全ての始まり、その風景
――それは、今から二十年以上も前の話。
「……あん? なんだ、おめぇは」
そこは、新都の外れ、薄汚い路地裏にある、小さな部屋。ただ人が寝転がるだけで一杯になるような、そんな小さな空間。寝具の代わりだろうか、身長大の薄汚れた布切れが敷かれている以外には、何一つない、そんな貧しさに満ち溢れた場所。
その部屋に独り、元は白かったであろう、薄汚れた人口石の壁にもたれかかるようにして座る、一人の少年。ようやく15才になろうかという頃合いの、未だ子供臭さが残るその少年――アスト――は、部屋の扉を無断で開け放ち、自分を見下してくる視線の主に、身を起こそうともせず、ただ睨みつける。
「口だけは威勢が良いわね」
開け放たれた入口には、白衣を着た一人の若い女性。背後に護衛らしき男たちを引き連れた女性の、自分を下に見るその視線に、少年の荒んだ心は、苛立ちを募らせる。
清潔な服装に身を固め、手入れされているのだろう、汚れ一つない、艶やかな黒い髪。いかにも綺麗事だけで生きてきたかのような、汚れなど知らないような白い肌。そんな存在が自分を見下していると、そう思うだけで、少年の心に反吐がたまる。
「……はっ! なめた口聞いてんじゃねぇ。犯すぞ」
「あら、どうやって私を犯すつもりなのかしら。とても興味があるわ」
心の汚物をぶつけるかのように言葉を吐く少年。その言葉を聞きながら、恐れる素振りを見せず、ゆっくりと少年の方へと歩み寄る女性。
「そこまでなるのに、何日くらいかかるものかしら。一週間、それとも十日間? そのあたりから発狂する人間も出てくるらしいわね」
やがて彼女は、少年の目の前でその身を屈ませ、少年のあごをその細い指で持ち上げ、そのやせ細った顔を、不躾に、なで回すように見続ける。――幾日も口に物を入れていない少年の、そのこけおちた頬を、血の気のない顔を、青ざめた唇を。
そして、顔を近づけたまま、少年の瞳の奥へとその視線を向け、冷たく語る。
「ほら、近づいてあげたわ。襲い掛からないのかしら」
「……ざけあがって」
目の前の、驕傲な態度を崩そうとしない女を、少年は凄んだ声をあげながら、睨みつける。
女の冷淡な視線と、少年の怒りの視線がぶつかり合う。すぐ手が届く位置、垂れ下がる髪に頬を撫でられながら、怒りに震え、それでも身体に力を入れることすらままならないまま、飢えた少年は、ただ目の前の女を睨み続ける。
やがて、少年の顎から手を離し、少年を見下ろしたまま、女は立ち上がる。
「正気ね。結構、話が早くて良いわ。実は貴方に話があるんだけど、聞く気はある?」
「あん?」
「そう、じゃあ勝手に話すわ」
「……おい、てめぇ」
相手の意志を無視して話し続ける女に、少年は怒りをためる。――そして、その怒りを全身に巡らせるかのように、ゆっくりと、身体に力を入れる。
「私たちはね、国から依頼を受けて、武器の研究をしてるの。けど、悲しいかな、駒が足りなくてね。どうにも研究が進まないと、そんな状況ね」
「なに勝手にべらべらと」
「いい駒は無いか、色々と探しててね。で、君たちが引っかかったと。周りに人がいるかを正確に把握し、最適な道筋で逃げ回るコソ泥君たち。君はアスト君の方かしら」
少年が拳を握る。少年の足が大地を踏む。
「ねえ、その力、先天魔法かしら。どうやって、周りの人を正確に把握しているのかしら」
「……知るかよ、そんなこと。視えるだけだ」
「人間は常に、無意識の内に魔法を発動しながら生きている。それを把握しているのかしら。なら、それは『解析』、とんでもないレアな駒よ」
「……何をべちゃくちゃと」
少年は、全身に力を込める。後のことなんかどうだっていい。どうせここでくたばるのが関の山、そんな未来しか無かったんだ、それでも……
「最適な道筋で逃げ回る、それはどうやってやってるのかしら。たまにいるみたいね、そんな、まるで『魔法をつかったみたいに』一瞬の内に物事を判断できる人が」
「……おい、いい加減に……」
「貴方たち、私の駒になる気は無いかしら。そうすれば、私に出来ることならなんだって……」
……このクソアマだけは、一発殴らねぇと気がすまねぇ!
「ふざけてんじゃねぇ!」
ただ一度、全ての力を振り絞って、殴りかかる少年。それまで、力なく座り込んでいただけの身体が跳ね上がり、堅く握られた拳は、すぐ目の前にいる女、その顔に向かって振り上げられる。彼に残された全ての力を振り絞って。――死にかけの身体にふさわしい、緩慢な動きで。
たやすく払われる拳を握った右腕。たったそれだけでふらつく身体。容赦なく、自分の服装のことなど気にした風もなく襲いかかってくる蹴りに、よろめき、横手の壁に再びもたれ掛かるアスト。
「アハハハハハハ! 弱い、弱いわ、なんてか弱い! こんな可笑しいことは無い!」
女は嗤う。狂ったように。そして、力無く壁にもたれかかるアストを冷たく見おおしながら語り始める。
「ああ、可笑しい、可笑しい、――オカシイにも程がある!
こんな才能が地を這いずって、無能が、役立たずが、のうのうと! 人の才能を食いつぶして生きている! こんなふざけた話が、そこらへんに転がってる!」
やがてその声は熱を帯び。冷たい視線に熱さが籠る。アストの中に眠る才能に、宝石を贈られた女のように、瞳を輝かせ。背徳と知りつつも進み続ける女のように、何かに酔いしれながら。
瞳に妄執を宿し、詠うように、アストを誘う。まるで、共に堕ちようと。一緒に背徳への道を歩こうと。――真実、その先に待つのは、誰にも認められない、罪人の道と知りながら。
「ねえ、貴方。さっき『ふざけんじゃねぇ』って言ったわね。そうよ、ふざけてるわ、この世界は、この世の中は。
ねぇ、貴方。その才能で、このふざけた世の中に、一泡吹かせたいと、そう思わないかしら。そう思わなくてもいい、今よりもマシな生活をしたいと思わないかしら。
……そう思うのなら、ウチに来なさい。そうすれば、このふざけた世の中でただ死ぬだけじゃない、もっとマシな生き方を約束してあげるわ」
最後は熱から醒めたのだろう、冷静な声に戻り、引き連れてきた男たちの一人に視線を送る女。その視線を受けた男は、あらかじめ準備してあったのだろう、紐で束ねられた銅貨を、アストの目の前に放り投げる。
「つい十日前に捕まってしまった君の相棒も釈放させる。それなりの給料も渡せるわ。君には何一つ損はない。こんな所で死ぬ位なら、一度でも良い、私の所へ足を運びなさい。
それは支度金よ。その金で身支度を整えたら、ウェス・デル研究所にまで足を運びなさい。……そうね、『シェンツィ・アートパッツォに会いに来た』とでも言えばいい。たったそれだけで、君たちは、今までよりも遥かに人間らしい生活を送ることができる。
……もう一度、君に会えることを期待しているわ」
そんなことを、アストのことを顧みずに、一方的に言い捨てて、踵を返す女を、半ば呆然と見送るアスト。やがて、誰も居なくなった部屋で、独り思う。
(なんだってんだ、あのアマ)
訳もわからないままに現れて、言いたいことを言って、立ち去っていった女。気狂いとしか思えないその言動に、それでも一つだけ、聞き逃すことの出来ない言葉が混じっていたことを思い出す。
(相棒を釈放させる、確かにそう言ったな)
たった十日ほど前、へまをして捕まった自分の相棒。路地裏で、命を張ることと盗むことでしか生きられない自分たちにとって、捕まることは死ぬことと同じ。釈放される前にくたばるか、釈放された後にくたばるかの違いだけだ。――捕まるようなヘマをして、顔を知られた奴に仕事を回す奴などいないのだから。
それでも、相棒なしで盗みを働くよりは、出てくるまで待った方がマシだと、最低限の金を残して、相棒が出てくるのを待っていた彼にとって、その言葉は、何よりも魅力的だった。
(……どうせこのままじゃジリ貧だ。なら、話に乗ってやってもいいか)
そんなことを考えながら、ゆっくりと立ち上がるアスト。地面に転がった銅貨の束を拾い上げ、ふらふらと外に出る。――まずはメシだ、そうして休んで、明日にでもその研究所とやらに行ってやるか。それにしても、こんな路地裏のくたばりぞこないに身支度なんて、アホか、あのアマ。何をどうしろってんだ。これだから金持ってる奴はと、そんなことを思いながら。
◇
こうして、アストとシェンツィは運命の出会いを果たす。彼はまだ、出会った相手が何者なのかを知らない。シェンツィが、元は軍研究所にいた研究者であることを。なぜ彼女が軍研究所を追われることになったのかを。
人の血を分析し魔法を解き明かそうとした、異端の科学者。さらにその研究を進めて、人の血を加工することで、魔法技術を一歩先へと進めようとした、禁忌の科学者。誰よりも真摯に、魔法の源となる「血」と向き合いながら、誰にも理解されなかった、孤独な科学者。
誰も信仰心を持ち合わせないこの国でなお、認められなかったその研究から、彼女、シェンツィ・アートパッツォはこう呼ばれている。――「血に狂った科学者」と。
――二十年前の、ほんの小さな一つの出会い。それは、路地裏に転がり、短い人生を終えるはずだった、少年の死を遅らせる。……それは同時に、人知れず埋もれていった「国立研究所虐殺事件」という事件を起こすことになるアストという一人の研究者の、始まりの風景でもあった。