背中を押すもの
その視線の先――青々と繁る樹の、てっぺんの少し下辺り――には、小さく萎んで皺ができた、赤い風船が一つ。樹の枝に引っ掛かっている。
「あれがどうかしたの?」
「うん」
沙理奈は風船を見上げたまま、頷いた。
「少し前に、お兄ちゃんと一緒にこの道を歩いてたとき、あの風船を見つけたの。ほら、紐の先端に手紙みたいなのが結んであるでしょ?」
「あ、ホントだ~」
神社のみくじ掛けにおみくじを結び付けるときのような結びかたで結んであるそれは、メモ帳から切り取ったような、一枚の水色の紙だった。風が吹く度、枝と一緒にひらひらと揺らめいている。
「あの紙には何が書いてあるのかなって、お兄ちゃんと話したわ。お兄ちゃんは、不幸の手紙なんじゃないかって言って笑ったけど、私は、きっと何か、風船を飛ばした人が伝えたかったメッセージが書いてあるんじゃないかって。お兄ちゃんは、だったら今度梯持っていくから、一緒に確かめてみようよって…………」
上を見上げていた沙理奈は、その顔を、ゆっくりと下げていった。そして、地面を見つめ、両手をギュッと握った。何かを堪えているようだ。
(くだらねえ……んなことでいちいち、ブルー入ってるんじゃねえぞ、ガキが……)
と、その時、自分の肘に何かが当たってくる感触を、倉崎は感じた。
華憐だった。自らの肘を倉崎の肘に、コツンコツンとぶつけてきている。
彼女は、樹に引っ掛かっている風船を、顎でしゃくってみせた。倉崎に何かを伝えたい、というより何かをして欲しいらしい。
「…………」
倉崎はそれを、分かってしまった。
だが、それをする気にはなれない。自分にはあまりにも似つかわしくなく、自分にとっては何の価値も利益もないことだからだ。だが……
「これくらいしてあげても、バチは当たらないでしょ?」
華憐が笑顔で、ひそひそと話し掛けてくる。それが彼の背中を、面倒臭がりな背中を、押した。
――いや、本当に彼を押したのは――少女の悲しそうな顔、だったのだろう。風に揺れる栗色の髪の下、今にも泣き出しそうな、少女の顔――
気付いたときには、体が勝手に、進んでいた。
「え? ちょっとお前、何を……」
「黙ってじっとしてろ」
倉崎は学生鞄を地面に放り投げると、樹の幹に両手をかけ、まるで鋭い爪を持った野性動物がそうするように、ゆっくりだがスイスイと、樹を登っていった。
「お、お前どういうつもり? な、何なのよもう!」
困惑する沙理奈に、華憐はニヤニヤしながら、
「倉崎クンはね、沙理奈ちゃんのために風船取ってあげようとしてるんだよ。優しいね~」
「え、ええ!? べ、別に私は取って欲しくなんて!」
うろたえる沙理奈。
華憐に余計なことを言われ舌打ちしつつも、倉崎は登っていく。樹の全長はおよそ15メートル。その先端近くに引っ掛かっている風船目掛け、不機嫌そうな顔をしながら、彼は登っていく。
彼にとっては、この程度の所業など造作もないことだった。不良をオートバイごと放り投げたときや、軽自動車を蹴りで横転させたとき、長ドスを持った数人のヤクザを相手にしたときなどに比べれば、遥かに楽な作業である。
「な、何でよ……危ないじゃない……」
オートバイより速く自転車を漕いだ、人間を超越した身体能力を持つ倉崎の姿を見たことがありながらも、沙理奈は彼を案ずる言葉を呟いていた。不安と疑問を浮かべた眼差しで、倉崎の動向を見守っている。
――ったく、俺もヤキが回ったもんだぜ。
一度も下を振り返ることのなく、とうとう、風船の紐に手が届くくらいのところにまで来た。倉崎は、両脚で樹の幹を挟み、左手で一本の枝を掴みバランスを取りながら、右手を紙へと伸ばし結び目を解こうとするのだが――
――ボキン。
左手を支えていた枝が、折れた。
その瞬間、倉崎の体はバランスを崩し、回りの枝をボキボキと音をたてて巻き込みながら、地面へと落下していった。
「倉崎っ!」
沙理奈は思わず、彼の名前を叫んでいた。
――ドンッ!
鈍い衝撃音と共に、倉崎の体は俯せの態勢で、思いっ切り地面にたたき付けられた。その上に、数本の枝と何枚もの緑の葉が落下し、重なる。
「ちょっと、大丈夫!? ああもうっ!」
考えるより先に、沙理奈は、倉崎の元へと駆け出していた。しかし、それを制するかのように、倉崎は平然と立ち上がった。その右手には――
「ほらよ」
結び目が解かれた、水色の紙が。彼の指先に握られていた。
彼はそれを、沙理奈の目の前に差し出した。あたかも、俺は無事だから近づくな、とでも言うかのように、腕を伸ばして。
「バカバカバカ! 何やってるのよお前! ホントバカバカバカ!」
倉崎の顔は傷だらけになっていて、ワイシャツや制服のズボンに土の汚れが大量に付着していた。だが、彼の表情に苦悶の色は少しも見受けられない。涼しい顔で、いつも通りの目つきの悪い顔で、けだるそうな顔で、彼は当たり前のように、そこに存在していた。
沙理奈はそれを見て、怒っているのか安心しているのか心配しているのか分からない顔をした。
「怪我とかしてない? あんな高いとこから落ちて……」
「してねえよ」
倉崎は端的に、ぶっきらぼうな口調で答える。
「破壊神があれくらいで怪我するわけないよね~。だってチートだもん」
慌てふためいた沙理奈とは対照的に、後ろで終始泰然としていた華憐は、ニヤニヤとからかうように微笑んでいた。
「ほら、受け取れクソガキ」
差し出された紙を、沙理奈はゆっくりと受け取る。
「ホントに……大丈夫なわけ……?」
「当たり前だ」
そう言った彼の頬には、赤い液体が。彼の額の右側からツツーっと、頬を伝って流れ始めていた。
「って血!? 全然大丈夫じゃないじゃない! ち、ち、血が出てるわよ血!」
「気のせいだ」
「そんなわけないでしょ! この嘘つき!」
「嘘なんざついてねえ」
「嘘じゃないの! ああもう、救急車!? 救急車呼ばなきゃ!」
「落ち着けガキ」
「ひゃんっ!」
倉崎は、沙理奈の頭に軽く――いや、『優しく』と形容したほうが良さそうな――チョップをかましていた。
「こんなの唾付けときゃ治る」
「さ、触らないでよバカッ!」
沙理奈は飛びのくように数歩後ずさり、倉崎を睨み付けた。だが、触られたことに怒っているわけではない。
「アハハハハ、おもしろ~い」
お互いムキになって言い合いしている二人を見ながら、華憐が声を上げて笑っていた。ツボに入ったというよりは、二人をほほえましく思っているようだ。
「へー、倉崎クンでも怪我ってするんだね~。いが~い」
「だから怪我なんざしてねえ」
「またまた~、強がっちゃって、キミって案外可愛いね」
「黙れアバズレ」
倉崎はワイシャツの袖で、ゴシゴシと顔面の血を拭うと、
「帰る」
若干拗ねたような声を発し、帰り道へと歩き出した。
「もう! バカバカバカ! この腐れ天パ!」
そうやって悪態をつく沙理奈の顔が、ほんの少し――ほんの少しだけ赤らんでいたことに、倉崎は気付かなかった。