戦慄のバイクレース
倉崎の存在を視認した瞬間、鮫島はバイクのアクセルを全力で踏んでいた。
まだ信号は赤だったが、構っていられない。生物としての生存本能が、"圧倒的な存在"の前から今すぐ駆け出せと、サイレンを鳴らしているのだ。
(死ぬ……死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ殺される! いったい何が何だってんだチクショー!)
鮫島の脳内は、『倉崎の登場』という唐突の危険事態に直面し、ミキサーで掻き混ぜられたかのようにぐちゃぐちゃになってしまった。倉崎が自分に話し掛けてきた理由、その内容、その意味。これら全ての項目を度外視し(というより考察する余裕もなく)、鮫島はただ"生きたい"という欲求のみに従った。
"逃げたい"ではなく、"生きたい"。
それは、倉崎の拳を喰らったことがある者の多くが、再び彼に遭遇した場合に抱く共通の願望である。
実際に負った怪我の大小は、関係ない。
"死"を喚起させる絶対的な恐怖、強大さにこそ、生涯拭えることはないであろう"心的外傷"を負うのだ。
その"心的外傷"が起爆材となり、彼のバイクを爆走らせる――
前を走る軽自動車、ミニバン、トラックの隙間を、針を縫うかの如く滑らかに疾走する鮫島。生命の危機が彼の脳にアドレナリンの過剰分泌を促し、奇跡的なまでのドライビング・テクニックを可能にしたのだ。
もちろん、元来彼が持つテクニックも無視できない。バイクで引ったくりを計画するほどなのだ、その腕前は中々のもの。
元々バイクが好きであり(自分のバイクは借金の形に売り飛ばしてしまったが)、休日は峠を爆走るのが趣味だった鮫島は、趣味が命を救う希望になった僥倖に感謝した。
といっても、趣味を犯罪に悪用しなければこうして追われることもなかったのだが。
風を斬り、エンジンの咆哮を上げ、鮫島を乗せたオートバイは直走る。信号も法定速度も爆走ることのリスクも無視して、ただひたむきに。
が――
鮫島は、理解していない。
倉崎の"用件"から考えれば、このまま猛スピードでバイクを爆走らせるのと倉崎の"用件"に応対すること、どちらが危険かということを。
「うわぁぁぁ!」
無我夢中で、ハンドルを切った。
目の前には、中学校の制服に身を包んだ少女が一人。信号を渡ろうとする途中だったようだ。自分に猛スピードで向かってくるバイクに、泡を喰ったような顔をしている。
「キャーッ!!」という少女の悲鳴が、彼の鼓膜をつんざく。
キキー!
アクセルを弱めつつ、ブレーキをかけながら、鮫島は奮闘する。
地面とタイヤが擦れ合い、火花を散らし、辛うじて――鮫島は少女をかわした。幸いにもバイクを転倒させることなく、再び爆走を続ける。
「あっっっぶねー! けど……イケる! 逃げ切れるぞ!」
先の成功で根拠のない自信を獲得した鮫島は、次の瞬間に、驚愕した。
バイクのサイドミラーに映る、鮫島の10メートルほど後ろを走る白銀のボディが――
先程の少女の上を、飛び越えたのだ!
「んなバカな!!」
鮫島はそれこそ、驚愕の"愕"の字のように、顎を震わせた。
――ありえない!
映画のアクションシーンが、こんな街中の公道で起こってたまるか!
だが、サイドミラー越しに見たその光景――少女の背丈の上を1メートルほどの余裕を持って飛び越えたママチャリ――は、紛れも無い現実だ。平然と地面に着地し、そのママチャリを、ペダルが見えないほど高速で漕ぎながら、再び自分を追ってくる破壊神も、現実。
「来るな! く、来るんじゃねえバケモノ!」
前方を向きながら、鮫島は腹の底から叫んでいた。だが、その命令も虚しく、鮫島と倉崎の距離はどんどん縮んでゆく。
10メートル、5メートル、3メートル…………
そしてとうとう、手を伸ばせば届いてしまいそうなほど近くで、大型のオートバイと白銀のママチャリは併走することとなった。
「ハアハア……おい……鞄よこせって……言ってん……だろうが……ハアハア……」
白銀に跨がる倉崎は、時速100kmの速度を維持してはいるが、表情は険しく、ついでに息も切れている。顔からほとばしる汗が、肌から離れ、いくつもの小さな水の雫となり後方へ消えていった。赤く蒸気したその顔は、彼が今までに消費したカロリー量を如実に物語っていた。
鮫島は、僅かに、ほんの僅かに、安堵した。
(よかった……、疲れてる)
人間の身体能力、人体力学、限界、常識。その全てを、ことごとく"破壊"してみせた倉崎。その倉崎が自分を追っているという、あまりにも苛酷で恐ろしい状況にあった鮫島は、倉崎が"疲労している"という単純な事象にさえ安堵してしまう。次第に感覚が麻痺していってるのだ。
鮫島の脳は、倉崎に既存の常識を破壊されたが故に、倉崎に対する新たな常識を構築した。
すなわち、"破壊神"。
映画や漫画や小説で描かれているような、人間とは完全に別種の、バケモノ。
比喩表現ではなく、本物のバケモノ。
かつて倉崎と対峙したときは、倉崎のあまりの強大さに現実感を伴うことなく敗北したが、今再び対峙するにあたって、鮫島は倉崎に対する認識を、"人間離れしたバケモノ"から、"完全に人間ではない、ドラゴンや鬼と同一平面のバケモノ"と改めざるを得なかったのだ。
ルビをふっているのですが、お手持ちの機種では読めないかたもいるのでしょうか?
もしルビがふられていない方がいらっしゃいましたら、お知らせください。お願いします。。。