花の宴
まず最初に、目を疑った。その次に、何だこれと思った。
見ているものが、どんな意味を持ってなされているのか、さっぱり分からない。
何だこれ。ふざけてる。
アカツキはこの国の人間ではない。それはもう顔立ちや髪の色からしてすぐに分かる。つまりアカツキにとってこの国は異国なわけで、同僚たちからすればアカツキは異国人である。
大陸を越え、大海原を越えた先がアカツキの祖国だが、だからこそアカツキは祖国から遠く離れたこの国の文化にはそう否定的な感情を持っていなかった。住む場所が違えば文化も変わるのが当たり前だ。それは潜在的に脳内で確定した事項で、アカツキは王宮の女官としての礼儀作法を一から覚えたし、油でてらてらと光る見たこともない食べ物だって食べられるようになったのだ。正しくいうならば、それらは文化の違いとして捉え、腹をくくることができた。
……だが、これは。
できない。文化の違いだけでは受け入れられない。とうてい信じられない光景だった。
花の宴などと、やたらと雅な名称のそのパーティーが、これほどの色欲にまみれた淫猥なものだったとは。
どんなパーティーかといえば、重臣たちを慰労する会。選ばれた見目の優れた女官たちが近侍する。ようするにおさわりが許されているパーティーだった。会場はいくつかの個室に繋がっており、了承を得られれば、そういう行為にも及ぶことができる。どうりで、同僚たちがやたらと下着を気にしていたわけだ。
アカツキにとって、一番親しい友人が一週間前から風邪をこじらせてしまったのは不運としか言いようがなかった。将軍様が異国の女官を求めていらっしゃるから、という理由で引っ張り出されたこの宴が、こんなものであるとは知りもしなかった。丁寧に教えてくれるはずの世話好きの友人がいないことが、恨めしい。
飲み物を持って行け、と持たされたグラスの乗ったトレイを手に、アカツキは固まっていた。
王様なぞ、ハーレムである。お堅く、真面目が取り柄の王様が。
だが、誰よりも身分が上の王様がそういう状態であるからこそ、他の臣下たちも好きにできるらしい。財務官はナイスバディ―な年上の女官を侍らせて、胸の谷間を肴にグラスを口にしている。宰相はすでに半分ことに及んでおり、後ろから回した腕が童顔な女官のはだけた胸の上で動いていた。
ありえない。ありえない。ありえない。
吐き気に襲われて、アカツキは目をそらした。これでは動物の宴ではないか。
今までできるだけ比べまいとしてきたが、もう無理だった。
祖国では、人前で女性が肌を多くさらけ出すことは禁忌である。結婚前にそういう行為に及べばふしだらとされるし、結婚後でも夫以外に肌を触らせたらやはりふしだらとされる。
そもそも、なぜ女官にさせる?遊女を呼べ、遊女を。
そうしない理由は分かっていたが、それでも心の中で毒づくのは止められなかった。
顔見知りの女官があられもない声を上げているのを耳にして、もう耐えられないとアカツキはくるりと背を向けた。先程から送られてくるとりはだが立つような視線も、無視をした。
グラスを出さずに戻ったならば叱られる。そう思って、アカツキは女官専用の控えの部屋に入る前にトレイの上のグラスの中身を全部飲み干した。酒には強い。少しのことでは酔わないはずだ。
そうしてから部屋に入ると、五十を過ぎた女官長がアカツキを見て目を丸くした。戻ってきたことに驚いているらしい。女官長の中では、アカツキは誰かの餌食になることが確定していたということか。
「どうしたの、アカツキ。将軍様は?」
「申し訳ありません、女官長。少し気分が悪いので下がらせて頂きます」
質問には答えず、強制的に会話を終わらせた。実際気分が悪かったのでそのまま自室に戻ろうと控室を出た。
「なるほど、花の宴とやらの内容はよく分かった。だが、何ゆえに遊女にやらせぬのだ」
「身分の問題だ。女官は全て貴族の子女だから」
「ああなるほど、間違って遊女との子どもができてはいかぬと言うのだな。その点で女官ならば子ができれば跡継ぎに加えられる。うまくすれば惚れた女官を妻の座に据えることもできる。女官たちにとっても花の宴は重臣たちの妻となれるかもしれぬ好機か」
「そういうことだ」
「して、何ゆえにこの国で姫が追われる身になっておるのだ。脱藩でもあるまいに」
宝石商を営む同郷の人間は、馬車の準備をしながらそう言った。
「姫とは呼ばないでくれ。ここではアカツキと」
「そうであったな。すまぬ、アカツキ。して、理由は」
眉を寄せ、アカツキは腰に差したサムライソードの柄をそっと撫でた。脱藩ならぬ脱城をしたこと、つまり昨夜のことを思い出すと、勝手に眉が寄る。だが話さねば仕方がないとして、アカツキは口を開いた。
控室を出る前から、扉の前の気配には気付いていた。それでもあえて気付かぬふりをして扉を開けたのは、女官長に迷惑がかからないようにするためだ。
部屋を出た瞬間、腕を取られた。大きな手が自分の手首にがっちりと巻き付いているのを冷静に見て、それから冷静に視線を上げた。その先にいたのは、先程会場で獣そのものの目でアカツキを凝視していた男だった。その目はさらにギラギラと輝き、握ったアカツキの手を噛みちぎらんばかりだ。
―――将軍様はね、前の恋人を殺したそうよ。
友人が言っていた言葉を思い出した。確かに、一歩間違えば殺されそうである。
男は、腕がちぎれそうなほどの力でアカツキを引き寄せると、そのまま壁に押し付けてきた。腕は握られたまま、壁にはりつけになる。どう見たって女性に対する力ではない。
「……っ」
勢いによろめいて軽く頭を打ち、思わず息を詰まらせた。その瞬間、わずかに開いたアカツキの口内に、男の指がするりと滑り込んできた。それが、舌の感触を確かめるようにうごめこうとするのを、強く頭を振って逃れる。男は濡れた指を自分の口元に運ぶと、喉の奥でくっと笑った。
命の危険を感じるが、どうしようもない。男は、今度は握ったアカツキの手を自分の口もとに寄せると、手のひらをべろりと舐めた。そうしてさらに手首に力を加えると、アカツキを見下ろして目を細めた。それは、まだ離さない、全部食ってやるという宣言だった。
常人ならば、その視線だけですくんでいただろう。しかしアカツキは祖国の前将軍の娘、現将軍の妹である。淡々と、こんなところで襲われるのはいただけないと考えていた。
実際、男は人が行き来するこの場でヤる気はないらしく、そのまま腕を引っ張って膝の裏に太い腕を入れると問答無用でアカツキを抱き上げた。突如高くなった視線に進行方向を眺めると、さっき逃げてきた会場がある。男はどうやらその先の、用意された個室でヤる気らしい。ちゃんと運ぶ分だけましかとも思うが、こちらはそういう行為に及ぶことを了承していない。それ以前に結婚していない。祖国でふしだらな姫と呼ばれるようにはなりたくなかった。なるつもりもない。
会場に入ると、一斉に視線がこちらを向いた。けれどそれには気にせず男は突き進んでいく。
―――やっと将軍様の想いが叶ったのね。
―――違うわ、きっと脅迫されたのよ。
―――そうね、アカツキちゃん、無表情だもの。
―――え、じゃあ無理やり、かしら?
全力で肯定したい。無理やりである。王様やら宰相やらはにやにやと嫌な視線だった。ろくな奴らがいない。
男は会場を過ぎると個室のベッドにアカツキを放り投げ、そのままのしかかろうとしてきた。
強調するが、こちらは了承していない。結婚もしていない。乱暴にも限度がある。実際、ここまでが限界だった。人目がないのなら、アカツキとしても好きにやれるのだ。
「それで何だ。まさかその剣で刺してはいないであろうな」
「そこまではしていない」
してやりたかったが、という言葉は胸の内にとどめておく。
「それではお得意の手刀かね」
「ああ。だが一発では伸せなかった」
「なんと」
心底驚いた顔をした同郷の人間に、アカツキは渋面を隠さなかった。
「私の腕が落ちたのではない。ヤツが鬼熊だったんだ」
「金の毛色をした鬼熊、か。それで手を出したせいで罪人扱いと?」
「大人しく気を失ってくれれば酒のせいにできたのだが。さらに襲いかかってきたから、こちらとしても必死だった」
―――暴れ馬か。
そう言って楽しそうに嗤ったのにはひいた。発情期の馬になってるのは貴様だろうが、なんて言い返せなかった。馬に悪い。
「気色悪くなって、とりあえず吹っ飛ばして時間を稼いでから、荷物だけ持って飛び出してきたということだ。気付けば謀反人だ」
「金の鬼熊殿も哀れだな」
「なぜだ。迷惑を被っているのは明らかにこちらだぞ」
「それほどまでに鬼熊殿を追いつめたのはアカツキではないのかね」
「そうなのか」
考えてみるが思い当たる節はない。あの好色の宴で、やたらと凝視されたのが初めてだと思う。異国の女に発情しやすい男なのだと考えたのだが。
そこまでで、アカツキはため息をついた。耳が捉える音がある。喜べない音だった。想像以上に早い。うまく撒いたと思ったのだが。
「すまない、馬車に乗る余裕はなさそうだ。アカホシだけ、かしてくれるか」
「もう来たのかね」
「そのようだ。文字通り、鬼熊殿との鬼ごっこだな」
「まさか本人が追手なのかね?アカツキも随分と苦労をする」
「いや、正直ちょうどいい。王宮で生ぬるいのに慣れてしまったからな。ここらで身を引き締めなければ。それに、この国の将軍の力量も分かる。……すまない、あなたには迷惑をかけるが」
「いいや。アカツキ姫のためならば迷惑にはならぬよ」
「かたじけない」
祖国での最上級の礼を取って、アカツキは相棒の背にひらりと跳び乗った。丁寧に世話をしてくれていたようで、アカホシは主人に気付くと待ちきれないというように低くいなないた。
「元気そうで何よりだ、相棒。暫く飛ばすがよろしく頼む」
嬉しそうな相棒の返事を耳に、アカツキは鋭い掛け声とともに風を切った。
「姫、お気を付けなされよ」
同郷の人間に、アカツキはにかっと悪戯っぽく微笑むと片手をあげて見せた。
後に将軍の妻となる異国の少女が、夫を相手に稀に見る逃走劇を始めたことは、後世に続く花の宴を盛り上げる有名な話となった。