鮫島事件
「ふう……、上手くいったみたいだな」
金髪のグラマラスな女性からハンドバッグを引ったくることに成功した鮫島は、バイクのスピードを緩めながら安堵した。
――1年前の春、大学に通うためこの街―― 狐原市に引っ越して来た鮫島は、引越しからわずか2日で“白虎連隊”と名乗る5人の不良にカツアゲされそうになった。
高校時代は野球部に所属していた鮫島は、別段喧嘩が苦手であったり気が弱かったりするわけではないのだが、さすがに不良5人をまともに相手にできるはずもなく、おとなしく財布を差し出してこの場をしのぐしかないと諦めた。
しかしそこに、今度は“狐狩猟犬”の一員と名乗る一人の男が、鮫島を助けにきたのだ。
男は一瞬で“白虎連隊”の5人を蹴散らすと、鮫島に「“狐狩猟犬”へ入らないか?」と持ち掛けた。
男の話によると、“狐狩猟犬”は学生を主軸とする狐原市の自警団であり、増加する不良共から街を護るために有志のメンバーを募っているというのだ。
自分をカツアゲしてきた不良共にムカついたこと、勧誘してきた男が誠実で信頼できそうだったこと、何より自警団という響きにワクワクさせられたことで鮫島は、“狐狩猟犬”に加入することを二つ返事で承諾した。
それが全ての間違いだとも知らず。
加入から程なくして気付いた。自警団などというのは大嘘で、組織の実態はただの……いや、非常に統率のとれた大規模な不良グループだということに。
敵対グループへの襲撃など日常茶飯事、“狐狩猟犬”の名前を振りかざし横暴を働く輩などざらにいた。
会員費と称し構成員から金を巻き上げる上層部、金を上納する代わりに組織の後ろ盾を得て好き勝手に暴れる構成員。ヤンキー漫画で見た不良よりも過激で、極道映画で見た暴力団よりも恐ろしかった。
――ここは自分の住むべき世界ではない。早く平凡な日常へと戻ろう。
加入から1年が経とうとしたある日、鮫島は組織を脱退するため、市内のとある金融業者から10万円もの大金を借りた。
脱退希望者は金さえ払えば、他の不良グループに入ったり組織に敵対するようなことをしない限り組織から手を出されないという。この規定がどこまで信用できるかわからないが、もう迷っていられなかった。
そして今の所、脱退してから2ヶ月経つが、組織からの干渉はない。平凡な日常を取り戻したかに見えた。
――が、鮫島は今、別の地獄にいる。
鮫島が金を借りた先は、いわゆる悪徳金融というやつだったらしく、どんどんと利子が雪だるま式に膨らんでいった。
貯金を全て返済に宛て、学費も仕送りも取り立てに持っていかれ、それでもなお、7桁まで膨張した借金は返せそうになかった。
自宅のアパートへ毎日やってくる、厳つい顔をした黒服の男達。
その度に、頭を地面に打ち付けて謝罪する自分。
そしてその頭に、何度も何度も振り下ろされた真っ黒な革靴。
さらに、内臓を売れという非常に非情で非常に無慈悲な恫喝……
――何故自分がこんな目に遭わなければならない、何故平凡な学生生活を送ろうと思っていた自分がこんな目に遭わなければならない、何故自分が、何故自分が……
こうして一週間前、鮫島は道を歩いていた主婦に盗んだバイクで引ったくりを働くことになる。
そして今回も……
「今日の女はたんまり持ってそうだったな。こりゃ期待できるぜ」
大通りの信号でバイクを停車した鮫島は、金髪女性のブランド物で固めた服装を思い出して期待に胸を馳せた。それにこのバッグもおそらく相当な代物だ。質に入れればそれなりの金になるだろう。
鮫島は、“狐狩猟犬”時代にもやらなかったような大胆犯罪を堂々とやり遂げたのであった。
罪悪感などない、感じてる余裕もない。後はこのバイクを棄てて逃げるだけだ。そして日を改めて、“狐狩猟犬”時代に習った(といってもメンバーの一人に無理矢理教え込まれた)窃盗技術で別のバイクを盗み、再び引ったくりを繰り返す。潮時がきたら、引ったくりは止めて、今度は空き巣でもやって金を稼ぐ。それしか道はない。
「絶対に、内臓なんか売ってたまるか」
どんなにクズみたいな生活を送っていようが、死ぬのは絶対に御免だ。平凡な生活を取り戻して、平凡な幸せを手に入れるんだ。
鮫島は自らを鼓舞するように、オートバイのエンジンをブォォォンと吹かした。
とそこで、彼は唐突に震えた。
それは何故?
恐怖を感じ取ったからである。
言い知れぬ恐怖。えもいわれぬ恐怖。ありえない恐怖。信じられない恐怖。蛇に睨まれた蛙が感じるような恐怖。
首筋に鎌を突き付けられているかのような恐怖……
「よお。すまねえが、そのバッグ返してくれねえか? つっても俺のモンじゃねえんだが……」
その声がするほうに、鮫島はフルフェイスのヘルメットで覆った顔を振り向かせた。
鮫島が乗っているバイクの左斜め後ろには、鮫島に“狐狩猟犬”脱退を最終的に決意させた存在が――
「ひ、ひいっ! 破壊神倉崎!」
白銀に煌めくママチャリのサドルの上で、蛙どころか蛇ですら射殺せそうな鋭い眼光を放ち、堂々と鎮座していた。