来訪者
街が闇に包まれた、午後8時。
鮫島は、逃げようとしていた。
この街から、この街に根を張る脅威から、この街に君臨する――破壊神から。
倉崎の妨害により引ったくりに失敗した彼は、アパートの一室に帰るなり、部屋にある必要最低限の荷物をまとめ、大きなリュックサックに詰め込んだ。
もう、この街にはいられない。
街の暗部を覗き込み、借金の沼にはまり、さらには、街最強の不良にまで目を付けられてしまったのだ。命が幾つあっても足りやしない。
彼は今、夜逃げをしようとしていた。
「こんばんは~、鮫島くんいますか?」
しようとした瞬間、アパートの玄関のドアを開けた瞬間に、唐突に、目の前から声がした。
見ると、玄関の前には、背の高いスレンダーな青年が、人の良さそうな笑顔を浮かべて立っていた。
ワックスでさりげなく癖付けされた、ミディアムロングの髪。センスの良いワイシャツに、これまたセンスの良いデニムのパンツ。そして――
忘れもしない、この顔。
モデルや俳優顔負けの、調った顔立ち。女性に困らない人生を歩んできたことは、容易に想像できる。だが――
その仮面の裏側を、鮫島は知っている。
「さ、佐伯……さん。ア、ア、アンタど、どうしてここに……」
佐伯語。
鮫島がこの街に引越して間もなかったある日、“白虎連隊”と名乗る五人組に絡まれていた鮫島を、さながら少年漫画のヒーローのように、助けてくれた男。
自警団に入らないかと、鮫島を勧誘した男。
鮫島を、騙した男。
鮫島を奈落に陥れた、張本人。
「いや~、最近この街物騒だからさ? 街の自警団員を募集していてね? その勧誘に来たんだ。鮫島くん、良かったら入らない?」
「ふざけないで下さい! ア、アンタのせいで、俺は……俺がどんな目に遭ってるか、知っているんですか!」
正直、呼び捨てにして罵声の限りを浴びせたかったのだが、佐伯のケンカの強さを目の当たりにしたことのある鮫島には、敬語で怒鳴るくらいが精一杯だった。
「ごめんごめん。今のはジョーク、イッツアジョーク、だよ?」
悪びれもしない笑顔で、佐伯は続ける。
「実は君に朗報があるんだけどね? 唐突で悪いんだけど、君の借金、僕が返しちゃったから」
「……はあ!?」
爽やかな笑顔で、さらっと、とんでもないことを言われた。
「あ、ちなみに全額だよ全額。鮫島くんに金を貸してた悪徳金融業者に、全額耳揃えて突き付けてあげたんだよ?」
「ア、アンタ一体何を……」
(何を……言ってるんだこいつは? 俺の借金を全額……? そんな上手い話が、あるわけない!)
「はいこれ、証明書」
「――!?」
佐伯が差し出した紙には、鮫島の名前と、鮫島が金を借りた先の、金融業者の名前と、その捺印と、借金返済の完了を示す旨が、書かれていた。
「信用出来ないなら、後で業者の人にでも電話してみるといいよ? またのご利用をお待ちしてますって、仏に戻ってるかもね?」
「マ、マジかよ……」
証明書を受け取り、もう一度良く見てみる。彼には、本物か偽物かの区別はつかないから、油断は出来ない。いやむしろ、これが嘘である可能性のほうが、圧倒的に高いのだ。
まず第一に、こんな上手い話があるわけがない、ということ。
他人の借金を、7桁の借金を、勝手に肩代わり? 金が棄てるほど余っている金持ちでも、そんなことは安々としないだろう。ましてや、鮫島にとって佐伯は、勧誘されたあの日以来会っていない存在なのだ。こんなことをする義理は、向こうにはないはずだ。
そして第二に、佐伯語という人物が、究極的に信用出来ない、ということ。
人の良さそうな笑顔と、カツアゲされていた男を助ける、といった行動で鮫島を信用させ、まんまと“狐狩猟犬”に引き込んだのだ。詐欺師さながらに鮫島を騙し、彼をこの街の闇に引きずり込んだ男。疑い憎めはすれど、信用しろというのは、土台無理な話である。
鮫島は、疑惑に満ちた視線を、佐伯の顔に向けた。佐伯は、何を考えているのか分からない笑顔で、泰然として立っている。
「し、信用出来ねえ! んな話、信じられるか!」
「信用してくれなくても良いよ? 信用とか信頼ってのは、互いのことをよく知っているか、もしくは、自分が信用出来る第三者が、こいつは信用出来る! って太鼓判を押してくれるか、相手が社会的に認知、もしくは受け入れられてる存在であるか、もしくは自分の主観? が、こいつは信用出来る! って告げてくれる場合だものね?」
「信用出来ない存在ってのは、かつて俺を騙して酷い目に遭わせた存在のことを言うんですよ」
「アハハハ。うんうん、違いない。まあとりあえず、君の借金は綺麗さっぱりなくなった。これは確固たる事実なわけで、まあ僕には、それを君に信じさせてあげる手段はないんだけどね?」
「わけわかんねえよ……。だ、だいたいそんなことして、アンタに何の得があるって言うんですか!」
「嫌だな~鮫島くん。損得勘定で何でも考えるのは、良くないことだよ? そんなこと言ったら、世のボランティアに勤しんでいる人達に失礼じゃない? まあ、彼等は彼等で、良いことしたなっていう自己満足に浸れるのが、得だと感じていたりしてね?」
「何が言いたいんですか!」
「ごめんね」
佐伯は、全く悪びれずに言葉だけで謝ると、
「さっき、『後で業者の人に電話してみると良いよ』って言っちゃったけど、それ無理なんだ。時間がないからね?」
「……はあ?」
「あ、ついでに言えば、『借金を返済した』っていうのも、語弊があったかな? 確かに、業者さんにはお金払ったし、君の『借金』はなくなったんだけどね?」
佐伯の言いたいことが、鮫島にはさっぱり分からない。何かを勿体振っているようだし、その言葉の裏に、薄ら寒いものを感じる。
「後二週間。業者さんの話だと、鮫島くんは後二週間の内に借金が全額返せてなかったら、黒服の怖いおじさん達に拉致られて、多くの人の役に立っちゃうところだったんだよ? 多くの、臓器が欲しくて欲しくて仕方ない、ご病気で苦しんでる方々にね? 角膜とか骨髄とかも、余すことなく。つまり、君の命は、金融業者さんに握られていたってわけ」
鮫島は、背筋が凍る思いがした。やはり、奴らは本気だったのだ。本気で、鮫島の臓器を、売り飛ばそうと……
「そして僕は、そんな君を見兼ねて、君の命を買い取った。債権は、僕に移った」
「だ……だから、何が……」
背筋が凍り過ぎて、火傷しそうなくらいだった。佐伯は、何かとてつもなく、恐ろしいことを言い出そうとしている気がする。鮫島は、直感的にそう感じた。佐伯の、人の良さそうな笑顔が、それを裏付けているような気さえした。
――そして、その笑顔が――狂気じみたものへと、豹変した。
佐伯は、鮫島の引き攣った顔に真っすぐと目を向け、
「僕は、君を殺す。そのためにやってきた」
権利を行使することを、宣言した。