頬を滴る雫
外の世界は恐ろしいもの。
そう思っていて、いつも自分の殻に閉じこもっていた。
いつしか、そこから出る術すら忘れてしまっていたらしい。
ずっとずっと、見えない何かに怯えてその中に隠れていた。
強固の殻は、僕を辛い現実から切り離してくれる。悲しいことも辛いことも忘れさせてくれる。
最早僕は、外の世界がどんなものだったかさえ忘れてしまっていたのだろう。
きっと今更外に出たところで、非難を浴びるだけだろう。
それを恐れて、僕は益々外に出ることを拒んだ。心配の声など偽物だって、知っているから。
それは雨のようなものなのだろう。
どんなに避けようとしたって、避けることなど出来ない。この殻を出れば、傘を持たない僕など避難と言う雨の餌食さ。
そんな冷たい雨を避けたくて、恐怖で隠れてしまったまま。
この殻を出て行く勇気など、僕のどこにもある筈がなくて。
殻の外に出て、君に実際に触れてみたい。
その想いが恐怖に勝れば、僕はきっと勇気を出せるのだろう。
ただし僕は不安に思ってしまう。
触れたいと思う君にさえ、恐怖や不安は感じてしまっている。
この様子では絶対に実現はしないだろう。
それでも君に触れたいと、ずっと思ってはいた。
その願いが叶わない理由は、僕が弱いから。僕が強ければ、すぐにでも叶えられる小さな願い。
普通の人ならば簡単に叶えられるけれど、僕は普通になれるほども強くない。そして弱い僕のことなど、強い皆では理解も出来ない。
無意識のうちに僕の心をズタズタにするのだから、恐ろしいものだ。
人と接すれば、必ず心は傷付く。
僕は特別傷付き易いってだけ。傷が治り難いのもあるから、すぐに心は粉々に砕け散ってしまう。
やっぱり僕は弱いや。人と接し心を傷付ける、それは僕にとって耐え難いものなんだもの。
辛くても耐えている人は、いっぱいいるのに……さ。
君の笑顔は、太陽のように明るくて元気で。温かくって。
蒸し暑いこの季節。僕は本当に君を求めているのかもわからなくなった。
寒いところは好きだし、温もりなんて求めているとは思えない。僕が人の温もりを求めるほど、生意気な存在だとは思いたくない。
身の程は弁えているつもりだ。
そんな無駄な僕の想いは、太陽を隠す雲のようなもの。
君の明るい笑顔を滲ませて、よく見えなくする。現れ始めていた光も、もう見えなくなってしまった。
そして遂に悲しい雫が滴り、滲んだ視界は完全に殻を閉ざした。
雨と言うのは、神の涙なのだと思う。
泣いているのは僕だけじゃない。神だって悲しいんだ。泣くのは、弱いからじゃないよ。
そんなことを自分に言うけれど、心が虚しくなるだけだった。
神が嘆いて、いつの間にか空全体を嘆きと悲しみで染める。
「……そこで笑えるほど、僕は強くないよ」
降り始めた雨に、僕は涙を零した。強くなれない自分を責め、嘆き悲しんだ。
悲しい灰色の空の下、それでも太陽のような笑顔浮かべている君。
僕は君のように強い存在じゃないから。君の隣にいられるほど、僕は強い存在にはなれないから。
空も僕と同じ気持ちなのではないか。ふと見上げて、僕はそう思った。
全てが嘆いているような、僕が嫌う季節。それがまたやって来てしまったんだね。
今日も昨日も一昨日も、その前だってずっと。
神は何がそんなに悲しいのだろう。このところ、雨が降り続いている。
雨に当たりたくない。だからそれを避けると、自然と皆が屋内にいてしまうだろう。
僕だけじゃないよ。この季節は、誰もが自分の部屋にいる筈さ。
そして誰もがそうなので、誰も誰にも会うことが出来ない。
外に出ても、独り雨に打たれるだけ。きっと手を伸ばしてくれるような人、いないから。
この雨は、僕の希望すら断ってしまうんだ。僕を更に殻の中へと閉じ込める、僕へ与える罰のような雨なんだ。
早く終わりはしないかな。もう嫌だよ。こんな季節、訪れなければいいのに。
一人きりの、寂しい季節なんて。
今日はいつにも増して物凄い雨だ。
いくら耳を塞いでも、ザーザーと雨の降る強い音が聞こえてくる。
時々、雷なんかも鳴ったりする。
それはきっと、神がお怒りであることを伝えて下さっているんだと思う。
僕みたいな奴がいるから、神は嘆くのだろうか。神は怒るのだろうか。
でも……、悲しくて辛くて恐くて。少なくともこの殻は、人の視線からは僕を守ってくれる。
これがないと、僕は殺されてしまう。そんな気すらして、僕はまた涙を零しているのである。
人が降らせる雨は、僕の胸を撃ち抜くだろう。
それはとても鋭く、冷たくも生温い雫。
僕を震えさせる、冷たい冷たい雨。気持ち悪さを感じさせる、生温い雫。逃げても逃げても、それは僕を殺すまで追い駆けてくるようで。
銃のようにも感じられるほど、それは鋭いものだった。
強く体を打ち付ける。鋭く体を撃ち抜く。
言葉は、言の刃と言う立派な武器だ。そしてそれは、何よりも強い武器なのではないかとすら思える。
僕の体をズタズタにする武器よりも、ある意味痛くて辛いもの。
僕の心をズタズタにする、そんな強い強い武器なんだ。
薔薇が咲いていた。
それは血のように紅い、人の罪が花開いたかのようで。
絶妙な色合いや形で、とても美しい花だった。
罪に汚れた筈の花。見たことないほどに、美しい花。
棘に刺さってしまうことを、恐れていたのであろう。
やはり美しいと感じながらも、その紅さを恐れていた部分はあるのだろう。
僕により、紅い薔薇を皿に血の色に染めてしまうことを、恐れていたのだろう。
更なる罪色を、美を望んでいた。けれど、そこに僕が入ることは恐れてしまった。
結局僕は、ただの臆病者のようだね。
怖くて恐くて、僕に近付く勇気などなかった。近付いて眺めることも、出来なかったんだ。
この恐怖と言う感情が、一瞬でもいいなら消えてくれたなら。
棘を恐れずに、美しい君に触れてみたいよ。傷付くことを恐れずに、行動してみたいよ。
実現することはない。恐怖と言う感情が消えれば、きっと最早僕には何も残らない。
それくらい、恐怖は僕の心を占めている。
だから決して、恐れずに動くことなど出来ない。けれど僕は、ずっと信じている。信じてはいる。
それが叶わない理由は、僕が臆病者だからだと思う。
僕にあと少しだけ、ほんの一握りでもいいから、勇気があったなら。
君に会いに行けたかもしれない。少なくとも、君を避けることはなくなったかもしれない。
傷付くことを恐れた僕は、大切な君を傷付けてしまっている。
そしてそんな自分を責めて、結局は自分まで傷付いているんだ。
本当に、自分のこの性格が憎いよ。
僕は夢を見ていたんだ。
そうすればもう少しポジティブになれる、そう思ってさ。
あまりにも遠過ぎる夢だった。
それでも君は、本気で僕を応援したいって言ってくれたね。
そうして君は本当に応援してくれたの。それが、君から笑顔を奪ってしまった。
応援してくれるのは嬉しいと思う。
でも僕が望んでいたのはこんなことじゃない。
君の笑顔がもっと見たくて、僕は夢を語ったんだ。叶わないことは知っていたし、本気で叶えるつもりなんてなかった。君には謝らないといけないよね。
君の笑顔がないと、僕は力も出なかった。
結局は夢も捨てて、哀しい雫が滴った。
所詮、僕はこの程度の存在なのさ。折角手にした希望も、全て僕のせいで壊れてしまう。奪ってしまう。
全てを失ってしまった。
絶望の下、僕は嘆いていた。
そんなことをしても、決して時が戻ったりはしない。
それどころか、更に無駄にしてしまうだけだろう。
それは自分でも思った。感じていたけれど、嘆いてしまう。
僕が奪ってしまった、君の笑顔。そんな笑顔の君すら、最も嫌う季節がまたやって来てしまったのだ。
今日も明日も明後日も、その先だってきっとそうさ。
ただただ、雨だけが降り頻っている。
僕でなくても、雨を嫌い屋内にいる人は多い。
どうせ外に出ても人すらいまいと、僕は言い訳付けて殻の中。
誰に会うことも出来ない。誰も雨の中、わざわざ会いにこようともしない。
鬱陶しいと口では言いながらも、本当は嬉しかったというのに。
毎日毎日、自分の家の中で一人切り。寂しさに埋め尽くされた、辛く孤独の季節。
降り続く雨に交えて、時々強風が吹いたりもする。
僕の嘆きすら掻き消すほどに、それは唸っている。空が発する悲痛な叫びだと思う。
そしてそれはきっと、僕の楽しかった過去すら吹き飛ばしてしまうんだろうね。
君と過ごした時間、記憶。全部、全部全部。
強い風が持ち去って行ってしまうんだ。僕が君にそうしたように。
雨の一粒一粒が、僕の体中に突き刺さる。
雨は僕の胸を討ち、楽にしてくれるんだ。恐怖からも不安からも解放してくれる。
その哀しくも美しい雫は、確実な一突きを放つ。そして僕を討ち殺してしまうんだ。僕のことを、討ち殺してくれるんだ。
それは最早、何よりも強い武器なんじゃないかとすら思えるよ。
僕の命を終わりへと導いてくれる。
僕を最期へと導いてくれる。道標となってくれる、光なんだ。
そんな、強い強い武器なんだ。
雨期。僕はそれが大嫌い。
でもこの時期が通り過ぎれば、雨はあがる。
四季を持つこの国だから、必ずいつか雨続きの日々は終わる。
晴れたからと言って、気分が晴れる訳ではないけれど。
幾分かはましになることだろう。嫌いな季節の終わりを僕は待つ。
この季節を嫌っているのは、誰も同じらしい。
それはきっと、空だって同じこと。憂鬱そうな空模様も、やがて晴れ渡り笑顔を見せてくれる。
雨が止んだときには、空は喜びを示してくれる。梅雨の終わりを喜ぶように、綺麗な虹を架ける。
実に美しく、罪も全て祓ってくれるような虹を架けてくれる。
それはそれは美しいもの。
綺麗な虹を見せてくれる雨も、また綺麗なものなのだ。
とかなんとか? そんなことを謳ったりしている人もいるらしい。
でもそれは違うと思う。
雨に当たったことのない、何も知らない人が言っているんだと思う。
僕は、雨で罪に汚れて、それに耐えると罪を祓う美しい虹が見られるのだと思う。
そして僕は勝利した。雨の季節を乗り越えたんだ。
もう臆病な僕でもない。
今年も去年も一昨年も、その前だってずっと同じだ。
雨がただいつまでも振り続いている。
梅雨が過ぎれば、空は笑ってくれる。けれど、人が笑ってくれる訳ではない。
人が降らす避難の雨は、決してやむことなどない。
雨は怖い。怖いけれど、僕は君を失うことの方が怖かった。
必死に雨の中、君を追い掛ける。君を追い掛け探すのだけれど、見つかる筈もなく一人切りで雨に打たれる。
悲しみに溢れ、雨に濡れていることも気にならなかった。
ああ、なんとも悲しい季節。
そんな僕の様子を、じっと見つめているようで。時々、紫陽花が嗤っているようで。
僕は惨めな気分になった。
きっと、本当に全てを失ってしまった僕のことを憐れんでいるんだろう。
以前の僕は、どれほど恵まれた環境にあったか。失ったからこそ、やっと気付いたよ。
雨は、僕の胸を打つ。
それが奏でる美しい音色に、僕は感嘆して立ち尽くして。
雨が美しいと言う言葉が、やっと理解出来たような気がした。
何も知らなかったのは僕だった、やっとそう気付くことが出来た。
雨ってのは凄いや。僕を何も出来なくしてしまうような、強い強い武器なんだ。
美しい、実に美しく優しい武器なんだね。
どんなときでも、隣で僕のことを守ってくれる。
攻撃するように見せ掛け、本物の脅威から守ってくれる。
そんな、強い武器なんだ。
強くなれはしない。
だからこそ、僕は傘を差さないのさ。
雨は僕を傷付ける。僕を守ってもくれる。
だから僕は、弱い僕は傘を差さないの。
僕の目から溢れ出る、哀しい雫。
それを雨が誤魔化してくれる。
冷たい雨は、僕の悲しみを誤魔化してくれるから。
「たまには、打たれてみるのもいいよね」
なんて笑ってさ。
それでも隣で笑ってくれる君は、もういなくて。
「僕は、こんなに笑えるようになったんだよ? 外に出ることも出来なかった、あの僕が」
何を言おうとも、誰も答えてくれる人はいない。
けれど、僕は君に届くようにと笑うんだ。大好きだから、大好きだって気付いたから。
頬を滴る雫。