1-1 紫陽花~心変わり~ その1
「じゃあ香菜さん、また連絡するね」
小ぶりなイタリア車の窓を下げてタカシは微笑んだ。
Fiatだったかな、おにぎりみたいで可愛い車ねって言ったらタカシは吹き出して、香菜さんの方が可愛いよ、なんてこっぱずかしいセリフを言ったっけ。
付き合って2カ月、大人の男女は手順が分かっているから進展は早い。体の相性を確かめ合ってからもタカシは変わることなく優しかった。
今日も2カ月記念と言ってアクセのプレゼントを用意する気の回りよう。大袈裟に喜んで見せたが、本当はこの手の演出は少し苦手。
自宅の前で降ろしてもらったが、もう11時を回っていたので「寄って行く?」とは訊かなかった。まだ正式に両親に紹介してはいないし、いくら30近い娘でもいきなり男を連れてきたらいい顔はしないだろう。
とくに同居している兄夫婦は妹の男に敏感だ。ことあるごとに財産目当てじゃないのかと勘ぐってくる。
容姿も学歴も平凡な妹に言い寄る男は、港区女子という肩書しか見ていないと思っているらしい。
(私には他になんの取柄もないとでも? いや、その前に女子ってトシでもないか)
「ありがとう、とっても楽しかったわ」
にこやかな笑顔を崩さずFiatが見えなくなるまで手を振ると、もう寝ているかもしれない両親を起こさないようにそうっと2階の自分の部屋に戻った。
両親と兄夫婦が暮らす青山の200平米超の1戸建て二世帯住宅。
昨今の地価高騰を考えると相続税に頭を悩ませるほどの財産ということになる。兄夫婦が妹の交際相手に過敏になるのも仕方ないことかもしれない。
そもそも居候の身の私が何か言える立場じゃないけどさ。
いつものルーティーン、化粧を落としシャワーを浴びると鏡の中の自分を点検する。
(めんどくさいわぁ)
港区に住んでいると言うだけでお洒落で美意識が高くて当然と思われるから、常に気を張っていなくてはならない。
「港区に住んでてソレ?」
という憐れみと嘲りの混じった感想は学生の頃からうんざりするほど聞かされていた。
はぁ、とため息をついてソファに身を沈めるとスマホを手に取り、あるアプリを立ち上げた。
「ふふふ」
いきなり女の含み笑いが聞こえてきた。さっきまで聞いていたFiatのエンジン音が背後で鳴っているので同じ車内なのは間違いない。
「港区お嬢様はどう?」
「もちろん、順調だよ」
タカシの声、私といるときとは打って変わって、くつろいでいるように聞こえる。
「お高く止まってるんじゃないの?」
「お嬢様だからね、お堅いのはしょうがない」
「でも、もうやっちゃったんでしょ」
「JKをたぶらかしたみたいに言うなよ、ちゃんと大人の付き合いさ」
「悪い人ね、デートの後に私を呼び出すなんて」
「フランス料理の〆にラーメンを食べたくなるタチなんでね」
「何それ、しっつれいすぎ!」
そう言う女の声は怒っているようには聞こえない。商売女なのかもしれないが、馴染みなのは確かだろう。
(あーあ、お義姉さんの勘が当たっちゃったか)
義姉は常々「香菜さんは世間知らずのお嬢さんなんだから気を付けてね」と言っていたが、こんなに見事に的中するとは。
どうせ私は迂闊でチョロい女ですよっ。
もう一度ため息をついてアプリを閉じた。
タカシを責める気にはなれなかった。盗聴器なんか仕掛ける自分だってたいがい性格が悪い。
(やっぱり別れた方がいいのかな)
こんなとき、泣いてすがれるような女だったらカワイイと思ってもらえるのだろうか。けれど無駄なプライドが邪魔をする。
(好きでこの町に生まれたわけじゃないのに)
それが言い訳なのは分かっていた。
結局のところ、泣いてすがるほどの男なのかどうかということだから。
◆ちゃっぴーさんの感想
まず率直に言うと、このストーリーは「上品な恋愛もの」に見せかけて、かなり冷めた現実を突きつけてくるタイプで、読後にじわっと苦さが残るのが印象的でした。
一番うまいと感じたのは、香菜の内面の描き方です。
いわゆる“港区お嬢様”という外側のラベルと、本人の自己認識のズレがずっと通底していて、「満たされているようで満たされていない」感じがリアルでした。特に「取柄もない」「女子ってトシでもないか」といったセルフツッコミが、プライドと諦めの混ざった温度をよく表しています。
そして、タカシとの関係の描写も巧妙です。
最初は典型的な“スマートで気の利く大人の男”として登場するのに、盗聴のシーンで一気に印象が反転する。この落差はかなり効いています。ただ、タカシが極端に悪いというより、「そういうことを普通にやるタイプの男」として描かれているのが現実的で、逆に嫌なリアリティがあります。
もう一つ面白いのは、香菜自身も“完全な被害者ではない”点です。
盗聴器を仕掛けている時点で、彼女もまた歪んだ関係の一部になっている。この構造があるから、単なる「浮気された可哀想な女」の話に落ちていません。むしろ、「似た者同士の冷えた関係」に見えるのがこの作品の強みだと思います。
総合的には、派手な展開はないのに心理の切れ味で読ませる、大人向けの短編としてかなり完成度が高いです。
甘さよりも“冷たさ”が印象に残る、静かな失恋の話でした。




