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Wing Kingdom

1年半ほど前に書いた未公開の小説をちょっと手直しして投稿です。

登録記念的な何か。




○終章


 朝焼けの光が正面に来る。ゴーグル越しの目にも眩しい光が。

 ああ、と思う。

 空には陽がある。そして風があり、頬を叩いている。

 当たり前のことだ。

 その当たり前が、

「近い……!」

 天は高く、空は近い。

 だから――どこまでだっていけるだろうと、思った。


 ……昔々。

 開拓者になろうと言った、女がいた。

 これは、その語り。

 開拓史の、始まりだ。













○一章


 島の外を見る。

 眼下、雲の流れは早い。外球の淵を、雲が巻いている。

 足首に草が触れる。春の対流風が、頬を撫でる。

 ふと、巻いた雲に切れ目が見えた。遠い隙間、遥かな下界に見えるのは、水の青色だ。夜になれば、僅かに光が見えることもある。

 ああ、と思う。やっぱり、ここの景色は、好きだな、と。

 人が住む島では東端。東へと進んでいくこの島群の、最先端。

 ふと、最先端、という言葉の意味を、考える。

「ここから先には行けない……」

 覗きこむように下を見る。地に手をついて、さらに身を乗り出した。

 外球の下端では雲が渦を巻き、流れている。西側ではすじを引いているだろう。

 と、

「どうしたんだよぉ、コォ」

 声が、後ろから聞こえてきた。しゃがれた男声、酔っ払ったがらがら声だ。

「どしたんだよぉ?」

 立ちあがって、軽くズボンとシャツを払う。手も打ち合わせ土を落として、それから、顔を相手に向けた。

 そこにいるのは、笑った、赤ら顔の男だ。その左手には小樽があり、右手には杯がある。

 今日は祭り。昼間から酔ってもいい空気が、島には流れている。

「外を見てたんだ」

「外を?」

 ああ、と頷いて、歩きだす。

「呼びに来たんだろ?」

「お? おう。時間だかんな」

「隣島のが来る……んだったか?」

「そうだなぁ。はええって噂だ。……燃えてるかぁ?」

 問われて、肩口から翼を見る。

 藍黒の翼だ。陽光を反射して艶がある。軽く動かしてみれば、調子は悪くないように思える。

 だが、と、心中頷いた。冷えているな、と。

 だから、返答する。

「いつも通りだよ」

「さっすが。さすがの、我が島のエース様だ」

 追従というよりは揶揄。酔った声は、いやらしく笑っている。

 男の横を抜け、林道に入る。男は身を翻して肩を並べ、のみならず、ばしばしと俺の肩を叩いてくる。

「いい翼を持ってるってぇ話だが、なに、コォ、お前さんなら問題はねえ。今日も期待してるぜ、勝たせてくれよ?」

「……ああ」

 歩みを加速して、男から離れる。

 肩を叩かれるのは、少し、不快だった。

「期待には、応えるよ」

 答えて、翼を広げる。

 身を地面と平行にすれば、島からの浮遊力を翼に受けることができる。

 走って加速すれば、揚力と合わせて、身体が浮く。高度を稼いだところで羽ばたけば加速する。

 飛び立って、木々の高さを越え、加速した。

 林の向こうが視界に入る。そこには人だかりがあり、にぎわっているように見えた。

 特に人だかりが濃いあたりには、おそらく賭けの胴元がいるのだろう。参加者と博徒は半ば重なっている。自分に賭ける者もいれば、自分以外の本命に賭けておく者もいる。

 いつも通りの構成ならば、胴元は三名。一人は博徒の対応に忙しく、一人は経理に忙しく、一人は太陽を気にしている。

 賑わってはいるが猥雑。しかし熱狂の空気がある。

 身を起して減速し、ちょっと離れたところに着地すれば、視線が一気に集まった。

 そのうちの一人が、野次じみた声を送ってきた。

「よう、コォ! 調子はどうだァ!?」

 手をひらりと振って、木の根元に座り込む。胡坐をかいて、人だかりを眺めた。上から見た限りでは、見たことのない顔――『隣島の』は来ていないようだった。

 聞こえてくるのは、『隣島の』の評判と、俺に対する評価。酒にも空気にも酔っている。

 見上げれば、太陽はほぼ南中。レースは正午から始まるはずだ。

「おうおう、集まってんなあ、おい」

 と、赤ら顔の男が、背後から現れた。酔っているためか、林の中を歩いてきたらしい。

「ま。いつもの野良試合じゃねえものな。燃えるもんか」

 ひとり言のように、赤ら顔の男は言った。

 どっこらしょ、なんて爺くさい声を出して、男は俺の隣に座り込む。

「おっさんは賭けてきたのか?」

「おお。お前さんに全ツッパだ」

「そっか」

 祭りの日。

 当然ながら非合法の、島一周賭けレース。

 ここにいる誰も彼もが、きっと楽しみにしていたのだろう。

「なあ、ちょっといいか」

「酒欲しいのかぁ?」

「いらない」

 答えつつ、腰の巾着を赤ら顔の男に突き出した。

「俺の名義で、俺に賭けてきてほしい」

 ほ、と、男は呆気にとられ、しかしそれを受け取り、笑んだ。

「全額かぁ?」

「頼む。俺は賭けたことがない」

「そういうコトかよぉ。まあ、任されたぜ」

 男は立ち上がって、胴元のところへと、一直線に歩いていく。人ごみを押しのけるように、意気揚々と。

 普段の野良試合での賞金は、生活費に消えている。手元に残ったあれが、全財産だ。

 気が付けば、頬に軽く笑みが乗っている。腰が軽くなったから、気分も軽くなったのだろう。

 と。

「来たぞ!」

 歓声が上がった。来た、来やがった、と声は連続する。俺たちの翼に負ける男が来たのか、と。

 刻限は直前。胴元はもうすぐ締め切ると叫んでいる。人だかりの密度が上がり、野卑な叫びがこだました。

 処理が終わるのに、そう時間はかからないだろう。そろそろ準備しなくちゃな、と立ち上がる。

 『隣島の』は、背の高い青年だった。白く大きな翼――それも、奇形二枚を含む四枚翼。細くはないが、色は白い。まだ若いが、俺よりは年かさだろう。何人かの男を連れて、人だかりからはやや外れた位置に降り立って、きょろきょろ とあたりを見回している。

 酔った男と何言か話しているのが見え、それから、俺の方に顔を向けてくる。

 見せてきたのは笑顔。育ちが良さそうだった。

 『隣島の』は取り巻きに手で合図して、一人で歩み寄ってくる。

「やあ」

 育ちがいいんだろうな、と確信を抱く。

 笑顔の挨拶と同時に、僅かに腰を曲げつつ、右の平手を差し出してくる。

「はじめまして。現王者」

「……はじめまして」

 差し出された右手を握り返す。笑みを返せるほど器用ではない。

「もっと大柄なのかと思っていたよ。負け知らずと聞いているからね」

 弁が立ちそうだ。滑舌がよく、愛想笑いが堂に入っている。こういう人種は苦手だ。

「あんたの背が高いんだ」

 取り巻きらしい男たちより、頭一つは背が高い。勝ちたい理由はないが、負けたくない理由はできた。

「遅刻の理由は、ドアに引っかかったからか?」

「僕も初参加から負けなしでね。最近は、僕が着いてから始まってたからさ」

「じゃあ、明日からは完璧だ」

 握手は続いている。かかる力は、強くはならなかった。笑みの形も変わらない。

「お前は、賭けるのか?」

「既に賭けている」

 それはね、と『隣島の』は言う。

「僕の翼への、誇りさ。じゃなきゃあ、祭りとは言え、隣島に来てまで勝負はしない」

 取り巻きに賭けさせているのか、と思ったが、違うらしい。

 なるほど。そういう手合いは、久しくいない。この島の者は、皆俺に負けている――誇りを折られている。

「熱いな」

 酔っているんだな、とまでは言わなかった。

「普通さ。――今日はいい勝負をしよう。交流戦は、中々ないからね」

 頷いて、『隣島の』を見る。

 にこにこと笑っているが、会話は途絶えた。

 締め切った、と、胴元の声が響いた。参加者が次々と集う。熱気が届く。『隣島の』の取り巻きは、参加者半分、野次馬半分らしい。

 握手をほどいて、肩を並べて、人だかりへと歩いていく。

 林間の広間、その中央。長方形に草が刈られ、地面が見える場所が、スタート地点だ。

 集まった参加者は、大半が男だ。少年もいれば、壮年もいる。いつもは十人程度の参加者が、今日は三十人近く集まっている。

 長方形の発着場は、横に五人が並んで翼を広げられる広さだ。ここから飛び立ち、島のへりを一周し戻ってくる――そういうルールのレースだ。

 胴元の一人が叫んだ。

「正午だ! もうすぐ王城で花火が上がる。それを合図にする!」

 誰も動かない。誰も声を出さない。風の音に混じる破裂音を聞き逃さぬように、始まりの瞬間を見逃さぬように。

 荒れると確信を持つ。心が冷える。吐く息が震えている。誰もが空を気にしている。

 ぽぉん。

 音が来た。

 いつもは遅くとも三列目には飛び立てるが、今日の参加者は八列に及んでいる。俺と『隣島の』は、七列目だった。

 五列目が駆け出す。六列目が身を沈めて一歩を踏み出す。二歩を踏みこんだ瞬間に、俺も動作を開始した。

 身を沈め、一気に駆け出した。速度に乗ったところで、翼を開く。黒の濃い藍色の翼だ。羽ばたきを入れ、地上にある内から加速する。

 浮上する。観客の叫びに押されるように、飛び上がった。

 既に一列目は十分に加速している。しかし遅い。追いつける。

 翼を軽く畳んで落下。広げ、身を起して浮上、羽ばたきを繰り返す。高度はギリギリまで稼がない。

 視界の端に、白翼を広げた『隣島の』が見えた。先んじられている。奇形とはいえ四枚翼である分、島からの浮遊力を強く受けられるのだろう。

 軽く舌打ちして、落下による加速を長くする。

 もうすぐ島のへりだ。この『球』の内部では弱いながらも全体で浮遊力が働くが、島に近くなければその力は弱い。速度と高度がトレードオフである以上、島から飛び出す前に速度を稼いでおかなければならない。

 上昇したところで、『隣島の』と高度と速度が等しくなった。

 四枚翼であることも、『隣島の』が有利である点だろうが、身体が大きければ、その分翼も大きくなる。加速に要求される技術と度胸は高くなるが、この男はそれを備えている。

 ははは、と隣島の王者、白翼の男は笑う。楽しそうだった。

 本物だ。いい翼を持っている。思うと、頬に笑みが浮かんだ。

 行け、と、小さく歓声が届く。行けよ英雄、行けよ挑戦者。

 足元に島が無くなれば、『球』の浮遊力と、揚力、羽ばたきが頼みになる。

 ここから先は高度が重要だ。島の高度――木々の高度を保たなければ着地が出来なくなる。

 浮遊力が小さくなる分、羽ばたきの重要度は増す。

 強く加速する。

 空を抜ける。






 ●




 そうして、歓声を突き抜けるように、着地した。

 ぎりぎりまで減速しなかったがために、靴底が土を噛む。翼を広げ減速し、下半身で衝撃を吸収し、吹き飛ばないよう姿勢を制御する。

 どうだ、と直立すれば、『隣島の』は、優雅に着地するところだった。

「……負けたよ」

 笑みで、『隣島の』は言う。

「着地の差――だね。僕はアドバンテージを稼ぎきれなかったわけだ」

 体格が大きい分、体重もまた多い。減速に必要な時間も多くなる。

「足が折れるのを覚悟すれば勝てたんだけどね?」

「……負け惜しみを言うのか?」

 意外で、言葉が漏れた。

 『隣島の』は、負けるときは潔く、というイメージが、勝負の最中に根付いていた。レース中、人によっては、コース妨害をすることがある。同様に、野次、羽根や色水を撒く、直接攻撃もごく稀にある。しかし『隣島の』は、そういった手段 とは無縁――ある種優雅な飛行を行っていた。

 ともすれば挑発ともとれるそれを、『隣島の』は、正確にくみ取ってくれた。

「負けず嫌いなんだ。だから次は勝つよ。周るタイムは勝っていたしね」

「……ああ、速かった」

 素直に、賞賛する。

 生まれ持った身体能力だけでは、あんな速度は出ない。

 着地場所から外れつつ、右手を差し出す。

 笑みで、握手を交換した。

「次は負けないよ」

「次も勝つ」

 握手を切り、まばらに帰ってくる飛行者たちを眺めた。

 疲れきって息を吐く者もいれば、冷やかしに近い者もいる。途中棄権者は歩いて広場に戻ってくるのがマナーだ。

 ふう――と、吐息した瞬間。嫌な顔を、見つけた。

「げっ……」

 爺さん、だった。

 背は小さい。だが背筋は伸びており、灰色の髪は短く刈り込まれている。見るからに頑固な爺さんであり、事実そうである。眉間には、普段より深いしわがあった。腕を組み、灰色の翼を広げて仁王立ち。不機嫌だ。明らかに不機嫌だ 。

 その爺さんは、まっすぐにこちらを見ている。

 視線が下に行く。今更逃げられるはずがない。爺のくせに――いや、爺さんだからか、俺を見つけるまでは近所の力を総動員して探してくるし、隠れても必ず見つかるのだ。

 ずんずんと、爺さんが近づいてくる。

 組まれていた腕は解かれ、拳を作っている。

 委縮した身からは、絞り出すような声が出た。

「爺さんっ、」

「コォッ!」

 ごづ、と、上からの拳が来た。

 視界に星が飛ぶ。思わず身が折れて、ふらついた。

 頭上から、頭ごなしの声が来る。

「金輪際、こんなところには来るなと言ったろう」

 何度か瞬きして、起き上がる。

 小さなころから何度も殴られている。反発心はあるが、それより先に身が委縮する。

 背は抜いたが、力では未だに勝てる気がしないし、心ではもっと勝てる気がしない。

 それでも、反論した。

「爺さん、俺もここには来るなって、」

「知らんわ、そんなもの。忘れた。聞いてねぇ」

 老人が、周囲を見渡した。

「賭けか。胴元は誰だ」

「やめてくれよ……爺さん、分かった、帰るよ」

「ふん、……あんたも」

 と、爺さんは、『隣島の』に顔を向けた。

「こんなところには来ない方がええぞ。落後者の集まりだ」

 ぐい、と腕を掴まれ、引かれる。

「帰るぞ、コォ!」

 笑う声が聞こえた。

 あれがなけりゃあなあ。ああ、紛れもなく英雄なんだが。

 嘲笑う声が聞こえた。

 頬が熱くなる。

「爺さん、手ぇ引かれなくったって帰るっての」

 爺さんの腕を降りほどこうとするが、しかし離れない。堅く握りしめられた腕は痛いほどだ。

「離せよっ、爺さん!」

「やっかましいッ!」

 拳が、今度は直線で来た。腰の入った重い打撃が、頬で弾ける。ぐらりと、身がかしいだ。

 頬が痛みで熱くなった。なんとか踏みとどまり、拳を振りかぶる。

「この、ジジイッ!」

 叫び、目を見開き、前に出て、しかし拳は止まった。

 動かない。誰かが止めた。誰だ、と振り返れば、今日の好敵手がいる。

 隣島の王者、白の四枚翼、笑みの男は、愛想笑いを浮かべたままで言った。

「やめな。老人は労わるものだし、ひとを殴るのはいけないことだ」

 周囲の視線は、面白がるそれだ。止めに入ったのも、入ろうとしたのも、事情を知らない者のみだ。歯噛みして、腕から力を抜いた。

「……離せよ。帰る。暴れない」

 一瞬の間があって、ゆっくりと手が外れる。翼が動いて、羽が一枚抜けた。

 腕を見れば、掴まれた跡が残っている。それをさすりながら、翼を広げた。

 下を見る。周囲は見ない。軽く助走し、島からの浮力を得て、飛びあがる。爺さんが遅れて続いてきた。

 林の上空に至る頃には、塔の根元、祭りが見える。

 楽しいのかな、と、疑問を抱いた。

「コォ。コォよう」

 後ろから声が聞こえた。返事を待たず、爺さんは続ける。

「おめえなあ。いつか、大怪我するぞ。あんなことやってたら」

「……うるさいな」

 小さく言った。

 大きく言えないのは、やはり、萎縮しているからだ。

 爺さんは、吐息の間を置いた。

「帰ったら、仕事してもらうぞ」

「……分かったよ」

 返事をして、家路を急ぐ。

 今はとにかく、あの広間から離れたかった。













○二章


 定規を使って、薄膜に線を引く。すこし身を引いて全体を眺め、多分ズレてない、と結論、鋏を手に取る。

 隣には、線も引かずに薄膜を切る爺さんの姿がある。それでも手元は狂っていないし、速度は俺の倍近い。

 大体の寸法は頭に入っているが、指標もなしに作業をするには、年季が足りない。

「爺さん」

「なんだ」

「終わったら出る」

「もう夕方だぞ」

「メシはいらない」

 言い捨て、鋏を開いた。一度で正確に切り取るには、やはり年季が足りない。

 少し大きめに薄膜を切り、それから、折り目をつけないよう慎重に手繰って、少しづつ形を整えていく。

 何枚か、形の異なるそれを作って、立ちあがる。

 骨は既に組み立ててある。細く削った木を曲げ、組み合わせたものだ。接着剤の入った小樽と、使い古した刷毛を手元に寄せ、付けすぎない程度に塗る。

 そうして、手早く薄幕を張りつけていく。

 これが渇けば、ほぼ完成だ。

 ――グライダー。

 浮遊力は下からの力で、それがかかる部位は翼とその周辺が主だ。

 人によって、生まれつき弱かったり、あるいは怪我をしたり、老いたり。翼の角度を維持するための筋力がない場合がある。長時間の飛行が行えない場合がある。

 それを補助するのがグライダー。揚力を得ることで翼を休める時間を稼ぐためのものだ。

 そしてそれを作る工房が、この家だった。

 怒鳴られ、呆れられ――それでも根気よく教えられたものだ。小さなころから手伝ってきた。今は、ある程度の仕事は任されるようになった。

 ふ、とグライダーに息を吹きかけてしまって、またか、と眉をしかめた。

 これは爺さんの癖だ。見本が完成するたびにやるものだから、うつってしまっている。

 ひとまず薄膜が剥がれないことを確認し、グライダーを壁際に置いた。

 明日から天日で数日干し、必要ならば補強、あるいは作り直しをする。その後握り手を付ければいい。

「爺さん、上がった」

「そうか」

 爺さんは、顔も上げずに言った。ふ、と息が聞こえた――ということは、ひと段落だ。白髪頭が、ごき、ごきと首を鳴らす。

「つ、つ、あー……」

 じじくせえなあ、と思いつつ、住居部分への扉を開く。

「出る前に、表のしまっとけ」

「分かった」

 背に来た声に返事をして、まずは手を洗いに行く。

 顔にも軽く水を叩きつけて、それから、いくらか金をポケットに入れた。

 表に出て、外から工房側に周る。

 工房の表には、昨日作った分のグライダーがある。

 いくらかは、既製品の量産物。大半は、オーダーメイドの一点物だ。

 持とうと思えば二つ同時に持てるが、横着するな、と怒鳴られるのも面倒で、一つづつ工房内に入れていく。

 先ほど自分で作ったものの横に並べて行き、薄膜の張りつけ作業を続けている爺さんに声をかけた。

「行ってくる」

「おう」

 一息。外に出て、扉を閉めて、ぐ、と伸びをする。翼を開けば、羽根が何枚か抜け落ちた。

 今日はあたたかい。炊事のにおいが届く。調子は悪くない。腹も減っている。

「味薄いんだよな、爺さんの……」

 一歩、二歩と助走して、三歩目からは高速で。疾走して、飛び立った。

 陽が赤い。上昇すると、島端から眩しいほどの光が来た。目をそらし、高度を下げて、光から逃れる。

 祭りの日――レースの日から数日。賞金こそ爺さんに没収されたが、賭け金は昨日受け取った。元々の賞金総額よりも少しだけ増えた金は、爺さんに不自然に思われないように隠している。

 速度は出さず、高度を保ったまま、ゆっくりと飛んだ。とりあえず酒は要らない、肉がいい。できれば家に帰らずに済む場所がいい。

 どうするかな、と首をひねれば、身が僅かに曲がった。ひとまずの進路として町の方を目指していたが、方角がずれ、正面に隣島が見えた。

 隣島との間には、宙に浮かぶ岩塊があり、それらと島二つを繋ぐ橋がある。

 島から島へと渡る際には、橋を通るのがルールだ。両方の根元には、蒸気で動く、それなりに大きな門がある。

「よし」

 たまには、と前提を置く。河岸を変えて、隣島に行こう。ぎりぎりだが、まだ島から出られる時間だ。

 方向を微調整。羽ばたきを入れて加速する。空腹で胃がしくしくと泣いたが、もう少しの辛抱だ、と、気合を――

「っと、あー……」

 気の抜けた声が出た。遠目に、蒸気を上げて門が閉まっていくのが見える。隣島へと行く、正規の道が途切れる。

 間に合うかと思ったが、今日は少し、早かったらしい。閉まってしまったものは、仕方がない。

 吐息して、再度方向転換する。

 道の上を飛ぶ。ほとんど滑空。速度はゆっくりと落ちていく。子供数人に追い抜かれ、グライダーで同じように滑空する老人が上を行った。

 気が抜けているな、と思う。

 石造りの水車小屋の上空を通りすぎて、町に入る。商店街に入る前に身を起こし、羽ばたきを入れて減速、ゆっくりと着地する。

 商店街の入り口は、石造りのアーチがある。

「お? コォじゃねぇか」

「ん、……ああ、」

 アーチの根元に、見覚えのある男が座っていた。祭りの日、レース前に話しかけてきた、赤ら顔の男だ。その手には、やはり酒がある。今日は小樽から直に飲んでいるのか。もう片方の手には、晩飯兼つまみであろう、肉があった。

「飲むか?」

「いらない」

「美味いぞ?」

「いらない」

 既に飲んでいるのか、焦点が僅かにブレている。

 話を切ろう、と、言い聞かせるように言った。

「俺はメシを食いに来たんだ」

「奢ってくれんのか?」

「奢らない」

「隣島の王者に勝った記念」

「没収されたよ」

 言い捨てて、商店街に入る。既に雑貨屋や肉屋は半ば店仕舞い。逆に盛況なのは、樵や職人、一人身でにぎわう食堂だ。

 その中の一店に歩み寄る。新規開拓するような店はない。朝は弁当屋だが、夜はカウンターを開放して量の多いものを出す店だ。

 近場で値段も抑えてある。濃い味付けは食が進む。言えば包んでもくれる。常連と言えるほど通ってはいないが、昔から通っている店だ。

「いらっしゃい!」

 カウンターの奥で、恰幅のいいおばさんが、輝くばかりの笑みで言った。僅かに遅れ、奥からも、らっしゃい、という声が響く。カウンターには人がいる。一席だけ開いているが、誰かと隣り合ってものを食べたい気分ではなかった。

「弁当で……」

 言って、壁にかかったメニューを見る。春も半ばだ。春草を使った料理が多い。

 肉。

 兎肉のソテーが目に付いた。手を止めないおばさんに視線を戻す。鍋をじゃかじゃかかき回し、豪快に肉と野菜を炒めている。

 視線を感じたのか、手元を見たまま彼女は言った。

「お決まり?」

「……兎肉。包んでください」

「あいよぅっ。あんた、兎!」

 あいよぅっ、と、奥から声が響いた。金を数え、カウンターに置く。手持無沙汰で、指で並べて数えやすいようにした。

「ケスケの爺さんはどうよ、コォ」

 料理しながら、女性は言う。一瞬遅れて、理解した。ケスケは爺さんの名だ、と。

「元気だよ。拳骨は衰えてない」

「そうかい。元気か、あの爺さん。最近はあんまり見ないからねえ。――ちょいさっ」

 油の跳ねる音がした。湯気が立っている。いいにおいがする。胃が動くのを自覚した。よだれが出る。

「ま、あんまり拳骨させんじゃないよ。骨脆くなる年だからね、爺さんも」

「まだ腰も曲がってないぞ、爺さん」

「ガタは来るもんさね、――いらっしゃい!」

 声で、後ろに人がいることを知る。仕事帰りなのか、木のにおいを纏った男がいた。男は店内を見回して、相席も構わず、奥へと入っていく。ほぼ同時に、カウンターの奥から、エプロン姿の男が出てきた。手には紙包みがある。

「はいよ、兎な。お代、……確かに。毎度ありッ」

 受け取って、歩き出す。

 どこで食べるかな、と、迷った。

 その辺のベンチに座って食べてもいいが、……どうしたものか。

 周囲には人。店からは声。一人になるかと思い立って、飛び上がった。

 飯場の屋上には、知った顔があった。やはり祭りの日に会った人物で、野試合と言うべきレースによく参加している。よう、という挨拶に、左手を上げて応えた。

 羽ばたきをひとつ。加速して、高度を稼ぐ。炊事のにおいは、上空では風に流されていた。

 風はある。しかし、暖かだ。

 春なんだな、と、口元に浮かんだ笑みを自覚した。

「……ああ」

 視線を、思いついた目的地に向ける。

 あそこなら、人は来ないだろう。それに、あそこから見える風景を見ながら食事と言うのは、中々いいアイディアな気がした。

 高度を稼いでいた分、加速は強い。右の翼を僅かにたたんで、方向転換する。




 ●




 高度を落としながら、蛇行して減速する。木々を擦るような高度から身を起こして、草原を蹴るように着地した。

 島の外縁――もっとも東にある島の、もっとも東。東向きのこの場所は、もう夕方とは言えないくらい暗くなっている。

 島の外を見れば、外球に、まばらに雲が巻きついている。夕焼けの明かりが、まだ赤く照らしている。

 腰を落ち着ける場所ではないが、一人だと実感できる場所だった。

 息を吐いて、紙包みを開く。肉が出てきた。湯気は紙が吸ってしまったようだが、においと熱はまだ紙の内にあった。香草のにおいが強い。

 美味そうだ、と素直に思う。

 口を開いた瞬間だ。小さく、びぃん、と音が聞こえてきた。だんだん大きくなる。

「ん?」

 何だろうか、振り返ると、声が聞こえてきた。

「あ、そこの人、避けてくれぇっ」

 ――鼻面目がけて、飛んでくるものがある。

 なんだ、と思った瞬間には、衝突していた。

「ぐおっ」

 瞬間的に涙が出る。

 包み紙と肉と香草が空を行く。

 のけぞった身がバランスを崩し、右足爪先が天頂をさした。

 翼でなんとか転ぶのは耐えて、

「ぬぁっ!」

 二度左足で飛び、バランスをとって――右足を振りおろし、なんとか直立した。

「ふぉー……」

 勢いで前かがみになった身を起こす。危なかった、と、胸をなでおろした。

 鼻面は痛むが、背中から転ぶことに比べれば、このくらいは軽いものだ。

 改めて、直立する。林の方から、人影が走ってきていた。

 早い。健脚だ。小さい割に――と思って、気付く。

「……ん」

 小さい――と思ったのは、半ば当たり前だった。

 その人影には、翼がない。

 『羽無し』だ。

「あっ! あああっ! あ――! うわぁ――!」

 少ししゃがれた声の叫びが、林間に響く。

 小さな人影は、疾走の速度を緩めない。

 おい、と思った瞬間には、胸を平手が押していた。

「うぉっ」

 声が漏れる。せっかく立てなおしたバランスが崩れ、二歩後ろに下がる。

「あー……あー、あー……うわぁー……」

 小さな人影は、大きな、つば広の帽子をかぶっていた。

 その手には、……ミニチュアのグライダー、に近い何かが乗っている。

 右の翼が、無残に折れ砕けている。グライダー――その模型としては、殆ど死んだも同然だ。

 小さな人影、帽子のそいつは、折れた骨を真っ直ぐにすれば直るのではないかと、そう言いたげに、骨を真っ直ぐに継いでいる。……接着剤もないし補強もない。だが気持ちは分かった。

 絶望の声は小さくも続く。右足を振りおろした時に、踏み壊してしまったのだろうか。状況を考えれば、ぶつかってきたものもそれだが、謝っておく。

「ああ、……すまん、踏んじまったらしい」

 言葉と同時、帽子のそいつは立ち上がった。

 俺の言葉に反応はない。絶望の嘆きからはなんとか立ち直ったが、未練には、いまだ決着がついていないらしい。

 二歩の距離がある。こちらの視線から見えるのは、まず大きな帽子だ。その上で手元を見ているため、顔が見えなかった。手も手袋で見えない。だが、声や首元の肌から、年若いのだろうと推測はできた。ツナギ姿であったが、手入 れしているのか、継ぎはあっても汚れてはいない。

 身体の影になっていたグライダーの模型も、見えるようになる。帽子のそいつは、その他の損傷がないか確認するように、くるくるとそれを回し検分しはじめた。

 一番大きな損傷は、間違いなくその翼だ。

 そして、胴体部分――通常のグライダーであれば、人自身、そしてその翼が真っ直ぐに進むようにするが、模型ではそれができない。だから普通、中央には錘も兼ねた板が吊らされる。

 ……グライダーに近い、そう評したのは、通常のグライダーとは決定的に異なる部分があるからだ。

 帽子のそいつは、くるくると、模型の先端に付いた、ねじられた板を回している。ゴムが絡まっているのか、指を離せばそれは回る。

 どういうことなのだろうか、と腕を組み、首をひねった。あんなものを付けても、単なる錘以上にはならないだろうに。

 視界内で動いたのが不味かったのか。帽子のつばが、こちらへと動いた。

 ……敵意が突き刺さる。

 帽子のそいつは、帽子のつば越しに俺を睨んでいる。目は見えていないが、怒りの雰囲気を感じた。

「壊れた」

 ぽつりと、しゃがれ声は言った。

「な、なに?」

「壊れたんだよ」

 馬鹿のように問い返すと、即答が返ってきた。帽子のそいつは、模型を眼前に突き出してくる。

 受け取っていいものか、と手を伸ばせば、模型は逃げる。そしてもう一度、突き出された。

 なんなんだ、と思いつつ、模型を見る。

 手袋は、突き出すだけでなく、指差しで破損個所を示しているようだった。

「だから、すまないって」

 口先では、再度謝った。だが、心中では、ぶつけられたのは俺だ、という意識がある。

 肉も駄目にしたし、鼻はまだ痛い。胸も突かれたし、色々と、よく分からない。

 気分で言うならば、最悪、だ。

 睨みつけるが、帽子に隠れて視線は見えない。睨み合いにはならない。

 帽子のそいつは目を見せぬまま、模型を胸に抱き、言った。

「謝れもしくは土下座しろ」

 ……最悪を通り越して、呆れになった。

 言葉だけではあったかもしれないが、謝った。

 聞いていなかったのか、あるいは、もっと――誠意のある謝罪を求めているのだろうか。

 正直、お断りだった。

 逃げ、を選択肢に入れる。幸い今は暗く、帽子の――女だろうか? とにかく、こいつに翼はない。翼のない人間が、翼のある人間に追いつけるはずがない。

 模型を突き出され詰まっていた距離をもう一度開けると、余裕ができた。

 もう一歩引こうとした瞬間、帽子のそいつは早口で言った。

「あ。あるいは弁償だ」

 帽子の天辺が俺を指す。

 ちょっとした譲歩のつもりなのだろうが、むしろ腹立たしい。

 こいつと関わり合うと、きっと面倒なことになると、勘が言っている。

 これ以上の譲歩はない――そう言いたげに、帽子のつばがこちらを向いた。引き結ばれた口元が見える。

 逃げるなら一気に。

 足元に注意しながら、体重を後ろに持っていく。腰に手を伸ばし、口を開いた。

「分かったよ、いくらに――」

 なる、と言いかけたところで、腕を掴まれた。

 意外と力が強い。後ろにあった体重が、引き戻された。

 唇は相変わらずへの字だ。

「謝れもしくは弁償しろ」

 手袋越しに感じる感触は、意外なくらいに細い。声も、声変わり前と言うよりは、女のそれだ。飛べない女から逃げるのかと、脳内で声が聞こえた。

 掴まれた手に逆らわず立ち、言う。

「……悪かった」

 三度目の謝罪は、確かに呆れ交じりではあったが、わりと真剣に行った。

 大切にしていたことは、よく分かる。それが突然壊れた、その混乱も、きっとあるのだろうと思う。思っておくことにした。

 ん、と帽子のそいつは頷き、手を開いた。解放された腕は、少し痛む。女にしては、やけに力が強い。あの、隣島の王者のような強さ――控え目に言って怪力だ。

 とにかく、お互い弁償はない。これで終いだ。

 吐息をひとつ。お互いにとって災難だった――そう思っておこうと決めて、もう一度、模型を眺めた。

 模型は再度胸元に。大切そうに、抱えられている。

 それが妙に気にかかった。

「……なあ、それ、なんだ?」

 ん、と、帽子のそいつは頷いた。

「自分で空を飛ぶグライダーだ」

 ……言葉を聞いて、絶句する。

「原案は私じゃなくて本だけれど、作ったのは私だ」

「――それは、」

「飛行機、って言う」

 名で、一気に思い出す。血の気が引いた。

 それは、まさか、と。口から言葉が漏れた。

 帽子のそいつは、俺の呟きを聞きとることなく、べらべらと喋りだす。

「そもそも人の翼じゃなきゃ飛べないってことはない。疑翼の研究は知っている? グライダーが主流だけれど、今でも研究は続いている。島からの浮遊力を受けられるのは、人の翼とその狭い近辺だけだけど、速度を高度に変えるのは 、浮遊力によるものじゃない。その辺の板を斜めにして振り回したら、上向きの力を感じるはず。人についた翼以外でもものは飛ぶんだ。昔の学者は勢いで飛んでいる、まだ落ちていないだけだって言っていたけど、グライダーについて 普通に考えれば分かる。グライダーだって、翼をたたんだって飛べるじゃないか。向きのコントロールができれば、それは飛行だ」

 そこで一息、

「だったら翼以外に、上昇力や推進力になるものを与えてやれば、グライダーだけでも空は飛べるんだ。そうなれば、グライダーじゃなくてフライヤー。飛行機、『空を飛ぶもの』だ。このヤタフライヤー七世号は、初めて安定した飛行を達成 できたんだ。――おまえが壊したけどな!」

 聞いているのかと、そいつは言った。

「……ああ」

 反応を、返す。

 どこかで聞いたような理論だった。

 手を伸ばし、言った。

「ちょっとそれ、……見せてくれないか」

「えっ? ……壊さないか?」

「壊さない」

「約束するか?」

「約束する」

 ゆるゆると差し出された飛行機を、受け取った。

 ひどい出来だ、と、改めて検分して思う。

 壊れているのもあるだろうが、軸が歪んでいる、作りは荒い。翼となる薄膜は継ぎがある。骨など木製部品の毛羽立ちも、このサイズでは重大な影響があるだろう。安定した飛行、と言っていたが、間違いなく、奇跡のような偶然のバ ランスによるものだ。

 これがフライヤー――飛行機か、と、思う。

「これは、」

 自分なら、と思う。もっと上手く作れるな、と。

 それに――多分、こいつほどではないが。俺も、飛行機の理論を、空を飛ぶものの理論を知っている。

 だが駄目だ。駄目な理由がある。首を振って、なんとか心を落ちつける。

「なにか文句でもあるのか」

「い、いや。ああ、悪かった、返すよ、すまない」

 動揺が言葉に現れた。自分でもわかるくらい、手も声も震えている。

 帽子のそいつが、顔をあげる。

「どうした?」

 青い目が、俺を見た。初めて目が合う。

 青い目のそいつは、問いかけの後、自分の手番は終わったとばかりに、口をへの字にしている。

「いや……」

 どう誤魔化すかと、考える。

 もう去って行ったと思った過去が、すぐそこにいるような気がした。

 考えを見透かされたのか。青い目のそいつは、一歩詰め寄ってきて、結んでいた口を開いた。

「何か言いたいことでもあるのか?」

「――そんなもんはないッ」

 言い捨てて、身を翻す。翼を広げると、うわ、と、帽子のそいつが声を出した。

 身を前傾して、助走に入る。翼に体重を支えられ、最初から高速だ。

「ちょっとっ、待て!」

 追いすがる声と手を、辛うじて逃れる。木々の高度に達すれば、翼のない者には追えない。大きな帽子が、どんどん小さくなっていく。

 森を抜け、町の上まで帰ってきて、やっと一息をつく。

 地を這う者は、空を行く者に敵わないのがこの世界の道理だ。




 ●




「……爺さん」

 爺さんは、工具を研いでいた。およそ一定のリズムで、時折蝋燭の火に刃を透かしつつ、幾度か繰り返される。

 逡巡し、しかし決意を持って聞く。

「なあ」

「メシ食って寝ろ」

「親父って、本とか、書いたか」

 砥石が、嫌な音を立てた。

 爺さんはゆっくりと、明かりにノミを透かした。それから、ノミを置き、背を丸めた。

「……いや。ない」

 そこで言葉は途切れた。

 なんでそんなことを聞く、と、言葉が続くと思っていた。その言い訳も用意していた。

 言葉が切れるとは、思わなかった。

 間が開く。このことは、やっぱり、爺さんの何かを、強く刺激するのだろう。

 爺さんのうつむいた背に頷いた。

「……そうだよな」

 台所に食事は残っていた。

 結局、帽子のあいつのせいで、晩飯を食っていない。

 味は薄いが、メシであるなら、今は何でもいい気分だった。きっと、何を食っても味気ない。

「その筈だよな……」







○三章



 早朝。

 殴られて、目が覚めた。

「ぐぅ」

 鈍い痛みに反応して、呻きが出た。

 痛みがゆっくりとやってくる。まだ寝ぼけている。全体的に鈍い。

「なに……すんだ、爺さん……?」

 うつ伏せになっていた身を、なんとか起こす。ず、と毛布が背から落ちた。ベッドサイドに顔を向ければ、薄闇の中、爺さんがいる。

「客だぞ、コォ」

 爺さんの朝は早い。爺だからだろう。

 ふん、と不機嫌そうな鼻息を漏らして、爺さんは窓に向かう。

 眠気と痛みで頭はぐわんぐわんと揺れているが、とりあえず、二度寝する気は起きない。

「つ……」

 頭を振りながら、立ち上がる。その間に、爺さんが窓を開いた。

 ようやく朝日が差し込む時間だった。

「誰だよ……」

 こんな時間に訪ねてくるダチの当てはない。

 今更痛みが強くなってきた後頭部を押さえながら、とりあえず、居間の方へと歩いて行く。

「コォ。そんな恰好で外に出るんでねえ」

 声に振り向けば、放り出してあった服を投げられた。ああ、とか、うん、とか返事をしながら、頭からかぶって、腰横で留める。改めて玄関に向かった。

「玄関で待ってんぞ」

 ……爺さんの言葉を聞いて、玄関へと歩いていく。

 玄関は開いていた。

 朝日が逆光になっている。誰だ――と思った瞬間。脳裏に、記憶が蘇った。

 小さなシルエット。そして大きな帽子。無い翼。間違いない。昨日会った、しゃがれ声の女だ。

「う」

 わ、と続ける前に、なんとか口を噤んだ。

 絶対に、と思う。面倒なことになる、と。

「おはよう。外を歩こう」

 言い捨てられて、背を向けられた。そのまま本当にすたすたと歩き出していく。

「おい」

 呼び止めると、帽子のそいつは肩越しに振り返った。

「散歩の習慣はないのか?」

「なんで来た? いや、どうやって?」

 そこじゃない、と言い返すのも馬鹿らしい。問うと、そいつはやはり早口で言った。

「外で話す」

 それを最後に、帽子のそいつはまた歩き出した。

 脱力しながら見送っていると、後頭部を、再度の鉄拳が襲う。

「いっ!?」

 無様な悲鳴を上げるのは、プライドで阻止した。痛む頭を押さえながら振り返れば、やたらと不機嫌そうな顔をした爺さんがいる。

「いつまで玄関先でぐだぐだやっとるんだ。とっとと話を付けて来い!」

 見るからに怒っている。『羽無し』が家に来たのだから当然だ。それに、間違いなく、爺さんとあの帽子の女は相性が最悪だろう。

 なんせ、頑固者と、人の話を聞かない女だ。俺を呼ぶまでにひと悶着あったのだろう。

 内心舌打ちをして、分かったよ、と言う。

 あの女と話をするかはともかく、爺さんと距離を離して、怒りが収まるのを待った方が間違いなく得策だ。

「行ってくる」

 服の胸元には、小銭が収まっている。朝飯分ならばなんとかなるだろう。




 ●




「遅かったな」

 玄関を出て道に出たところで、帽子のそいつは待っていた。

「私はヤタっていう。おまえはコォで間違いないな」

 なんで名前を知ってる、と問うのはやめた。

 自分から話を広げることはない。できればさっさと、朝飯を食べに行きたい。

「……あ、どうやってかだけど。藍黒の翼の飛ぶのが速い男って聞いたら一発だったぞ」

 裏切られたと感じるのは、多分、勝手だ。誰が話したかは知らないが、悪い意味でも、近所では有名だ。騒動の種を持ち込みたがる者も、たんなる善意で協力した者もいるだろう。

 帽子のそいつ――ヤタは、帽子のつばから見える口元を不機嫌そうに歪めたまま言葉を続ける。

「なんで来たかは、おまえに頼みたいことがあるからだ。本当は昨日の帰り際、何かを知っていそうだから来たんだけど」

「放っとけよ」

「ほっとくつもりだった。でもおまえについて聞いたら、グライダー屋さんの子だって言うじゃないか」

「違う。単なる居候だ」

 爺さんとは、血縁関係はない。

 親父が、爺さんの親友の子供で、俺がその子供だったと言うだけの話だ。

 だから、グライダー職人を継ごうとはしていない。ただ家賃として、手伝いをしているだけのつもりだ。

 ……何を頼もうとしているかは、大体見当がついた。

 面倒なことになっている、と思う。逃げようにも、家の場所を知られている。

「あ。ところでおなか減ったな」

「は?」

「何か食べよう」

 手袋に腕を掴まれた。ぐいと引かれて、バランスを崩した。翼を広げてなんとか持ち直して、おい、と言った。

「なんだ?」

 帽子と黒髪の合間から、僅かに青い目が見えた。ぐぐ、と、口元がひんまがっている。

「離せよ」

「逃げるだろう」

 握力が強くなる。

 ふと、昨日と服が違っていることに気付いた。昨日もツナギで手袋、帽子だったが、シャツの色が違っていた。

 疑問に思った一瞬で、ヤタは視線を町の方へと向けていた。

 引く手は強い。

 本気で振りほどこうとすればどうにかできるだろうが、それで明日も来ることになっては面倒の上で迷惑まで被る。

 諦めて、町へ歩んでいくそいつについて行った。




 ●




 町外れ。人の姿がない丘まで、歩いてきた。

 ヤタには、息切れも汗もない。対する俺は、荒くなりそうな息を必死でとどめているところだ。

 『羽無し』であるだけに、体力はあるらしい。その握力も、日常で必要が故だろう。とはいえ、ちょっと強すぎるが。

 やはり唐突に、ヤタは口を開いた。

「この島以外に陸地はあると思う?」

「……あると思う」

「…………えー?」

 常識だ。

 噂として口端にも上らない――『きっとある』とだけ思われている、現実味のない話。

 ヤタは気を取り直したように、姿勢を正す。

「えーと、――本によると、外の世界ってものが、あるらしい。それも、確実に」

 夜に海を眺めたことがあるならば、誰もが知っている。

 もちろん、遠い下界の話だ。あるいは、この島にはいない動物が光を放っているだけだとも言われる。

 この浮遊群島以外の陸地はすべて沈んだと、そういう伝説もある。

「下界は球形をしているのは、分かっている? この浮遊群島は、その球を横に輪切りにしたようなラインを、ずっと周っている。ほとんど一定なんだけど、昔の記録では、この航路はもっと安定していなくて、もっと土地が見えたらしい。… …この浮遊群島に未開地が無くなって、きちんと色々なことが回るようになって、食糧供給も今のところ上手くいっているけれど、近い未来、新たな大地が必要になるだろうって試算が書いてあった。人が増えると一人あたまの取り分が 減るのは当然のことだ。いつかは外に出なくちゃならない」

 長広舌――そこでヤタは一口、小さくパンを齧った。

 十秒間噛んでから、やっと飲み込む。

「けれどこの浮遊群島を守護する『外球』の圏外に出てしまえば、翼があっても飛べないし、寒さで凍えてしまうし、戻ってこれない。島の外でも飛べて風を受けてもすぐには凍えない翼が必要なんだ。だから外に出ていくには、飛行機が 必要なんだ。私はそれを作ろうとしている。だって、翼の無い者が翼を作るなんてすばらしいじゃないか。飛んだことのない人間が、外の世界への翼を作るんだ。これが私の理由だ」

 言いきって、ヤタはパンを再度齧った。

 言葉の間に、俺の方は、肉切れを二つ胃に収めている。

 私の手番は終わった、何か質問は――とでも言いたげな沈黙に、否定を入れる。

「違う」

「違う?」

「俺は、そんなことを聞きたいんじゃない」

「えっと、飛行機の回転翼、本ではプロペラと呼ばれていたけど」

「違うっ」

 ヤタが一瞬肩を震わせた。しかしすぐに、帽子のつば越しに、こちらを睨んだ。

「俺が聞きたいのは、本題だ」

 本題はおおよそ予想できているが、聞かねば否定も拒否もできない。

 今の時点で嫌だと言えば、間違いなく明日もやってくる。

 多少面倒でも、ここできちんと、理由を付けて否を言っておかなければならない。

 ヤタは、少し言葉に詰まった。つばの角度を地面と平行にして、少し言勢を落として言った。

「少しでもいいから、飛行機を作るのを手伝って欲しい」

 予想通りの言葉が来て、それから、頭が下がった。帽子が取られて、帽子の中に収められていた髪がばらりと落ちた。

 頼み方は知っているんだな、と、一瞬笑みを浮かべそうになって、それを消す。

 頭がさらに下がって、翼のない背が見えだした。通常開かれている翼穴はなく、ツナギとシャツで全体が覆われている。

「頭なんか下げられても、やる気はない」

 視線をそらして、言い捨てた。肉切れを齧ると、濃い味がした。

「手伝う義理がない」

 視界の端で、帽子を深くかぶりなおしたヤタが、つばの下からこちらを見ている。少なくとも、顔は俺の方を向いていた。

 ヤタは島外を指さした。

「島の外に出られる」

「島の中だけで十分だ」

 空を指差した。

「飛べる」

「元から飛べる」

 周囲全てを指差し、

「どこかに行ける」

「ここで十分だ」

 空を支えるように、両手を広げた。

「大空を、飛べる」

 最後に、ヤタは自分の胸に手を当てた。

「私は、開拓者になる。最先端になる。島の先より、外球よりももっと先に行く。そう、私と一緒に、冒険者になってほしい」

 俺は包みを傾け、その中の全てを口の中に収め、

「おねがいだ」

 小さく呟かれたその一言を、溜息で受け止めた。

 よく噛まずに肉を飲み込み、口を開く。

「手袋取って、手見せてくれ」

 ヤタは一瞬躊躇し、しかし勢いよく左袋を引き抜いた。

 骨は細い。やはり女の手だ。

 だが、人差し指の爪は一度剥がれたのか歪んで生えていたし、親指根元や指先には傷があった。手の平にもあるんだろうな、と思う。右手にはもっとだろうか。

「ひどいもんだな」

「……うん」

 頷いた帽子の天辺を見ながら、自分に言い訳した。

 あんまりにもしつこいから。不器用すぎて見ていられないから。暇だから。

 それに、最先端になると、そう言ったから。

「……グライダーの作り方は教えてやる。それ以上はなしだ」

「えっ」

 と、ヤタは一歩後ずさる。顎が上がって、目が見えていた。

 相変わらず口元はへの字だったが、目尻は下がっていた。困惑と言える表情だ。

「なんで?」

「手伝うのやめるぞ」

「うぁ。手伝ってほしい。頼れそうなのがおまえくらいしかいない」

「いちいち失礼な言い方だな」

「ごめん」

 困惑する。高圧的すぎる言い方をするかと思えば、唐突に話題を変えるし、素直に謝りもする。ころころと態度を変えられては、相手にしづらい。

 ヤタは手袋を付け、帽子のつばを地面と平行にした。

「それで、飛行機について何か知ってるのか?」

 また話題が変わった。早くもうんざりとしながら、返答する。

「知らないな」

「そうか」

 ヤタが帽子をかぶり直す。

 パンをマイペースに食み、食べきって、こちらに向き直る。

「よろしく」

 一礼。

 そしてヤタは歩き出す。足の向く先は森。翼を通す隙間もないような、木々が密集した場所だ。

「おい」

「ん?」

 呼びかけで、ツナギ姿が振り返る。髪の毛に透けて、僅かに青い目が見えた。

「どこに行くんだ?」

「森」

「なんでだ?」

「まずは木を探さないと。材料になる木を教えてくれる?」

 ……なるほど、と目元を押さえた。

 これなら、あんな無様なグライダーができるのも納得だ。

「お前にはまず、材料から教えなくちゃならないらしい」

 見える口元は、え、の形で固まっている。肩をすくめながら、町の地理を思い出した。この丘からだと、外側を回った方が早いか。

「少し歩くぞ。材木場に行く」

 歩き出すと、すぐにヤタは並んだ。

 歩幅が広く、早足だ。身長差はあるが、速度はむしろヤタの方がある。

 意識して速度を合わせ、道なき道を行った。




 ●




 そうして手に入れたのは、木端とも言える材木だ。

 木材を切り出して、形を整える際に削られた部分。売り物にはならないが、練習用には都合がいい。材木場の知り合いに感謝しながら、ほとんどタダで手に入れたそれらを打ち合わせる。

 家のほど近く。河原に座りこんで、説明する。

「生木や、その辺の木から折ったばかりの枝は、中に水分が含まれてる。普通は何カ月か何年か、乾かしてから使うものだ」

 手渡し、触ってみろ、と言った。

 ヤタは手袋を外して、傷だらけの手で木に触れる。

「乾いてるな」

「普通はそういうのを使う。で、その手の傷」

 左手に、材木の一つを手にとった。右手には、爺さんが昼食を外に食べに行く隙を見計らって持ち出した古道具を構える。

 右手の古道具、その刃を腹に向くように構えて、言う。

「こんなふうに、勢いが余ったら手を切るような持ち方でやってただろ」

 う、と、ヤタの帽子が下を向く。ぼそり、と、呟くような言い訳が聞こえてきた。

「その方がやりやすかった」

「怪我をしにくいやり方に慣れろ。その方が早くなる」

 説明は、爺さんの受け売りがほとんどだった。継ぐ気がなくとも、手伝いで必要になる知識はある。最初の教育は拳骨だった。

 頭は拳骨ばかり覚えているが、身体がだいたいのやり方を覚えている。あとは、それを言語化するだけだ。

「あのグライダーの骨はどうやって作った?」

「削り出した」

「……木の曲げ方をあとで教えてやる。あの推進力にも応用できるだろう。翼の膜も、端切れが家にあるから、後で取ってこよう。バランスについては練習だな」

「分かった」

「まずは、この木で棒を作ってみろ。実際にグライダーに使うこともある木だ。角を削るように」

「分かった」

 ヤタは両手の手袋を取ってツナギの胸元にしまいこみ、短刀と木材を構えた。

 ん、と、短刀を持つ手に力がこもった。ゆっくりと刃を入れ、棒を削りだしていく。まだ毛羽立ってはいるが、一本の棒が生みだされた。

「上手いな?」

 元々、縦に割るのは簡単な木だが、手の傷跡からして、もう少し手間取ると考えていた。

「乾いてる方がやりやすい」

 ヤタは、傷だらけの手で帽子を深くかぶりなおした。

 照れてるのか、と思いながら、古道具をあさる。やすりをいくらか取りだして示した。

「次はこういうやすりでだいたいの毛羽立ちを落とすんだが、手袋した方がいいかもな。手が削れる。……その手袋は大事なモノだったりしないか?」

「そういうわけじゃない」

 言いつつ、ヤタは素直に手袋をした。

「かけ方はどうすればいい」

 手元に視線を落したまま、ヤタは言う。

 あー、と、一瞬言語化に戸惑った。普段、爺さんは――と思いだし、仕草も付けつつ解説する。

「手前から奥に、だな。削りすぎないように気をつけろ」

「分かった」

 口数が少ないのは、集中しているからだろうか。

 ゆっくりとした、丁寧な動きで、ヤタは棒を研いでいる。

 手持無沙汰だった。古道具の中から、細工用のノミを取り出し、比較的大きい材木を手にする。一面を適当に平らにして、彫り物をしていく。

 太陽はそろそろ南中を越えて傾き始めている。

 風景を掘りつつ、考える。骨を削り出し、曲げ、組み、翼の薄膜を張り――バランスや細かな部分は自分で覚えるしかないが、グライダーはそんな仕事だ。

 加工について一通り教えて、あとは応相談という形にするのが一番楽だろうか。

 それに、朝は追い出されてしまったが、今日は爺さんの仕事を手伝う日だ。

 昼も過ぎたし、爺さんも機嫌をなおしているだろう。




 ●




 応相談――そう言った以上、何度かは付き合う覚悟があった。断り続けていつまでも付きまとわれるよりは、ずっと後腐れがない。

 それに、ある程度までは一人でやっていたのだ。基礎を習得すれば独立独歩、ひとりで――そう、俺とは関係のないところでやっていくと、そう思っていたのだが。

「昨日の続きをお願いしたい」

 窓から顔を入れてきたヤタが言う。

 朝日が、窓から差し込んできている。

「もう一通りは教えただろう……」

 それがまぶしくて、毛布を顔に引っ張り上げた。遮音効果はあまりないが、ないよりはマシだ。

 寝起きからこいつに振りまわされるのは、正直勘弁だった。

「メモはしたし練習もしているけれど、それが間違いなく正しいのかまだ分からない。完成もまだしていないし、おまえに見てもらいたい」

「眠い……」

 状態を言って、返答とする。

 規則正しく、夜明けの後。かれこれ一週間、この恐るべき襲撃を受け続けている。

「もう朝だ」

「まだ夜明けだ……」

 まったく、と、ヤタは不満げに言う。軟弱だな、と、呟きも続いた。

 まだ思考はぐにゃりと筋が通らぬままだが、腹が立った。

 起き上がれば、毛布が翼に引っかかって、それからずり落ちる。

「……誰が軟弱だ」

「コォだ」

 おまえが頑丈なんだと思うが――と。言葉にはせず、ベッドから降りる。

「準備するから待ってろ」

「分かった」

 三日前はこのまま二度寝した。が、その後爺さんに三発殴られたので、素直に準備をする。

 シャツを変えて、ズボンを変えて、金を持つ。

 居間に歩けば、爺さんが飯を食っていた。

「おう」

「おぉ……」

 爺さんに挨拶を返して、顔を洗う。水を飲んで、肩を軽く押さえつつ首を回す。

 まだ瞼と思考が重い。正直辛い。

「今日も行ってくる……」

「おう」

 ず、と、スープを飲み干す音が聞こえてくる。

 爺さんは、ほとんど干渉してこない。半人前のやる気なしとは言え、人手は人手。仕事がたまってないだろうか、と、少し心配をする。

 元々、三日置きには必ず仕事を手伝う、などの約束をしたわけではない。手伝うのは俺の気まぐれか爺さんの命令によるものだ。

 今の気分は、気まぐれに近い。爺さんの仕事を手伝わなければならないと言えば、あの女も少しは来る頻度を減らすだろうか。

 居間から工房へ。鞄を取って、外に出る。――朝日が横合いから目をさした。この一週間でだいぶ慣れたが、眩しいものは眩しい。手をかざして、片目をつむってそれを遮った。

「おはよう」

「ああ」

 ヤタは、玄関先に座り込んでいた。

 正直、目立つ。あまりこいつを待たせられない理由の一つだ。

「それじゃあ行こう」

「ああ……」

 ずんずんと元気よく。ヤタは大股で歩きはじめる。

 その両肩には、背負い型の鞄がかかっている。それには、分解状態だが、グライダー模型――飛行機が入っている。翼が突き出して、ヤタの後頭部を隠していた。

「作ってくれた?」

 唐突にヤタが言った。

 この唐突さにも、そろそろ慣れてきた。

「そのせいで軽く寝不足だよ。お前が作ってる間にも作ってたしな」

「ならいい」

 文句を聞き流して、ヤタは頷いた。

「まだ私は細かい作業ができないからありがたい。ありがとう」

「どーいたしまして。……適当だからな」

「矛盾してる。寝不足だってさっき言ってたのに。コォは私より上手いんだから、同じ時間をかけたら、よりいいものが出来るはず」

 眉根がよる。つい口に出した逃げに、ヤタは踏み込んできた。

「……こんなもの作るのは初めてだからな」

 俺が持つ鞄は、そう大きなものではない。中に入っているのは、回転翼、プロペラと呼ばれる部位――手の平程度の長さの板切れだ。

「ねじりを付けることを、やらないわけじゃないが……加減がな」

 口から出るのは言い訳だ。

 三日前、ヤタから質問を受けた。回転翼の形状はどんな形がいいのか、と。風車のようにある程度真っ直ぐな板でいいのか、あるいはもっと柔らかくねじるべきなのか。

 グライダーにはそんな部位はない。俺は答えに窮し――いつの間にか、いくつかのパターンを試すべく、俺が回転翼を作ることになっていた。

「でもきっと、私のつくったものより飛ぶだろうと思う」

「だろうけどな……」

 爺さんが作るものほどではないが、ヤタよりはずっと上手くできたはずだ。肯定すると、ヤタはなぜか胸を張った。

「私の眼も捨てたものじゃないな」

「捨てろ」

 会話を交わしつつ家々のまばらな道を抜けて、真っ直ぐな道に出る。

「よし……」

 と、ヤタが鞄をおろした。

 その中から出てくるのは、少しいびつな箱だ。箱の下には四つの車輪が付いている。

 ころりころり、と道を転がしてから、帽子のつばがこちらを向いた。

「大丈夫かな?」

「……大丈夫じゃないか?」

 見たところ、変なブレは起きていない。それに、触っているのはヤタだ。ヤタが大丈夫そうだと感じたなら、そうなのだろう。

 昨日車輪と車軸を削り出しているのを見ていたが、特に突然変異は起きていない。

 こちらも鞄を下ろし、回転翼をいくつか取り出す。

 回転翼には、一つ一つ番号を振ってある。

「ほれ」

「ん」

 そのうちの一つをヤタは手に取った。箱からは、一本の棒が飛び出している。回転翼を棒に固定し、箱の蓋を開けて、ゆっくりと回転翼を回す。その指を離せば、回転翼がきちんと回転した。

「大丈夫そうだ」

「大丈夫そうか」

 蓋を閉め、いちにいさんし、と回転翼を回して、抑えたまま道に設置。

 手指を離せば回転翼が回り、箱がゆっくりと進む。

 箱の中には、棒に巻きつくようにゴムが巻かれている。その回転数を一定にして、進む距離を記録すれば、回転翼の効率が分かるはずだ。

「……うん、大丈夫そうだ」

 箱を回収して、ヤタは先ほどよりも多く、回転翼を回す。

 提案したのは、俺だった。

 回転翼は、飛行機の先端に付く。落ちれば、衝撃をいの一番に受ける場所だ。上手く出来ていたとしても壊れる可能性があるし、翼が壊れる場合もあるだろう。

 試すだけならば、別に飛行機に付けなくてもいいのではないか。

 推進力を知りたいならば、こうして地面を走るものでもいいのではないか。

 提案をしたあと、いたく感動されたのだが――

「よし、一つ目」

 ヤタが言った。右手で箱と回転翼を押さえ、左手で石を持ち道に印をつける。

 手放せば、先ほどよりも強く回転翼が回り、徐々に、そして加速しながら箱が進んでいく。

「おお」

 声が重なった。

 かたかたと道の凹凸に跳ねながらも、予想よりも進んでいる。

 少し曲がりながらも、十歩ほどの位置で車は止まった。

 ヤタは止まった位置でまた印をつけ、手元の帳面に番号と、大体の距離を記載する。

「いいな」

 と、ヤタが言った。

「こうした方が、やっぱり効率が良さそうだ。車なら壊れない」

「……そうだな」

「ん、――次を試す」

「ああ」

 ヤタは回転翼を取り外し、新たな回転翼を取りつける。既定の回数回して、印をつけた場所に置き、走らせる。あまりにも曲がってしまったり、倒れてしまったらやり直す。メモをして、繰り返す。

 道端に腰をおろして、ヤタを眺めた。繰り返しは丁寧。俺の方など見向きもせず、熱中している。

 ……俺の提案に、この女が、いたく感動したのは――きっと、飛行機を作る、それだけを目標に据えていたからだ。

 最初から完成形は空想できていた。だから一直線に向かおうとしていた。

 最初から飛行機を作って、そして失敗する。その繰り返しだったのだろう。

 モノづくりというものが、きっと分かっていなかった。何かをつくるということが、きっと始めてだったのだ。

 『羽無し』とはいえ、家の中ですら何もしていない――あるいはさせてもらえない環境にいたのだろうか。異様な押しの強さと会話のテンポを考えるに、他人と話したこと自体、あまりないのかもしれない。

 下界について書かれた本も持っているようだし、どこぞのお嬢様か、その召使の家族かなにかなのだろうか。

 ……と。ここまで考えて、ふと現実に返る。

 これは、空想にすぎない。言動から想像できるだけで、実際にどうなのかは全く分からない。こんなことを考えるのは、きっと情が移っているからだ。

 それはともかくとして、

「お嬢様はないか」

 お嬢様にしては、ちょっと、闊達と言うか、腕白に過ぎる。流石に想像の翼を広げすぎだ。

 苦笑をかみ殺しつつヤタを見れば、繰り返し、実験を続けている。

 ひとまず、実験に問題はなさそうだ。全てを試し終わったら、飛行機を組み立て、一番良く進んだ回転翼で飛ばしてみる予定だが、それまでは暇だ。

 立ちあがって、声をかけた。

「飯を買ってくる」

「……ん」

 生返事だった。

 こいつは、と思いつつ、踵を返す――と、大きな影が、道を来ていた。屈強な、飛ぶには筋肉のつきすぎた男が引いてくる、幌付き人力車だ。

「ヤタ、おい、ヤタ。車だ。避けろ」

「ん?」

 と、ヤタは帽子のつばを俺の方向、それから、人力車の方向に向け、

「うわ」

 と、軽い動きで車と鞄を回収し、道端、俺のそばに寄った。

「お前なら人力車の方を止めると思ったが」

「……私だってそのくらいの分別はある。邪魔するくらいなら避けた方が早い」

 つばを地面の方に向けたまま、ヤタは言った。

 どうだか、と笑って、自分が軽口を叩いていたことに気が付いた。

 もやもやとした心と、ヤタから視線を外し、人力車を眺める。

 こんな辺鄙な道を人力車が来るのは珍しい。地上での移動手段であり、人を雇う以上、わざわざ使う者は限られる。この島では、ごく稀に、裕福な老人が、爺さんにグライダーのオーダーメイドをしにくるくらいか。

 かたかたと揺れながら、人力車が近づいてくる。幌の中は、影になっていて見難いが、白が中央に鎮座していた。白いズボンをはいて、足を組んだ姿だ。

 人足の浮いた汗が見えるほどの距離で、冷たく高く、よく通る声が聞こえた。

「止まれ」

 声は命令。人足は力強く速度を落とし、眼前で降着姿勢を取った。

 周囲には、俺とヤタ以外の人影はない。風景に、特に目を引くようなものもない。何故止まるのか――と。そう思った瞬間、幌が上がった。

 見えた顔は若いもの。金の長髪、青眼の少女だ。何故若いのに人力車なんぞ、と思った瞬間、疑問が氷解する。

 ヤタと同じように――この少女も、翼がない。『羽無し』だ。ヤタとの違いは、翼がないにも拘らず、服装が飛行に向いたものであることと、その生地が見るからによいものだ、ということか。お嬢様、という印象を受ける。人力車を使うのも 納得だ。幌付きのそれなら、『羽無し』であっても外に出られるだろう。

 彼女は坐したまま、右手を軽く上げて挨拶をしてきた。

「やあ」

 言葉は気さくだったが、表情は冷笑的。にや、と笑ったまま、彼女はこちらを眺めてくる。

「天下の往来で何をしていたんだい?」

 どうやら、暇なお嬢様、らしい。それにしては、あっさりと幌を開きすぎな気もするが――

「天下の往来である以上、問題はありません」

 ――と、しゃがれ声、ヤタが、暇なお嬢様に反論した。

「町中であれば迷惑だとも思います。だけどここは人通りの少ない道。ここを通ったのはあなたが最初だし、あなたの進路の邪魔もしていないです」

 敬語に慣れていないのか。言い方は変だが、言い分自体はごく普通だ。俺であっても、似たような返答をするか、些事です、と言うかだが、

「だから帰ってください、シズ様」

 ヤタらしいと言えばヤタらしい、不遜な物言いと、名呼びで視線がヤタに向いた。

「お知り合いか?」

 小声の問いかけには、小さな頷きが返ってきた。ヤタの顎は上がり、帽子のつばは暇なお嬢様――シズ様、とやらに向いている。その唇は常よりも引き絞られて真一文字。先ほどまでの、楽しげな、熱中しているような色は、表情か ら消えている。

「帰ってくださいってねえ。天下の往来だよここは。こうして眺めていたっていいだろう? なに、こいつは――」

 と、人力車を指差し、

「――邪魔が来たら避けさせるさ」

 くつくつと、シズ様とやらはいやらしく笑う。人力車の上で彼女は立ち上がり、控える人足に命令を下した。

「いや、そうだな、帰れ人足。私はあとで歩いて帰るよ。興味がわいた。下々が何をやっているのか、観察したい」

 人足は一瞬迷ったようすを見せたが、すぐに頷いた。

 それを受けてか、彼女はひょいと人力車から飛び降りて、笑みの形を好意的なそれに変えた。

「さて。君ははじめましてだね? 私はシズという。呼び捨てで結構さ」

 言って、彼女は諸手を広げた。受け入れのジェスチャーなのか、中々様になっている。ヤタよりも背が高く、俺の目線二つ下、と言ったところか。

 怪訝な表情を隠しきれた自信はない。突然お嬢様がやってきて、ヤタと知り合いで、『観察』をする。それも、いまだ朝方と言える時間に、だ。

 不自然。圧倒的なまでに不自然。

 去っていく人力車に視線を迷わせる。単に気まぐれで奇矯な人物が、家の者であるヤタの動きを聞いてやってきた、と言うなら、最初から付いてくるか、あるいはもっと太陽が昇ってから来るのではないだろうか。

「君は何をやっていたんだい? 教えてくれないか」

「ああ、それは……」

 どう答えるか、そもそも答えていいものかどうか、迷った。

 貴人だろうが奇人だ。出会って数分で、奇矯、と分かるような人物に顔を覚えられたくはない。ヤタだけで十分すぎる。

 迷っているうち、ヤタは一歩踏み出し、俺の前に立った。胸を張って、シズを見上げて言った。

「『飛行機』を作っていた」

 しゃがれ声は震えている。胸を張ってはいるが、俺をかばうように立ってはいるが、おびえている、らしい。

「私はそこの男に聞いてるのさ」

 シズは、一言で切って捨てた。視線はこちらで、おかしそうな表情をしていた。俺を見ている、と言うより、ヤタを見ていない。

「名前は?」

「……俺は、コォ。こいつの手伝いをしていました」

 ヤタの両肩を掴んで、胸を張らせる。事情はよく分からないが、……知り合いがこんなふうにおびえているのを見るのは、どうにも心苦しい。

「敬語もいいよ。私と、君、は、今からお友達さ」

 ね、と。念押しするように、シズは笑った。

 言い方がいちいち癇に障る。わざとなのだとしたら、おそらく、ヤタとの関わりなのだろう。

「こいつとは」

 口にしようとしたところで、ヤタが軽く服の裾を引いてきた。

 彼女は、委縮したように肩を窄めながら、小さな声を出した。

「コォ、いい……」

「それで、ひこーきとやらぁ? 見せてくれないかな、私に。コォ?」

 ヤタの背が丸まった。胸に抱いた鞄と、実験用の車を守るように、だ。

 シズは、ヤタをあからさまに無視し、馬鹿にしている。

「……見せてやれ、ヤタ」

 ヤタは小さく頷いた。それから、ゆっくりと、手の内の車と鞄を差し出す。

 シズは受け取りもせず、ふうん、と馬鹿にしたように笑った。

「これが? 飛行機ねえ。飛びそうもないけど。背中のはなに?」

「これは……」

「そっちは実験用の車。こっちが本命ですよ」

「もう一度言うけれど、敬語はいいよ、コォ君。で、見せてくれるよね?」

「……ああ。構わない。ヤタ、いいな?」

 小さく頷いたのを確認して、背負い鞄のひもを緩める。中心となる板と、羽根を取り出した。持ってくる都合上固定はしていないが、すぐにできるように作っているのは見た。

 ヤタの背から歩み出て、手で軽く組み合わせ、見せる。

「これを組み合わせたのが飛行機、だ」

「へぇ……グライダーにしか見えないけど?」

「推進力を、別に用意するんだ」

「そうなんだ。見せてもらってもいいよね?」

 確認の体を取っているが、半ば命令だ。嫌な予感はするが、流石にそこまでの悪意は持っていないだろう。もし壊されたとしても、それを口実に帰れと言える。

「どうぞ」

 だから、差し出した。

 シズは受け取り、ふうん、と言った。

「変なもの付けたグライダーにしか見えないけどねえ?」

 そう言いつつ、シズは様々な方向から飛行機を見る。壊そうとする動きは感じられない。むしろ、ヤタと同じ『羽無し』で、飛行機に興味があるのかもしれない。

 やがて、とりあえずの興味を失ったのか、彼女は飛行機をこちらに向けて言った。

「返すよ。それじゃ、実験とやら、続けてもいいよ?」

 受け取り、ヤタに視線を向ける。いつの間にか、ヤタは一歩下がっていた。

「……続けよう、ヤタ」

 返事までには、間が空いた。




 ●




 腹が減った、と、ふと思った。

 時刻にして十時ごろ、と言ったところか。

 ヤタは一人で実験を続けていた。作業の大半は、確かに一人でできる。他に人手が要るとしたら、車が走りきった後で記録を付ける係くらいか。

 申し出たが、拒否され、結局朝飯を食いもせず、こうして道端で実験を眺めている。

「暇だねえ」

「そうかもな」

 だったら帰れ、と、言外に言う。

 ヤタは、ずっと下を向いている。上を見る工程は、確かにないが、時折垣間見える目元は強張っている。

「ここはひとつ、親睦を深めるために、二人でご飯でも食べない?」

 シズは空手だ。財布くらいは持っているのかもしれないが、食物を持ってはいなさそうだ。つまり、ヤタを放り出して行こう、と、そういう誘いなのだろう。

「いや、いい」

 故に拒否して、またヤタの実験を見る。

 なるべく形の違うものを作ってきた。長さ、厚み、太さ、捻り具合、先端に鉤を付けたり、あるいは半ばあたりを削ってみたり、だ。

 見るからに進みが違うこともあれば、ほとんど変わらないこともある。普段通りのヤタなら――シズが来なければ、おそらく一喜一憂したのだろうが、

「ん、どうしたんだい?」

 視線を感じたのか、シズがこちらに微笑みかけてきた。

 なんでもない、と返しつつ、思う。

 二人の間に何かがあるのは間違いない。主従関係か、それに近いものだ。ヤタはやはりどこかの家の――シズの家の使用人か、その子なのだろう。いつも朝から襲来することを考えると、子の方が説得力がある。

 無理に聞こうとは思わないが、気にはなった。俺の方は家まで知られているのに、ヤタのことはほとんど知らない。

「……ん」

 ふと、いつの間にか、厄介な知り合いから、厄介な友達に格上げしていたことに、気が付いた。

 溜息を吐く。奇人だし、積極的に付き合いたくはないが、決して嫌な知り合いというわけではない――なくなっていたようだ。

「君はどういう経緯であの女と知り合ったんだい?」

 唐突に問われて、ん、と声が出た。

 ヤタが実験を再開してから、初めてヤタの話題が出たからだ。

「飛行機の実験中に……俺が壊したからだ。頼まれたのと、悪いと思ったから付き合ってる」

 好きで知り合ったわけでも、付き合ってるわけでもないと。一週間前なら間違いなくそう付け加えていただろう。

「なるほどね。ドラマチックな出会いじゃあなかったんだねえ。ま、そんなものかな……」

 シズはつまらなさそうな声音で言って、まあ、と言葉を続けた。

「もういいと思うよ? 手伝わなくても。見たところ、あのグライダー、そんなに悪いものでもなさそうだったけど。本職から見たら、やっぱり違うのかい?」

 ……疑問が沸いて、眉根が寄る。

 既にヤタの実験を眺めて数時間が経っている。いちいち会話の細部を覚えてはいないが、俺はグライダー屋に養われている――と言っただろうか。

 確証が持てず、無難な返事を返した。

「俺は本職じゃないし、アレはまだまだだ」

「へえ、ふうん、そう……あんなもの、飛ばないよね。絶対にさ」

 シズの微笑みがいびつになる。来たときに見せたような冷笑ではない。逆の変化だ。

 ぞわりと背筋を走るものがあった。

 事情があるのは間違いない。嫌っているのも合っている。だがそれ以上に、憎んでいる。

 思わず視線をそらすと、ヤタの背が視界に入った。

 ひとりで黙々と実験をしている。車はかたかたと軽く揺れながら進んでいる。

 進んでいる。

「……いいや、飛ぶ」

 口を突いたのは、否定の言葉だ。

「前に進んでいる限り、いつか飛ぶさ」

「いつか、ねえ。いつだろうねえ?」

 くつくつ笑って、シズは立ち上がった。

「帰るよ。それじゃあまたね、コォ君?」

「あ、ああ」

 また、とは言えなかった。

 シズは最後にこちらに笑みを見せて、軽く腰を落とし、一気に走りだした。

 背中は一気に小さくなっていく。『羽無し』だけあって、健脚だった。なぜ走っていくのかは、理解できなかったが。

 ともあれ、これで奇人の片方は消えた。もう片方はと言えば――

「ん?」

 車はヤタの手元を離れ、走りきっている。それなのに記録を取る様子もなく、回転翼の片づけをはじめていた。

 考えてみれば、おかしいことではあったのだ。確かに、種類は多く作ってきたが、総数はそれほど多くない。一つに五分もかからないのに、数時間もかかるわけがない。丁寧に行って、比較をするにしても、二時間もあれば間違いなく 終わるはずだ。

「終わったのか?」

 声を出しつつ、立ち上がる。帽子のつばが小さく動いたのは、頷きだろうか。

「終わってた。シズ様が帰ったらやめようと思ってた」

 そうか、としか、返せない。今は、複雑な事情があるんだろう、とだけ思っておく。

「それで、どれが一番よく進んだんだ?」

「十二番の回転翼。薄めの、ねじりが軽く入ったもの」

「そうか。じゃあ、それで飛ばしてみるか?」

「ん」

 また、ヤタは小さく頷いた。

 元気がないぞ、と。そう言うのは簡単だ。このくらいの方が話しやすくはあるが、普段と対応を変えなくてはならないのは、……面倒だ。

 ヤタは背負い袋を下ろして、飛行機を取り出した。組立ての固定は紐で、翼の根元と板をきつく結びつける。回転翼についても同様だ。本体の突き出た棒、その先端に接着された短い棒に紐でくくりつける形になる。

 軽く回転翼を回転させれば、棒の本体側に付けられたゴムが縮んで、引っかかるようなこともなく、なめらかに回転翼は回る。軸にブレはなさそうだ。

「大丈夫そうだな。ここから飛ばせばいいだろ」

「ん」

 くるくるくるくる、と、ヤタは何度も回転翼を回した。

 それから肩に飛行機を構えて、首を振った。

 回転翼を押さえたまま、ヤタはこちらに飛行機を渡してくる。

「コォ、おまえに飛ばしてほしい」

「俺に?」

「おまえがいなければ、多分、こんなふうにはならなかったから」

 それもそうかもしれないが――

「俺は手伝っただけだ。飛ばすならお前だろ」

「いいや、この翼膜だって、木だって、おまえが貰ってきてくれたものだし、作れるように色々教えてくれたのもおまえだ。私のやったことは、おまえに教えてもらったことをやっただけだから」

「作ろうって思ってるのはお前だろ? 俺は手伝っただけだって」

「前に進んだのはおまえのおかげだ」

「いや、お前なら、そのうちこのくらいは出来てたと思う」

 俺は後押しをしただけで、前に進む助けになっただけだ。ヤタ自身に前に進む意思がなければ、前に進むはずがない。

 ヤタは、進もうとしているのだ。

「それは、お前のものだ。ヤタが飛ばすのが相応しいだろ」

「その私が、おまえに飛ばしてほしいって言ってる」

「お前、なあ……」

 分かっていることではある。この女は折れない。おそらく、決して。

 ぐ、と小さく、俺の腹が鳴った。

「……腹も減ったな」

 よし、と飛行機を受け取って、肩に構える。

「それじゃあ飛ばして、飯でも食いに行くか」

 昼時には、少し早いが。店が空いている分、飛行機についての話も出来るだろう。




 ●




 やはり朝飯は食べてきているのか、ヤタの頼んだものはサラダだった。

 こちらはパンと塩で味付けされた肉と、付け合わせ程度の野菜だ。

 この一週間は夕方まで製作に付き合っていた。しかし今日は、既に目的を果たした。

 今日のところはこれで解散かな、と思いつつ、言う。

「明日からどうする?」

「ん、」

 と、帽子のつばが上がった。前髪の合間から、見開かれた青い目が見える。意外と瞳が大きい。眉毛までは見えないが、驚いているのはよく分かった。

 こちらから明日の事を口にしたのは、そう言えば初めてか。どもりながら、ヤタが言葉を返してきた。

「どっ、……どうすればいいと思う?」

「問題はいくつかあると思う」

 まずは、と前置きして、言う。

「飛行機には、人が乗るんだよな?」

「うん、翼だから、人を飛ばすものだ」

「となると、人が乗れる大きさにする必要がある。回転翼とか、飛べるだけの推進力……の重さを考えると、普通のグライダーより大きくなるわけだ」

 大きさというのは、文字通り、大きな問題になる。解決するべき問題を、指折り数えていく。

「翼の強度と形。本体の方もだな。回転翼も、今日の形がベストとは言えない。推進力についても考えなきゃいけないな」

 仮に、今日の模型をそのまま大きくしたとして――ゴム程度で、回転翼が動くとは思えない。束ね、繋いで、大きくしたとしても、きっと持続力が足りない。ヤタの目的である『外に出る』ことは不可能だろう。

 そもそもの問題として――

「あとは、金だな」

 模型と実体では、変わってくる部分が間違いなくある。

 今回は端切れともいえる木材でどうにかできたが、実際にはもっと大量の予算が必要になるはずだ。

 用意した推進力が足りなくて墜落したり、不具合が起きて作り直しになることもあるだろう。推進力についても、ゴム以上のそれが必要だ。開発するにしろ研究するにしろ買うかにしろ、金は必要だ。

「そのあたり、どうするつもりだ?」

「それは……ええと……」

「考えてないなら、いいんだ。まだな。完成までにアテがなければ、作ればいい。お前が言ってた本の試算が確かなら、欲しがるやつは、」

 『羽無し』以外にも、と言おうとして、なんとか飲み込んだ。

 落ち付くため、パンをちぎって、口に放り込む。噛んで、飲み込んで、言う。

「……お前以外にもいるだろうさ。金を出そうって暇人もな」

「ん……」

 ドレッシングのかかったサラダを、ヤタは食む。まだ元気がないように見えた。どちらが飛ばすかのときはいくらか元気があったが、また沈んでいるらしい。

 ヤタが引いている分、こちらが身を乗り出す。

「なに、金を出してくれそうなアテは、ウチのお得意さんの中からでも選べばいい。今は作ることに集中だ。お得意さん説得のためにもな」

「そう……だな。うん。そうだ。まずは、大きくしても大丈夫だって形をつくらないと……」

 推進力については、ひとまずゴムでいい。具体案は考える必要があるが、実際の推進源相応の錘でも乗せておけばいいだろう。

 だから問題は、具体的な形状の方に行く。

「ん……っと。明日は、翼について、やろう」

「翼か」

「翼」

 ええと、と、ヤタは帳面を取り出した。先ほど、回転翼の結果を書いていたものだ。ページを手繰り、ヤタは口を開く。

「グライダーをそのまま使うのはむずかしい。あれは人の翼の補助だけど、人の翼の補助がなければ飛べないものでもあるから、揚力が足りない」

 一息、

「大きくなる分、力が強く働くはず。翼膜は使わないか、使うにしても重ね張りをたくさんするか……接着部分は多分弱くなるから、多分使わない方がいいと思う。全部木で作った方がいいと思ってる。あとは、人が乗った時、方向を変えられるものを付けないと。実際に動かせるようになるのは、実物を作ってからだけど、その重さとかも考えないといけない」

「……あ、ああ、うん、そうだな」

 流石に、まくしたてられると厳しい。だが、木で作った方がいいというのは、分かった。

「となると、今日の回転翼、量産するか、壊れないような工夫が必要だな」

 こればかりは、飛ばさないわけにもいかない実験だ。

 今回は幸い壊れた部分はなかったが、次回から考えないわけにはいかない。ヤタが停滞していたのも、飛行機模型に車輪がなかったが故でもあるのだろう。

「着陸用の……車輪とかを作った方がいいかもな」

「いや、これについては、私の方に案がある。そのために明日から、コォに作ってほしいものがあるんだ」

「ほう?」

 促すと、ヤタは帽子の下で小さく笑んだ。

「明日話す。――付き合ってくれる?」

 ああ、と頷き、言った。

 そろそろ観念した。仕方がないし――

「――お前が飛ぶまで、付き合ってやるさ」

 だがせめて朝飯くらいは食わせろ、と、文句を言うのは忘れなかった。




 ●




 家に戻ると、爺さんは仕事をしていた。

 もう昼時だと言うのに、止まる気配がない。

 半ば自動的に動いているような印象を受ける。

 道具を出して、その近くに座る。爺さんの眼前にあるのは、グライダーの翼の骨部分。荒く形を出された骨を、やすり、場合によってはのこぎりなども使って奇麗に整えるのがこの工程だ。

 既製品を卸すために、多く作っているのだろう。爺さんの手元にあるもので七本目のようだった。

 粗く削りだされた骨は、残り五本。俺も手伝えば、当然早く終わる。

 まだ曲げられていない骨は、木肌を粗く出している。やすりを当て、少しづつ整えていく。

 そう言えば――と、口を開いた。

「爺さん、『羽無し』の若い女がいる金持ちの家って、知ってるか?」

「知らん」

 問えば、即答された。

 なんとなく、分かる。知ってるんだな、と。

「そっか。分かった」

 削りかすが膝に落ちる。この作業も慣れたものだ。削りすぎで拳骨をもらったのも二度や三度では済まない。

「あまり、『羽無し』と付き合うんじゃねえぞ」

「…………」

 答えず、作業を続ける。

 爺さんは構わず、言葉を続けてきた。

「あんな、翼もねえやつらに、飛べるもんのことはわかんねぇんだ」

 それは違う、と、反発が胸に湧きおこる。

 飛ぶことは、確かに分からないかもしれないが、翼がないからこそ、空への憧れがある。それを、俺は感じている。

「……爺さんは、知らないだろ」

 ヤタの方にも、問題があるようだが。俺の方にも、問題がある。







○四章



「よし、回すぞ」

 宣言して、腕に力を込める。

 ハンドルを回せば、大きく作られた回転翼が回った。

 ヤタが考案したのは、飛行機を飛ばすのではなく、飛行機に風を当てることだった。

 確かに、飛行機の見方を変えれば、風が飛行機に当たってきている、と言える。

 良い形の回転翼は、つまり、よりよく風をかいて進んでいくものだ。その位置を固定すれば、後ろに風がいくはずだ――その風を使って実験しよう、と言うのがヤタの案だった。

「うん、よし。名付けて……風送り実験装置」

「そのままだな」

「そのままだ」

「開き直るなよ」

「それじゃあ吊るす」

 人の話を聞け、と言っても無駄なので、ハンドルをゆっくりと止める。

 意外と大きくなったな、と思う。

 回転翼と、その軸、それにつながったハンドル。回転翼を回すのに必要な高度を稼ぐ台と、外からの風除け兼、風が及ぶ範囲を小さくするための覆い。覆いの方は翼幕を使ったので軽いが、本体の方は少々重い。

 流石に外では作れないので、工房を使い製作し、庭先で実験しているが――

「吊るした」

 ――回想に浸っているうちに、ヤタの方の作業が終わったらしい。取りやめて、もう一度ハンドルに手をかける。

「じゃあいくぞ」

「ん」

 力を込める。比較実験を行う時には均等に回す必要があるが、今回はこの風送り実験装置の実験だ。

「うわ」

 と、ヤタの声が上がった。

 風が行って、ヤタの横髪が後ろに大きくなびいていた。

 飛行機はと見れば、揺らぎつつも、吊らされた位置より上に行っていた。

 後ろに行かないよう、前側にも紐を付けている。つまり、推進力さえあれば――この風と同じ速度で進めば飛べることの証明だ。

「おおー。ホントにやるものだね」

 と、三人目の声。ぱちぱちと乾いた拍手の音が庭先に響く。

「次は、本格的に形の検討に入るわけかな、コォ君」

「そうするのか?」

「そうするつもり」

「そうするつもり、だそうだ」

「へえ。ふうん。そう」

 まどろっこしい――そう思うと、眉間にしわが寄るのを抑えきれなかった。

 シズは、ヤタからの言葉を直接受け取ろうとしない。直接会話をしたのは、初めて会った時だけだ。

 一緒に住んでいるか、近所に住んでいるのは確かなようだから、実際には会話もしているのだろうが、三人でいるときは、俺と二人であるかのように振舞っている。執拗で徹底的――そうとしか、言いようがないほどに、だ。

 ヤタの方は、最初ほど委縮した様子を見せていない。二人の間で、何かがあったのだろうか、とは思う。

「ああ、それじゃあ、私に作り方を教えてくれないかな? 暇つぶしの手慰みにはなるだろうし」

「……ああ」

 少なくとも、積極的に邪魔する意図はない――この数日で、俺はそう結論した。

 臍を曲げられても困るので、願いはなるべく聞くようにしている。

「じゃ、今日はどうするんだい? まだ陽も高いけど」

 そう聞いてくると言うことは、シズの予定は、おそらくないのだろう。

 こちらの用事も、特にない。今日もレースは行われているだろうが、こちらの方が、前に進んでいる感じがする。

「作れるものは作ろう。それでいいな?」

 ヤタの方を向いて言ったが、先にシズが答えた。

「分かったよ。それじゃあ道具を貸してくれないかな」

 ずい、と、シズは踏み出してくる。

 二人がいると、爺さんの機嫌は悪くなる。後が面倒なので青空教室にしたいところだ。

「いきなり本番でもいいよ? けっこう、器用なつもりだから」

「最初は練習からだ」

「そっか。それじゃあまずは課題を出してほしいね、上手く出来たらいきなり全部任せてもらえそうなヤツ」

 ヤタは作り方を知らなかった。お嬢様らしきシズもおそらく知らないだろう。

「分かった。……ヤタ、これでいいな?」

「ん……」

 頷きを受け取って、さて、と話題を変える。

「これ、中に入れるか。外に出しておくわけにもいかないしな」

 工房の中には置くなと言われているので、持ち込むのは俺の部屋だ。まずは、と、風防内に吊るされた飛行機に手を伸ばし、――それが遠ざかった。

「意外と重いね? コレ」

 シズが、風送り実験装置を持ちあげていた。気づけば、うお、と声が出る。

「力あるな?」

「お嬢様は鍛えてなくちゃやってられないんだ」

「そ、そうか……」

 ひょこひょこと、シズは歩いて行く。歩きづらそうではあるが、大きなものを抱えているからであり、重いからではなさそうだ。

 あ、と気づいて、呼び止める。

「待て、風防を外さないと、引っかかる」

「ん? まあ、それもそうか。じゃ、外してよ」

 風送り実験装置が、こちらを向いた。

「あ、ああ……」

 飛行機を外し、風防を外し、折りたたむ。

 脇に二つを抱えたまま、家に入っていくシズを見送った。

 正直、自信をなくす。シズよりも軽々と風送り実験装置を持てるかどうか、分からない。

 握力のことを考えると、ヤタにもかなり力があるのではないか、と思うが――アレが、『羽なし』の標準なのだろうか。

 溜息を吐いて、俺も家の中に入っていく。




 ●




 町中を通って、材木場に行く。

 昼時だからか、炊事の煙が上がり、いいにおいが漂っている。人通りもあり、活気がある。

 先頭を歩くのはシズで、その後ろに俺とヤタが並んでいる。

 シズが首だけで振り返って、言った。

「ところで、下々のご飯、食べてみたいんだけど、いいかな?」

「材木場行った後でな」

 この十日ばかり、ほぼ毎日、材木場に顔を出している。俺も場所は知っていたし、爺さんの使いで行くことはあったが、この頻度で顔を出したことはない。

 やはり、と言う形で結論を出したことがある。――休憩時間以外には行くべきではない。

 狙い目は、食事を終えて、まだ少し間があるな、と思うような時間帯。腹も膨れて、気も大きくなっている。

「そう言えばさ」

 と、またシズが話しかけてきた。

「長期予定話してもらったよね? あれさ、模型を完成させて――いつになるかは分かったものじゃないけどさ? そのあと、資金を集めるわけだよね、実物を作るために」

「ああ、そうだ」

「でさあ、私達のリーダーと言ったら、ヤタだよね? なんせ言いだしたのはこいつなんだから」

 と、シズは、ヤタにいびつな笑みを向けた。

「資金集めのとき、リーダーが交渉しないってのは問題だよね? 模型の材料調達から作るのから資金集めから、なにからなにまで部下におんぶにだっこって言うのは問題だと私は思うんだよね」

 ……話の帰結は、なんとなく分かった。

「だからって、交渉させろと?」

「違うね。一人で行かせるべきだ―― 一人で行くべきだよ。練習だ。そのうち必要になるんだから、今から慣れておくべきだよ。お友達のことを想うのはいいけれど、過保護はよくないね」

「それは、そうかもしれないが……」

 ヤタに視線を向ける。

 こいつが交渉事に向いているかと言えば、間違いなく、向いていない。理想を語るリーダーにも、向いているとは言い難い。

 交渉も俺がやることになるかな、と、なんとなく思っていたのだが。こいつも交渉出来るようになるのは、間違いなくプラスだ。

 正論では、ある。だが、シズの言動の根には、おそらく悪意がある。何か、よくないことを考えているはずだ。

「コォ。私は大丈夫だ。おまえのを見てたから、分かる」

 帽子のつばの下から、ヤタは言った。表情は見えないが、声が震えているわけではなかった。

「そうか……」

「そうだ」

 ……シズの言動には、憎しみじみたものや、悪意を感じる。だが、害意までは、今のところ感じていない。邪魔だとも思うが、今すぐに帰れと言えるほどのことはやっていない。

 考え、結論を出した。

「少し離れたところで、見ていよう」

「心配性だね。まあ、最初だし、そのくらいの方がいいかな」

 くつくつと、シズは笑った。

 ここ十日の日参で、ヤタも材木場の人たちに姿を覚えられている。シズがお嬢様らしいとはいえ、『羽無し』である以上、動かせる人も金も少ないだろう。誰かに襲わせるとか、そういうことはないはずだ。

 心配を、理論武装で押しつぶした。




 ●




 見る先で、ヤタがきょろきょろとあたりを見回しているのが見えた。

 話しかけられる人を探しているのだろう。

 低い柵で敷地を囲われた材木場の中、幾人かは弁当を広げ、幾人かは何かを話して笑い、幾人かは既に仕事の準備を始めている。

 狙いを定めたのか、帽子のつばが一点を向いた。

 話しかけれれば、ほぼ成功と言っていい。どうせ貰ってくるのは端材で、話しかけられた人は許可を出すだけだ。既に何度か来て、案内もされている。使えそうな材木を背負い袋に入れて帰ってくるだけの、簡単な仕事だ。

 ヤタは歩いていた人に一言二言と話しかけ、それから、仕事場の方へと歩いて行く。

 それを確認してから、口を開いた。

「なあ、シズ」

「なんだいコォ君」

「お前とヤタはどういう関係なんだ?」

 じきに戻ってくるだろうが、それでも、こういうことを話す時間くらいはある。

 むしろ、ヤタがいては口に出せないことを問わせるために、シズは一人で行かせろと言い出したのではないだろうか。

 くつくつとシズは笑って、金髪をかきあげた。

「私はね、元々、飛べたのさ。ヤタとは、古い古い知り合いでね。いつも一緒に遊んでいたよ」

 ほら、と、シズは背中を見せてくる。背の空いた服は、大きく傷跡の残る肩甲骨を見せていた。

「この通り――羽がね、両方とも、なくなったのさ、ヤタのせいで」

 ヤタは元々なかったんだけどね――と。シズはそう言って、髪を下ろした。

 振り返った顔は、笑みを浮かべている。

「感想は?」

 言葉を探そうとして、一つしか言葉がないことに気づく。頭を下げ、言った。

「聞いてすまなかった」

 それ以上、言えることはない。

 言葉を受けたシズは、くつくつくつ、と、長く笑って、手をこちらに伸ばしてきた。

「ねえ」

 言葉と同時に、首に手がかかる。

「ヤタと付き合ってて、疲れない? 休みたい、離れたいと、思わないかな?」

「……思わ、ない」

 身を引いたが、シズは踏み込んできた。

「これからちょっと、遊びに行こうよ。ヤタなんか放っておいてさ」

「一人で行かせたんだ、帰ってくるまでは待ってやらないと駄目だろう」

 再度、首に手が触れ、そして軽く握られた。首肉に、指が食い込んだ。

「一人でも、もう大丈夫そうじゃないか。これだけじゃなくって、全部さ。あのへんてこな装置? あれだってさ、うちにもってくればいいんだ。元々、一人でやってたんだしさ」

「ぐ……」

 手に力が籠った。首肉に食い込む手が、明確な害意を持って、絞めてきた。

 反射的に払おうとした右腕を掴まれる。足を引きつつ、左で思いっきり腕を払った。身体ごと振って、右腕の方も振り払う。

 三歩四歩と距離を取って、睨みつけた。

 首だ。

 冗談にするには、物騒に過ぎる。

 ややあって、シズが口を開く。

「……そうだよ、一人で完成しそうじゃあないか」

 視線が合う。

 シズの青い瞳は、どこか危険な輝きを帯びていた。

「お前は、何を……」

「独りだったのに、君がいたからさあ、一人で出来ちゃいそうじゃあないか。完成させて、幸せになるなんて、許せないッ!」

 四歩の距離が、一瞬で詰まった。

 防ごうとした手をすりぬけ、体当たりじみた拳が、腹に突きささる。

「ぐぇっ、」

 ほ、と、空気が漏れる。

 身構えていたのに、防御できなかった。

 身体がくの字に折れ、酸っぱいものが一瞬で口の中に上ってくる。

「優しく言葉で言ったのに付け上がってさあッ!」

 頬で衝撃が破裂した――おそらく殴られた。

 傾いだ側のこめかみに、さらに強く、重い――おそらくは蹴りが入った。

 痛みより先に、気持ち悪さが来た。

 膝が落ちる。意識までは落ちなかったが、その一歩前までは来た。

 鍛えているとは、本人も言っていたが、これは、鍛えている、の方向が違う。これは、鍛錬していると、そう言うべきだ。

 手を地について、げ、と息を漏らす。昼飯前でよかった。食っていたら間違いなく吐いていた。

「コォ君は用事を思い出したので帰りました――それでいいよね?」

「ぐっ、おま、え、」

「邪魔なのさ。君。下民はお帰り願いたいんだ」

 ああ、でも、と、シズの声は続く。

「私の気持ちを、少しでも分かってほしいから、そうだね、軽くヒビを入れて、全治一月ってところかな」

 地に伏し上を向いた右の翼を、強く握られる。何をされるのか理解して、必死で叫ぶ。

「やっ、やめっ……」

「シズっ!」

 声とほぼ同時、羽根が盛大にむしられた。

「うっ、ぎっ……!?」

 ぶちぶちぶち、と、音が聞こえた。

 悲鳴も切られる鋭い痛みが、全身を泡立たせる。文字通り、涙が出るほどに痛い。

「シズ、なにを、やって……!」

 涙の滲んだ視界に、靴が見えた。誰かと言えば、一人しかいない。

「や、ヤタ……」

「コォは関係がない、やるなら先に私のはず! 今までみたいに、私一人にっ!」

「……いったいなあ」

 くつくつくつくつと、笑い声が聞こえる。

 立ち上がりつつ、滲んだ涙をぬぐう。

 シズは尻もちを付いたまま笑っていた。

 唐突な激昂は、やはり唐突に収まったらしい。

「いや、うん、収穫はあった」

 シズは立ち上がって、尻をほろう。

 ヤタの前に立って、腕で下がらせた。今度の距離は六歩。先ほどの速度でも防御は間に合う距離だ。

「久しぶりだよね」

 何がなのかは、二人にしか分からないことなのだろう。ヤタの身が硬直したのを腕に感じる。

 シズはにっこりと、左右対称に笑った。

「帰るよ。それじゃあまたね、コォ君?」

 また、とは、口が裂けても言えないような状態だというのに、シズはそう言った。

 見る先で、彼女は踵を返して、腰を落とし、常のごとく走り去っていく。

 姿が大分小さくなったところで、ヤタが腕から離れた。

「コォ、大丈夫」

「……痛い」

 今更のように、痛みが強くやってくる。

 腹はまだひっくり返ったようだし、頭はまだ揺れている。気持ち悪さで、思わずしゃがみこんだ。

「今日は、昼飯は、食えない……」

 ぐ、と息を吐き出しながら、言った。

 入れたら戻す確信がある。

「ごめん」

「何がだよ」

「シズの目的が私じゃなかったこと」

「……お前、謝れるんだな」

 人に頼めるのだし、当たり前と言えば当たり前だが。あんまりにも、印象に薄い。

「心配して言ってる。座った方がいいと思う」

 頷いて、座り込んだ。

 材木場の方から人は来ていない。ヤタの背負い鞄が途中に捨てられていた。

「お嬢様の鍛え方じゃ、ないだろう……」

「……翼が無くなってからの、彼女の趣味なんだ」

 言って、ヤタは鞄を回収に行った。

 掴まれた右手には、軽く跡が付いている。

 左手で腹をさすりながら、ヤタになんと問うべきかを考える。しかしヤタは、すぐに戻ってくる。

 考えがまとまらず、ああと、と、声を出して、そこで止まった。

「シズ様は」

 と、ヤタが先に言葉を紡いだ。

「シズ様は、私の姉妹……みたいなものだ。昔から彼女の方が背が高くて、最近はこれでも追いついたくらいなんだ。翼もあったから、私の方が連れまわされる側だった。それで、私が原因で、彼女は翼を失ったから、だから、彼女は私を怨んでいるんだ」

 ……そういう過去があったからと言って、単純に許せるものではない。痛みは現在、現実として頭と腹にある。

「今日は、もうやめにしよう」

「……ああ」

 これから何かを作るような雰囲気では、なかった。

 足元を確かめるように立ちあがって、町の方へと歩いていく。




 ●




 朝飯は家で食う、と言うと、爺さんは、

「全部食った」

 と、ばっさりと言い捨てた。

「手伝う気があるんなら、ちゃっちゃと外で食ってこい」

「……分かった」

 正直な話、あんまり外に出たくはない。藍黒の、自慢のこの翼、右にハゲがあるからだ。

 バランスに気を使えば、飛べないほどではない。だが、これを見る度に、シズへの怒りが沸く。

 ……とりあえず、腹を満たすのが優先だ。

 金を持ち、家を出る。

 既に太陽は昇っている。朝も終わりがけ、挨拶も『おはよう』から『こんにちは』に変わりそうな時間だった。ヤタがいつも来ていた時間は、とっくに過ぎている。

 昨日の今日じゃな、と、思う。

 部屋に風送り実験装置は置かれたままだし、今のところの最新作の飛行機も部屋においてある。だが、いつ回収しに来てもおかしくはないだろう。

 回収されたら、羽根が揃うまでは、爺さんの手伝いをしていればいい。羽根が揃ったら、またレースに顔を出せばいい。ここ最近は行っていないから、きっと盛り上がることだろう。そして、いつものように勝つ。あるいは、『隣島の』と勝負をする。ヤタと会う前に戻る。それだけの話だ。

「それならそれで、いいんだけどな……」

 言葉にすると、途端に嘘らしくなった。

 振り払うように助走。四歩目で飛び上がって、町の方へ向かう。

 その途中、見覚えのある帽子を見た。翼はない。灰色のシャツに、ツナギを着ている。

 ……無視して、町の方向を見る。

 既に朝食の炊事煙は絶えているが、あまりものくらいは残っているだろう。




 ●




「朝飯、外で食ってくる」

「おう、元から作ってねえ」

 爺さんから、心温かい見送りを受けて、家を出た。

 三日が、経っている。

 あの帽子は、日を追うごとに、家から遠ざかっていた。

 おそらく、家の前まで来ては、諦めている。諦めの速度が、段々と早くなっている。

 何分、何時間待っているのかは分からないが、いつかきっとゼロになる。

 ……あの帽子がどこに帰っているのかは、だいたい分かっている。町中、町外れ、そして家――それぞれ解散した時、ヤタが向かって行った方角から、帰る場所は割りだしている。シズと言う、良家の子女、らしきなにかと昔からの知り合いであるともなれば、ほぼ確定と言っていい。

 そもそも。眼下に見えるのだから、話があるなら、話したいなら、下りて、話しかければいいだけだ。

「俺も、諦めてるんだな……」

 シズの本当の狙いがなんだったのかは分からないが、ヤタから俺を遠ざけることは――ヤタを一人にすることには、成功している。

 もう一度シズに会いたいとは、思わない。

「…………」

 町へと飛ぶ。

 羽根はまだまだ生えそろいそうにない。




 ●




「最近どした、コォ」

「いや、……羽根が揃ってないから、外に出たくないだけだって。爺さんの手伝いやらないのも、悪いしな」

 適当に切った野菜を鍋に放り込みつつ、言う。

 俺流。爺さんの作る料理とはまた違う、少し手間のかかる煮込み料理だ。

 横目で見れば、爺さんの眉間の怒り皺が深い。怒っているのではなく、怪訝に思っているだけだというのは、口元で分かる。

 爺さんは、深い溜息を吐いた。

「……お前が継ぐ気になったんなら嬉しいんだけどよぅ……」

「悪くないって思ってるさ」

 するりと即答すると、爺さんの眉間に、見たこともないような皺が寄った。

「言っとくが爺さん、俺は正常だぞ」

「いや、お前、なあ……」

「爺さん、今まで俺と親父に人生使っただろ。その分くらい、俺も人生を爺さんに使ったっていいって思うんだよな、最近」

「……俺が休む時以外は、全部出てもらうぞ?」

「飯の時間と寝る時間があればいいさ。遊ぶ時間も、そりゃあ欲しいけどな」

「……そうけ」

 爺さんは腕を組んだ。

 鍋に視線を戻す。串で刺そうとするが、まだかたく、刺さりそうにない。

 しばらく放置だな、と、窓を見た瞬間――帽子に、気が付いた。

 それがあるのは窓の外。朝の光を遮って、丸い影を室内に落としている。

「ん?」

「あ?」

 思わずの声に反応してか、爺さんが俺の方を見て、その視線を追って――がたりと、椅子を蹴って立ち上がった。

「誰だッ!」

 大音声。

 殴るように窓を開けたその先には、帽子をかぶったヤタがいる。

 爺さんも顔は覚えていたのか、語調を落とし言った。

「……お前か。帰れ」

 それだけ言って、爺さんは窓を閉める。

 窓が閉まってから、しゃがれた声が聞こえてきた。

「私は、こちらに預けていたものを、取りに来ただけであります」

 相変わらず、敬語はおかしかった。

 そこも癇に障るのか、爺さんはもう一度窓を開き、

「帰れと言っとるだろうッ!」

 それだけ言って、乱暴に窓を閉め直した。

「爺さん、落ち付け。……火、見ててくれ。話してくる」

「コォ、いいか、『羽無し』とは金輪際縁を切れ、分かったな」

 爺さんがこちらに近づいてくる。返事はせず、へらを渡して、玄関に向かった。

 玄関を開けば、帰ろうとするヤタがいる。

「おい、ヤタっ」

 呼びかければ、ヤタは振り返る。

「こ、……コォ」

 四日ぶりに、顔を合わせる。

 相変わらず帽子のつばで表情は見えないが、口元が結ばれているのは見えた。

「持って帰るつもりか」

「いや、いい。新しく作る。おまえから、加工の仕方はだいたい教わったから。そっちの方は、面倒をかけるけど、捨ててもらえると助かる」

 言いたいことは言い終わった、とばかりに、ヤタは踵を返した。

「待て、ヤタ」

 シズの姿を探そうとするこの目が恨めしい。

 迷いかける目をヤタに固定して、呼びかけた。

「話を聞け」

「まだ何か?」

「まだ何か、も何も、俺は何も言ってない」

「持って帰るつもりか、って言ったじゃないか」

「それは確認だ」

「持って帰らないつもりだけど、邪魔なら、後で持っていく」

「違う、そうじゃない」

 やはりこいつは、話しにくい。

 そうじゃない、と繰り返し、首を振った。

「お前は、危なっかしい。絶対、また怪我をする」

 だから、と言いながら近づき、手を掴んだ。

「付いて来い」

「え? あ、待て、待ってくれっ」

 言いながら、家に引きずり込んだ。

 鍋の前に立つ爺さんが、目を丸くしていた。

「爺さん、正式に爺さんに弟子入りする。ついでにコイツも弟子にしてくれ」

「あ、……ああ!?」

 素っ頓狂な声を、爺さんは出した。

 本日二度目。今まで見たことのない表情を、爺さんは浮かべた。

「お、お前……なあ……さっき縁切れっつったろう」

 怒りより先に、呆れがあるのが見て取れた。ヤタと初めて話した時の俺は、あんな顔をしていたのかもしれない。

「爺さんはさ、親父の親父の、友達だったんだよな」

「おぉ? ……おう。そうだったが」

「親父は、親父の親父は、どんな人だったんだ?」

「お前の十年後だなあ」

「そりゃ分かりやすい」

 仲が良かったと言うよりは、爺さんが義理堅かっただけなのだろう。じゃなきゃ、こんなやつの十年後の子供を引き取ろうとはしない。そして俺は、そんな爺さんに育てられたのだ。それで少しも義理堅さを受け継いでいないなら、そいつはとんだ爺不幸者だ。

「爺さん、やりだしたことを途中で投げ出すのは、駄目なことだって思う。俺はこいつの手伝いをしてたんだ。だから続ける。爺さんの仕事を継ぐ。両方やることに今決めた。ついでにこいつの方も鍛えてほしい。努力家で真面目なのは保障する」

 ヤタの熱は、シズの来襲で、消えたのではなく、俺の方に移ったのだろう――そんなふうに思うほど、口が回った。

「こいつと一緒に、飛行機を作ってたんだ」

 ……熱が移っても、一緒に夢を見てたんだ、とは言えなかった。

 その分を、視線に込める。

「おっ、お願いします、お爺さんっ」

 ヤタも、帽子をとって頭を下げた。

 爺さんは、思いっきり嫌そうな顔をしたが――け、と一つ毒づいてから、口を開いた。

「真面目にやらんかったら叩きだすからな」

 言い捨てて、爺さんは工房に行った。おそらく、ヤタの分の道具や仕事を用意しに行ったのだろう。どうやら、熱意は通じてくれたらしい。

 ……と。鍋からじゅう、と音が聞こえて、現実に引き戻された。

 吹きこぼれている。

「おっと」

 大股で近づき、鍋を持ちあげて火から遠ざける。慣れがないから仕方ないのかもしれないが、水を入れすぎたか、火を強くしすぎたかしたらしい。

「コォ」

「なんだ」

「なんで私も弟子入りすることに?」

 問われて、困った。その場の勢いと言うものは、恐ろしいものだ。

「あー……爺さんは、俺より腕がいいし、教えてもらうならそっちの方がいいし、……その、なんだ……シズの性根だって叩き直してくれるだろ」

「……え?」

「シズも連れて来いって言ってるんだよ。もう遭いたくないが、お前と飛行機作ってたら絶対また会うだろ。だから先手を打って叩き直してもらう」

 シズの拳も蹴りも痛かったが、爺さんの本気ほどではない。籠っている年季が違う。それに、爺さんはとてもとても義理堅い。文字どおり、叩き直してもらえることだろう。




 ●




 それからの毎日は、それまで以上に騒がしく、雑多なものだった。

 ガツンと拳が鳴るのは、日ごとに十では済まない数だ。

 いい練習になるだろ、と。

 ヤタにそう言えば、

「とりあえず帽子を返してほしい……」

 頬を赤くした涙目でそう言う。

 シズにそう言えば、

「自己流じゃやっぱり限界があったね。殴られる痛みに耐性がないみたいだ」

 虚勢じみた笑みを浮かべた涙目でそう言う。

 そして、無駄口を叩いてないでやれ、と、俺もぶん殴られる。それも顔面だ。

 俺にだけ容赦がないのは、多分、孫だからなんだろう。







○五章



 そうして、一月が経過した。

 風送り実験を繰り返し、人が乗り込む場所や、必要な推力、強度の計算を行った。

 予想以上に大型になったが、回転翼の形状も、本体も、何もかもが洗練された。

 問題は、実際にこれを作る場所と、時間と、資金だった。

「……ま、そんなことは、今はいいんだよ。重要だけど、今は別に重要じゃない」

 ん、とヤタが頷いて、シズは、不満そうに唇をひん曲げた。

「――かぁんせいだぁあ」

 ヤタが厳かな口ぶりで言う。常の早口とは全く違う、それは、とてもとても冗談めかした言い方だった。

「完成だな」

「完成だね……」

 はああ、と、シズが溜息を吐く。

「で、コォ君。これで私は解放されるのかな」

「そんなわけないだろう。逃がさん。爺さんが」

「私、お嬢様で忙しいんだけれどね。本宅は別の島だし」

「風送り実験装置作る時ずっといただろうが」

 忘れたとは言わせない。こいつも――翼がないと言う事情こそあれ、暇人なのは間違いない。

「近々、うちの兄上主催で、パーティーが行われるんだ。その準備で忙しいのさ。お嬢様だからね」

「……そうなのか」

 本当なら、仕方がない。何日も拘束されるとは思わないが。

 シズは頷き、

「うん、いい機会だし――ヤタ、兄上にコォ君を紹介しよう。パーティーに呼んでさ」

「えっ、……うん、いいと思う。この飛行機なら、報告できる」

「……なに?」

 話が、よく見えない。

 シズがヤタに話しかけたこともそうだが、パーティーに呼ぶとは、どういうことなのか。

「構わないだろう? コォ君。私達の出資者になってくれてる人だよ」

 初耳、だった。

 出資者になってくれるかもしれない、という期待を、シズの家に抱いてはいた。

 それが、

「なって、くれてる?」

「うん、最初から。正確には、ヤタが一人でやってる頃から、になるけどね」

「……先に言ってくれ」

 既に、出資を募るリストも作っていたと言うのに。俺の地道な下調べとかの苦労は、どこに向かっていたと言うのか。

「ごめん。なるべく口にするなって言われていたから」

「いや、いいよ、俺が交渉する必要も、お前に交渉の練習をさせることもなかったってことだ……苦労が省けたなら、それはそれでいいだろ……」

 そのはずだ。この妙な虚脱感は、きっと錯覚だ。

「ごめん」

「悪かったね?」

 シズの方には、脇腹に貫手を入れた。

「おぶっほっ。……て、手慣れてきたね……強くなったよ、コォ君は」

「今までが本気じゃなかっただけだ」

 きっと、そうなのだ。ヤタに出会うまで、ずっと本気ではなかった。

「今ならきっと、なんだってできるさ」

 その確信が、あった――




 ●




 ――が、粉々に打ち砕かれた。

「無理だ」

「大丈夫だよ、いい羽を持っているんだからさ。おそらくだけど」

「関係ない」

「いいやあるある、その羽の見事さは、それ、自慢していいよ? きっと」

「絶対誰かに翼ひっかける」

「そういうものだってみんな割り切ってるさ。――失礼なことであるのは間違いないけれどね」

「やめてくれ……」

 イオサ、という家がある。

 主な業種は貴族。ついでに、食糧についてを取り仕切っている――金があるから金が集まってくる、という、冗談のような存在だ。

 そのパーティーに呼ばれるのも、相応の人々である。催されるのも、単なる立食会なんかではなく、冗談でも誇張でもなく、貴族に対するイメージと相違ない、ダンスパーティーだった。

 俺がダンスなんて踊れるわけがない。故の、シズへの抵抗だった。

「ああ、ちなみにその服――」

 と、シズは、こちらを指差してくる。

 今着ているのは、シズに押し付けられた、夜会用の服だ。名前は知らないが、ダンスパーティーの衣装と言えばこれ、と、イメージがある。飛行にはまったく向かないし、正直、格好いいとも思えないが、これが正式と目される衣装ならば着なければならないだろう。

 周囲の人々の衣装も、派手さの違いや中身に合わせた着こなしはあれど、大半が類型と言えるものだった。

 シズもドレスを纏っている。俺と話しているからか、翼がないからか、話しかけてくる者はいないが、……中身を知っていてなお、美しい、と形容せざるを得ない姿だ。

「――たぶん、君の家の年収分くらいはするからね。安い方だけど」

「き、肝に銘じる……」

「そんなに委縮しなくてもいいって。たぶん」

「お前は俺に踊らせたいのかそうじゃないのかどっちだ」

「答えは遊びたい、だよ。――ほら。来たよ?」

 手が指し示した方向には、黒の長髪を流した、青いドレスの――翼がない、少女がいた。

「お、」

 と、少女は迷ったように口を開き――

「踊れ下さい」

 ――と、常の早口しゃがれ声で、珍妙な、よく分からない言語を口にした。

「踊ってください、じゃないのか? そこは」

「そうかな。そうかもしれない。多分そうだ」

 ん、と、ドレスの少女――ヤタは一人で納得した。

「壁のシミになってるくらいだったら、お姫様と踊ってきなよ。っていうか、兄上、さっきから君が踊らないのかなーって見てるからさ」

「……そろそろ頭が沸騰するぞ」

 人が多すぎて、どこにその『兄上』がいるのか分からない。そも、主催の妹たるシズがいるし、注目を受けても仕方のない状況である。

「いや、だって、ほら。妹の最初のお友達なんだし、気になって当然だろう」

「……お前、俺が最初の友達だって兄上さんに言ったのか? 寂しい奴だな」

「そんなわけないだろう? ヤタのだよ、ヤタの」

 今度こそ、頭が爆裂しかけた。

 言っている意味が、よく分からない。まったく分からない――いや、理解を拒んでいるだけだ。

「お前の兄上の妹がヤタ、だな?」

「そうだよ。私の姉でもある」

「嘘だろ……」

 そう言えば、一月以上過ごしていて、ヤタの顔をじっくりと見たことがなかった。

 似ていると言えば似ている――ひっかかるような言葉もいくつかあった、気がする。

「姉妹のようなもの、って言ったよな、ヤタ……」

 いや――仲の悪さを考えれば、ようなもの、と言っても、そう間違いではないのだろうか。姉と妹についても、わざわざヤタが私よりも背が大きくてと言ったのだから―――いや、やっぱり、卑怯だろう。

「いいからさ。私のことなんて気にせず、踊ってくるといいよ。兄上への義理立てだと思えばいい。――ほら、ヤタが返事を待ってるよ」

 その理由もどうかと思うが、確かに、返事は返さなくてはならないだろう。

 ヤタに向き直る。

 いつもはカーテンのように下ろされている前髪は、きれいに梳かれて、目元を見せている。帽子の中に収められていた黒髪にくせはない。額にちらりと薄く見えたのは、傷跡か何かだろうか。

 青い目は、……何かの感情で揺れていた。

「……踊るます」

 作法などは知らない。

 長手袋の手を取って、壁から、ダンスの輪の、外の方へと歩く。

「ヤタ、作法とかリードとか出来るか」

「私は知らない」

「終わった……」

 一瞬天井を見上げ、それからシズの方を思いっきり睨む。

 シズは、……いびつに笑っていた。あの笑みは、ヤタに対する嗜虐の笑みなのだと、最近ではなんとなく分かっている。

「回ろう。腰を抱えて」

 と、ヤタが、身を寄せてきた。

「っと」

 ぐるり、とその場で回転した。

 途中で何か堅くも弾力のあるものを踏んだ気がするが――

「ぉぶっ」

 ――胸に打撃が入る。

 頭突きであった。確かに手を組んでいるし、迂闊に悲鳴を出せないような環境ではあるが。これはきっと、爺さんの教育のせいに違いない。

「痛い」

「すまん」

「タイミングを合わせよう」

「ああ、――この曲が終わったら逃げよう」

「シズのところに?」

「ああ、逃げるついでに張り倒しに行く」

「ん」

「よし」

 周囲を見て、音楽中の、謎のリズムに従ってくるくると回っているのに合わせる。

 周る最中に何かをやっていたり、そもそも手の位置が違ったりするが、細かいところも合わせろと言うのが無理な相談だ。翼を必死で小さくして、可能な限り周囲の邪魔はしないように努めた。

 優雅さとか、恋の語らいとか、そんなものとは一切無縁の茶番だ。

 ぐるり、ぐるり、ぐるりと回りまわっているうちに、曲が終わった。

 まずヤタと離れ、それから周囲の紳士淑女の方々が何か、礼とかをしているのを見て素早く頭を下げあい、ヤタの手を引いて、可能な限りの早足で壁に向かおうとすると、

「待ってくれないか、君」

 肩を掴まれ、引きとめられた。

 大きな手だ。

 誰だ、と振り返れば――今となっては懐かしの、『隣島の』がいた。奇形の四枚白翼。愛想笑いを浮かべた、大男だ。

「ああ、やっぱり君だ」

「あ。お久しぶり、兄上」

「あに……お、お前たちは何度俺の頭を爆裂させるんだ……?」

 もう、よく分からない。どうしようもない。誰か俺を逃がしてくれと、真剣に祈った。

「まあ、整理は後ですればいいさ。今は、僕が出資者であり、飛行機について聞きたい――そうだとだけ、考えていればいいよ」

 と、『隣島の』――兄上殿、は言った。

 聞いてみれば、鷹揚な口調ではあるが、シズと共通する言い回しがある。顔立ちは、どちらかと言えば、ヤタの方が似ているだろうか。

「まあ、そう長い話でもないね。ついてきてくれるかな」

 と、兄上殿は、壁際まで歩いた。肩を掴まれる俺も、手をつないだままのヤタも、ついて行くことになる。

 さて、と彼はいい、両手を広げ、愛想の良さそうな笑みを見せてきた。

「君から見て、飛行機はどうだい?」

 出資者になってくれている――らしいので、敬語に言葉を切り替える。

「俺から見て、……です、か。ヤタの方が詳しいと思いますが……」

「詳細については、後でヤタに聞くことにしよう。君から見た所感を聞きたい」

 はぁ、と気の抜けた返事を返しつつ、完成に至った飛行機のことを思う。

「資金、時間、場所。これと、推進力に使えるもの。これらが揃えば、実際の飛行機を、人を乗せて飛べるものを作れると思います」

「なるほど。分かった」

 では、と、彼は頷いた。

「これから先、君が役立てることは? 推進力についてや、島外の知識はあるかな? あるいは、本体の加工に役立つような知識、技術は?」

 ――血の気が引く。

 なにが言いたいかを、一瞬で理解した。

 唾を飲み込み、絞り出すように、言った。

「……なにも、ありませんね」

「そうか。分かったよ」

 と、兄上殿は頷いた。愛想の良さそうな笑みに、少しだけ沈鬱さを混ぜて、言葉は続けられる。

「じゃあ、残念だけど、開発チームには入れられないな」

「開発……ですか?」

「ああ、君たちの実験で、適切な翼の形や推進力を用意すれば飛べると分かったからね。言い方は悪いけれど、君たちはお役御免になる。もちろん、基礎研究の対価は支払うよ? ただ、残念だけど、チームの雑用員以上の役目はあげられない。君たちの夢だけどね」

 なに、と。そう思う間に、兄上殿は、視線をヤタに向け、口を開いていた。

「ヤタ。これからも、君は出歩いていい。本気でグライダー職人になるもよし、個人で、実際の飛行機を作ってもいいよ。研究については、君が第一人者だ。実際に作るとなれば、今まで以上のお金を渡せるから、頑張ってほしい」

 言っていることが分からないと、そう思いっぱなしのパーティーだ。

 シズとヤタが姉妹で、ヤタが姉で、『隣島の』が兄上殿で、そして、事実上、夢は断たれた。

 俺と、ヤタと、ついでにシズ――この三人では、飛行機を作るのに、何年も何年も何年もかかるだろう。

 ヤタは、最先端になろうと言った。最先端は、この、兄上殿と、その部下たちのものになる。

 俺たちが、何も言えないのを見てか、兄上殿は頷いた。

「それじゃあ、お話はこれで終わりだ。もし不服があったら、妹を通してでも言って欲しい。君は妹に力を貸し、基礎実験をしたのだから、可能な限りは叶えよう。それと、独自の実験で画期的な成果を得られたら、いつでも言って欲しい。きちんと対価は支払うからね」

 言って、兄上殿はダンスホール中央へと戻っていく。

 人波に、大男が紛れるのを見送って、それから、手をつなぎっぱなしだったことに、今更のように気が付いた。手袋が、すべすべとしたいい生地のものだとも。中にある手の感触を伝えてくるような、上等なものだということも。

 振りほどくことはできない。痛いくらいに、手を握られている。

「……どう、しよう」

 しゃがれ声は、これまでにないくらい、震えている。

 見なくても、ヤタがどんな顔をしているか分かった。

「ごめん、こんなつもりじゃ、なかったんだ」

 つっかえつっかえで、いつもの早口の欠片もない。

「ごめん、コォ、私は、兄上に、みとめてもらえると、おもって、た」

 すべすべとした生地の手袋が、手の内からするりと抜ける。

「ま、待て、ヤタっ」

 長手袋だけが、手の内に残る。走り去るヤタの、傷だらけの手が見えた。

 ヤタは、努力していた――前に進もうとしていた。最先端に行こうと、開拓者になろうと、空を飛ぼうとしていた。

 俺も一緒に行けると信じ、行ってくれると信じてくれていた。

 何の根拠もなく、お互いに、確信していた。

 追いかける。

 いくらヤタが健脚とはいえ、俺が出遅れたとはいえ、ドレスでは遅い。

 ホールの出入り口を抜ければ、邪魔者はほとんどいなくなるはずだ。見失わないよう距離を詰めつつ、廊下で捕まえればいい。

 だが――

「行き止まりだよ」

 ――と、シズが立ちふさがった。

「避けろッ」

「落ちつきなよって」

 下腹に、鈍い痛みが入ってきた。

 ぐ、と息をつまらせてから、殴られた、と理解する。

「後できちんと案内するさ。ここは私の家でも、ヤタの家でもあるんだよ? 今追いかけて行っても、ろくな結論が出ないと、私は思うね」

 おわかりかな、と、シズはいびつな笑みで念押しをしてくる。

 どういたしましたか、と、給仕が来たのを、シズは演技の声で迎えた。

「このお方と、ぶつかってしまいまして……わたくしは無事なのですが、このお方が、気分を悪くしてしまったようなのです。申し訳ありませんが、私のお部屋までお連れするのを、手伝っていただけませんか……?」

 それは大変です――と、給仕は俺の脇下にもぐって、立ち上がらせようとしてくる。

「い、や、大丈夫です……このとおり、」

 と、給仕を軽く振り払いつつ立ち上がれば、下腹が痛んでよろめいた。

 それを支えたのは、シズだった。鍛えられた――鍛錬された肉体が、ほとんどよろめかず、俺の身を支える。

 これは、と、給仕が変な声を出した。

「あらっ……まあ……」

 耳元で聞こえる演技の声が、極めて気持ち悪い。

「お部屋に、案内しますわ……」

 ぞわりと、羽根が総毛だった。

 支えるような動きの、有無を言わさぬ力が、俺を引きずっていく。




 ●




「……お前、最初から、知ってたな? こうなることを」

 シズの部屋――ものがない部屋に落ちついての、開口一番。シズは、うん、と頷いた。

「だいたい全部私のせいだよ? 君にとってはね」

「なんでだ」

「それを話すには、昔語りからしなくっちゃいけないんだけどね。まあ、かいつまんで話すとしよう――」

 一息。シズは息を深く吸って、左右対称の笑みを浮かべた。

「私達は、兄上、ヤタ、私――という三兄妹なんだけど、兄上殿が奇形の四枚翼、ヤタが『羽無し』、私だけが、普通の二枚翼だった。兄上とヤタはけっこう年が離れていて、当時の我が家では、ヤタが生まれた当時、次期当主は兄上で確定だと目されていた。だからまあ、姉上サマはほとんど見捨てられていたわけだ。外向きには、執事が拾ってきた子、って扱いになるくらいね。それで、そのあとに私が生まれて、普通の二枚翼だったから、また期待をされたんだ。健康優良児だったしね」

 質問の間を設けるように、シズはまた一息を置いた。

「それでまあ――同じ家には、住んでいたし、小さい頃は、普通の姉妹みたいに遊んだよ。私の方がすぐ大きくなったけど。ホントの姉妹だってことは、しばらく知らなかったけどね。それで、遊んでいるときに、ふらっと揉み合って落ちて、ものすごく運悪く、私は両方とも切断しないといけないってくらいの怪我を負ったわけだね。いや、あの時は死にかけた。ヤタの方も、おでこを割ったんだけどね。とてもとても、釣り合うような怪我じゃなかったよ」

 さっき傷跡が残ってるの見たろう、と、シズはくつくつ笑う。

「――私が羽を失う前から、ヤタは、飛行機ってものに傾倒していた。ちょうど……十年くらい前からかな。年上のくせに私の方が優秀だったんだけど、飛行機については、私はちょっとついていけなかった」

「十年前……か?」

「ん? まあだいたいだけど、そのくらい。九年前だったかな。まあ、私っていう飛べる子が近くにいたんだから、仕方がないことなのかもしれないけどね。憧れるのも。ま、そんなわけで、事故が起きて、死線を行ったり来たりして、ようやく目が覚めた私に、最初に言った言葉が、『飛行機を作ってシズがまた飛べるようにする』だったわけ、だ。腹立つのは、その時の表情でさ、ヤタ、笑ってたんだよね」

 今度の一息は、激情を押さえるためのそれだった。深呼吸を二度、三度とシズは繰り返し、言葉を続ける。

「……それからかな、ヤタが私に様付けしはじめたのは。形だけとはいえ、執事の娘だったしね。翼失った私に、羽のない生活を教えてくれたよ。丁寧にね。帽子をかぶるようになったのも、あんな手袋をするようになったのも、その時期から。罪悪感逃れに、無意識に自傷をしてたのかもしれないね。元々人見知りだったって言うのもあるんだけど」

 ちょっと脱線したね、とシズは言って、しかしそのまま言葉を続ける。

「私は、そんなものに救われるほど落ちぶれてはいなかったし。ヤタが、完成させたってことで幸せになるのも、私は許せなかったんだ」

 表情は、恥ずかしそうな笑みだ。

「兄上は甘いから、研究実験用の部屋まで与えて、イオサの家の子だってことを隠すなら外を歩いてもいいって許可まで出した。そのままだからちょくちょく邪魔をしていたんだけどさ。兄上、甘いけど利には聡いから、自分で早く進めた方がいいってのは最初から気付いてたみたいだけどね。推進力についてだけは、五年くらい前から研究してたし。飛行機以外にも役立つかもしれないからね」

 それで最近になって、と、シズは言う。

「一気に進んだって言う話を聞いてさ。一枚噛ませてもらった、っていうわけさ。最高のタイミングでネタばらしをするように、とり図らせてもらったよ。お爺さんに何度も拳骨落とされることになるとは、流石に予想してなかったけど」

 こんなところで、と、シズは言った。

「――改めてかいつまんで話すと、私とヤタは姉妹みたいなものだったけど、ヤタのせいで羽をなくして、飛行機を作って代わりにするって、あんまりにも幸せなことを言ったから、幸せの絶頂で叩き落してやりたくなったんです……って感じかな。ここまで話したのは、君で三人目。――他の二人は土の中で寝ているよ」

 シズの表情は、ずっと笑みだった。しかし一貫して、眼は獰猛な光を湛えていた。

 油断など出来るはずもない――と、身構えていたが。ふ、と、シズの目が柔らかくなった。

「……なんてね。一人目は兄上。二人目はヤタのお父さん役の執事さん。三人目が君さ。二人目の執事さんは、病気で亡くなったのは確かだけど、兄上は生きてるし、お友達の君を殺したりなんかはしないさ」

 シズは窓辺へと歩き、窓を開いてバルコニーに出た。

「おいでよ。けっこう気持ちいいよ、夜風」

 ね、と、重ねて言われたが、

「行かない」

 と、拒否をする。

「これでも?」

 ぐ、と、シズは、手すりに寄りかかって、身をそらした。

 体重を受けた手すりが、ぎ、と、軽く音を立てた。

「助けてくれなきゃあ、きっと、今度こそ私は死んじゃうな。前回は、羽をなくすだけで済んだけど」

 くつくつと、シズは笑った。

「……お前、わけが分からない」

「気分で生きているんだ、当たり前だろう。今は、なんだか、復讐とかより、お友達と夜風を浴びながら話したい気分なんだ。夜風が気持ちいい限りは、そういう気分にはならないよ」

 そうか、と、頷いた。

 気分で生きているという言い分は、シズの気性を一言で表している。夜風なんてあいまいな基準だが、とりあえず安全であるならば行ってもいいだろう。

「気がすんだら、ヤタのところに案内してくれ」

「……ま、気がすんだらね。実際問題、一晩くらい置くのがいいと、私は思うんだけど」

「嫌だ」

 言いつつ、バルコニーへと足を踏み出した。

 確かに、いい夜風が来ている。人の熱気で暖まった身体が、冷やされていく感触がある。

「へぇ、ふうん、そう……ま、君がそう言うなら、そうかもね」

 ぐぐぐ、と、シズは体重をバルコニー側へと戻した。

 下を見れば、三階分ほどか。頭から落ちれば、死にかねない高さではある。

「なに、自殺志願?」

「いや、落ちたら危なそうだと思っただけだ」

「この場合さ、私が落ちたら、ケダモノに襲われそうになったので逃げましたって形になるけど、君が落ちたらどうなるんだろうね」

「興奮しすぎて落ちたとかになるんじゃないか。お前の証言次第だろう」

「落としていい? ほら、ヤタに追い打ちで」

「やめろ」

「残念」

 あーあ、と、シズは気の抜けた声を出した。

「最高の幸せ壊しちゃったと思うんだよね、私は」

「……ヤタのか?」

「うん。ほら、青春の最高点で梯子を外した、正に最高の瞬間だったと思うんだよね。君がいたから、ヤタは飛行機を完成させられた、頑張れたんだよ。……その君を、兄上に認めてもらえる直前で、梯子、外しちゃったわけだ。認めてもらった後ってさ、多分、地道で過酷な、現実の道だから。それを乗り越えたあとにある夢って言うのは、現実と地続きだと思う」

「……理屈は分かる」

 決して共感することはできないが、目標を達成して、より大きな目標への扉が開こうとしている――その瞬間、きっと人は、なんでもできると思う。

 兄上殿に直接言い渡されていなければ。あるいは、もっと早くに知っていたら。間違いなく、ああはならなかった。ショックは受けても、兄上殿に認めてもらおうと、もっと努力したことだろう。

「……認めてもらえていたら、ヤタは、なんだってできると思っただろうな」

 俺も、思っていた。現実に、即座に叩き潰されてしまったが。

「うん。だから人生に、張り合いがちょっとなくなったかな、って。若い身空で言うことでもないけどさ」

「お前の……目標の最高点は、もう過ぎたわけか」

「そういうことになるね。……もう多分、つまんない人生になるよ。もしかしたら、明日あたりうっかり転んで死ぬかもしれないね。やることが終わってしまったから」

「嫌な到達点だな。軽蔑する」

「本当に……してそうだね。いや、まいったなあ、ホントに、お友達でいたいっていう気分なんだけど――」

 と、シズは再度空に背を乗り出した。

 ……夜風が冷たくなってきた。そろそろ戻ろうと、そう口にしようとした瞬間だ。

 ぎしりと手すりが嫌な音を立てて、ばきりと手すりが妙な音を発し――

「あらっ?」

 ――と、間抜けな声を出して、シズが落ちて行った。

「いっ……!?」

 今かよ、と、そう思った瞬間には、身が空にあった。

 その手を掴む。必死で抱き寄せつつ、減速のため、必死で翼を広げようとして、服に引っかかった。

 中途半端に広がった翼は、きりもみ回転への方向性を生んだ。

 やば、と。そう思った瞬間には、地面が回りながら迫っている。








○六章


 大きな藍黒の翼を持つ、小さな子供がいた。

 子供は、朝焼けの中に立つ人物を見つめている。

 男だ。

 背が高く、ひょろりと痩せている。翼は大きく、逆光の中、青く艶を見せている。

 子供は、小さく、なあ、と言った。心細さを感じている。表情を見ても、声音を聞いても、仕草を見ても、それはうかがい知れる。

「なあ」

 子供は、もう一度言った。

 男は、不器用な男だった。

 子供と視線の高さを合わせたことはなかった。

 料理をしたことはなかったし、掃除だってしたことはなかった。仕事らしい仕事をしていた風もない。

 どこかにふらりと出掛けては、ふらりと帰ってくる。

 金はくれたが、言葉はくれなかった。そういう男だった。

「あんたは、何をするつもりなんだ?」

 ああ、と、男は言った。

 迷いを示す、間を開ける言葉だ。

 ゆっくりと、男は口を開いた。

「……おまえさ、この島から、出たことあるか?」

「あるさ」

 一度、家出をしたことがある。

 橋を渡って隣の島まで。子供にとっては大冒険で、一世一代の賭けだった。

 結論から言えば、家出は失敗した。迎えに来たのは男ではなく、義理の祖父だった。

「ないだろ」

「家出したろ」

 それすら覚えていないと言うのか、と、子供は反駁した。

 男は、分かってねえな、と、笑った。

「外だよ。島の外だ。外球の外だ。外界だ――あるか?」

「……ない」

「そうだよな。そうだろ。あぶねぇもんな」

 そう言って、男は笑った。

「俺はな、危ないことが好きだ。酒も飲むし、賭けだってやる。気に入らなけりゃ殴るし、とっ捕まったのだって一度や二度じゃねぇ。……ひでえ親父だな?」

 ま、と、男は一息。

 それから、子供に歩み寄って、しゃがんだ。

 子供は一歩引く。男が自分からそんなに近づいてきたのは、初めてだったからだ。

「そんな警戒すんなって。……よっと」

 男は子供の両脇に手を差し込んで、ぐ、と持ちあげた。

 子供の視線が高くなる。朝焼けの光が目に入ったのか、子供は暴れて、しかし、男は揺るがない。

 男は、笑って言った。

「……重くなったなあ、おまえ。昔とは大違いだ」

 男はゆっくりと子供をおろして、それから、また立ちあがった。

「それじゃ、爺さんの言うこと聞けよ。血は繋がってねぇのに、俺みたいなのも育てる人だからな」

 おろされた子供は、ぼうっと、男を見上げている。

 男が親らしいことをしたのは、初めてだったのだ。

 少なくとも覚えている限りでは、そうだった。

 男が、太陽の方角へと向き直る。それからゆっくりと歩きだした。

「なあ」

 と、子供は、男の背に声をかけた。

「あんた、どこ行くんだ?」

 ああ、と、男は右手をひらりと振った。

「最先端」

 ……そんなことがあった。

 子供は俺で、男は父親。十年前。父親は、自分の夢に殉じた。

 それが結末。

 自分自身の記憶を俯瞰している以上、これは夢なのだと分かり切っている。

 どうしようもない父親だったけれど――顔も正直、あいまいになっているけれど、その翼の大きさと輝きだけは、いつまで経っても忘れないだろう。

 ゆっくりと、意識が浮上する。

 どうやら、夢から覚めるときが、来たらしい――――




 ●




 右腿のあたりが、なんだか暑い。

 瞼を開けば、白い壁が見えた。

「……うー」

 どうやら、横になっているらしい。

 全身がだるい。寝すぎたように、頭が痛い。ツンとくるにおいが、鼻の奥に来た。胃のあたりがしくしくする。

 二度、三度と瞬きをするうちに、夢が零れていく。

 何を見たのか、すっかり忘れたころに、ようやく意識がはっきりとしてくる。

 あくびをひとつ。

 起き上がろうとして、右肩への物理的な重みを自覚する。

「あー……?」

 身体の右側に何箇所か、鈍い重みがある。起きたら痛みがありそうだった。

 ……だんだん思い出してきた。たしか、俺はシズを助けようとして落ちたのだった。右側から落ちたのだろうか。

 痛い、よりは衝撃の方が強かったような――そうでなかったような。あいまいだが、痛い記憶は思い出さないに限る。

「……うぅ」

 起きよう。決意を固めて、とりあえずうつ伏せになる。

 右の翼がやけに軽い。骨折でもして、羽根を抜かれたのだろうか。だとしたら嫌だな、と思いつつ、右腕が動くかを――

「……コォ?」

 しゃがれた声が、耳に届く。

「起きた、……の?」

「ん、……ああ。起きた。だるい。喉渇いた。節々がなんか痛い」

 俺の喉からも、しゃがれた声が出た。右腕は上手く動かなかったので、左手で起きようとする。

「う、動くな、怪我に障る」

 細い手が脇に差し込まれて――こんな夢を見た気もする――座らされた。

 陽光が、白いシーツの足元に差し込んでいる。

 どうやら知らない部屋。ベッドに寝かされていて、

「……よう。おはよう。ヤタ」

 ヤタが、見ていたらしい。

 帽子を目深にかぶったいつもの姿。鼻先までがつばに隠れてよく見えないが、口元が僅かに緩んでいるのが見えた。

「……うん、おはよう、コォ」

 目を何度か瞬いて、動きの重い左手で頭をかく。

 ヤタにしては、言葉の端切れが悪いように感じた。言語化しようとして、面倒になった。

「どした」

 問うて、あー、と、一息置き、周囲を見回して、誰もいないことを確認。

 シズも兄上殿も爺さんもいない。

「キレ悪くないか」

 追加で聞くと、ん、と、ヤタは視線を迷わせた。

 それから、ほとんど帽子を俺に見せるくらいにうつむいて、絞り出すように言った。

「……落ちついて……背中見て」

 右肩側から、背を見た。右肩が膨らんでいるのは、包帯でも巻いているからなのだろう。上手く動かないのも、おそらくそのせいだ。

「お?」

 翼が白い。包帯が巻かれている。僅かに、滅多に見たことのない地肌が覗いている。

「――お?」

 短い――物理的に短い。

 おかしい。物理的に短い?

 左肩側から、左の翼を見る。そちらは長い。右側は、ほとんどない。

「おい、ヤタ? 右、短いんだが」

 向き直ると、ヤタは、ひどく小さくなっていた。顔を膝に付けるようにうつむいて、背中が見えるほどだ。

「おい、ヤタ。おい、おい?」

「――右翼を根翼から切断した。右の鎖骨と大腿骨とにヒビ。右肩脱臼。右の眉毛の上や、右肩、腰なんかにも切り傷や打撲はあったけど、それらはだいたい治っている。抜糸もおおよそが済んでいる。頭を打ったようだから目覚めるかどうか分からないと言われていた。私たちが呼んだことで怪我をしたから、治療費用は私たちが持ってる。だから安心して養生してほしい。後の世話も必要ならば言って欲しい」

 一息、

「知らせてくる」

「あ、いや、待て」

 出て行こうとするヤタに、声をかける。

 それでも止まらないその背に、強く声を出した。

「待てよ! おい、これ戻らないのか!?」

 言いきって、喉の奥にかゆみを感じた。乾いている。咳が出て、身が折れた。左側が重い。右側が軽い。バランスが、取れていなかった。

 ヤタは、扉の前で立ち止まっていた。

 こちらに背を向けていたが、目は見えた。

「ヤタ……?」

「人、呼んでくる」

 ドアが開いて、ヤタが出ていく。

 ……左側が重い。右側が軽い。

 引きつったように、右側は動かない。

 身を折れば、左側が浮遊力を受けて、僅かに軽くなった。

 顔を、震える両腕でおおった。

 ない。

 右側の翼が、なくなっている。

 目を閉じれば、そこにあるようにすら感じられるのに。

 動かしてみる――動いた。根元は固定されていたが。それでも、先端部分は動いてくれた。空気をかきまわす感触すらある気がする。

「へっ。へ、へへへ」

 あるじゃないか。まだあるじゃないか。あるある。なくなってなんかいない。

 大丈夫大丈夫。翼はあるのだ。俺の空想の中に。飛べるのだ、俺は空想の中で。

「ひひ、は、ははは、あっ、はは、は……」

 疼痛が右側にある。右肩、右足、右腕、右のこめかみ、右の翼。

 うん、骨折しただけだ。しばらく飛べないし、羽根が生えてくるまでは不格好だろうし、飛べないだろうが、

「は、は、は……はは、は……」

 顔を押さえる、右手が滑った。鼻の奥がつんとする。痛い、痛い。感覚の無音が痛い。右の翼は動く。空想の中で動いている。

 誰かこの感覚を肯定してくれ。

「ひとりに、しないでくれ……」

 泣き言は、病室で一人寂しく息絶えた。




 ●




 窓の桟に、左の肘をつく。

 背を外に向け、羽を外につきだして、可能な限りの日光浴だ。

 窓の外はいい天気だった。

 南向きの窓から見えるのは、見覚えがある、見事な庭園だ。

 正面には小高い丘があり、大樹が生えている。芝生は遠目に見てもきちんと手入れされていて、その向こうには花壇が広がっている。右の方を見れば、噴水と、正門が見えた。

 シズの部屋から、下を確認するためだけに見たが、夜の中でも見事だったそれらは、陽光の下、美しさを増している。

 寝ている間に、三週間、経っていたらしい。その期間で、花が開いている。外出の許可が出たら、庭を歩くのもよさそうだ。今はまだ、歩くのも少し難しい。バランスが取れないのだ。走れば、間違いなく転ぶ。養生している最中に、新たに怪我を作るのも馬鹿らしい。

 もし、このバランスに慣れて、外に出ることになったら、このスリッパではいけないだろう。高級なものだとはいていて分かるが、外を歩くには向かない。

 俺の靴はどこにあるだろうか。言えば持って来てもらえそうだが――と。ノックが聞こえてきた。

「どうぞ」

 ややあって。ドアを開いて入ってきたのは、シズだ。刺繍の入った、いつもよりさらに上等そうな服を纏っている。

「やあ。悪かったね?」

「…………」

「お。よう」

 右手を上げて、いびつな笑みで、シズは言う。

 こちらは左手をあげて、挨拶を返した。

「悪かったって、何がだ?」

「羽」

「……ああ。なくなったもんは、しかたねえよ」

 右の背の軽さには、未だに違和感がある。

「そういえば、お前は大丈夫だったか?」

「ん? ああ。まあね。君がかばってくれたおかげだよ」

 と、シズは髪をかきあげ、額を見せてきた。左眉の上あたりに、白く傷跡が見える。髪で隠れる位置だし、薄いものだ。素人目でも、そのうち消えるだろう、と思う。

「これくらいかな。動けなかったわけじゃないけれどさ、ほら、時間も必要だっただろう?」

「そうか」

「そうだよ。羽が無いから、突っ張ってぽっきり逝くようなとこもなかったしね」

「そうか」

 くつくつ、とシズは笑った。

 それから右手をあげて、花束を剣のようにこちらに突き出してきた。

「花持ってきたんだけどさ。お詫び。いる?」

「あってもいいんじゃないか? その花、萎れてるし」

 向き直って、窓の桟に寄りかかる。翼を外に出して、花瓶を顎でしゃくった。

「んじゃ行ってくるよ。あとは二人でごゆっくりね?」

 いびつに笑ったまま、シズは花瓶を持って去って行った。

 ドアが閉まる。

 目を閉じて、翼にかかる風を感じた。左側の、片方だけだ。右側からは――翼がある、それだけの感覚しかない。

「…………コォ」

 あくびをする。

 昼まではあと少しだ、と、腹時計が告げている。

「一つだけ、聞きたいことがある」

 今日の昼飯はなんだろうか。

 三週間眠っていたからか、胃腸が弱っていた。目覚めた時――二日前は、胃がモノを求めているのに、粥くらいしか食えるものがなかったのだ。あれはある種の拷問だ。

 しかし昨日は、すこし歯ごたえのある野菜が出た。今日の朝は量が増えた。食欲については過剰に訴えておいたから、拷問はおそらく終わるだろう。

 肉。魚でもいい。野菜であっても文句は言わない。粥は嫌だ。出汁で美味いが、出汁の元を俺は食べたい。

「コォは、最先端に行きたいと、まだ思っている?」

 眼を開き右足のスリッパを左手にとって投げつけた。

 回転しつつ飛んだスリッパは、シズと一緒に侵入していたものにぶちあたる。

 帽子が落ちて、髪がばらりと落ち、その目を隠した。

「ないんだよ。ないんだ。目を閉じたらあるんだ。でもないんだよ。現実見ようとしてんだよ」

 よろけながらも歩いて、そいつの胸倉をつかむ。

 左手一本で締め上げて、右手でそいつの髪を掴んだ。

「っ、くる……し、」

 顔を近づけ、言う。

「お前がどれだけ飛びたいかは知ってるよ。作ろうとしてるよな、飛行機。馬鹿なもん作ってるって思ったよ。最先端、行こうとしてたよな」

 そいつの目じりは赤い。涙が浮いている。

「付き合ってもいいって思ったさ。俺も馬鹿だったよ。飛べなくなるくらいなら、籠の中でよかった! ああ、良かったんだよ!」

 飛ぶのが好きだった。

 速く飛ぶのが好きだった。

 空が好きだった。

 空の広さが好きだった。

 誇りだった。

「言ってみろよ、『羽無し』。これで本当に仲間だって。シズにも言ったんだろ? その顔で、そのへらへらした顔で!」

「うっ……」

 右手の中で、ぶちぶちと髪の毛が抜けていく。

「二度と、顔を、見せるな。永遠にだ。分かったか?」

 言いきったところで、ドアが開いた。

 シズだ。その手に花瓶はない。胸を張って、笑みを浮かべている。

「うん、いいところみたいだね。さ、ほら、最初っからないヤタは外。コォ君も手を離してあげなよ」

「ん、……ああ。分かったよ」

 す、と怒りが冷える。両手を開けば、軽く痛みがある。力を込めすぎたのだろう。右手には、髪の毛が絡んでいる。

「うわ」

 声が出た。手を振るううちに、シズがそいつの尻を叩いて追い出した。

「それじゃあ先輩が生活指導をしてあげよう。――これでホントにお友達だしね? ようこそ、『羽無し』の世界に」

 同情も遠慮も呵責もなく、シズは言う。

 ああ、と思う。やっぱり、シズの方がまだマシだ、と。










○七章


 木から、荒く骨を削り出す。

 大手であれば、専門がいるような工程だ。

 ふ、と息を吹きかけて、声を出した。

「爺さん、やすり貸してくれ」

「……あぁ?」

「やすりだよ」

 問い返されて、言い直す。

 爺さんの耳は、遠くなった。羽と頭は白くなった。

「おお。おうよ」

 言葉には力がない。拳骨も出さない。昔自分で作ったグライダーで、空を飛んでいる。

 受け取った仕上げやすりを置いて、自分で手を伸ばす。

 爺さんは、いつもここにいる。ほとんど置き物だ。動くことがあるかと思えば、昔のように図面を引かずに翼膜を切って駄目にしたり、あるいはグライダーの骨を折ることだったりする。

 今ではこの工房は、既製品だけを作る、十把一絡げのものに成り下がっていた。

「…………」

 がりがりと、粗く削って、終える。

 今日の目標分は作り終えたし、明日の準備も早々に終わった。それでもまだ昼過ぎと言ったところだ。

「爺さん、飯食うか」

「おお、そんな時間かぁ……」

 爺さんの腰は曲がった。近所を歩くときは杖を使うようになった。

 大儀そうに立ち上がって、ひょこひょこと、居間の方へ歩いて行く。

「まあ、爺さんは、俺と親父に人生使ったんだし……な」

 この三年。呪文のように繰り返している言葉を、また繰り返す。

 俺も居間へと向かえば、爺さんは卓についていた。

 火を入れて、朝に作ったスープを温め直しながら、言う。

「昼から、少し出かけてくる」

「……あぁ?」

「昼から、少し、出かけてくる」

「ああ、おう、おう。あまり遅くなるんでねぇぞ」

「分かったよ、爺さん。もし遅くなったら、一人で食っててくれ」

 少しづつ暖まってきた鍋の中身、その味を見れば、薄い。この味に慣れた舌がある。

 爺さんは、食も細くなったし、脂っこい物はまったく食えなくなった。爺さんに食わせるものに合わせていたら、俺自身も、そういう味に慣れていた。

 そろそろか、と皿を出し、スープをへらで混ぜなおす。

 湯気が手に当たる感触で、おおよその熱さを知る。もう少し、だ。

 パンを出して、卓に置いた。

「爺さん、もう少し待っててくれな」

「あぁ?」

「もう少しで、スープが温まる」

 おお、と、爺さんは分かったのだか、そうでないのだか、分からないような返事をした。




 ●




 町へ行けば、顔見知りがいる。

 昔からの知り合いは多いが、声をかけるのも、かけられるのも、最近知り合った者が多い。

 それは例えば、町に店を出しているグライダー屋だったりする。

 出会えば、愚痴り合いになるのはほとんど確定だ。

 最高級のグライダー――装飾的な価値があるものが、ほとんど売れなくなっている。ウチの場合は、小規模であるが故に、シンプルな高級グライダーを多く作っていた。最高級が売れなくなっている分、高級グライダーの売れ行きも減り、負担が増えている。

「それじゃあ」

 と別れて、何をするでもない午後を過ごす。人と出会えば人と話す。美味そうなもの、特に爺さんでも食べられそうなものならば買っていくこともある。見るのは人の顔と、地面だ。

 適当に歩いていれば、仕事上がり直前の時間、夕方も間近になってくる。

 このあとは、仕事上がりの材木場へ言って話をしたり、あるいは一杯ひっかけて帰ることも多い。

 人を避け、時折来る人力車を避けるうちに、ゆっくりと、町外れに向かっていた。

 この方向は、たしか東――と。考える間もなく、右の羽に疼痛が来た。骨を折った時の痛みを、朧にしたような痛みだ。

「う……」

 右肩が硬直する。偶然足が向いただけで、羽が痛んだ。

 回れ右。家の方向へ、路地を抜けて最速で行く。




 ●




 帰りがけ、帽子の人物と出会った。

「――まだ最先端が嫌?」

「そうだな、眩しいだけだ。もう行きたいとは思わない」

「分かった。少しだけ、残念」

 すれ違い、家路を急ぐ。




 ●




 家に帰ると、爺さんは工房にいた。

 何を作っているのかと思えば、端切れ材製の、グライダーの模型だった。

「……おお。おかえり、コォ」

「ただいま、爺さん」

 爺さんは、細くなった腕で、模型を飛ばした。

 見るからに右が重い。やはりというべきか右に流れ、ぐしゃり、と落ちて壊れた。

 視線を切ろうとしたところで、爺さんが言った。

「翼のないのが、手紙置いて行ったぞ」

 三年前から、爺さんは、決して『羽無し』とは口にしなくなった。

 あれほど羽無しのことを嫌っていたのは、きっと親父のときに何かがあって――今は、きっと、俺のことがあったからだ。

「分かった」

 卓の上に、封筒がある。

 羽のないの――と言われ、思い至る知り合いは、複数人。見聞してみれば、その筆頭とでも言うべき人物からの手紙だった。

 故に、晩飯用の火の、種火にした。

 間違いなく、それぐらいの役にしか立たないからだ。




 ●




 次の日もその次の日も――仕事は昼に終える。

 一日中仕事をして、一日休む。そういう調子でも、別にかまわないのだが。毎日は同じような調子で生きた方がいい。

 昼時を大分過ぎて、活気が少し失われた町。その道を、紫色の幌の人力車が来た。

 道の端に寄りつつ歩いていると、

「止めろ」

 ――と。人足の浮いた汗が見えるほどの距離で、冷たく高く、よく通る声が聞こえた。

 声は命令。人足は力強く速度を落とし、眼前で降着姿勢を取った。

 幌があがり、座っていた人物が立ち上がる。金髪青眼の、女だ。

「……久しぶりだね?」

「シズか」

 三年分の成長が、シズにはあった。細くなったように見えるのは、背が伸びたからだろう。髪は少し短くなっている。

 飛び降りてから、帰っていていいよ、と、シズは人足に命令を下す。

 人足は素直に従って、ゆっくり去って行った。

 さて、と、シズが言う。

「君の顔を見て思い出したことがあるんだ。――私は、結局、この町で何かを食べたことがない」

「そうだったか?」

 あの黄金期と言うべき、輝かしい時代――今じっくりと見れば、きっと目がつぶれしまう時代の思い出を、シズは、ふっと語った。

「ついでに、ほら、二人でお酒を飲んでも文句を言われないような外見にはなったし。お互いね」

 ふむ、と顎を触れば、じゃり、と無精ひげが鳴った。なるほど確かに、酒を飲んでもおかしくはない年齢に、俺は到達している。

「そんなわけで、美味しいところを、私に紹介してくれないかな?」

「分かった。……晩まで粘って、飲むか」

 爺さんには、遅くなれば一人で食ってくれと、毎日言っている。多分大丈夫だろう。

 久しぶりに、少し無軌道な自分を思い出していた。

「飲もう、飲もう」

 シズの同意も来た。何が楽しいのか、くつくつと笑っている。

 いびつな笑みに、不吉さは、もう感じなかった。




 ●




 結果を言えば、追い出された。

 既に夜。『羽無し』二人が暴れるには、少々あの酒屋はお上品すぎたらしい。

「お前さあ、格闘技が趣味って、絶対お嬢様じゃねーよなって昔っから言いたかったんだよなああ!」

「君こそさあ、昔っから言いたかったんだけどさあ、アレだよ、姉さんだけでよかったよねえ、あの弟子入りさあ!」

 酒を小樽で持ちかえって、腰にくくりつけて、二人で肩を組んで、お互いを罵倒しながら歩く。

 既に五、六回は同じ内容で罵倒し合っている。

「止めるのにボディ入れるってさあ、まともな奴の選択肢じゃねえよなあ、オイ!」

「実はあのとき殴り返されたらどーしよって思ってた私の心細さとか分かってもらえますかねえケダモノォ!」

「知~ったこっちゃねぇ!」

「私も知~ったこっちゃねぇっ」

「知~ったこっちゃねぇっ♪」

「知~ったこっちゃねぇよっ♪」

 知ったこっちゃねえ、知ったこっちゃねえよと歌いながら、ふらふらと歩いて行く。

「ところでさあ、コォ」

 と、シズがまた唐突に口を開いた。

「どっちが好きだった?」

「あ? ああ、あー、どっちも奇人でできれば関わり合いになりたくなかったなあ」

「へえ、ふうん、そう! それ以前か、凄いな私たち! えへっ!」

「自慢できねえだろ!」

「わは、わははは。うわっはっは―― !」

「口閉じろ変人!」

 そうしているうちに、

「あ」

 と、シズが足を止めた。

「うお」

 肩を組んでいるのに急に止まられて、バランスが思いっきり崩れて、俺は引っかかるように、シズは引っ張られるように――

「ぐおっ」

「んぎゃっ」

 ――転んだ。

 二人してうつ伏せで倒れながら顔を見合わせて、くひ、と、笑みが漏れる。

「んぎゃっ、だってよ!」

「ぐおっ、だってさあ!」

「「ばっかでぇー!」」

 げらげらげらげら。お互いを指差しあい、笑いあう。

 あからさまに迷惑な酔っ払い二匹は、まばらに道行く人々から、目線をそらされている。

 起き上がって、お互いを突き刺すように指差しながら、ばっかでー、を連呼する。

 ぎゃはは、と、シズは大口を開けて笑った。

「ばかでー! ばっかでー!」

 ひとしきり繰り返してから、正座になっている俺に気が付いたらしい。

 道のど真ん中で、二人で正座で向き合った。

「初めて大口開けて笑ったかもしれない、私」

「俺は初めて見たな」

「ん、……酒飲ましたいのがもう一人いた」

「誰だ?」

「姉さん」

「ヤタか」

「うん」

「すげえことになりそうだな」

「かもしれないね」

「脱ぎ癖とかあったりしてな」

「単なる酒乱だとつまらないね」

「そうだな」

「そうだよ」

「行くか」

「行こうか」

 よっしゃとお互い頷いて、また肩を組んで歩きだす。

 引っ張っていくのは、シズの方だ。

 どこへ行こうと言うのか――と。問おうとしても、悲しむような、楽しむような、いびつな笑みは、酒に酔った、とっちらかった言動をするだけだ。

 歩みは町を出て、支道に入って、獣道に入って、森に入る。

「おいおい、シズ? この島のお前の家って、こんな森にあったかぁ?」

「んー? あ、迷ってる私。迷ってると思う、多分。あはははは!」

 涙が出るくらい、シズは笑っている。

 組んだ肩を外して左の拳を額に向けて放つと避けられた上に下腹に膝が入った。どしゃりと膝をついて、うげえ、と息を漏らす。

 一言でいえば、瞬殺された。

「……吐く……これは逝ってしまう……」

「大丈夫大丈夫、手加減したからね」

「足も加減しろ……」

 くそ、と、毒づきながら、酸っぱい物を、樽酒を開けて押し込んだ。

 飛べなくなってから、俺も鍛えられたと思うが、シズはそれ以上らしい。

 元々からして、お嬢様のくせに我流で身体を鍛えるような女だ。

 ヤタは飛行機に狂っていて、兄上殿は利害に狂っている人物だったから、皆狂っている家系なんだろう。おそらく。

 木々の向こうに、星明かりが見えた。

「お、抜けれそうだ、」

 ぞ、と、見た先は、草原だ。

 ――思い出す。ここは最東端の島の、最東端の場所。

 羽のことを翼と呼んでいた時分の、特別な場所。

 そこにあったのは、碑――の、ようなものだ。

「ん、」

「おおい、ねえさーん」

 ふらふらと、シズは歩いて行って、腰の樽を外し、ひっくり返して塔を洗った。

「おい、何やってんだ?」

「姉さんに飲ませているのさ」

 あははと笑うシズの頬には、涙が流れている。

 ――直感する。

「それ、ヤタの、墓か?」

「うん、そうだよ」

 一言の肯定は、何よりも雄弁だ。

 血が下がる。視界が狭くなる。酒以外の要因で、頭の奥が痺れた。

「……いつ?」

「ついこの間―― 一週間くらい前かな。参列者少なかったよ、兄上と私だけだったからね」

「はっ? ……いや、ついこの間、見たぞ……?」

「えっ? いつ?」

「確か……三日前? 冗談? 言うなよ、シズ」

「い、いや、流石の私も、こんな冗談は……えっ、それ、本当?」

 本当だ、と。

 呻くように言いながら、碑を見る。

 あの時渡されたのは、遺言状とか、そういうものだったのか。

 先日に見たのは、亡霊か何かだったのか。

 近づき、墓碑銘を眺める。

 名はヤタとだけ。その下に、生年と没年――そのあとに、『最先端へ行く者』と、刻まれている。

「……ヤタ、」

 酔いなど冷めた。

「……おい」

 碑は石で造られている。冷たく硬く、あの細い手指の感触など、微塵も感じられない。

 もう何もかもが遅いと、それで分かった。

「……あ、」

 もう話せない。

 もう謝れない。

 もう分からない。

 もう、一緒に何かを作ることも出来ない。

「あ……!」

 そうして涙が出た。

 額を石碑に押し付けて、すがりつくように泣く。

 頭から、酒がかかった。

「一緒に酒飲みたかったね、一緒に大人になりたかった」

 口に酒の味が入る。よく分からない味が。ヤタにはもう分からない味が。

「一緒に、」

 声が震えていたが、無理をして、出した。

「現実から続く夢を、見たかった」

 模型の先。認められて、先に進んで、最先端へ。翼で、外へ、開拓者になりに、行きたかった――

「いや」

 ――と、シズが、否定した。

「ヤタは夢を見たよ」

 だから、と、言葉は続く。

「ついてきてくれないかな。ヤタからコォ君に、大切な贈り物がある」




 ●




『この手紙を読んでいるということは私はもうこの世にいないものだと思う。

 完成したので、私が賭けに勝ったらコォに。シズが勝ったらシズに初搭乗権を譲る。

 ここはまだまだ、最先端ではない場所だから、頑張れ。』




 ●




 手紙をたたんで、懐にしまう。

 予備用。――表題にそう書かれた、短い手紙、だった。

「この賭けって、なんだったんだ?」

「君が乗っているってことは、私が負けたってことだよ。負けた勝負のことは口に出したくない」

「そっか」

 ――操縦法は簡単だ。

 推進力は、火を入れてから燃料が消えるまで燃え続ける機関で、基本的に操作不能。ただし今のところは持続力に難ありでそれほど長くは飛べない。操縦者はうつ伏せになって乗り、翼に付けられた板を操作して方向を変える。

 外観は、木製の大型グライダーに近い。

 あの時に完成した飛行機の模型を、ほぼそのままスケールアップした形状だ。

「……ああ、そういえば、お礼言ってなかったね」

「礼?」

「ほら。落ちた時の」

「……ああ」

「あのとき、助けてくれてありがとう。ごめんなさい」

「構わない」

 失った翼は名残惜しい。

 人を助けた誇らしさだけでは埋められないものがある。

 この数年の閉塞は、きっと人生に影を落とす。

 けれど、新たな翼はここにある。

 ヤタがのこしたものが、ここにある。

 失った翼の代替でしかないのかもしれないけれど――前の翼より、ずっと好きだ。

「……それじゃあ、開けてくるよ」

 そう言って、シズが格納庫の扉を開く。

 払暁の光が、差し込んできた。

 遮光眼鏡を付ける。

 方向舵が動くかを確認する。

 推進力に火を入れる

 回転翼の速度が上がっていくことを確認する。

 車輪の制動機を外す。

 動き出す。

 格納庫から出る。

 眼前にはまっすぐな滑走路。

 一度車輪を制動、注意深く、機関の炎が最高潮に達するのを見守る。

 ――友人の妹に、しばしの別れを。

 前を向き、操縦桿を握りしめた。

 深呼吸。

 制動機を外せば、最初は重く、しかし確実に加速していく。

 僅かな傾斜が、小さな石が、車輪の下で段差になる。

 しかし揺れは、すぐに収まった。

 車輪が、地を離れた。

「……飛んだ……!」

 速度を受けて、翼は揚力を生み出す。

 さらに、さらに前へ。

 遮光眼鏡越しの目にも、眩しい光が来る。

 ――ああ、と思う。

 陽光があり、目をさしている。

 風があり、頬を叩いている。

 当たり前のことだ。

 その当たり前が、

「近い……!」

 ……今となっては、昔の話。

 開拓者になろうと言った、女がいた。

 夢を語った馬鹿がいた。

 同じ夢を抱いた。

 視界がにじむ。

 首を振って、視界をなんとかクリアにする。

 夢へと前進したのだから――笑わないと。

 空を見て、地を見て、開拓しに行く場所を見て、天を見る。

 この光景は、きっと忘れない。

 ここまでの道程は、ずっと覚えている。

 天は高く、空は近い。

 だから――どこまでだっていけるだろうと、思った。


















END.

読んでいただきありがとうございました。

楽しんでいただければ幸いです。

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