第7章 王都ルクセリア
王宮での謁見から三日が過ぎた。
匠は、王都ルクセリアの一角に用意された宿舎で、図面と格闘していた。
「ガルムの牙」——北方国境に位置する要塞の設計図だ。王宮の書庫から取り寄せた、百年以上前の文書。羊皮紙は黄ばみ、インクは薄れているが、基本的な構造は読み取れる。
「……ひどいな」
匠は、図面を見ながら呟いた。
要塞の設計は、一言で言えば「継ぎ接ぎ」だった。最初に建てられた中核部分に、何度も増築が繰り返されている。しかも、増築のたびに設計者が異なるのか、構造に一貫性がない。
ある部分は石造り、ある部分は木造。壁の厚さもバラバラで、耐荷重の計算など、されているようには見えなかった。
「これを、三ヶ月で……」
頭を抱えたくなる。
だが、やると言った以上、やらねばならない。
匠は、新しい羊皮紙を取り出し、補強計画を練り始めた。
「タクミ」
部屋の扉が叩かれ、リーネが入ってきた。
「飯だ。ずっと図面を見ていないで、少しは休め」
「ああ……」
匠は、顔を上げた。目が霞んでいる。どれくらい図面を見つめていたのか、自分でも分からなかった。
リーネが、テーブルに皿を置いた。パンと、煮込み料理と、果物。王都の食事は、ハルベルト村よりもずっと豪華だった。
「王都の生活には慣れたか?」
リーネが、椅子に座りながら訊いた。
「いや、全然」
匠は、パンをちぎりながら答えた。
「人が多すぎる。音がうるさい。空気が汚い」
「贅沢な悩みだな」
「そうかもしれない。でも、俺には合わない」
匠は、窓の外を見た。
王都の街並みが広がっている。石造りの建物が密集し、人々が行き交っている。活気があると言えばそうだが、匠にとっては息苦しさしか感じなかった。
「早く、北へ行きたい」
「要塞の補強工事か」
「ああ。現場を見ないと、本当のことは分からない」
匠は、図面を見た。
「この図面は百年前のものだ。今の状態がどうなっているか、実際に見なければ判断できない」
リーネは、匠の横顔を見ていた。
「お前は、本当に仕事が好きなんだな」
「好きというか……」
匠は、言葉を探した。
「これしか、できないんだ。俺には」
翌日、匠は王宮に呼び出された。
「北方への出発は、一週間後とする」
ヴェルナー伯爵が、告げた。
「一週間?」
「ああ。それまでに、必要な人員と資材を揃えなければならない」
伯爵は、机の上に書類を広げた。
「まず、人員だ。お前には、職人と労働者が必要だろう。どれくらいの人数が要る?」
匠は、考えた。
図面から推測する限り、要塞「ガルムの牙」は、かなりの規模だ。城壁の全長は数百メートル、塔が四基、居住区画、貯蔵庫、井戸——全てを三ヶ月で補強するには、相当な人員が必要になる。
「……最低でも、五十人。できれば百人」
「百人か。難しいな」
伯爵の眉が寄った。
「今、王国の職人は引く手数多だ。魔王軍の侵攻に備えて、あちこちで防衛施設の建設が進んでいる。腕のいい職人は、すでに他の現場に取られている」
「では、どうすれば」
「職人でなくてもいい者を集めるしかない」
伯爵は、窓の外を見た。
「スラム街に行け。そこには、仕事のない者が大勢いる。元犯罪者、孤児、戦争で傷ついた者——彼らを、お前の『弟子』にするんだ」
「弟子?」
「ああ。お前の技術を教え、彼らを使える人材に育てる。それが、この依頼のもう一つの目的だ」
匠は、黙っていた。
弟子を取る。人を育てる。
それは、匠がずっと避けてきたことだった。
現実世界では、一人親方として孤独に働いてきた。弟子を取る余裕などなかったし、そもそも、人に何かを教えるのが苦手だった。
父親から「見て覚えろ」と言われて育った世代だ。言葉で説明するより、手を動かす方がずっと得意だった。
「……できるか、分からない」
「できるようになれ」
伯爵は、厳しい目で匠を見た。
「お前一人では、この国は守れない。お前の技術を継ぐ者が必要なんだ」
匠は、しばらく黙っていた。
そして——
「……分かった」
小さく、頷いた。
その日の午後、匠はスラム街に向かった。
リーネも同行している。
「危険だ。一人で行くな」
そう言って、ついてきたのだ。
スラム街は、王都の外縁部にあった。城壁の外側、川沿いの低地。雨が降れば水が溢れ、日が照れば悪臭が立ち込める場所だ。
掘っ立て小屋が密集し、汚れた衣服を纏った人々が、虚ろな目で通りを行き交っている。
「……ここが」
匠は、周囲を見回した。
日本にも、こういった場所があることは知っていた。だが、実際に目にすると、その悲惨さに胸が痛んだ。
「お前」
不意に、声がかかった。
振り返ると、一人の少年が立っていた。十七、八歳だろうか。痩せこけた身体に、ぼろぼろの服。目だけが、鋭く光っている。
「見慣れない顔だな。何の用だ」
「人を探している」
「人?」
少年の目が、警戒心を帯びた。
「何者だ。役人か?」
「違う。俺は——」
匠は、言葉を探した。
どう説明すればいいのか。
「——大工だ」
結局、いつもと同じ答えになった。
「大工だと?」
少年は、匠を上から下まで見た。
「大工が、何の用でこんな場所に来る」
「人を雇いたい。仕事を手伝ってくれる者を探している」
「仕事?」
少年の目の色が、わずかに変わった。
「どんな仕事だ」
「建築だ。北方の要塞を補強する。三ヶ月の仕事だ。給金は——」
匠は、伯爵から渡された条件を伝えた。
少年は、しばらく黙っていた。
そして——
「……本当か?」
声に、かすかな震えがあった。
「ああ。本当だ」
「なぜ、俺たちのような者を雇う? 普通の職人を雇えばいいだろう」
「職人は、他の現場で足りていない。だから、お前たちを雇うんだ」
匠は、少年の目を見た。
「俺は、お前たちに大工の技術を教える。手に職をつけさせる。それが、この仕事の条件だ」
少年は、長い間、匠を見つめていた。
その目には、疑念と、かすかな希望が、混ざり合っていた。
「……俺の名は、ガルド」
やがて、少年は名乗った。
「孤児だ。親の顔は知らない。ここで、盗みをしながら生きてきた」
「そうか」
「お前の話が本当なら——」
ガルドは、唾を飲み込んだ。
「——俺も、連れていってくれ」
その日、匠はスラム街を歩き回り、十五人の志願者を集めた。
ガルドの他にも、孤児、元犯罪者、戦争で手足を失った元兵士——様々な経歴の者たちだ。
共通しているのは、皆、仕事がなく、希望がなく、明日をも知れぬ生活を送っていたということだった。
「こいつらが、本当に使えるのか?」
宿舎に戻ると、リーネが懐疑的な顔で訊いた。
「分からない」
匠は、正直に答えた。
「でも、やってみなければ分からない」
リーネは、溜息をついた。
「お前は、本当に——」
「変わった奴だろ。分かってる」
匠は、ベッドに腰を下ろした。
「でも、俺にはこれしかできない。建てることしか。だから——」
匠は、天井を見上げた。
「——俺のやり方で、やるしかない」
出発の日が来た。
王都の北門前に、一行が集まっていた。
匠、リーネ、ボルク(ハルベルト村からついてきた兵士)、そして十五人の新入り——合計十八人の集団だ。
「これで全員か」
伯爵が、馬に乗ったまま言った。
「他にも志願者がいれば、後から送る。だが、当面はこのメンバーで作業を進めてくれ」
「分かりました」
「それから——」
伯爵は、声を低くした。
「気をつけろ、クロダ・タクミ。北方は、既に帝国軍の偵察部隊が出没している。要塞に着くまでに、襲撃を受ける可能性もある」
「……了解しました」
匠は、短く答えた。
伯爵が去り、一行は北への街道を歩き始めた。
先頭を歩くのは、匠とボルク。その後ろに、リーネと新入りたちが続く。
荷車には、道具と資材が積まれている。鉄製の道具は王都で調達したものだ。木工用のノミ、鑿、斧、鉋——基本的な大工道具一式。それに加えて、食料、テント、医療品。
「タクミ」
歩きながら、ガルドが声をかけてきた。
「何だ」
「あんた、本当に俺たちに大工の技術を教えてくれるのか?」
「ああ」
「なぜだ?」
「なぜって……」
匠は、前を見ながら答えた。
「俺一人じゃ、仕事が終わらないからだ」
「それだけか?」
「それだけだ」
ガルドは、しばらく黙っていた。
「……俺は、今まで誰にも信じてもらえなかった」
ぽつりと、彼は言った。
「孤児だからな。スラム街の人間だからな。誰も、俺に仕事を任せようとしなかった」
「そうか」
「だから——」
ガルドの声が、少し震えた。
「——あんたが、俺を信じてくれるなら。俺も、あんたを信じる」
匠は、立ち止まった。
振り返り、ガルドを見た。
痩せこけた少年。だが、その目には、確かな意志があった。
「……俺は、お前を信じる」
匠は、言った。
「お前が、俺の教えることを真面目に学ぶなら。俺は、お前を大工にしてやる」
ガルドの目が、見開かれた。
そして——
「……分かった」
彼は、頷いた。
「俺は、あんたの弟子になる」
北への旅は、七日間続いた。
その間、匠は弟子たちに基礎を教えた。
「いいか、まず墨を出す」
野営地で、匠は木材を前に座っていた。
「墨? 何だそれ」
ガルドが、訊いた。
「線を引くんだ。正確な線を」
匠は、墨壺を取り出した。
「これが墨壺だ。糸にで墨をつけて、木材の表面に線を引く。この線に沿って、木を切る」
「そんな面倒なことをしなくても、目分量で切ればいいだろう」
別の弟子——元犯罪者のドルゴが、言った。
「ダメだ」
匠は、きっぱりと否定した。
「目分量で切ると、必ず誤差が出る。誤差があると、組み合わせた時に隙間ができる。隙間があると、そこから水が入り、腐る。腐れば——」
「崩れる。だから、線を引く」
ガルドが、続きを言った。
「村で、リーネさんに聞いた。あんたは、ミリ単位の精度にこだわるって」
「そうだ」
匠は、頷いた。
「建築は、精度が全てだ。一本一本、丁寧に。それが、大工の基本だ」
弟子たちは、黙って匠を見ていた。
理解しているのか、していないのか——まだ分からない。
だが、匠は教え続けた。
墨付けの方法。木材の選び方。繊維の流れの読み方。刃物の研ぎ方。
夜になっても、焚き火の傍で、匠は弟子たちに話し続けた。
「……お前、よく喋るようになったな」
リーネが、隣で呟いた。
「そうか?」
「ああ。村にいた時は、ほとんど喋らなかった。必要なこと以外は」
「……教えなきゃならないから」
匠は、焚き火を見つめながら言った。
「俺は、教えるのが下手だ。言葉で説明するのが苦手だ。だから——」
匠は、手を見た。
「——できるだけ、喋るようにしている。俺の頭の中を、言葉にして、伝えようと」
「大変そうだな」
「ああ。大変だ」
だが——
匠は、弟子たちを見た。
彼らは、真剣に話を聞いていた。メモを取る者もいる。質問をする者もいる。
「——でも、悪くない」
匠は、ほんの少しだけ、口元を緩めた。
七日目の夕方。
一行は、要塞「ガルムの牙」に到着した。
「これが……」
匠は、要塞を見上げた。
高さ十メートルを超える城壁。四基の監視塔。巨大な門。
だが——
「……想像以上にひどいな」
「指金」が、情報を伝えてくる。
城壁のあちこちに亀裂が入っている。石材の接合部が緩んでいる。塔の一基は、傾斜している。門の蝶番は錆びついている。
図面で見た通り——いや、図面以上に、状態は悪かった。
「よくこれで、今まで持っていたな」
「帝国との国境が、比較的平和だったからだ」
要塞の守備隊長——四十代の厳つい男が、答えた。
「だが、魔王軍の出現で、状況が変わった。帝国は、この混乱に乗じて南下を企てている」
「……」
匠は、城壁に近づいた。
手で触れる。石材の表面は、風化してざらついている。
「この城壁——」
匠は、振り返った。
「——三ヶ月では、直らない」
守備隊長の顔色が変わった。
「何だと?」
「全面的な補強には、半年はかかる。いや、一年かもしれない」
「しかし、王から三ヶ月と——」
「分かっている」
匠は、城壁を見上げた。
「だから——優先順位をつける」
「優先順位?」
「全部を直す時間はない。だから、最も重要な場所から直す。他は、後回しだ」
匠は、要塞の中を見回した。
「指金」が、情報を伝えてくる。
最も脆弱な場所はどこか。最も攻撃を受けやすい場所はどこか。限られた人員と資材で、最大の効果を上げるには——
「……よし」
匠は、頭の中で計画を組み立てた。
「まず、北側の城壁から始める。ここが一番弱い。次に、門。その次に、塔」
「本当にできるのか?」
守備隊長が、疑わしそうに訊いた。
「やるしかない」
匠は、腕まくりをした。
「俺は、大工だ。建てるのが、俺の仕事だ」
そして、匠は弟子たちを見た。
「お前たちも、覚悟を決めろ。今日から、地獄の三ヶ月が始まる」
弟子たちは、緊張した面持ちで頷いた。
ガルドの目には、不安と、かすかな興奮が混ざっていた。
匠は、要塞を見上げた。
異世界の大工として、最初の本格的な仕事が、今始まろうとしていた。




