、恐怖に囚われた男の心に響き渡る。


 やがて入口の扉が開かれる音に身体を震わせ。

 はっきりと聞こえてくる足音に振り返ることも出来ず。

 わざと視界に入るように回り込んできた人影に、男は動くこともできず。


「いよう」


 その人影には、熱が無く。何の感動も無いままに、ただ銃口を男に向け。その引き金に力を籠める。乾いた炸裂音が部屋に響く。


――それは、人の悪意が運命の歯車を軋ませ狂わせた、遠く過ぎ去った過去の話。

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個人HPにサブコンテンツ(設定集、曲遊び)を作成しています。よろしければこちらもどうぞ。

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