君の温もりと北風
早いものだ。
暦の上ではもう春を迎えたらしい。
しかし、春だなんて信じられない。むしろ、寒さは増したとすら思える。
暦とは違う。
遠いね。実際の春がやって来るのは、相当遠いようだ。
寒くて寒くて、手は冷え切ってしまう。
冷たくなってしまった手。
脳の命令も正しく聞いてくれない。動かしたくても、自分の体すら思い通りに動かない。
擦り合わせたって、大して温まりはしない。
それでも、少しでも温めたくて。寒さを誤魔化したくて。
ピューっと北風が吹き抜ける。
すると、一気に体温は攫われてしまう。体力だって攫われて行ってしまう。
体を温める小さな努力も、全て無駄になってしまうんだ。吹き飛ばされてしまうんだ。
君がいなくなってから、どれほどの時が経ったのだろうか。
わからない。数え切れない時間を独りで過ごした。
可笑しいなぁ。
もうそろそろ、孤独に慣れてしまう頃。
その筈だけど、今でもまだ感じているんだ。君が愛おしいって、未だに感じているんだ。
君のことを考えていると、体も妙に熱くなる。
どうやら、心の冬は永遠にやって来ないらしい。僕はそうも思えた。
もう二度と、僕と君が会うことはない。
会えないし、会うべきでもない。会いたいけれど、会いたくない。
その理由は僕が一番知っている。
僕はそれをよく知っている。それなのに、その筈なのに。
本当に、君に出会ってからの僕は変わってしまった。変になっちゃったよ。
会うことは出来ない。それを知りながらも、尚求め続けているなんてさ。
そんな僕の気持ちすら、北風が攫って行ってしまう。
冷たく吹き抜けて、僕の体を冷やすんだ。それだけじゃなく、僕の心まで冷やすんだ。
なんだか北風は、僕を嘲笑っているかのように思える。
いつもいつも、北風は僕のことを。
だから僕はそんな北風のことが嫌いであった。大嫌いであった。
「鬼は外」
子供のように、素直な心を取り戻したかった。だから僕は、一人でそう呟いてみる。悲しみから逃れたくて、一人でそう豆をまいてみる。
誰もいない、たった一人の場所。
一人でこんなことしていても、正直寂しくなるだけ。
生まれてからずっと一人でいた訳ではないから、寂しさに勝つことなんて出来ない。悲しさに勝つことが出来ない。温もりを知っている僕は、強くなんてなれなかった。
だから一瞬でも気を紛らす為、僕は豆をまいてみる。
それが僕に癒しを与えることはないけれど、ただ一人で豆を。
そのことにより、本当に鬼が去るのではないか。そうして、僕は悲しみから解放されるのではないか。そう考える気持ちも、ほんの少しだけあったからであろう。
どんな手を使ってでも、悲しみを齎す存在を消し去りたい。何に頼ることになろうとも。そう考える気持ちが、かなり強かったのであろう。
大きな理由はわからないが、僕が豆まきをしていたと言う事実は残る。何にしても何しても、ここに残ってしまう。
こんな方法にまで頼り、本当に情けないと思う。もし君が戻って来たとすれば、バカみたいと笑うであろう。
それでもこれで、本当に幸せな一年となることを願っているんだ。
結局、何をしても変わらなかったのだけれどね。
僕の頭には君だけ。紛らそうとしても、君は頭から離れない。
僕はいつでも君のことだけを想ってしまう。
大好きで大好きで、大好きで。
それは頭を埋め尽くすほど、今もまだ溢れているんだ。
鬼は憎い者と限らない。
もしかしたら、君が鬼なのかもしれないね。ふとそう考えてしまうんだ。
君は優しい。だけど、あまりにも優し過ぎてしまう。
悲しみを齎しているもの。それを鬼と考えるならば、僕の場合の鬼は君となる。
何よりも愛おしい、僕が何よりも求めてしまう。最高で最低の鬼。
幸せへと連れて行ってくれた。
そしてその後、僕のことを突き落としたんだ。
一度幸せをくれただけ、悲しみも大きく感じられた。ある意味最低な鬼だと思うんだよ。
本当に、他のどの鬼よりも卑怯さ。
君の熱い接吻を求めてしまうようだね。まだ寒い、節分が訪れると。
熱くて寒くて、あの幸せを思い出してしまうのであろう。寒さのせいで、あの幸せを思い出してしまうからなのであろう。
寒いときには、温かいものを求めるのが当然と言うもの。
つまりこの寒さのせいで、温かい君を求めているのであろうか。温もりを求めて、あの温かい口付けを思い出してしまうと言うことなのであろうか……。
節分の恐怖。君と過ごした節分の思い出は、まるで節分が幸せな記憶で恐怖を齎すものと錯覚させる。
それでもひょっとしたら、節分は関係ないのかもしれないね。
単なる大寒日による、寒さに感じている恐怖なのかもしれないね。
もう一度、あともう一度だけあの幸せが欲しいんだ。そうすれば、この状況も乗り越えられるような気がするから。
柔らかい君に触れれば、硬いこの壁も乗り越えられる。優しい君に触れれば、意地悪な神様の与えた壁も乗り越えられる。温かい君に触れれば、冷たいこの季節も乗り越えられる。
どんなに挫けそうなときにも、君は僕を励ましてくれたね。僕を元気にしてくれた、君の唇が愛おしい。
挫けそうだよ。辛い。苦しみや悲しみに、押し潰されてしまいそうだよ。ねえ。
今の僕に気付いたら、君は戻って来てくれるのだろう。触れることを許してくれるのだろう。
なんて、ありえないことは僕が一番知っている。君自身よりも、きっとね。僕が弱いから、君はいなくなってしまったんだから。
それなのにまだ、君に甘えようとしている。まだ強くなれない。
こんな僕を見たら、君は微笑んでくれると思う。そしてご褒美すらくれると思う。
触れることを許してくれるのだろう。あの時よりも、アツクアマク。
早く僕も君を卒業しなければいけないのに。
今だに節分が訪れると、君との思い出を思い出してしまう。
あの温かい温もりを、君のあの接吻を思い出してしまう。
それでは、君との温かい日々が悪いのだろうか。
弱い僕が背負うには、幸せ過ぎる日々だった。いっそ全部忘れてしまった方が、楽なのかもしれない。
君との思い出を忘れるなんて、出来る筈がないけれど。だってそんなのって、悲し過ぎるから。
お互いに幸せになろう。
別れ際、君はそう言った。あれが、僕にとって最後の優しさだった。
幸せにならないと、君の言葉を蔑ろにしていることになってしまう。大切な君なのに。
進もう。何度もそう決意はするのだけれど、また君の隣、幸せの場所へ戻りたがって。
その気持ちは、君のことも後の僕のことも苦しめる。
それはわかっている、わかっているのに。
溢れ出る醜い欲望、それを止める手段を僕は知らなかった。欲望って、怖いんだね。
君の唇を僕の元へ。お願いだからもう一度、あと一度だけで良いの。
欲張ったりなんか、しないから……。
君の唇は僕を強くする。
だからお願い。あと、一度だけ。
君の笑顔、僕の笑顔。花や虫、空さえも笑っていたあの日。
二人笑い合う、楽しかった夏の日。
過ぎてしまい全てを失った、遠い遠い夏の日。
懐かしい夏の日。手を伸ばしても、届くことはない。悲しい思い出と成り果ててしまった、優しさに溢れる思い出。
それを思い出していると、目元がじわじわ熱くなってくる。火傷してしまいそうなほど熱く。
その分だけ、他は寒いような気がする。
目元が赤いのは花が赤いのは、暑さのせいで寒さのせいだ。
目から出てくるこの水も、ただの汗なんだ。
そう、暑さでせいなんだよ。全部、この熱い胸のせい。
ぽつり。目から零れた雫も、北風が攫って行ってしまうんだ。
頬を雫は流れ落ちていた。君と過ごした夏を思い出すと、目から雫が溢れ出て、それは頬を伝いぽつりと落ちる。
そうだったんだけど。
やがて頬を滴る雫すら、北風は攫って行ってしまうようになる。
北風は冷たく吹き抜けて、温かい想いも温かい雫も乾かしてしまう。
温もりを全て失い、僕はどうしていいのかわからなくなる。温かさに怯えていたけれど、それが消えた冷たさはもっと悲しかったから。
秋になると、君はなんだか悲しい表情ばかり浮かべていたね。その儚いような美しい顔は、僕の記憶に沁みついて離れない。
そして悲しむ君を励ます方法がわからず、僕は君に近付くことが出来なかった。
二人の距離は離れていくばかり。それでも僕は、もう一度近付く方法なんて知らなかった。未熟な僕だったから。
秋が巡って来る度に、僕は君の悲しむ表情を思い出してしまうよ。
だから秋には、いつも胸が締め付けられるような気分になる。僕にとっては、君を失った悲しい悲しい季節。
もう二度と会うことは許されない。会ってはいけない二人になってしまった。
それは僕が一番わかっている。
そんなルール、本来なら守ることない。僕が君を守ればいいのだからと、僕は君に会いに行っていたことだろう。
しかし僕に君を守る力なんてない。僕に君を幸せにする力なんてない。それに気付いてしまったから、僕は君に近付くことも出来なくて。
こんな想いを死ぬまでするよりも、忘れて次へと歩み出すべきだ。
それは僕が一番思っている。
知っているのに、僕は忘れることが未だに出来ないでいる。
傍から見れば、僕は憐れみの対象となるような存在であろう。ここまで落ちて行った人、中々いないだろうからな。これが僕に与えられた罰、僕に掛けられた呪いなのだろうか。
全てを知り、尚悲しんでいるなんて。悲しみ続けているしかない、なんてさ。
落ちて行った恋も、北風は残らず攫って行ってしまう。破れてしまった、その気持ちさえ容赦なく攫って行ってしまうんだ。
今の僕なんて、その辺に捨ててあるゴミも同じなんだろうね。
それならば北風よ、僕ごと遥か遠くまで飛ばしてはくれまいか。
「福は内」
幸せなんて、自分で追い駆けなければ決して手に入らない。それは痛感した。
それでも今の僕には戦う力もなくて、そのくせ幸せを手にしたいなんて思っていて。
幸せが転がり込んで来てはくれないだろうか。幸せになりたいよ、人任せな願いを壁にぶつける。
こんなの意味はないとわかっているけれど、それすら信じなければいけないほどに今の僕は落ちてしまっていたのだ。幸せなんて、届く筈のない場所まで。
ただ幸せになりたいという想いを豆に込めて、叶う筈などないと壁にぶつけ続ける。
一粒跳ね返り僕に当たった豆。それはまるで、僕を嘲笑っているかのようで。
頭では忘れたいと思っているんだ。早く記憶から消してしまいたいんだよ。
それでも僕の体は、君の温もりを忘れようとしてくれないんだ。いつまでも覚えていて、それは消える気配どない。
その温もりを求めていて、離れようとなんてしてくれないんだよ。
悲しい、な。
むしろそれならば、絶対に離れないように。
決して離れはしないようにして欲しい。
僕を覆うようにする訳ではない。僕の周りを覆っていて、僕を守ってくれる温かい君でいなくてもいい。
ずっと僕の中に残り続けて欲しい。そうも思うんだ。
忘れたいと思うけれど、忘れたくないと思う気持ちを捨てられなくて。だから僕は、半端者の僕は……。
君の温かい接吻を求めてしまう。
いつでも僕を癒してくれた、あの温かく優しい接吻を。
君への愛を知った節分の思い出。だから節分が訪れる度、僕は接吻がどうしても恋しくなってしまうのだ。
これは、孤独でいるからなの? 冷たい孤独の檻にいるから、温かい外の世界を夢見ているんだね。
孤独であることから、君の温もりを探してしまっているんだね。本当は、それがなくても温かい場所に戻ることは出来るのに。
もしかしたら、僕を閉ざしている冷たい檻は君自身なのかもしれない。
君を忘れることさえ出来れば、僕は外の世界へ自信を持って歩み出せる。
あの温もりがなければ、あの温もりに囚われさえしなければ、僕は独りでも戦う力を持てた筈なのに。
独りは怯えることでもない。それでも独りである恐怖から、僕はいつしか君を探し求めてしまっている。
独りぼっち、ああ寂しいよ。
君の美しい唇に触れたいと思う。あともう一度だけでいいから、あの何よりも美しい唇に。
いつもよりもきっと、ずっとずっと。いつも君が与えてくれた温もりを、僕が君に与えてあげるように。そう願い。
その想いは強いから、君にも届くものだと信じている。
僕が君を幸せにしてあげたい。そんな想い。
どれだけ経っても、やはり君への想いは募って行くばかり。
あの美しい唇に触れたい。その思いも募る。お願い、あの日よりもアマクフカク。
接吻を求め続けてしまう。
鬼が去り福が訪れることを祈る。節分が訪れると……。
僕の胸にはパックリと穴が開いてしまっている。
もう塞がることのない。
この傷の痛みのせいなのであろうか。この、辛く悲しい傷の。
それでは、僕の恐怖の正体はそれなのであろう。つまり僕が一番恐れているのは、君なのさ。
そう、きっと君なんだよね。
君の唇を、もう一度さ。あと、もう一度だけでいいから。
欲張ったりなんてしない。
だからあともう一度、僕の元へ来てはくれないだろうか。
寒空の下一人、僕の体は凍えるばかり。
冷たくなっていく僕を、温めてくれる君は。
もういないんだ。
どんなに待っても、どんなに探しても。もう、僕は君に会うことを許されないんだ。
押し潰されてしまいそうになる。重い想い、圧し掛かる孤独。
それに抗う気力もなく、僕はこのままどうなってもいいとすら思った。
北風は冷たく吹き抜けて、僕の体を更に冷やす。しかし凍え切ってしまった僕には、それすら温かく感じられていた。
伝うのは、冷たく辛い雫。
それを北風が乾かして、残るのは寒さのみ。
僕はただただ、震えていることしか出来なくて……。
たった独りとなってしまった僕。何に触れることも許されず、全てを遠くに感じていて。
何をすることも出来ないなんて、所詮僕はその程度だって、自分の力も思い知って。
結局僕は、何かわからない恐怖にただ怯えているしかなかった。
ああ、やっと気付いたよ。
ずっと僕の強さだと思っていたもの。それは僕ではなく、隣にいる君の強さだったんだ。君がいなくなってから気付いたって、もう遅いのにね。
そうすると僕は、自分の弱さが悲しくなってきてしまう。
今更悲しんだところで、過去は変わったりしない。今更何をしたって、何も変わらない。何を想っても、君は帰って来ない。
あまりにも僕が弱くて。自分でも絶望するほどに弱くって、もう苦しいくらいだよ。
優しくて甘い、君の接吻を思い出す。
そして思いが募る節分がやって来ると、つい求めてしまうんだ。無駄であることも知りながら。
果たしてこれは、本当に寒さから温もりを求めているだけなのか。それだけのことなのであろうか。
それでは節分ではなく、大寒日の恐怖と言うこと? 君の節分の温かさは、凍った心も解かしてくれると知っているから。
もしかしたら、節分の想い出だって関係ないのかもしれない。
ただ僕は君が欲しいと願っているだけ。僕自身が鬼と化してしまっているのかもしれない。
もう二度と、君が帰ってくることなんてない。
それくらいのことは理解している。君がいなくなったあの日から、否、もっと前から気付いていたのかもしれない。
せめてもう一度、あともう一度だけ許しては貰えないだろうか。
あの美しい唇に触れさせて欲しいよ。
以前よりも、アツクアマク。
深い接吻を求めてしまうんだ。
君のくれたあの優しさを求めてしまうんだ。
冬が終わる、寒い寒い節分になると。
幸せな日々。僕を満たしてくれた、幸せ過ぎる日々。
その記憶は僕に残り、決して離れはしない。
そんな素敵な記憶のせいなのであろうか。幸せを一度知ってしまっているから、この状況には耐えられないのであろう。
幸せを求めている、人間の強い欲望。
その欲望は予想外なまでの強さを発揮する。恐ろしい、それには僕も恐怖を感じざるを得ないと言うものである。
僕の唇は、君のことを求めてしまっているようだ。
頭では別れを認めている。それなのに、未だ諦め切れずに求め続けている。
お願いします。僕の唇を、もう一度だけ君の元へ。
あー、もう! わかっているんだって。
わかっている。理解はしている。そのつもりではあるんだ。
どんなに求めたって、あの幸せが戻りはしないと。君が戻って来てくれたりは、しないんだと。
わかってはいるんだ。
いつまで君は僕を照らしてくれるのか。僕の心は君の想い出でまだ温かいよ。
太陽のような君に照らされて、僕はむしろ暑いくらい。
まだ夏はこれから。そんな錯角すらしてしまう、君のせいだよ。
僕の心には穴が空き、冷たい風が通り凍える。それは僕を冷やす筈だけれど、今の僕はそれすら感じることも出来なくなっていた。
僕の心の中を埋め尽くしているもの、矛盾しているようだけど、確かに存在するもの。温かくも冷たくて、それは。
君の温もりと北風。