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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

『きみがため、』

蟻と聖女

作者: 本宮愁

連作短編外伝② ※単体でも読めると思います

時系列的には本作がラスト

 名もなき死こそが終幕の始まりであった――と、末端の官吏がうそぶいた。


 崩れ落ちた城壁の下で、どれだけの兵が死んだのか。後世の書物に記される「はじめの犠牲者」は、おそらくあまたの兵のだれかになろう。そのような書物が綴られることがあれば、だが。


 記し残す者はいない。後世の話などをして気を紛らわせても、現在を超える術を持たぬ人の子らに、描ける未来は限られていた。



 落日を見ることもなく、人知れず散った光花のことは、どこにも遺らない。



 ルイス=エドゥアルドは、黙していた。かつて独断専行して地の底へ降りた王弟は、かの龍のことを、そして己が従者のことを、決して語りはしなかった。


 エドゥアルドの名を継ぐ王は、ただ静かに微笑んで、帰還した梏杜に「約定を守れ」と告げた。長兄の固い意思をくんだ末弟は、第七師団の長として最後の膝をつき、その位を元副官たる従弟に譲ることを提言した。


 それが、最後に月の満ちた夜のこと――。



 龍を狩りたくはないか、と尋ねられたあの夜を、梓勑は克明に記憶している。息を潜めて機を待つ梏杜が見せた、執念とも怨念ともとれる静かな怒りを、片時も忘れたことはなかった。




  *  *  *




 ――この瞬間を、待っていた。


 王族の誇りをかけた、陰惨とも呼べる戦いの末路を見届けて、闇の御子は皮肉に口もとをゆがめた。



「終わったな」

「終わったねぇ……」



 すでに埋葬という概念の廃れてひさしい腐敗臭に包まれながら、原型をとどめぬ従兄の断片を見下ろして、梓勑が淡々と応じた。


 誇りのもとに抗い、力及ばず、食らわれたものたちを知っている。我先にと死地へ飛びこんだ三番目の王弟あには、おそらく自殺志願だった。プライドの高い人だ、この光景を見ることなく逝きたかったのであろう。地龍は、その願いをあっさりと叶えた。


 王族は――英雄エドゥアルドの末裔は、このときのために生かされてきた。いつか訪れる地獄の渦中で、わずかな希望の礎となるためだけに。


 魔獣に襲われた民の盾となり散ったもの、家族とともに死することを選んだもの、混乱を極める情勢のなか逆賊の手で討たれたもの、やせ細った大地のわずかな実りを得ることを拒んで餓死したもの、すさんだ風に運ばれた役病に倒れたもの、人身御供よろしく生き餌に差し出されたもの、戦地に立ったこともない身で剣を握り足を震わせたまま一息に呑まれたもの――五十を超える王族たちの末路、そのすべてを梏杜は見届けた。


 退路を絶たれたとき、人はどこまでも非情になれるものらしい。すべてのものがそうだとは言わないが、おおむね美徳を抱いたものから厄災に食らわれ、臆病風に吹かれた狡猾な悪人ほど長く生きながらえ、そしてみな死んだ。


 誇り、などと。

 あれが誇りか。

 では、俺に託されたものはなにか。

 希望?

 ……小綺麗な。


 ちがう。そんなものではない。


 怨嗟えんさだ。

 一矢報いよ、と。

 このまま終わらせてくれるな、と。

 期待の形をとった、おどろおどろしいまでの衆怨しゅうえんが、この双肩にはかかっている。



「あはは……、やっと? やっと死んだの、兄上」



 乾いた笑い声が響く。


 まっとうな倫理観を持つ者であれば、眉をひそめずにいられないような昏い歓喜を口にして、梓勑は数回両手を打ちならした。


 もっとも、その振るまいを咎めるような崇高な志を持った人間は、この地獄にいたるまでに死滅している。



「おめでとう、梏杜。これでもう、あんたを止められる人間は全員死んだよ。――おっかない妹を除いたら、ね」



 ……まだ、残っていたか。この地獄をくぐり抜け、ひとり、おそるべき精神力で抗いつづけた『聖女』が。



「王家を後ろ盾に使うのはわかるけどさ。なんで俺につけたかなぁ」

「大きな猫を飼うことには慣れているだろう?」

「痛烈な皮肉をどーも。『花』を飾る方が好きなんだけどね」

「はっ」



 いまさらのように蒸しかえしてきた従弟の真意は、結局そこだ。それしかないと言っていい。



「鼻で笑いやがりましたか」

「――梓勑!」



 うんざりと肩をすくめた梓勑の背に、いつまでも少女のような若々しい声が、キンと響く。



「……きたよ、こわーい妹ちゃんが」

「あんなもの子猫だろう」

「はは、もっと大きな猫がいるとでも言いたげですね。すくなくとも私は、あなたに爪を向けた覚えはありませんが」

「よくいったものだ」



 爪どころか、もっとタチの悪いものを向けられた記憶ならば、腐るほどにある。こうして軽口をたたく日がこようとは、夢にも思わなかったが。



「聞こえてるんでしょう、梓勑!」



 肩を怒らせた義妹――ワタリミサトの恫喝を受けながした梓勑は、おどけた身振りで肩をすくめてから、ようやく振り返る。


 なんだかんだと言いつつ新しい妹を――すくなくとも穀潰しだと揶揄していた実兄よりは――気に入っている兄馬鹿は、グロテスクな惨状を隠すように、さりげなく彼女の注意を自分に集めることを忘れない。


 この部屋に散乱した魔獣の食べカスは、梓勑の実兄そのものだ。顔を合わせたことのあるワタリが気づかぬよう、彼女の意識が逸れている間に、奴はわずかに残っていた兄の名残を容赦なく蹴散らした。


 その上で、へらりと軽薄な笑みを貼りつける。



「はいはい。ミサトちゃん。なあに?」

「……わかって、いるでしょう」

「きみさ、ますます似てきたね。俺の妹っていうより、あの人の妹みたい」

「梓勑!」



 狂っている。

 どいつもこいつも、とっくに。


 胸焼けするほどの甘さを見せていた詐欺師が、フッと表情を消して、ただひとり残ったマトモな人間に語りかける。



「あのね、ミサトちゃん。わるいとは思うよ、俺たちの都合に巻き込んで。きみには罪も理由もない。だから、ここで降りてもらってもまったくかまわない。俺も、梏杜も、止めはしない。きみに止める権利も、ない。わかるね?」



 ワタリは、息をのんで、震えた唇を引き結んだ。


 はじめから、聡明で、聞き分けのいい少女だった。珠光あれに鍛えられた精神を強く持ちつづけ、悪趣味な舞台で軽やかに立ちまわってみせた。地龍という比類なき厄災を前に、軍部と王家が和解したのは、ワタリの尽力によるものと言っていい。


 実際には、見た目よりも遥かに年を重ねているらしい彼女は、気丈な女性だった。日ごとに苛烈さを増す極限状態のなかで、よく生きぬいた。


 王族の末端に加わりながらエドゥアルドの血を引かぬ彼女は、地龍の怒りに晒されることもなく、国民の槍玉にあがることもなく、不可侵の聖域としてなかば信仰の対象とされるにいたった。


 吉兆とされる『闇色』をたずさえていたことが、この期におよんで彼女を救い、あるいは縛りあげているとは……皮肉なことだ。



「どうしても、行くのね……?」

「ああ」

「行かない理由がなくなっちゃったからね」



 はなから、俺には言っても無駄だと考えているのだろう。傍目からもわかるほどに、かたく奥歯を噛みしめて、ワタリは名目上の『兄』を見上げた。



「あなたも?」

「俺は、――いえ、私たちは、とうに他の道を失っているのですよ。ミサト嬢」



 兄の仮面を脱ぎすてて、梓勑が慇懃に腰を折る。生来の猫かぶりが見せた敬意は、つまるところ拒絶でもあった。



「私――」

「ちがうよ」



 とっさに声をあげかけたワタリの肩を押して、やんわりと梓勑は制止する。



「それは、ちがう。きみは俺たちとはちがう。俺たちと一緒にはなれない」

「――はっきり言ってやろうか。足手まといだ」



 擬似フェミニストの言葉をさえぎって吐き捨てると、ワタリの瞳が陰った。



「本当は俺ですら、足手まといでしかないんだけどね」



 自嘲の笑みを浮かべた梓勑が、重いトーンで口を開く。



「珠光が地龍を目覚めさせる業を負っていたとしたら、地龍を眠りに落とす業を負っているのは梏杜だ。だからこそ、陛下は、唯一無二と言っていいほどの戦力の梏杜を、地龍から遠ざけつづけてきたんだよ」

「それは、……早すぎた、から?」

「そう。散々暴れつくして、それなりに腹も膨れた地龍なら、あるいは……ってね。滅ぼすことまでは叶わないとしても。期を待って、賭けの勝率をギリギリまで高めるために、梏杜は城に繋がれていた」



 まぶたを下ろすと、部屋中に染みついた血臭と獣臭が、一層強く感じられるようだった。全滅、だろう。数多の生命を屠ってなお、あの獣が飢えつづけていることを証明するように、影に憑かれた魔獣たちは、この砦に篭っていたものたちを無差別に貪り食らった。あれは満たされていない。満たされる日はこない。


 約定を守れ、と告げた長兄の顔が浮かぶ。有無を言わせぬ声色で、はっきりと己の死を覚悟した目をして、王は命じた。彼は誰よりも理解していた。やがて訪れる龍の世において、もはや人の王は必要とされないことを――。


 受け入れたのは、もはや己の望みは他にないがゆえ。生きながらえることに執着はないが、このまま終わらせてやる気も毛頭ない。背負わされるまでもなく、そのつもりだった。



「珠光の、ときは」

「有無を言わせずベルデに飛びのって、止める間もなく飛びだしてったからね。だれにも引き戻せなかった」

「名目上はな。わざと見送ったのは、お前だろう」

「嫌な言い方だなぁ。全力疾走するトライホーンを正確に射るなんて、私には無理ですよ」

「しらじらしい」



 わざとらしく人称を変えた猫かぶりを、鼻で笑う。



「……あなたを射れるわけがない」



 ひとこと短くつぶやいて、梓勑は視線をそらした。


 性質の悪いことに、弓に関して比類なき才覚を発揮した従弟は、まぎれもない天才だった。決して射損じることのない名手であり、おそるべき的中率を誇る『至高の弓』と讃えられてきた――不幸にも。


 その天才のまなざしは、血のつながらない妹へ注がれている。



「帰っては……こないんでしょう」

「そうだね」

「夢を……見させては、くれないの」



 ワタリの声が、手が、小刻みに揺れていた。うつむきがちに淡々と話すのは、激情を押し殺そうとするときの、彼女の癖だ。



「ワタリ=エドゥアルド。選んだのはお前だ。ここからが本物の地獄……覚悟して生きろ」

「生きてよ、ミサトちゃん。無事に引き分けたとして、だれも刻み残す人間がいないなんて、さみしいじゃん?」



 大きく息を吸って、呼吸を整えた『聖女』は、もはや震えてはいなかった。



「おなじ夢が見たかった。悪夢でもかまわないから、最後まで……ともに生きて、ともに……。しかし、私には私の戦いがあると、言うのね」




  *  *  *




 生きてよ、だなんて。

 大嘘つき。戻るつもりもないくせに。


 いっそ共に死ねと言ってくれたのなら、私はきっと泣かずにすんだ。どこまでいっても部外者でしかないことを思いしらされずに。



「いってらっしゃい。お兄様方。――ご武運を」



 冷たい『兄』たちに、深々と頭を下げて、潤む瞳を隠すことくらいしか、私にできることはなかった。


 さようなら。


 あなたはきっと戻らない。

 勝ちのない戦におもむいて、たとえ負けずとも戻らない。


 さようなら。


 泣いてすがることのできる幼さは、あの人が死んだときに捨ててしまったの。


 さようなら。


 どうか、あなたの死が、光とともにありますように。


 祈ることしかできない私は、ただこの地で語りつぎましょう。絶望的な終末に咲き誇った光花と、その輝きを囲いつづけた宵闇の末路を。闇を散らすこともできぬまま、別離に哭いた梓の弓を。語りつぎましょう。


 たとえ人の世が滅びても、そこに人が在るかぎり。




  *  *  *




 生存者を探すと言いはったワタリの背を見送り、梓勑は肩の力を抜いた。――これで、最後の枷も断ち切られたか。


 異界から訪れた娘――ワタリミサトは、宮中の立場とは別に、表向き『従者なき主』とされている梓勑の副官を兼任していた。むしろこの情勢では、梓勑の妹――王の従妹、という立場こそが付属品のようなものだった。


 長きに渡る平和ユメに溺れた代償は大きく、珠光を喪い、さらに梏杜という大きすぎる穴を抱えた第七師団は、それでも最強戦力と呼ばざるをえなかった。その生き残りも、もはやワタリのほかには、師団長を押しつけられた梓勑だけである。


 終わったのだ、みな。


 負けることを知りながら、若者を死地に送り出さなければならない罪悪を抱えることもない。梏杜の諌め役として、あるいは聖女の庇護者として、幼子をさしおいて優先的に生かされつづける葛藤もない。


 生き残る可能性が高いものを生かすというのなら、とうに生きつづける目的を亡くしている梓勑は、真っ先に死すべきであったのだ。それを、ここまで生きながらえてしまったのは、すべて宵闇に根を張った光花のせい。


 それも、ようやく、終わらせられる。


 地獄絵図の中心で晴れやかな笑みを浮かべ、梓勑は、年長の従兄を振りむいた。



「さて。地獄の二人旅といきましょうか、お兄さん?」



 見送るのは、あの一度だけで十分だ。あんな思いは二度としたくない。二度とできない。彼女の望みを叶える僥倖と、彼女を失う絶望を、同時に味わった、あの一度きり――。


 すべての元凶となった男は、ポツリとつぶやいた。



「これで、王家も絶えるな」



 梏杜――最後の王子ルイス=エドゥアルドは、この期におよんで、なにを思うのだろう。梓勑に言えた話ではないが、人並みの感傷が、この従兄に備わっているとは思わない。



「いいんじゃない? 抜け殻の国の王位になんて、いまさら意味もないでしょう」

「ちがいない」



 くつり、と梏杜が笑う。



「そもそも、地龍が、特定の血脈だけを狙うなんて聞いたことがない。恨まれたものだね、梏杜。……それでも陛下の御言葉を守って、兄弟全員死ぬまで待ったんだから、あんたにしちゃ上出来か」



 梓勑の皮肉を聞き終える前に、闇の神子は不遜な足取りで地龍狩り(神殺し)へ踏みだしていた。



「いくぞ」

「はいはい。王様・・



 業の深さを幾度も呪った。数えきれぬほどに煮え湯を飲まされて、数えきれぬほどに血を吐いた。いっそおなじ深さまで沈みたいと、どれほど願ったところで、地を這う蟻に許された足掻きは、せいぜい闇の底深く惑うことだけだった。


 最後の肉親となった、罪深い従兄に腰を折る。



「――お供しますよ。悪夢の終わりまで」



 あなたから預かった軍隊蟻は、ひとりのこらず果敢に散った。最前線に立つことを許されないあなたの代わりに、地龍の怒りを直接浴びて、それでも剣を構え、抗い、そして喰らわれた。父を、姉を、従兄弟を、伯父を貪る龍に弓を引きながら、己もまた頑強な牙に貫かれることをどこかで夢見ていた。


 いっそ儚く散ってしまおうかと感じたことは幾度もある。それでも死線をくぐり、こうして生きながらえてきたのは、蟻の王に従うことこそ我が宿命であると確信していたからだ。


 『もしも私が側を離れるときがあれば、どうか彼の方を』――と、かつて彼女が語ったことなど、おそらくあなたは知らぬのだろう。彼女の座る席をあたためつづけた年月に交わしたわずかな言葉が、俺のなかでまさしく呪いのように幅を利かせていたことなど。


 黒々と燃える従兄の瞳のなかには、やはりあの日から変わらず、光の残滓が巣食いつづけていた。




  *  *  *




 矢をつがえたままの腕が震える。



「射ろ、梓勑」

「……けっきょく、俺はこういう立場?」

梓勑フォルミーカ

「その目は、反則だと、思うんだよね」



 暴れつづける巨大な顎の奥深くへ飛び込み、内側から脳天を刺し貫いた梏杜は、おびただしい量の血に濡れた姿で、いつかとおなじ昏い炎を瞳に浮かべながら梓勑の矢を待っている。


 意味もなく軽口につきあってくれるような男ではないと、知っていた。目的のためには手段を選ばず、ただひとりの例外を除いては、彼の目に映る世界は等しく無価値な塵芥にすぎぬのだと――。


 闇のなかに巣食う光花が、いまだに俺を縛るから。

 最悪な選択だと知りながら、抗うことを許さない。


 先立って斬り落とされた厚い舌も、度重なる戦闘で削られてきた頑強な牙も、もはや矢を妨げない。要求されているコースは、はっきりと見えている。それでも震えつづけた腕は、できることなら抗いたくてたまらない梓勑の心をハッキリと映していた。


 迷う時はない。道もない。許された選択がひとつなら、不本意ながら腹をくくるほかない。



「梏杜。お前まじで最悪な王だよ」



 弦が震える。


 目標へ迫ったその瞬間に、一層激しく暴れた地龍の爪が、ごっそりと肉を奪い去っていった。ほとばしる熱に視界が霞んで、従兄の行方は見えなかった。


 それでも、射抜いた。

 確信を持って言える。

 ……射抜いた。


 『呪い矢』はあやまたず目標を――、梏杜を、捉えたことだろう。くそったれ、と毒づいても、聞こえたかどうか。


 これは、梓勑の背負う業だ。恋い焦がれたかのじょにも、かのじょを独占しつづけたかれにも、遠く及ばぬ、呪われた業だ。


 ――龍を、狩りたくはないか。


 あの王は、一度として、眠らせるなどという生ぬるい言葉を使ったことはなかった。はじめから、微塵の迷いもなく、神に等しき獣を葬りさろうとしていた。


 そのための道具として、梓勑を使うことを厭うはずがない――。


 暗転する世界のなかに、光を求めて手を伸ばす。黄金に輝く巨体には目もくれず、その向こうに霞む、淡い輝きだけに意識を向ける。


 義の在り処など、どちらでもよかった。


 たとえ地龍が父祖であるとしても、梓勑の求める光は変わらない。道理を曲げてでも、古より地に這う獣こそがまがいものだと吐き捨てられる。


 あらゆる禍福は地龍より生まれいずるもの。珠光につながれた縁も、梏杜に背負わされた業も、梓勑に科せられた呪も。


 神に等しき――父なる獣は、地底深くにて咆哮した。

 グウォンと広がる振動に、乱雑に食い破られただけの簡素な洞は崩れだし、あまたの巨石が降りそそぐ。


 死ぬわけにはいかない。

 最悪な王を殺すまで、死ぬわけには。




  *  *  *




 弦を震わせつづける弓を落として、ひとり立ちすくんでいた。

 ざり、と土を踏む音がして、闇色をまとった少年が横に並んだ。



「射たのか」

「……しかたなくね」

「殺すのか」

「……そう、なるかな」

「殺すことをわかっていて、生かしたのか」

「……うん」



 従兄はなにも答えずに、ただ目を細めた。

 その視線の先には、獲物を横取りされていきり立つ、あざやかな光色の少女がいた――。




  *  *  *




 ()()()()()()と、俺は独りだった。

 ずっと、独りだった。



「それを、望んだくせに」



 最悪な王。最悪な従兄。最悪な主の主。



「ルイ……」



 あなたが望むなら叶えずにはいられない。

 それは常に彼女の願いと共にあったから。


 終わった。終わらせた。

 信じつづけた神をこの手で殺して。

 すべてが終わった。


 ああそうだ、死のう、――と思う。

 彼女に会いにいこう。

 彼女がこの世に留まる理由はなくなってしまったから、この世のどこにも彼女はいない。

 追っていったところで、きっと傍らにはあの、憎々しくも敬愛する従兄がいて、そのどちらも俺を歓迎してはくれないだろうけど。

 この手は、この声は、決して届くことはなく、また永劫の孤独を噛みしめることになるだろうけど。

 それでも、彼女に会いにいこう。



「待って」



 右手には、地龍と従兄の血に染まった黒剣が握られていた。覚えている。夢うつつのなかで、遠い思い出と、すべての終わりを、見ていた。



「梓勑、……梓勑ッ……フォルミーカ!」



 うすぼんやりとした視界のなかに、従兄とおなじ闇色が映る。


 ああ、そうか。

 まだ残っていた。

 この世には、まだ、彼女の慈しんだものが残っていた。



「お願い。行かないでとは言わないから、引き止めたりしないから、生き残ってしまったなら生きて――!」



 どれほど短い期間でも、どれほど軽い思いでも、そこに彼女の心があったのなら、『梓勑』は従わねばならない。



「ねぇ、ミサトちゃん」



 与えられなかったから。届かなかったから。

 言い訳は無数にあるけれど、この屈折は生来のものだろう。



「首を落としてくれないかな」



 少女が唇をかみしめる。



「……私には無理よ」

「梏杜の剣がある。重さに任せれば、そんなに難しいことじゃないよ……あとはきみだけだから。きみが、きみの意思で俺を終わらせてくれるなら」

「甘えないで!」



 勢いよく頬を張った柔らかい手の感触とともに、この女性は年上だったのだな、と思い出す。争いのない土地で――まがいものとは異なる平穏のなかで、生きてきた女性。


 梏杜に、珠光に利用され、それでも自らの意思を貫いて気高く立ちつづけた聖女。妹として連れられるより前から、俺は彼女を知っていた。彼女の弱さを知っていた。彼女の孤独を知っていた。互いに猫をかぶりあったまま、兄と妹として過ごした月日が、頭の片隅によぎる。いま思っても、うすら寒い猿芝居だ。だけど、楽しかった。



「殺さないわ。死なせない……」

「そう」



 重い身体を起こそうとして、そのときようやく、左腕の感覚がしないことに気づいた。重い木の棒がさがっているように、ピクリとも動かない。地龍の爪を防ごうと、あの一瞬、無意識に腹を庇ったのだろうか。生き残るつもりなどなかったのに。死んだのが神経か心かは知らないが、これで、二度と弓は引けない。その事実に、ただ安堵する。



――軍属が決まったそうですね。

――なんとか。監察官っていう肩書きは剥がせなかったけど。

――野放しにしたくないんでしょう。前例が前例ですから。

――梏杜ね……ちょうどいいや、名前決めてよ。

――私がですか?

――そ。俺には相方がいないからさ。兄上に決められるのはご免だし。

――自分で決めればいいでしょう。

――それはそれで面倒じゃん? ほら、適当でいいからさ、ルシフェル。

――やめてください。

――俺のセンスのなさは身にしみてるでしょ。だから……

――シライ。

――え?

――弓が得意だと聞きましたので。不満でも?

――俺、弓嫌いなんだけど。梓弓なんてかわいげのあるもんじゃないし。

――お返しです。

――うわ、ひどい報酬。



 ほんとうに、ひどい。

 俺が内心でどれだけ歓喜したか。あなたに名を呼ばれるたびに、どれだけ狂喜していたか。


 呪われた弓の腕を、はじめて誇らしいと思った。

 射抜いた対象につかの間の不死を与え、獲物の簒奪者に報復する、強欲な呪いを。

 はじめて、許された気がした。


 梓勑。この上ない報酬。

 俺を縛りつづけた呪い。


 いまさらになって、喪失感を噛みしめる。こみ上げる涙を隠すように苦笑しながら、残された右腕を頼りに上半身を起こした。気づけば黒剣は取り上げられて、ワタリの胸に抱かれている。



「ごめんね」



 これから俺はきみのためだけに生きて、きみに縛られるけれど、それはきみの鎖じゃない。


 知っていた。彼女は同族だから、見抜くのは簡単なことだった。巧妙に隠された彼女の本心を、ひそかに向けられる瞳のなかのわずかな熱を、同情心がやがて共感に変わっていく過程を、すべて、知っていた。この地獄を気高く生き抜いてきたのが、誰のためだったのか。


 知った上で、俺はひとりしか選べない。



「……ごめん」



 理由を問うこともなく、聞き分けがよく聡明な聖女は、黒剣を抱いたまま微笑んだ。こんな俺の狂った執着さえも、すべて承知と受け止めるように――。



「馬鹿ね。私に生死をゆだねて、あなたの望みが叶うわけないじゃない」



 ワタリが黒剣から手を離すと、主を喪った武器は、自重で土に突き刺さった。まるで墓標のような柄に、小ぶりな花輪がひとつかけられて、もうひとつが俺に差し出された。


 真白い花が、そっと首にかけられる。この枯れた大地で咲き誇りつづけたその花を、かつて俺はよく知っていた。



「ほんとうに、馬鹿……」



 声を揺らして、ワタリの指が首に周る。たいした力も込められていなかった。形だけ添えられた指の爪が、ほんのわずかに肌へ食い込む。



「『梓勑』は死んだ。それでもいい。抜け殻でも欲しがったのは私なんだから、あなたが謝ることじゃないわ」



 家族を、友を、亡くすたびに花輪をかけて、首を落として火に焼べた。土に埋めれば地龍に喰らわれ糧となる。されども空腹は地龍を目覚めさせる。ゆえに身体は地に捧げられ、頭部だけは煙に託して天に捧げた。


 この地に生まれただれもが忘れた葬送を、彼女だけがひとり守りつづけていた。みなが狂い死んでいく絶望のなかで、ただひとり。


 聖女ワタリミサトは微笑む。



「可哀想な蟻の遺児(フォルミーカ)。それでも私にはあなたしかいないのよ。自殺するなら私を殺してからにして」



 できるはずがないことを知りながら、だれよりもそれを理解しながら、……ああ、ほんとうに。


 そっと頭を包んだ腕に、無抵抗に身を委ねながら、これから重ねる時を思う。生きねば、ならないらしい。俺にこの子は殺せない。この子が死ぬことを彼女は望まない。俺が死ぬことを、この子は望んでくれない。だれも俺の望みなんて聞いてくれない。



「勝手な奴ばかりだ」

「あなたもね」



 絶望の片隅で、抱きあったまま泣き笑いを漏らす時間が、このまま止まればいいと思った。

最後までお読みいただき、ありがとうございました(´ω`謝)


ひとまず外伝シリーズ完結作として位置づけますが、いずれもうひとつだけサイドストーリーを追加するかもしれません。

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