美少女、夜の海にて②
第四十六話 美少女、夜の海にて②
大浴場の前を通り過ぎる。
昨日偶然蒼井君と鉢合わせた大浴場のロビー、休憩室はもうすぐそこだ。
一歩ごとに高まる緊張。逸る鼓動。デートだと意識してしまったせいで、僕の体はガチガチだった。芳乃さんに「笑顔でね」と言われたけど、いざ現場に来るとそんな気力はないかもしれない。
歩を進めれば、あっという間に入口まで到達してしまう。中に入ろうと思うも、なかなか踏ん切りがつかない。
ちらっと入口から中を伺う。
昨日とは違って、家族連れがお座敷の上でくつろいでいるし、椅子にも何人かのお客さんが座ってテレビを見ている。
部屋の中で二人きりという状態にならないで済むのはありがたい。昨日ふたりきりで話せたのは、意識していなかったからだ。今日も同じようにとはいかないだろうなあ。
部屋の中をよく見なおしてみると、昨日座った椅子と同じ場所に彼の姿を見つけた。スマートフォンを操作している彼も、心なしか少しソワソワしているように見える。
どうしようか……。ここまで来ておいて、入るのを躊躇う。気づけば八時までもうあと数分。遅刻するのは良くない。
今更迷ってどうする。
芳乃さんだって、「今日すぐに何か起きるとは思わない」って言ってたじゃないか。友達と普通に話すだけ、それだけだ。
男は度胸、女も度胸だ。ここまで来たなら行くべきだ。
僕が前に立つと、彼はスマートフォンに落としていた視線を僕に向ける。
そして一言僕にお礼を言ってくれる。
「来てくれたんだ、ありがとう」
「待たせちゃったかな。ごめんね」
時間的にはギリギリ間に合ったというところだ。でも相手の方が先にいたのだから、謝っておく。
彼は「時間通りだよ」と言って軽く笑う。その顔からは、彼がどういう意図をもって僕を呼んだのかはわからない。かといって、「何故呼んだの?」とは聞けない。うっかり藪をつついて蛇を出すなんてことにはならないようにしなくちゃ。
「明日になったら地元に戻るって聞いてたしさ、もうちょっと話したいなって思って呼んだんだ」
彼は少し照れくさそうに頬を掻く。
内心ほっとした。僕らが変に先行して考えてしまったせいで色々慌ててしまったけど、その不安は杞憂に終わりそうだ。
「いいよ。部屋にいても友達とお喋りしてるだけだったから」
僕は笑顔を見せる。少しぎこちなくなってしまったけど、変に見えなかったかな。
彼はそんな僕をじっと見つめる。
「とりあえず何か飲み物でも飲む?」
僕が頷くと、彼は椅子から立ち上がり、自販機の前へ向かう。僕もそれに続く。
彼は奢ると言ってきたが、昼間のかき氷といい、奢られっぱなしなのも悪いので遠慮する僕。
小さいサイズのペットボトルのジュースを買い、蓋を開けようとするも堅くて開かない。ま、まあ別に今すぐ飲みたいわけじゃないしいいかっ。それにこれは、蓋がぬれてるから、そう蓋が塗れてるから滑って開かないだけでっ! と、一人で言い訳をしてごまかす僕。
「あかないの? あけようか」
そんなごまかしもあっさりとばれていた。
僕は恥ずかしくて俯いたままペットボトルを渡す。
彼は蓋を持つ手に少し力を込めると、あっさりとボトルの蓋を開けてしまう。そしてもう一度軽く蓋を締め直して僕に渡してくれた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
彼がにこりと笑うので、つられて笑ってしまう。
僕はジュースを一口飲む。そんな僕の様子を見ていた彼は、小さく頷く。
「それでさ――」
しかし彼が何か言いかけたところで、お座敷にいた小さな子供が大きな声で泣き始める。
彼は少し気まずそうに頭を掻く。
何か話そうと思った時に出鼻をくじかれると、言葉に詰まるよね。僕だったら仕切り直す方がいいのか、もう話すのやめようか迷うところだ。
「ちょっと場所移動しない?」
「どこへ行くの?」
彼の提案に僕は首をかしげる。
「玄関先あたりかな」
「……わかった」
旅館の外へ二人並んで歩く僕ら。僕の歩幅に合わせてくれているのか、彼の歩みもゆっくりだ。
「佐倉さん達は、これからも夏休みは何か予定があるの?」
玄関までの道すがら、彼が僕に尋ねてくる。
「うーん、キャンプくらいかなぁ」
「それって友達と行くの?」
「うん、そうだよ」
彼は一言「そうかあ」とだけ言って、沈黙する。
何かを考えているように見える。何を考えているのかは僕からはわからない。失言したわけではないと思うんだけど……。
会話はそれっきりとなってしまい、そのまま無言でホテルの玄関ロビーを抜け、外に出る。
少し気まずさを感じてしまう。
「あっ、そこ段差あるから気――」
「えっ? わっ」
全然足元を見ていなかった僕は、本来あると思っていた足場がなくて思いっきり前につんのめる。やばっと思ったがバランスを崩した体は立て直せるわけもなく、そのまま倒れ込む。
思わず目をつぶってしまっていたけど、僕が地面にたたきつけられることはなかった。
「大丈夫?」
頭のすぐ上から聞こえる蒼井君の声。
目を開けてみると、彼の着ていたTシャツの文字が間近に見える。僕の両腕には彼の掌の感触がある。これはひょっとしてつまり……僕は今の状況を頭の中で整理する。
抱かれている形になっていることに気付くと、一気に体温が上昇していく。ま、まずい! 早く離れないとっ。
「ご、ごめんっ!」
僕は慌てて後ろに飛びずさる。しかし、後ろには僕がさっき転びそうになった段差があるわけで、かかとを引っかけて今度は後ろにバランスを崩してしまう。そしてそのまま尻餅をつく僕。
「いたた……」
アスファルトで舗装された地面は堅くてかなり痛い。すぐに起き上がれもせず、本当に涙目だ。
何やってるんだろう。勝手に慌てて勝手に転んでバカみたいだ。
「だ、大丈夫?」
彼が僕に手を差し出してくれる。
しかし僕はその手を取れなかった。恥ずかしいと思ったからというのもある。でもそれよりも、これ以上触れてしまうと頭の中がどうにかなってしまいそうな、そんな漠然とした不安が僕の手を止めた。
「自分で立てるから」
涙目なくせに虚勢まで張って立ち上がる僕。正直まだ結構痛い。
彼はそんな僕の様子を見て微笑むと、差し出していた手を引っ込めた。
沈黙が訪れる。
夜だというのに、ねっとりとした空気が蒸し暑い。空にはぽつぽつと星が瞬いている。満天の星空とまではいかないけど、僕の地元よりは多く見える。旅館の玄関からは遠巻きに海も見える。昼間とは違い、夜の海は黒く少し怖い。
「佐倉さんはさ、部活動とかやってるの?」
どこか気まずい沈黙を破ったのは蒼井君だった。唐突な質問だったけど、僕としてもずっと黙ったままよりは何かしゃべっていた方が嬉しい。
「部活じゃないけど……料理同好会に入ってるよ」
「へぇ、それじゃあ料理とか得意なんだ」
「そっ、そんなことないから」
思わず謙遜してしまう僕。
「ははは、そうなんだ。でもちょっと食べてみたいかな」
僕の謙遜も全く気にせず、彼はそう言って笑う。
「機会があればねっ」
僕も少し笑う。
果たして機会はあるのだろうか。明日になれば、もう殆ど会うことはないのではないだろうか。
連絡先も知らないし、次へとつながるものは何もない。
「蒼井君は、剣道部だよね?」
機会があれば……の部分に触れられるのを避けるように僕は話題を蒼井君自身の事に向ける。
「そうだよ。覚えててくれたんだ」
幸い彼は何も気づいていないようだった。
僕の問いに対してにこやかに答える。
「もうすぐ剣道部の練習試合なんだよね」
「そうなんだ」
彼の入っている剣道部は、彼曰く「ぶっちゃけ、たいして強くない」らしい。彼自身もそんなに強くなくて、夏に三年生が引退するのでようやく試合に出られるようになったと語ってくれた。
「じゃあ、その練習試合が初試合なの?」
「うーん。一応他にも出たことはあるから、初試合ではないかな」
僕は運動部の事は全然わからない。剣道に至ってはルールすらしらない。
中学の時に一回体育でやったはずなんだけど、今では全く覚えていない。男の時でも力はなかったし、運動音痴だったので、勝った記憶はない。
「佐倉さん、もしよかったら見に来てよ」
「へ? う、うん」
いきなりのことに思わず頷いてしまう。
僕は剣道とか全然わからない。それにそもそも練習試合って、外部の人が応援に行くのって大丈夫なのだろうか。
……いや、問題はそこじゃない。
考えもしないで、なし崩し的に行くなんて約束してしまっていいのだろうか。ガードが緩いとか散々言われてきたけど、ここで何も考えないのは果たして良いのか。
わざわざ試合を見に来てと言うくらいなのだから、彼が僕に対して好意を持ってくれているのは間違いない。一方僕の方はというと、自分がどうしたいのかすらわかっていない。蒼井君に対して好意は持っているのか。いい人だとは思うけど、好きや嫌いと言った異性への思いはまだない。かといって同性として見てるかというとそれもない。
結局のところ僕自身が男女の境界線上をうろうろしているせいで、何一つとして進まない。男か女か自分の中でもあやふやなせいで、人を好きになったりすらできない。では、今すぐ答えを出す? それができればこんなに悩んでいない。旅館の部屋でも考えたし、一学期中にだって何回も考える機会はあった。でも結局僕がどうしたいのかわからない。僕自身のことだから僕自身が主体的に考え、その解を出さなければならないのに、女として生きると決めることも男として生きると決めることも、どちらを選ぶのも怖くて選べない。心のどこかで外圧によって決定されないかな、なんて期待しているようにすら思える。結局いつまで経っても逃げている臆病者だ。
こんな中途半端な人間が、好意を持ってくれている人を無暗に喜ばせていいのだろうか。それは弄んでいるだけなんじゃないか。
「あっ、本当に気が向いたらでいいからっ! ただ、見に来てくれたら嬉しいなって……」
僕が押し黙っていると、蒼井君は慌てて付け加える。
多分、僕は今凄い嫌な顔をしている。そして何も悪くない彼を不安にさせてしまった。芳乃さんにも笑顔でって言われたのに、最低だ。
「うん……。予定が合ったら行くね。もし、行くってなったら……友達とかも誘っていっていいかな」
僕はやっと言葉を紡ぐ。
「うん、それでいいよ」
彼はほんの少し残念な顔をしたように見えた。でもそれ以上は何も言わなかった。
また訪れる静寂。さっきまでの気まずさに、自分自身への腹ただしさが加わり吐きそうなくらいだ。
「あっ、連絡先だけ聞いてもいいかな」
彼は僕の顔を伺う。僕はゆっくり頷く。
赤外線通信で受信した彼のメールアドレスを見ながら僕は思う。
もしかしたら、ここで断るべきだったのかもしれない。僕なんて忘れてもらったほうが良かったかもしれない。
「もう十時になるね。そろそろ戻ろうか。長く付き合ってもらってごめんね」
彼は僕に向けて笑いかける。その笑顔は本当に優しい顔をしていた。
「うん、そうだね。でも僕はもうちょっとだけ風に当たっていくから、蒼井君は先に戻っていいよ」
僕もなんとか笑顔を作って答えた。何となく一人になりたかった。
「そっか。わかった。風邪ひかないようにね」
彼はそれだけ言うと、旅館の中に戻っていく。
そんな彼の後姿に、僕は謝りたかった。
悲しいわけでもないのに、何故か涙が頬を伝って落ちていく。
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暫くの間外で泣いていたら、大分心が落ち着いてきた。
今の僕には……恋愛は無理なんだろうな。
でも、男と女、どっちつかずでいるのは僕も辛いから、頑張って決めよう。いつ決められるかはわからないけど、日々を生きていく中で答えは出したい。
部屋に戻ると、みんなは僕の帰りが遅くて心配してくれていた。
さらに僕の顔が泣いた後まんまの腫れぼったい顔だったので、蒼井君が泣かせたと勘違いして大騒ぎになった。萌香ちゃんが「投げ飛ばしてくる」と言って聞かなかったりで、ええそりゃもう本当に大変だったよ……。
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翌朝、旅館をチェックアウトし、駅までバスで戻る僕ら一行。
バスの中でスマートフォンを見ると、新着のメールが一通きていた。
差出人を見ると、蒼井君からのメールだった。中身は昨日別れた後の僕を心配する内容で、最後に元気でまた会おうと書かれて締められていた。僕も「またね」と返す。
次会う時までに僕の中で整理がついているかどうかはわからないけど、整理できていたらいいな。そうしたらもっとちゃんと話せるかもしれない。
そんなことを考えていると、もう一通メールが届いた。蒼井君からの返信かなと思ったら、差出人は良治だった。
『補習中なう。吉川も暇だからと受けてくれているが、男の顔ばかりだと辛くて死にそうです。早く顔を見せてください』
何やってんだよ。ちゃんと補習聞いとけよと思いつつ、いつものノリに少し安心してしまった。思わず顔が笑ってしまう。
東吾も一緒に受けてるのか。付き合いいいんだね。
この旅行はいろいろと考えさせられた。でも楽しかったとも思うし思い出にもなった。
僕は頭の中でこの三日間を振り返る。そしてこの後のことにも思いをはせる。
帰ったらキャンプの準備もしないとなあ。どういう準備がいるんだろう。
アルバイトも探さないと。もちろん学校の宿題もあるし、色々大忙しだ。
新キャラと主人公が一気に急接近……! とはいけませんでした。
男女のどちらとしたいのか悩む部分だけが加速してしまいましたが、こっちはもう少しした後にケリをつけようと思います。いつまでも引っ張っても、主人公が負のスパイラルに陥るだけで欝になってしまいそうなので……。
もう殆ど女の子として生きてるじゃんと言われればそうなのですが、やっぱり最後の踏ん切りが必要かなと思います。そこを乗り切ってしまうと、TSとしての要素はほぼなくなってしまいそうですが……。