猫かぶりな俺サマ
第一節 俺の名は銀次
「ほーら、ミルクこっちにおいで〜」
床に座り込んだ男が、俺様に向かって猫なで声をかけてくる。そんなもんチラつかせたって無駄だぜ。俺はそこいらのアホと違って、食い物じゃあ懐柔されない。第一、お前が手にしているヤツはディスカウントストアの今月の目玉商品。つまりは安物だろーが。
よくもまぁ俺とハニーのとろけるような甘い休日をぶち壊してくれたな!! シャアァッと全身の毛を逆立てて威嚇してやると、拓海は肩をおとしため息をついた。まったく…怯えた素振りを見せないのがムカつくぜ。
「なぁ那奈美…俺って嫌われてんのかな」
「そんなことないわ。友達みんなに懐いているもの。人見知りしているのかもね」
あぁハニー…拓海なんかに微笑まないでくれ。俺はたまらず二人から視線をそらした。
このアパートに引っ越してきてから三ヶ月が過ぎた。俺とハニーのお城に土足で踏み込んできた男の名は諏訪部拓海。拓海はハニーが大学とかいうところに進学してから現れた邪魔者だ。
「でもさぁ威嚇してるぜ…? こいつ去勢すれば大人しくなるんじゃないか?」
なにぃ─っ!? ふざけんじゃねぇぞバカ拓海っ!! 男のシンボルをちょん切るなんて冗談じゃねぇ!! 魚屋の「五郎」なんか去勢したら甲高い声になってまるまると太り、内股で歩くようになっちまったんだからなっ!! 俺サマが内股で歩けるかっ!!
「ミルクは雌ネコを襲うこともないし…手術なんて可哀相よ」
ハニーはよくわかっているぜ。硬派な俺はメス猫を襲ったりしない。
仲良く腰をおろしてじゃれ合う二人にいたたまれなくなった俺は、未練がましくも時折、振り返りながら玄関へと向かう。集会の時間には早いがここにはいたくない。
ペット可のアパートには、玄関右手に俺様用の小さな扉までついている。頭を突っ込むだけで出入りできる扉だ。しみじみと「心憎い演出だぜ」と思う。外に出てみると、俺のさびれた心とは反対に雲一つない。夏が近いのか、そよ風からは青葉の香りがする。アパートや庭付き一戸建てが並ぶ静かな住宅街を、俺はノロノロと歩きはじめた。
俺の名は銀次。お気づきのとおり俺は雑種の雄ネコで、飼い主であるハニーこと小畑那奈美がつけた名前はミルクだ。こんな乳臭い名前、硬派な俺には似合わないし俺の毛色は全身まっ黒。正直このネーミングセンスは疑わざるをえない。でもそこがハニーの可愛いところでもあるんだよな。俺たちの出会いはほんとに運命的だった。ハニーがまだ中学というところに通っていた頃の話だ。
あの頃の俺(推定2歳くらいか)はケンカにあけくれていた。季節は凍えるような冬。ハニーの実家は田んぼや畑に囲まれたド田舎にあって、やたらとネコや犬を飼っている家が多かった。そのせいか捨てネコだった俺は拾われることなく、野良ネコとして逞しく生き延びていた。ネコとして生きていく為には「縄張り」ってやつがどうしても必要になってくる。俺は「シマ」って呼んでいるが、そのシマを巡っての争いが絶えなかった。飼いネコの「ぶっちー」はやたらと太ったやつで、俺のシマを度々荒らしやがった。だからケリをつけるためにタイマンをはることにしたが、ぶっちーは子分を五匹も連れてきやがった。卑怯なヤツだとは思ったが、あえて俺は戦った…そして敗れた。
惨めだったぜ。ガキでもケンカで負けるのは悔しかった。シマを失った俺はあてもなく彷徨い歩いた。全身傷だらけで食う物もない。極度に痩せていたから体力もない俺サマ。
もう俺は死ぬ…俺の魂は尽き果てた。最後に皆が噂していた『うまさ爆裂!! にゃんこフード』なる新製品を食べてみたかった…。
電信柱にもたれかかるようにして倒れた俺は、閉じかけた瞼をうっすらと開く。空からは何か白いものがひらひらと落ちてくる。顔をあげ改めて自分の身体を見ると、黒い身体の所々が白くなっていた。空から舞い降りる白い妖精たちは、あっという間にあたり一面を銀世界にしてしまう。ぼんやりしていると、不意に視界が何かに遮られた。
「かわいそう…死んでないよね」
頭上から柔らかな声が降り注ぐ。俺の視界にはビニール傘と赤いコートが飛び込んできた。人間が…少女が俺を見てしゃがみこんでいる。こんなに近くで人間を見たのは初めてだった。人間だ!! 慌てて逃げようとするが身体が思うように動かない。もたもたしているうちに俺は抱きしめられていた。
「おまえ…うちのコにならない?」
俺に微笑んだ人間の少女からは後光が射していた。本当に眩しかったんだ。
五年前を思い出しただけでウットリするぜ。今の俺は至福の顔をしているだろうな。
「よぉ銀次〜」
呼ばれた方を見上げると、ブロック塀の上にキャサリンの姿が見えた。
「おぅ!佐助 今日はドレスじゃねえの?」
「マダムは一週間の出張。だから羽をのばしているところさ」
佐助は軽やかに地面へと着地した。こいつは隣の豪邸で飼われている血統書つきの雄シャム猫「キャサリン」だ。キャサリンというのは飼い主のマダム北村が命名した名前。こいつもまた俺と同じように飼い主の勘違いからキャサリンなんて女の名前をつけられ、毎日着ぐるみやドレスで華やかにコスプレされている。金持ちに飼いならされたネコだが、まったくそんなことを感じさせないコザッパリした性格で自らを「佐助」と名乗っていた。
「聞いた? 床屋のミイちゃんの噂」
「あぁ、聞いたというよりこの目で見たぜ。毛並みが荒れてボロボロだった」
「やっぱ缶詰フードはよくないのかな? 僕が食べているのは『一日一善にゃんこは二膳・和の匠シリーズ』プラチナ缶だけど…マダムにドライタイプに替えてもらおうかな」
実業家のマダム北村に飼われている佐助は、最高級フードを食しているらしい。『和の匠シリーズ』は大ヒット商品で、金缶、銀缶は俺も試食したことはあるが、プラチナ缶は高級食材を使っているので、値段が高いうえに入手困難であることで有名だ。
「俺は雑種だが毛並みは悪くないだろ? ハニーがぶっかけ飯を作ってくれるからな」
俺が言うぶっかけ飯とは俗にいう「ネコまんま」のことだ。真っ白いごはんに温かいおみおつけ。おみおつけの具材はなんでもいいが、かつお節と煮干は絶対にはずせない。
俺たちは集会場であるキヨ子おばあちゃんの家に向かうことにした。通称キヨばあの家。ハニーと比べたら妖怪みたいに見える人間だが、俺たちネコを気遣ってくれる優しい人だ。ここ松川地区三丁目が俺のシマ。つまり俺が三丁目のボスだが、ハニーの家はアパートなので、キヨばあの家を俺たちの集会場所にしている。住宅街に網目のようにはりめぐらされている細い道路は、あまり車が通らないからネコには暮らしやすい地域だな。キヨばあの家まで道路を使ってまともに歩いたら、俺の足で千歩くらいは必要だと思う。だから近道を行くことにしている。正確に何歩かかるかは数えたことないぜ。ほら、俺の足って四本だからまともに数えると混乱するんだよ。
佐助と俺はブロック塀を乗り越えて民家の庭に侵入した。芝生の庭を駆け抜けると、今度はサクラの木をよじ登りさらに隣の庭へと試みる。ツツジの森をかき分け、葉っぱをたくさんつけたまま、次のブロック塀へと飛びうつる。
「爺さんはいるのかな?」
「問題はゴンザレスだろ」
次の家が難関だった。盆栽好きの爺さんと獰猛な土佐犬「ゴンザレス」のいる屋敷。以前に盆栽を壊したことがあるので爺さんは神経質になっているし、ゴンザレスの監視は厳しい。俺は塀の上から庭の様子を窺う。キヨばあの家まであと少し。俺たちネコは毎日こんなことをやっている。
巨大な和風屋敷は人の気配がなく静まり返っていた。外出しているのかゴンザレスの犬小屋は空だった。俺たちは音をたてないように着地する。マジ肉球があると重宝するぜ。
「いないみたいだ。行こう」
「しっかし、いつ見てもでっけぇ家だよなぁ」
佐助はキョロキョロと視線をめぐらせながら先を歩いていく。盆栽が品評会のように整然と並べられた庭を、俺もまた警戒することなく歩いていた。
その時、なにかが駆けてくる足音が聞こえてきた。荒い息づかいと肉球にひしひしと伝わってくる大地の震動。恐る恐る振り返ると、屋敷の影からゴンザレスがよだれをまき散らしながら駆けてくるのが見えた。
「逃げろっ、ゴンザレスだぁ―――っ!!」
「木に登れっ」
俺は必死で走ると柿の木によじ登った。視線を巡らせると佐助はよりによって、百日紅の木に飛びつこうとしていた。
「バカ! それは百日紅だ!!」
猿も滑るから百日紅という名前がついたらしいが、爪をたてられないことはない。だが、この木はやたらと撓るので避難場所としてはあまりむかないのだ。追いついたゴンザレスが「くそガキ! 降りてこいやぁっ!!」と罵声を浴びせてくる。興奮するのはわかるが、そのよだれはなんとかしてくれ…。
佐助はよほど慌てたらしく、枝に爪をひっかけた状態でぶらさがっていて、やたら胴体が伸びきっている。俺たちって胴が伸びるんだよ…はっきりいって体裁悪いぜ。
俺は佐助の為にとんぼを切って飛び降りた。
「銀次っ!?」
一瞬、ゴンザレスの注意を惹きつけた俺は近くのブロック塀へと走って再び跳躍した。佐助もその隙にブロック塀へと移ることに成功していた。
「シマ荒らしよって、詫びいれてけやっ!!」
「じゃあねゴンちゃん」
「庭の中ばかりじゃ退屈だろーに、可哀相なゴンちゃん」
俺たちは鼻息荒いゴンザレスを尻目に、意気揚々とキヨばあの家の前へと着地した。物干し場にはすでに誰かがいるようだ。隣の家の塀を利用して、そこから一階の屋根へとあがり二階の物干し場へと移動すると、佐助も軽やかに後に続いた。
「また人様の敷地を荒らしてきましたね」
「アハッ、見てたの? 俊介さん」
佐助がごまかして笑うと、俊介のビー玉のような青色の瞳が細められた。
「ここは見晴らしがいいですからね…」
人間だったら眼鏡をかけたインテリといった雰囲気を醸しだしているのは、キヨばあの飼いネコ「俊介」だ。こいつは三丁目のナンバー2。俺の腹心の部下だ。血統書つきのペルシア猫で白い毛並みと青い瞳は男の俺が見ても綺麗だと思う。
「早速、本日の議題に入りましょう」
「え? まだみんな揃ってないぜ」
「遅刻は許しません。それに夜の集会の方に参加させますから」
集会は朝と夜の二回ある。ちなみに俺様のシマの巡回も一日二回だ。
「本日の議題は《昨今の薄型テレビについて》とシマにて危害が報告された《暴れイヌについて》の二つです」
「薄型テレビはいけねーな」
俺は忌々しげに舌打ちする。最近、人間の間ではとても薄いテレビが流行らしく、ハニーも新しく購入してしまった。そもそもテレビの上は俺たちネコの聖地だ。テレビのもつ温かいぬくもりは重宝していたのだ。それなのに、あの薄さでは寝ることはおろか乗ることすら出来ない。まぁ、ハニーの布団に潜りこむ口実ができていいけれど。
「あの薄さは半端じゃないよ。去勢の五郎が飛び乗ったら、倒れたらしい」
「マジかよ…。ってゆーか去勢の五郎はよせよ。せめて魚屋の五郎にしてやれ」
「そもそも薄型テレビというものは、倒れないように設計されているそうですよ。それでも五郎の体重にはかなわなかったというわけですか…」
「俊介、俺は薄型テレビの普及に反対の案をだすぜ」
「では決をとりましょう。薄型テレビに反対のかたは?」
全会一致で反対案が可決され、続いて二つ目の議題へうつった。
「すでにシマの仲間二匹が重体で、ポチが亡くなりました」
「ポチが…死んだ…ボスなのに面目ねえ…」
ネコなのに「ポチ」…彼もまた飼い主に勘違いされた一匹だった。茶色と白のトラ模様が可愛かった。俺のことを「アニキ」と呼んで慕ってくれた。絶対敵を討ってやる!!
「暴れイヌって、野良イヌなの?」
「飼いイヌだったら厄介だな」
「保健所が動かないとすると…飼いイヌの可能性が高いかと」
「飼い主がわざとけしかけているとか? まさかな…」
白熱した議論に、少憩にしようとした刹那。
建物の一階、隣の塀との間を何かがすばしこく駆け抜けていった。俺たちはそれを見逃さなかった。
「ネズ公だっ!」
「ジャンガリアンハムスター!! いや、ゴールデンでしたかっ」
「とにかくネズミだっ、うおぉぉー!!」
俺たちは色めきだった。ねずみ万歳!! 愛ラブねず公!! まだ子供のネズミだが、闘魂を呼び起こすには十分だ。アドレナリン全開の俺たちは急いで一階へ降りるとねず公の追跡を始めた。この際、集会なんて後回しだぜ。
ねず公は道路の隅を駆け抜けていく。潜りこめそうな隙間を必死になってさがしているのだ。あの尻尾といい、常に動かし続ける鼻とヒゲは俺たちにネコ魂を呼び起こす。
血湧き肉踊るとはきっとこのことだ。
ねず公は民家の敷地に侵入すると、勝手口の傍らに置かれているゴミ箱に向かって突進していく。今日はゴミ収集日ではないので中身は空っぽのはず。ねず公に続いて飛び込んだ俺だったが…。
「おえぇっ〜、クセえっ!!」
よりによって飛び込んだゴミ箱は生ゴミが溢れんばかりに詰め込まれていた。収集日は守ってくれ。耐え切れずにもがくとゴミ箱は派手な音と共にゴミを庭へと撒き散らす。まずいな…この家も監視が厳しくなるに違いない。ねず公が再び逃走をはかったので、俺はワン・ツージャンプでダイブするとねず公を足下へと組み敷いてやった。
「俊介、おまえにやるよ」
「よろしいんですか!」
本能の赴くままに追ってしまったが、ハニーはねず公を喜ばない。いつになくテンションの高い俊介に獲物を譲ってやることにした。
第二節 誘惑の甘い罠
殺人的な生ゴミの臭いを身体に漂わせ帰宅した俺を更なる不幸が打ちのめした。アパートの前で…俺のハニーが…拓海とチュウ!?
拓海は笑顔でアパートから立ち去った。
「お帰り〜ミルク」
声をかけられて応えないわけにはいかないのが飼いネコのさだめだ。俺はハニーの脚に頭をすりよせて甘える。部下には決して見せられないこの姿。
「ん? ミルクなんか臭い…」
「や…やっぱり臭う?」
バスルームの中はグリーンフローラルの香りと泡で一杯だ。濡れることは嫌いだがハニーに身体を洗ってもらうのは気持ちがイイ。けれど…畜生っ!! 煮えくり返ったこの俺の腸どうしてくれよう。怒りのあまり言葉が変だ。その元凶は諏訪部拓海だ!!
俺がまだねず公を血祭りにあげていなかった頃、ハニーはたくさんのチュウをしてくれた。そりゃあ拓海は血だらけのねず公を銜えることはないけれど、やっぱりハニーとチュウしていいのは俺サマだけだ。
以前、喧嘩してハニーを泣かせた拓海に、復讐したことがある。拓海の後を尾行してアパートをつきとめた俺は、扉の前に拾ってきた鳩の屍骸をおいてやった。さらにヤツの自動車のボンネットに泥んこ肉球マークを残してやった。それは俺からのハニーに近づくなという警告のサイン。ヤツは震え上がったに違いない。
ハニーはドライヤーとブラシを使って毛並みを整えてくれる。うひょ〜あったけぇ〜。
「明日から二日間遠征に行くから、いいコでお留守番していてね。お水はココ、ごはんも使い方覚えたでしょ?」
玄関近くには遠征する時に使う大きなバッグが置いてあった。水泳部のマネージャーになったハニーは、大会の度に外泊するのだ。
留守の間、俺のごはんはドライフードになってしまう。猫脚をレバーにかけると一食分のフードが落ちてくるマシーン。舌でなめると水が落ちてくるタンク。あぁ味気ねぇ…。
「拓海に様子をみにきてもらうから。明日、合鍵わたしておくからネ」
あいつの世話には死んでもなりたくねぇ…。
夜空に星が瞬きはじめる時間帯。俺はこそこそとハニーの布団から抜け出した。目的は拓海への鬱憤晴らしだ。
拓海のアパートに行く途中、ネコの神様=山猫大明神が祭ってある石の前を通った。
年とったネコは猫又という妖怪ではなく、ネコの神サマになってくれるって俺たちの間では評判だ。だから、俺は暴れイヌを退治できるように、拓海には天罰がくだるようにとお祈りした。
街灯が所々に灯りを落とす住宅街は、不気味なくらいに静まりかえっている。拓海のアパートまでは俺の足で…ってしつこいからやめよう。ここは二丁目。もう少しで拓海のアパートに到着する。俺は道路の片隅からとてもイイ香りがすることに気づいた。これは…マタタビだあ――っ!
その時、背後から唸り声と何かが動く気配がした。しまった!! マタタビに酔いしれ腰くだけになってしまった俺は、ヤツの臭いに気づくのが遅れた。
「獲物がひっかかったぞ、ジャック!」
ニヤニヤと笑っているこの人間が飼い主なのか? その後ろから闇を纏うように現れたのが問題の暴れイヌ「ジャック」だった。
ヤツはドーベルマンという種類のイヌで漆黒の身体は大きかった。太い首につけられた首輪は皮製で金属の鋲がたくさんついていて、とてもワイルドだ。それに比べて俺は赤地に白やピンク、黄色の花が描かれた縮緬の鈴つき首輪をしていた。しかも今は腰がぬけている。どうするよ俺!?
必死でマタタビの誘惑を断ち切った俺は、ここは二丁目なのに三丁目のボスとしてジャックに戦いを挑むことにした。これ以上、こいつらをのさばらせる訳にはいかねえ!!
身体にはマタタビのせいでまだ浮遊感が残っている。
ヤツは加速をつけて躍りかかってきた!
ヤツの攻撃を寸でのところでかわすと、必殺の猫パンチで顔を傷つけてやった。ヤツが怯んだのでもう一発と思ったところ、俺の頭に激痛が走った。なんと飼い主が石を投げつけてきたのだ。
「痛てぇ…。ホント飼い主も最低だぜ…」
「ジャック、かみ殺せ!!」
身体が思うように動かない俺は、ヤツの足蹴りをくらって転がった。胴のいたるところを齧られ傷口からは血が滴り落ちる。痛いうえに、こいつの口臭はとにかくクセえっ!!
とどめに首筋を食いつかれ、俺は絶叫した。
「何をしている!?」
声をかけられたジャックとその飼い主は一目散に逃げ出した。俺は全身に傷をおって意識が朦朧としていた。
「あれ…? おまえミルクか!?」
この声は覚えがある。げっ!? 諏訪部拓海=俺の天敵だ。拓海は上着を脱ぐと、躊躇うことなく血まみれの俺を包みこんだ。
「しっかりしろ、すぐ病院に連れてってやるからな!!」
こいつに連れて行かれたら間違いなく去勢されちまう―っ!! 拓海は髪が濡れており首にはタオルがかけられていた。洗面用具一式を抱えている様子から銭湯の帰りらしい。
「おまえんち…風呂…ねえのか…?」
それだけ呟くと、俺は意識を手放した。
第三節変態と猫かぶりの友情!?
「うわあぁっ、おまえ…おまえは誰だ!?」
早朝、俺は拓海の大声に起こされた。なんだか身体が重たくて、しかも薬品臭かった。
目の前では拓海がもの凄い形相をしている。
病院からそのまま拓海のアパートへと連れてこられたのだろう。慌てて俺は息子を確認する。去勢されていないか心配……へっ!?
「ぎゃああぁーっ!?」
俺はあまりのことに悲鳴をあげた。安心してくれ。去勢されたわけじゃなくて…。
どうして人間になってるんだあーっ!?
「拓海っ、おまえ俺になにをしたっ」
「なにもしてねぇ!! だからお前、誰だよ!?」
焦って鏡を覗き込むと、そこには十五才くらいの黒髪の少年が映っていた。凛々しい眉とネコのように丸い瞳、勝気そうな口元。しかも全身素っ裸であちこちに包帯が巻いてある。そのうえ赤い縮緬の首輪は顕在だ。
「どうして俺の名前を知っている? 何時どうやって忍び込んだ?」
「俺は銀次だ。ハニーにチュウしやがって」
「ぎ…銀次? ハニー?」
拓海の顔は疑問符でいっぱいだ。まぁ無理もないだろう、本人が一番戸惑っているのだから。拓海の様子から、昨晩ここへ連れてこられた時はネコの姿だったに違いない。
思い当たるのは山猫大明神サマだ。
「俺のほんとの名はミルク。小畑那奈美の飼いネコだ。ほら…この首輪に見覚えあんだろ?これは山猫大明神サマがくれた奇跡だぜ」
「那奈美だと? てめぇ…からかってんのか」
拓海が凄んでみせても俺サマは怯まない。
「マジで頭の回転の悪いやつだな、ハニーもこんなやつのどこがいーんだ? 顔か?」
「ふざけてないで本当のことを言え」
「だからっ、那奈美は俺の飼い主で天使だ!! 俺サマが鳩の屍骸や肉球マークで示してやったのに…っ、警告ムシして近づきやがって!!」
「ああっ!? あの泥んこ肉球はてめえの仕業かっ!? 落とすのに苦労したんだからなっ」
拓海の悔しそうな様子に、胸がすく思いだ。
「おい、ミルク銀次。とにかく服を着ろ」
「かき氷みたく呼ぶんじゃねぇ、俺は銀次だ。それにたとえ人間になったとしてもネコとしての誇りは捨てちゃいねえ。だからぜってー服なんか着ねぇ」
「バカ野郎!! 俺が変態に思われる!!」
「んなこと知るかっ!」
拓海はシャツとズボンを放り投げてよこしたが俺は無視した。服を着替えるところを見ていると、それに気づいたのか拓海がシャツを拾ってこちらへと近づいてきた。
「とっとと着替えろ」
「い・や・だ!」
「このガキ…」
拓海は俺を仰向けに転がすと、俺サマの腰を跨ぎ膝立ちになって畳に押し付けた。
これほど屈辱的なことはない。同じ男なのに拓海よりも貧弱なのか!? ボスだぜ俺は。
俺と拓海の誇りをかけた死闘が繰り広げられていた時、玄関扉が開けられる気配がした。ほぼ同時に入口を見た俺たちは、そこに佇む女性に目を剥いた。空気が一瞬で凍りつく。
丸裸で赤い首輪をつけた俺。それを組み伏せるようにしている、ジーンズに上半身裸の変態…。明らかにハニーの瞳には水たまりができていて声がうわずっていた。
「嘘っ…信じられない…」
「那奈美っ!? 誤解だ、俺達は…」
そういえば…鍵を預けるとか言っていたな。
拓海はハニーを慌てて追いかけた。開けっ放しの玄関から入る朝の冷気に俺は身震いする。毛がないから寒いのか? 人間が服を着る理由が少しだけわかったぜ。俺はサイズの合わないシャツとジーンズを身につけることにした。表ではハニーと拓海が騒いでいる。一瞬、何かの破裂音が聞こえて、その後また破裂音が響いた。なんだかドラマみたいだぜ…。戻ってきた拓海の両頬には、紅葉みたいな手形がついていた。まぁ無理もない。俊介の話だと人間にはボーイズラブもあるらしい。
「てめぇのせいで変態扱いだ」
「俺がハニーの誤解をとくって約束する。お前には治療してもらった貸しがある。俺が怪我をしていて着替えを手伝ってもらったとでも言えば変態扱いはとけるだろ?」
「銀次…だったか? これからどうする」
「ハニーは二日間帰ってこないから…その間に暴れイヌを退治する。ジャックも飼い主もポチを殺しやがった!! 俺は三丁目のボスだから仲間を守る義務がある。それなのに…」
傷ついた仲間や死んだポチのことを考えると苦しくて切なくて、悔しさに涙が滲む。
拓海はネコの世界の話でも、からかうことなく黙って聞いていた。
「そういうことなら俺も協力する。昨日の現場に遭遇したのは偶然だけどな、人間としてやってはいけないことがあるんだよ」
「おまえ…いいヤツかも」
「なんだよ。今頃気づいたのか」
俺達は顔を見合わせると声をたてて笑った。
俺は拓海の部屋で夜を待つことにした。昼間に仲間が襲われたという話は聞いていない。つまり、ヤツらは夜に行動を起こすってわけ。
拓海は俺にぶっかけ飯を作ったあと外出した。ハニーには劣るが悪くない味付けだった。
マタタビを悪用していることから、ヤツらの標的が俺たちネコなのは明らかだ。
今宵は満月。その光でネコの瞳は必要ない。
拓海が帰らないので俺は一人で出かけることにした。別に頼りにしていたわけじゃないからな。昨晩襲われた界隈を重点的に捜索していくが、それらしき姿はもちろん罠すら見つけられなかった。
「銀次、三丁目だ! ジャックの住所は三丁目になっている!!」
拓海は近隣の動物病院からジャックの素性を調べたらしく、駆けてきたのか呼吸が乱れていた。しかも、その足下には…ゴンザレス!?
あの猛犬の首に綱をかけ連れてきたのだ。
「毒をもって毒を制す…ってな。こいつは親戚の飼っている番犬でゴンザレス、闘犬の大会で優勝したこともあるらしいぞ」
「なんや嗅いだことのある臭いがするで〜」
鼻をヒクつかせるゴンザレスに俺の心拍数は跳ね上がる。落ちつけ俺、今は人間だっ!
二丁目を捜していた俺達は、一時間程してから三丁目に行くことにした。そろそろ集会の始まる時間だな…。そんなことを考えていた俺の耳に仲間の悲鳴が届いた。
「なんだ…? ネコの悲鳴…?」
「この声…佐助だ!! サスケぇ――っ!!」
俺は猛然とダッシュして、キヨばあの家へと駆けつけた。家の前では深手をおった佐助と、ジャックと戦う俊介の姿があった。拓海はすぐに佐助を助け、自由の翼をえたゴンザレスがジャックへと突進していった。
俺は雨も降っていないのに傘を手にしていた飼い主の方へ近づいた。この傘で何をしようとしていたのか。マジで許せないぜっ!!
「おまえのせいでポチは死んだ!! 殺してやるっ!! おまえなんか…おまえなんか!!」
ドガッ!!と音をたてて、男を殴りとばす。ヤツが倒れても何回も何回も俺は拳をふるう。
拓海に止められて、今度はジャックへと向きなおる。ジャックとゴンザレスは互角の戦い。そこへ俺も突撃していった─その時。
体調に変化をきたした俺は、みるみるうちにネコへと戻ってしまった。なんで、どうしてこんな時に─っ!? 突然ネコへと変貌をとげた俺サマに…拓海以外はみな絶叫した。
「ばっ…化け猫だあぁぁっっ!」
そりゃ驚くだろうな。ジャックもその飼い主もビビりまくって逃げ出した。唖然とする俊介と佐助。憮然としているのはゴンザレス。
「臭いの原因わかったでぇ。くそガキや…」
俺がゴンザレスから必死で逃げたのはいうまでもない。
「ただいまミルク〜。いいコにしてまちたか」
一日たってからハニーが帰ってきた。俺はゴロゴロと喉をならして出迎える。
ハニーの隣で拓海は無言をとおしている。すまねぇ、拓海…。俺の器量をもってしてもハニーの機嫌は直せねえ。
俺がネコに戻ってしまったことで、拓海はハニーに変態の汚名をきせられたままでいる。
「なぁ那奈美、あれは誤解だ。あれはミルクが人間になった姿だったんだよ」
「嘘ならもう少しマシな嘘つきなさいよっ」
「銀次っ、男の約束を破るつもりか!? すましてないで何とか言え、この猫かぶり!!」
とりあえず「にゃあ〜」とだけ鳴いておく。
「銀次なんて変な名前で呼ばないで!! このコはミルクなんだから!!」
変な名前はないだろう…まいハニー。
拓海には悪いが俺はハニーの為なら、何枚でもネコの皮を被ることができる。いや、被ってやるぜ!! ハニーの温かい腕の中、俺は心の中でそっと舌をだしてみせた。
全国の愛猫・愛犬・愛ハム家の皆様、ごめんなさい。
あくまでもフィクションです。ありえない話なので。
ちなみに私は、愛犬家だったりします。