潮騒
何も変わらなくて、良かった。
僕はその日、一人で海を見ていた。いや、言い直そう。その日「も」だ。僕は毎日なにもすることがなくて、愛用のピンクカッターと一緒に、砂浜にあった流木の上に、ちょこん、と腰掛けていた。今日も海は変わらない。世界も変わらない。潮の音の所為で、愛する友人だけが錆びていく。
だけど、その日は違った。
「僕は君を殺した―――」
そう言う男が訪ねて来たのだ。僕は男を見つめた。
「僕を、殺した?」
男は無言で頷く。
「じゃあ今の僕は何なんだ?死んだ僕が造り出した虚像とでも言うのか?」
「そうかもしれない」
「随分と曖昧な答え方をするんだな」
「だって、君のことは君が決めるんだ。人生も、今の在り方も」
死んでるんだったら、人生とか関係ないと思うのだけれど。僕の考えを見透かしたかのように、男は笑った。嘲るような笑い方だと思ったけれど、それは僕に向けられたものというよりは、男自身に向けられたもののように感じた。
「人生は死後も続くと、君は信じるか?」
幽霊とかの話だろうか。僕は首を傾げる。今まで、そういうものについて考えたことはなかった。
「信じるも信じないも君次第だ」
男は続けた。
「この世界は君の思い通りになるんだから」
僕は目を見開いた。
また男は僕の思考を見透かす。
「夢だと思いたいならそう思えば良い。世界は君に応えるだろう。ただ僕は世界が認めた侵入者だ。何度目が醒めても僕が消えることはない」
世界が僕に応えてくれるのなら、どうして僕はこの小綺麗な砂浜で、一人で居たんだろう。僕は男を見た。
「腑に落ちないと言う顔だな」
「だって、僕はずっとここに居る」
男はまた笑った。
「僕だって、ここに居る。君が世界に呼びかけたから、僕は世界に赦されて、ここに居る」
それじゃあまるで、僕がこの男をここへ呼んだみたいじゃあないか。それは不本意だ、というように眉を寄せたら、男は困ったような顔をした。
「仕方ないじゃないか。これが真実なんだ」
「真実というのは、嘘の重なりで出来るものだ」
「僕が嘘を吐いていると思うかい?」
僕は男の目を見据えた。おんなじ、目。
「―――貴方が僕を殺すのは、現実に起こったことなのか?もちろん、貴方にとっての〝現実〟で構わない」
「現実だ」
それは偽らない答えのように思えた。
「そうか」
僕は言った。
「それならそれで良いと言ったら、貴方は怒るかな?」
微笑みすら浮かんでくる。この夢もじきに醒めるだろう。男の言う世界は、きっともうすぐ崩れる。僕は何故かそう知っていた。男は哀しそうな顔をしていた。
「―――怒らないよ。だって、君の人生だもの」
でもそれから小さく、
「でも―――」
言いかけて、止めた。
左手首の紅が、ひどく、鮮やかだった。
何も変えないで、良かった。