下りない幕、響く哄笑
────ねえ、キミ!
キミだよキミ、今にも泣き出しそうなストレイ・キャットさん!
ああ、良かった。ようやくボクを見てくれた。今日も会えて嬉しいよ!
キミ、こんなところで何をしているの?
ここは暗いし、変なにおいもするし、おまけに季節外れのクリスマスツリーなんて飾られて、品がない部屋なのにさ。
オーナメントの一つもない、退屈なツリーだよ。眺めても何も起こらないし、胸も踊らない。
ほら、そんなに震えて、ここにいるのが嫌なんでしょ?
ああ、涙まで流して、なんて可哀想!
立ち上がって、そこの扉から外に出ようよ! 外は楽しいことでいっぱいだよ!
あいにく手は貸せないけれど、キミを応援するくらいわけないさ。さあ、そこのベッドを支えにして……。
……え? 嫌だ? ここから出るなんてできない、って?
脚に力が入らないの? 腰が抜けちゃった? それとも……。
『とにかくできないんだ』、だって?
ううん、ボクとしてはキミには一刻も早くこの部屋から出てほしいけれど……。
キミがそこまで言うのなら、しょうがない。キミの意思を尊重するよ!
でもさ、キミには笑っていてほしいんだ。だからさ、気分転換に小話をしてもいいかな?
キミの震えが止まって、涙も乾いて、お腹の底から笑えるような、とびっきりの面白い話をしてあげたいんだ!
そう言って、ピエロのような見た目をした栗色の髪の女が笑う。
私は頷いた。ピエロの話に興味はないけれど、この気分を晴らしてくれるのならなんだって良かった。
ピエロも満足げに頷いた。大袈裟なくらい口角を吊り上げて、目を細める。
ああ、ダメダメ!
キミには楽にしていてほしいんだ。見たまま、聞いたまま、感じたまま。それをボクに教えてほしいだけなんだ。
今のキミに状況説明なんて酷だ。そもそもキミは物語の登場人物なんかじゃない!
ピエロが二度手を叩くと、ぽん、と間抜けな音が鳴った。
ほらほら、そんなことはボクがやるよ。
キミはそのまま、何もしなくていいからさ。ボクの話に集中して?
掲げた手の上で弾けた白煙の中から──(小ぶりなステッキが現れて、ピエロはそれをくるりと回した。)
(『ほら、これでキミは何もしなくていい!』──ピエロは反対側の手を口元に当てて、きしし、と悪戯っぽく笑う。)
(自分で自分を説明するなんて、なんて面白い体験だろう!)
さあさあ、ようこそ、紳士淑女の皆様!
残念ながらポップコーンはないけれど、代わりにオペラグラスは不要さ。
何故かって? ここにいるみんな、一人一人が最前列の特等席だからね!
既に劇は始まっている、早速本題に入ろう。こんな話を知っているかな──『トロッコ問題』ってやつなんだけど。
(ピエロが人差し指を唇に当てて、ひそやかに笑みを浮かべる。)
(それから、客席の反応を見るように周囲を見渡した。)
(やがて、目を輝かせる。)
知ってる、って? ありがとう、有名だもんね!
ただね、知らない人がいるかもしれないから、念の為説明をさせてくれるかな?
ええと、なになに……あっ、これは決してカンペじゃないからね!
(懐から取り出した小さなメモ用紙は白紙だ。『カンペではない』ということを証明したかったんだろう。)
(ピエロは咳払いを一つして、再びメモ用紙に視線を落とした。)
(完璧にこなすのがプロ、だからね。即興の寸劇だってお手の物さ!)
有名な思考実験でね、そんな状況あるわけないって突っ込みたくなるかもしれないけれど、とにかくこんな話なんだ。
(メモ用紙に視線を落としたまま歩き始める。ヒールがかつかつと床を打つ音が鳴った。)
キミは線路の切り替えレバーのそばに立っている。そこに、どこからともなくトロッコが走ってきて、しかもそのトロッコは制御不能、猛スピードだ!
暴走するトロッコの先には二本のレール。片方には五人が、もう片方には一人が身動きができない状態で横たわっているじゃないか!
このままだとトロッコは五人を轢き殺してしまう。なんたって暴走しているからね。どんな手段でも止められない!
けれど、キミのそばにある切り替えレバー、それを操作すると……トロッコは別のレール、すなわち一人がいる方のレールへと進路を変えて、その一人を轢き殺してしまう。
つまり、どちらにしろ犠牲が出る。酷い話だよね? ボクも同感さ!
この問題のキモはここだ。五人を救うか、一人を救うか。キミにしか操作できないレバーを、キミは引くのか、引かないのか。
ああ、安心して。キミに選べって言っているわけじゃない! こんな話があるんだよ、ってだけの、軽い雑談さ。
(喋り終わったピエロは、座り込んで泣いている女性のそばにしゃがんだ。)
(青ざめた顔で震えている女性に、ピエロも浮かない顔だ。)
(『ふむ』と顎に指を添え、飛び跳ねるように勢いよく立ち上がった。ステッキの先端で床を二度つつく。)
じゃあ、こんな話は知っているかな?
『歩道橋問題』……内容自体はさっきのものと変わらない。けれど、意外と知らない人も多いんじゃないかな。
知らない? ああ、それは良かった。説明しがいがあるよ!
それじゃあ説明してあげよう! ええと、『歩道橋問題』のカンペは、っと……。
(ピエロは息を飲んだ。懐から取り出したメモ用紙には何やら文字が書かれているからだ。)
(慌てた様子で弁明する。)
だだだ、大丈夫さ! 何か書いてはあるけれど、ボクのセリフじゃないからね!
ほら、よく見て──『親愛なるエリスへ。結婚おめでとう。お腹の中の赤ちゃんの健やかな成長を祈っているわ。母より』……ほらね?
(ぱちり、とウィンクをしてから、大袈裟に咳をする。)
じゃあ、話を戻すよ? 戻していいね? ……ありがとう!
なんだったか……そうそう、『歩道橋問題』だったね。
さっきも言った通り、内容自体は『トロッコ問題』と変わらない。そもそも『トロッコ問題』から派生した話だからね。
五人を救うか、一人を救うか。ここまでは同じ。ただ、キミのそばにあるレバーが形を変えているんだ。
そんな荒唐無稽な話あるかなあ、なんて笑い飛ばしたくなるけれど、ボクが考えたわけじゃないからね?
いいかい、読み上げるよ。『トロッコを止められるくらい太った男性を、歩道橋から突き落とす』。
……嘘じゃないよ! 本当さ! ただまあ、笑いたくなる気持ちは分かるよ。よく分からない条件だよね?
こほん、それでね……そう、この太った男性とやらが、この問題の『一人』側に当たる。その男性をキミの手で突き落とさないと、レールに横たわる五人が死んでしまう、というわけだね!
(ピエロは苦い顔で首を横に振った。)
よくもまあ、こんな悪趣味な話を考えられるよね!
五人も一人も、全員まとめて助けられたらそれでいいのにね?
ああ、ボクがスーパーマンだったら、レバーのそばで、あるいは男性のそばで悩むキミに、優しい言葉をかけてあげられるのに。
『ボクに任せて』、ってね。うわあ、言ってみたいなあ!
(何か思い出したように目を瞬かせ、『ああ、そういえば』と女性の方を見た。)
今話した二つの思考実験、とても面白い結果が残っているんだ。
『トロッコ問題』は『一人を犠牲にして五人を救う』選択を採る人が多い。対して『歩道橋問題』はその逆──『五人を犠牲にして一人を救う』ことを選ぶ人の方が、ずっと多いそうなんだ。
不思議だよね? 必ず犠牲が出てしまうことは変わらない。それなら少ない方がいいのにさ。
何故そんな差異が生まれてしまうのか……そう! それはね、キミにかかる心理的負担の違いさ!
同じ『殺人』でも、銃よりナイフの方が手に伝わる感触が生々しいのは、なんとなく想像できるよね?
それと同じさ。『トロッコ問題』は間接的に、『歩道橋問題』は直接的に一人を殺す。五人を救うために男性の背中を押すことは、とても耐えがたいことだ。
分かる、分かるよ! 誰だって罪は背負いたくない、清いままでいたい! ボクもきっとそうするだろうさ!
(ピエロは『さて』、と唇を舐めた。)
(ぷっ……くすくす、あっはははは! さあ、さあさあ! 面白いのはここから!)
座り込んだままのストレイ・キャットさん、キミにクエスチョン!
もし、もしだよ? さっきの『歩道橋問題』で……突き落とされる哀れな男性が、キミがよく知る人物だったら?
例えば、キミを散々罵ってきた、キミの母親なら?
……ああ、大丈夫、口に出さなくていい。思うだけでボクに伝わるからね。
(ピエロは女性のそばで膝立ちの姿勢になり、真っ白な手袋をはめた手で女性の両目を覆った。)
(キミは何も見なくていい。ボクの言葉だけを聞いて……。それ以外の全てを忘れるんだ……。)
ほうら、想像してごらん……『こんな問題も解けないの』『優秀なあの子の友人でいたかったらもっと努力しなさい』『穀潰しの恥知らず』……そう喚き立てる女が、キミの前に立っているんだ……。
トロッコが見えてくる……五人を救うにはそのうるさい女を落とすだけでいい……目障りな存在を消せて、五人を救うこともできて、まさに一石二鳥の状況だ。
……『落とす』? うん、ありがとう!
更にクエスチョンだ、それがキミの父親なら?
そう、キミに乱暴を働いた、あの父親だ! キミを叩き、殴り、蹴り、犯し、嬲った! キミにありとあらゆる暴力を働いたあの男だ!
『迷わず落とす』、あっははは! ありがとう!
キミをいじめたクラスメイトなら? バケツで水をかけてきた、教科書を破いた、ありもしない噂を流した、あの人の形をした肉塊どもならどうかな?
いいね、即答だ! 『落としてやる』! 楽しくなってきたね!
さあて……なら、これならどうかな?
(ピエロは──いいや、ボクは、キミの背中に胸をくっつけた。)
(ボクの高鳴る胸の鼓動をキミにも聞かせてあげたいんだ。キミのおかげでこんなにドキドキして、最高の心地だよ、ってね!)
(キミは息を荒げて、ボクの言葉を聞くまいと首を横に振る。)
(させないよ。キミはボクから逃げられない。)
キミの手で突き落とす人物が……キミが愛する彼女だったら?
キミに唯一味方してくれる、心優しい彼女だったら?
……落ち着いて、心の中で思うだけでいいんだ。深呼吸して、ゆっくり、ゆっくり……。
……さあ、キミの選択をボクに教えて?
……。ああ、分かり切った答えだね。『落とせない』。
当然だよね、キミの味方は彼女しかいない。彼女を失えばキミは一人になる。家族すら敵同然のキミが、そんなことをするわけがない。
では、条件を追加しよう。
(キミは身をよじって、ボクの手から逃れようとする。栗色の髪が揺れる。)
(無駄だよ、いじらしいストレイ・キャットさん。)
彼女自身が、キミに突き落とされることを望んでいるとしたら?
レールに横たわる五人が、彼女にとってかけがえのない存在だとしたら?
……言葉を変えよう。焼け落ちた家の中に取り残された五人を救うために、彼女は駆け出そうとしている。キミは彼女を羽交い締めにして止めている。
キミはあの手を離せたかな? 燃え盛る炎を前に、半狂乱になって叫んでいる彼女を制する手を、離せたかな?
……そう、キミは離せなかった!
彼女の家族が生きているのかどうか、そもそもどこにいるのかも分からない! 仮にキミが手を離したとて、死体が一つ増えるだけだったかもしれない!
そんなことをさせるわけにはいかなかった、だから凄まじい力で暴れる彼女を、死に物狂いで止めていた!
彼女の姉夫婦、姉のお腹に宿った赤ちゃん、そして彼女の両親! 五人を彼女の目の前で焼き殺すことを選んだ!
可哀想なエリス姉さん! 妹の前で、ウェルダンを通り越して、炭になるまでこんがり焼かれてしまった!
あの距離でも肌を焼くような熱が届いたんだ、直火で焼かれるのは地獄そのものの苦しみだっただろうね!
(キミは泣き叫ぶ。ああ、なんて可愛らしい悲鳴なんだろう!)
あの選択が正しかったのか、それとも間違いだったのか──本質はそこじゃない。
キミの身勝手で彼女は全てを失い、そのせいで心を病み、物言わぬ人形になってしまった!
キミはその事実に酷く心を痛めたさ、『キミを嘲笑うボク』という人格を生み出してしまうほどにね!
何をしても、キミはボクから逃げられやしない。だって、ボクはキミで、キミはボクなんだから!
あははは、あっはははははっ!
(あはははははは! おっかしいや!)
(キミが選んだ結末なのに! 何をそんなに泣いて悔やんでいるんだか!)
(ボクはキミが選べなかった選択そのもの! ボクがキミを責めることで、キミは罪の意識から逃れようとしているのにさ!)
(『変なピエロに責め立てられるんです、毎日、毎日』──傑作だ! ボクよりもよっぽどピエロの素質がある!)
「やめて、もうやめて」
(やめないさ、やめるわけがない!)
「お願い、やめて」
(言ったでしょ? ボクはキミで、キミはボクなんだ……ボクの声は、キミの声なんだよ?)
「聞きたくない、何も、何も……」
(耳を塞いだって無駄さ。ボクにあの日の出来事を押し付けて日々を過ごすストレイ・キャットさん。)
(ああ、誤解しないで。ボクは不満なんかちっとも感じていない。こうして話していられるのもキミのおかげだからね。)
(ボクはこう言いたいだけさ。『あの日の選択から逃げるな』、ってね。)
(なかったことにするのは簡単さ。全部、ぜえんぶ、何もかも忘れてしまえばいい。)
(いっそ死んでみるのもアリかもしれないね?)
(けれど、ボクはキミにそんなことをしてほしくはない。何度も言うように、キミはボクでもあるわけだから、キミが死ぬとボクも死んでしまう。そんなのはボクだって嫌さ。)
(キミを通して世界を見るのは楽しい!)
(色鮮やかな景色を、花の香りを、鳥の囀りを、人の温もりを、頬が落ちる味を、ずっとずっと感じていたい!)
(だから、キミに死なれると困るのさ。本当だよ?)
(言いながら、ボクはキミの周りを歩く、歩き続ける!)
さあ、顔を上げて! クライマックスだよ、ストレイ・キャットさん!
それとも……マス・マーダラーさん? ははっ、『ミス』・マーダラーでもいいかもしれないね!
ほら、見てごらん。ここに落ちている液体は何かな?
あのツリーの正体は何かな?
「やめて、やめてやめてやめて!」
やめないさ。なんせここまでの寸劇は全て茶番、ここからが本番!
見て、よおく見て……ここはどこかな? 思い出してみて……。
「うるさい!!」
そう、彼女の部屋だね?
精神が壊れた彼女を介護するために、キミは毎日この家、この部屋に通っている。
「黙って!!」
ボクとの問答は終わりだよ、レディ。『アンナ・スチュワード』。
キミの選択に向き合う時が来たんだ。
大丈夫さ、今までのボクとの問答はほんの一瞬──まだ間に合う。キミが抵抗すればするほど事態は悪化するんだよ。
顔を上げて。上げるんだ、アンナ。
(ボクは床に広がった液体をステッキで指し示した。キミの意思なんて知ったこっちゃないからね。)
この嫌な臭い、半端に溶けたシチューの具材。
そう、これは彼女の吐瀉物だ。こっちはキミのものだね。
それから、このツリー。モミの木には見えないね?
薄いピンク色の服。そこから覗いているのは、青白い、まるで病人のような色。トップスターは褪せた金色。
……不思議だね、ツリーは自立するはずなのに、縄で吊られているね?
「あ、ああ、あああああ────」
目を逸らさないで、アンナ。
「ああああああ────!」
これはツリーなんかじゃない。首を吊った彼女の姿だ。
甥か、はたまた姪か。新たな家族の誕生に胸を踊らせていた彼女。目の前で全てを失った彼女。『テレサ・ウォーターハウス』。
「テレサ、テレサッ!!」
良かった。体に力が戻ったね。
……さて、アンナ。キミに最後のクエスチョンだ。
(ボクはキミとテレサの間に立った。立ち塞がるように。)
(これがボクの役目さ。そうでしょ、『ご主人様』?)
彼女はまだ死んでいない。吊ったばかりなんだろうね、僅かに体が揺れている。
さっき言ったでしょ? 『まだ間に合う』、って。
キミに訊きたいのは一つだけ。よく聞いて、答えを出すんだ。
──『キミは、再び彼女の望みを台無しにできるのか?』。
「はっ、はっ、はあっ、やめ、やめて」
彼女を止めなかったらどうなっていたのか。それは分からない。ボクは神様じゃないからね。
『歩道橋問題』のようになっていたかもしれないし、全員が助かっていたか、あるいは死んでいたか。そんなたらればを考えても意味がない。
そう。意味がないんだ。必要なのは『事実』。
「助けないと、テレサを、たすけ」
キミは彼女を止めたんだ。彼女が何を望んでいたか、分からなかったわけじゃないのにね。
そして、今。彼女は死を望んで、その通りに行動している。
キミの手で引き裂かれた家族。一人取り残された彼女は、家族の元に行きたがっている。
「てれ、テレサ、テレサ、いや、嫌だ、こんなの、助け、なきゃ」
キミのせいで彼女はこうなってしまった。深い深い絶望の底に沈んでしまった。
キミに、彼女を助ける資格はある?
キミが助けたところで障害が残るかもしれない。動ける気力が残っていないだけだった彼女が、今度は完全に歩くこともできなくなっているかもしれない。
キミに、彼女を支える覚悟はある?
ああ、これも訊かなきゃフェアじゃないかな?
キミに、彼女を殺せるかな? あはははっ!
「たす、け────」
ああ、ボクはピーナッツほどの給金もいらないさ。
ただキミの答えを聞かせてくれるだけでいい。
さあ、どうする? 一分一秒が彼女の命に関わる。もたもたしていると手遅れになるよ!
また彼女の邪魔をする? それともそうやって座り込んだまま? またボクのような人格を生み出して、選択の責任を押し付ける?
答えを出すんだ、今すぐに。ボクは優しいから、スリーカウントくらいはしてあげるさ!
スリー、ツー、ワン……──『ウォッチ・ザ・バード』!




