第5章 防壁の夜
魔獣の襲撃から三日が過ぎた。
匠は、朝から晩まで働き続けていた。
まず、防壁の本格的な強化。
急造の木柵は、魔獣の一撃に耐えたとはいえ、次の襲撃には持たない。匠は、鉄樹の材木を使って、本格的な防壁の建設を開始した。
高さ三メートル、厚さ三十センチ。村の北側を半円状に囲む、全長五十メートルの防壁。
一人では、何ヶ月もかかる工事だ。だが、村人たちが手伝ってくれた。
ボルクは、力仕事を担当した。重い材木を運び、杭を打ち込む。兵士としての体力が、ここで役に立った。
リーネは、全体の調整役を務めた。材料の手配、人員の配置、食事の準備。匠が作業に集中できるように、周囲を整えた。
子供たちも、できることを手伝った。小さな木片を運んだり、道具を渡したり。最年少のミラ——六歳の少女——でさえ、水を汲んで運ぶ仕事をした。
老人たちは、経験を活かした。元木こりのゴードンは、木材の選別を担当した。元石工のベルタは、石材の加工を手伝った。
「お前の指示は、分かりやすい」
ゴードンが、鉄樹の丸太を転がしながら言った。
「若い頃、何人もの棟梁の下で働いたが——お前ほど的確な指示を出す奴は、見たことがない」
「そうか」
匠は、短く答えた。
「『指金』のおかげだ」
「指金?」
「俺の——道具だ」
匠は、腰の道具袋に手を当てた。
「神匠の指金」は、常に匠の傍にあった。発動させるたびに、建物の構造が「見える」。強度、欠陥、最適な補強方法——全てが、匠の目に映る。
だが、それだけでは不十分だった。
「見える」だけでは、建物は建たない。実際に手を動かし、木を削り、釘を打ち、組み上げなければならない。
そこには、三十年近い大工人生で培った技術が必要だった。
異世界の木材は、日本のそれとは違う。繊維の流れ、硬さ、粘り——全てが異なる。「指金」は最適解を示してくれるが、それを実現するのは、匠自身の腕だった。
毎日が、試行錯誤の連続だった。
この木材には、このノミの角度が最適だ。この石材には、この力加減が必要だ。このジョイントには、この仕口が合う。
一つ一つ、身体で覚えていく。
異世界の大工として、生まれ変わっていく。
防壁の建設が半分ほど進んだ頃、村に来客があった。
「——王国の役人だそうだ」
リーネが、匠のところに駆け込んできた。
「役人?」
「ああ。馬車で来た。三人組。護衛の兵士も数名連れている」
匠は、作業の手を止めた。
王国の役人。それが何を意味するのか、匠にはまだ分からなかった。
村の入り口に向かうと、確かに馬車が停まっていた。
馬車から降りてきたのは、三人の男女だった。
先頭に立つのは、五十代くらいの男。灰色の髪、厳しい目つき、仕立ての良い服。官僚といった風情だ。
その後ろに、三十代くらいの女。眼鏡をかけ、手に羊皮紙の束を抱えている。秘書か何かだろう。
最後に、二十代前半の若い男。金髪碧眼、端正な顔立ち。貴族の子弟といった雰囲気だ。
「私は、王国内務省のヴェルナー伯爵だ」
五十代の男が、名乗った。
「三日前、この村から救援の使者が来た。それで、視察に参った」
救援の使者。匠が来る前に、リーネが近隣の村へ送った者のことだろう。
「視察……ですか」
リーネが、緊張した面持ちで訊いた。
「そうだ。魔王軍の被害状況を確認し、王都に報告する。それが私の役目だ」
ヴェルナー伯爵は、村を見回した。
彼の目が、建設中の防壁で止まった。
「……これは」
伯爵の眉が、かすかに動いた。
「お前たちが、作ったのか?」
「はい」
リーネが答えた。
「この村に来た旅人が——彼が、設計と指揮を」
リーネは、匠を指差した。
伯爵の視線が、匠に向けられた。
「……お前か」
「ええ」
匠は、短く答えた。
伯爵は、匠を上から下まで見た。汚れた作業着、日に焼けた肌、節くれ立った手。どう見ても、貴族や学者ではない。労働者の姿だ。
「名は?」
「黒田匠」
「クロダ・タクミ? 変わった名だな。どこの出身だ?」
「遠い国です。この王国には、初めて来ました」
嘘ではない。事実の一部だけを言っているだけだ。
伯爵は、しばらく匠を見ていた。
「……案内しろ。この防壁を、詳しく見たい」
匠は、伯爵たちを防壁の建設現場に案内した。
伯爵は、無言で防壁を観察していた。支柱の配置、筋交いの入れ方、板材の重ね方——一つ一つを、鋭い目で見ている。
「……鉄樹を使っているのか」
「はい。この森に、一本だけ生えていました」
「鉄樹の加工には、魔導師の炎が必要だと聞いていたが」
「ノミと槌でも、できます。時間はかかりますが」
伯爵の眉が、また動いた。
「お前、大工か?」
「はい」
「どこで修業した?」
「……遠い国で。父親の下で」
伯爵は、防壁に手を触れた。
「この構造……見たことがない。王都の建築士ギルドでも、このような設計は使っていない」
「俺の国の、伝統的なやり方です」
嘘ではない。日本の木造建築の技術を、この世界に応用しているだけだ。
「ふむ……」
伯爵は、何かを考えているようだった。
やがて、彼は振り向いた。
「クロダ・タクミ。王都に来る気はないか?」
「王都?」
「ああ。お前の技術に興味がある。詳しく話を聞きたい」
匠は、リーネを見た。
リーネは、複雑な表情をしていた。匠に王都へ行ってほしくない、という気持ちと、匠の技術がより広く認められるべきだ、という気持ちが、せめぎ合っているようだった。
「……この村の防壁が、完成してからでいいですか」
匠は、伯爵に訊いた。
「どれくらいかかる?」
「あと十日から二週間」
伯爵は、頷いた。
「分かった。完成したら、使者を送る。それまでに、準備をしておけ」
伯爵たちは、馬車に乗り込んだ。
馬車が走り去った後、リーネが匠の隣に立った。
「……行くのか?」
「分からない。だが——」
匠は、防壁を見上げた。
「——この村を、まず完成させる。それが先だ」
リーネは、少しだけ微笑んだ。
「お前らしいな」
「そうか?」
「ああ。目の前の仕事を、一つ一つ片付けていく。それが、お前のやり方だ」
匠は、道具を手に取った。
「……まあな。それしか、できないから」
それから十日。
匠は、防壁の建設を続けた。
日が昇ると同時に作業を始め、日が沈んでも、月明かりの下で作業を続けた。
腰が痛い。肩が痛い。指先が痺れている。
だが、手は止めなかった。
一本一本、丁寧に。
最後の一枚の板を打ちつけた時、夜空には無数の星が輝いていた。
「……できた」
匠は、完成した防壁を見上げた。
高さ三メートル、全長五十メートル。鉄樹の材木で組まれた、頑丈な構造。魔獣の突進にも耐えられる設計だ。
「見事だ」
ボルクが、隣で呟いた。
「三日前に来た魔獣の群れなど、この壁があれば楽勝だ」
「……そうだな」
匠は、防壁に手を触れた。
木の肌触りが、手のひらに伝わる。
俺が建てた。
俺の手で、建てた。
その実感が、胸の奥で温かく広がった。
「タクミ」
リーネの声が、背後から聞こえた。
振り返ると、リーネが立っていた。
その後ろには、村人たち全員が集まっている。
「村人を代表して、礼を言いたい」
リーネは、真っ直ぐに匠を見た。
「お前のおかげで、私たちは生き延びた。雨風をしのげる場所ができた。魔獣から身を守る壁ができた。井戸も、貯蔵庫も、全て——お前が作ってくれた」
「俺は——」
「礼を言うな、と言いたいのだろう。だが、言わせてくれ」
リーネは、深く頭を下げた。
村人たちも、一斉に頭を下げた。
「ありがとう、タクミ」
匠は、何と答えていいか分からなかった。
感謝されることに、慣れていない。
日本では——現実世界では——こんなふうに感謝されたことは、一度もなかった。
いつも、「遅い」「高い」「もっと効率よくやれ」と言われるばかりだった。
「……ありがとうは、俺の方だ」
匠は、ぎこちなく言った。
「俺に、仕事をくれて。手伝ってくれて。俺は——俺一人では、何もできなかった」
リーネは、頭を上げた。
「お前は、本当に変わった奴だな」
「何度目だ、それ」
「何度でも言う」
リーネの口元に、笑みが浮かんだ。
「だって、本当のことだから」
匠も、少しだけ笑った。
その時——
村の外から、馬の蹄の音が聞こえた。
「使者だ」
ボルクが、目を細めた。
「王都からの、迎えだろう」
匠は、防壁の外を見た。
確かに、馬に乗った兵士が数名、こちらに向かってきている。
「……来たか」
匠は、道具袋を肩にかけた。
「リーネ。この村を、頼んだぞ」
「待て」
リーネが、匠の腕を掴んだ。
「私も行く」
「お前が?」
「ああ。この村には、もう私がいなくても大丈夫だ。ゴードンたちが面倒を見てくれる」
リーネは、匠の目を見た。
「私は——お前の傍にいたい。お前の仕事を、見ていたい」
匠は、しばらくリーネを見ていた。
そして——
「分かった」
短く、答えた。
「一緒に来い」
リーネの顔に、笑みが浮かんだ。
「ありがとう」
「だから、礼は——」
「分かってる。仕事が終わってからだろ」
匠も、少しだけ笑った。
使者たちが、村の入り口に到着した。
匠は、防壁を振り返った。
自分が建てた壁。自分が守った村。
「……また、来る」
匠は、呟いた。
「この村を、もっと良くするために」
そして、匠は歩き出した。
王都へ向かって。
新しい仕事へ向かって。
腰には、墨壺と差し金。
親父の形見と、神から授かった力。
一本一本、丁寧に。
それが、黒田匠の、生きる道だった。
第二部 王都への道




