第4章 最初の一本
翌朝、匠は日の出とともに目を覚ました。
身体中が痛かった。腰、肩、背中、指先——どこもかしこも、悲鳴を上げている。だが、立ち上がれないほどではない。
建物の中を覗くと、村人たちはまだ眠っていた。昨日の作業で疲れ果てたのだろう。
匠は、一人で外に出た。
朝の空気が冷たい。
吐く息が白くなる。季節は、晩秋から初冬といったところか。このまま寒さが厳しくなれば、今の建物では耐えられない。壁の隙間を塞ぎ、床を張り、暖炉を設ける必要がある。
やるべきことは、山ほどあった。
だが、まずは——
匠は、村の外れへ歩いていった。
焼け残った森の入り口に、一本の木が立っていた。
他の木とは、明らかに違う。
幹は、鉄のような灰色をしている。樹皮は滑らかで、まるで金属のようだ。高さは十メートルほど。枝は少なく、葉はほとんどついていない。
「指金」が、情報を伝えてくる。
——鉄樹。
この世界特有の樹木。繊維が極めて密で、通常の木材の数倍の強度を持つ。加工は困難だが、一度加工すれば、半永久的に朽ちない。
匠は、その木に手を触れた。
「……硬い」
呟きが、口から漏れた。
本当に、鉄のような硬さだった。日本の木材なら、触れば繊維の流れが分かる。刃を入れる角度、力加減——手の感覚で判断できる。
だが、この木は違った。
普通の斧では、歯が立たないだろう。特殊な道具が必要だ。
しかし——
「指金」が、さらに情報を伝えてくる。
——加工の最適解:通常の刃物では困難。高熱処理、または、魔導加工が必要。ただし、繊維の流れに沿って割れば、ノミと槌でも加工可能。
繊維の流れ。
匠は、木の幹をじっくりと観察した。
「指金」を通して見ると、内部構造が透けて見える。繊維は、螺旋状に走っている。その流れに沿って刃を入れれば——
「やってみるか」
匠は、道具袋からノミを取り出した。
鉄樹の幹に、刃先を当てる。繊維の流れを読み、最適な角度を探る。
見つけた。
匠は、ノミの柄を叩いた。
硬い。だが——入った。
刃先が、木に食い込んでいる。
もう一度、叩く。また少し、入る。
三度、四度、五度——
やがて、鉄樹の幹に、一筋の亀裂が走った。
「……いける」
匠の口元に、かすかな笑みが浮かんだ。
異世界の木材だろうと、基本は同じだ。繊維の流れを読み、最適な角度で刃を入れる。一撃一撃、丁寧に。急がず、焦らず。
それが、大工の仕事だ。
作業を続けていると、背後に気配を感じた。
振り返ると、リーネが立っていた。
「朝から何をしている?」
「木を切ってる」
「この木を?」
リーネの目が、鉄樹を見上げた。
「これは鉄樹だぞ。普通の道具では切れない。魔導師の炎でないと——」
「いや、切れる」
匠は、ノミを見せた。
「時間はかかるが、できる」
リーネは、匠が入れた亀裂を見た。確かに、木に筋が入っている。
「……本当に切れるのか」
「ああ。この木は強い。これで柱を作れば、どんな嵐にも耐えられる建物ができる」
匠は、再び作業に戻った。
ノミを叩く。一撃、また一撃。
リーネは、しばらく匠の作業を眺めていた。
「お前は、本当に変わった奴だな」
「よく言われる」
「褒めているのかどうか、自分でも分からないが」
匠は、手を止めずに答えた。
「別に、褒めてくれなくていい。俺は、自分の仕事をしているだけだ」
「……」
リーネは、何か言いかけて、やめた。
代わりに、別のことを訊いた。
「お前は、なぜ大工になった?」
「なぜ?」
「ああ。お前の国では、大工は尊敬される仕事なのか?」
匠の手が、一瞬止まった。
尊敬される仕事。
日本の現実を思い出す。
低賃金、長時間労働、危険な現場。元請けからは搾取され、客からは値切られ、社会からは「誰でもできる仕事」と見下される。
「……いや」
匠は、正直に答えた。
「俺の国では、大工は底辺の仕事だ」
「底辺?」
「金にならない。危険。汚い。誰もやりたがらない」
リーネの眉が、かすかに動いた。
「それなのに、なぜ続けている?」
匠は、ノミを叩きながら答えた。
「……親父が、大工だったからな」
「父親?」
「ああ。祖父も大工だった。三代続く大工の家だ」
匠の手が、リズムを刻む。一撃、また一撃。
「俺は、他のことができなかった。勉強は苦手だったし、人付き合いも下手だった。でも、木に触れている時だけは——」
言葉が、途切れた。
「——自分が、自分でいられる気がした」
リーネは、黙って匠を見ていた。
「だから、続けてる。それだけだ」
匠は、そう締めくくった。
しばらく、沈黙が流れた。
やがて、リーネが口を開いた。
「私の父も、そうだった」
「ん?」
「この村の村長だ。魔王軍の襲撃で、真っ先に殺された」
匠の手が、止まった。
「父は、いつも言っていた。『自分の仕事を、丁寧にやれ。それが、人を守ることに繋がる』と」
リーネの声は、静かだった。
「私は、父のようにはなれなかった。何の力もない。何もできない。村人を守ることもできなかった」
「……」
「だから——お前を見ていると、父を思い出す」
リーネは、匠の手元を見ていた。
ノミと槌で、一撃一撃、木を削っていく姿を。
「お前も、自分の仕事を丁寧にやっている。それが、私たちを守っている」
匠は、何と答えていいか分からなかった。
結局、何も言えなかった。
ただ、作業を再開した。
一撃、また一撃。
鉄樹の幹に、少しずつ亀裂が広がっていく。
三時間後、鉄樹は倒れた。
轟音とともに、大地を揺らして。
匠は、倒れた木の幹に手を当てた。
「……よし」
これで、最高の建材が手に入った。
この木で柱を作れば、どんな魔獣の突撃にも耐えられる。壁を補強し、屋根を支え、人々を守る——そういう建物が作れる。
だが、加工には時間がかかる。
一本一本、丁寧に。
急ぐことはできない。急げば、必ず手を抜くことになる。手を抜けば、いつか必ず崩れる。
匠は、鉄樹の幹を見つめながら、次の工程を頭の中で組み立てていた。
「タクミ!」
ボルクの声が、森の方から響いてきた。
「何だ?」
「来てくれ! 村に——」
ボルクの声は、緊張していた。
「——何か、来る!」
匠は、道具を手に、走り出した。
村に戻ると、村人たちが建物の中に集まっていた。
「何が来る?」
匠は、ボルクに訊いた。
「分からない。だが、北の方から——音がする」
耳を澄ませる。
確かに、何かが聞こえた。
低い唸り声。複数。遠くから、こちらに近づいてくる。
「魔獣か」
リーネが、弓を手に言った。
「たぶん。三日前に襲撃してきたのと、同じ奴らだ」
匠は、「指金」を発動させた。
視界が変わる。
北の方角——森の向こうに、複数の熱源が見えた。大型の四足獣。十頭以上。こちらに向かって、走ってきている。
「……十分から十五分で、ここに着く」
匠は、冷静に判断した。
「戦えるのは、ボルクと、リーネ。あと、怪我人の中で動ける奴はいるか」
「俺一人だ」
ボルクが答えた。
「他の三人は、まだ動けない」
三人。
三人で、十頭以上の魔獣を相手にする。
普通に考えれば、不可能だ。
だが——
「俺に考えがある」
匠は、言った。
「時間をくれ。十分でいい」
「十分? 何をする気だ?」
「防壁を作る」
匠は、昨日切り出した木材の山を指差した。
「あの木材を使って、魔獣の突進を防ぐ壁を作る。完璧なものは無理だが、足止めくらいはできる」
ボルクとリーネは、顔を見合わせた。
「十分で……できるのか?」
「やるしかない。手伝ってくれ」
匠は、走り出した。
木材を運ぶ。地面に杭を打つ。杭と杭の間に、横板を渡す。筋交いを入れる。
匠の指示は、矢継ぎ早だった。
「ボルク、その杭をもっと深く打て! 浅いと倒れる!」
「リーネ、そこに紐を巻け! 結び目は——そう、そのやり方でいい!」
村人たちも、動ける者は全員手伝った。老人も、子供も。
誰一人、不満を言わなかった。
自分たちの命がかかっていることを、全員が理解していた。
八分後。
防壁が、形になった。
高さは二メートルほど。長さは十五メートル。村の北側を、弧を描くように囲んでいる。
見た目は粗末だ。隙間だらけで、強度も不十分。本職の大工が見れば、鼻で笑うだろう。
だが——
「これで、一撃目は受け止められる」
匠は、防壁の前に立った。
「一撃目?」
「魔獣の突進だ。最初の突撃さえ止めれば、こっちにも戦う余地が生まれる」
匠は、防壁の構造を「指金」で確認した。
——耐久性:低。最大衝撃荷重:四百キログラム相当。一撃での破壊確率:六十パーセント。
六十パーセント。
決して高い数字ではない。だが、ゼロではない。
「リーネ、お前は防壁の後ろから弓で援護しろ。ボルク、お前は俺と一緒に、防壁を突破してきた奴を迎え撃つ」
「……分かった」
ボルクが、剣を抜いた。
その時——
森の木々が揺れた。
魔獣が、現れた。
狼に似た姿。だが、体高は馬ほどもある。黒い毛皮、赤い目、鋭い牙。十二頭が、一列に並んでこちらを睨んでいる。
「来るぞ」
ボルクが、構えた。
魔獣たちが、一斉に駆け出した。
地響きが、足元を揺らす。十二の巨体が、防壁に向かって突進してくる。
匠は、防壁の支柱に手を当てた。
「……頼むぞ」
衝突。
轟音。
防壁が、きしんだ。
先頭の魔獣が、防壁に激突した。木材がひび割れる音。だが——折れなかった。
匠が入れた筋交いが、衝撃を分散させていた。
「今だ!」
リーネの声。
弓が唸り、矢が飛んだ。
防壁に阻まれて動きが止まった魔獣に、矢が突き刺さる。一頭、二頭、三頭——悲鳴を上げて倒れる。
「よし!」
ボルクが、防壁の隙間から飛び出した。剣を振るい、足止めされた魔獣を斬りつける。
匠は、戦闘には参加しなかった。代わりに、防壁の補修に走った。
衝撃で緩んだ杭を打ち直す。ひび割れた板を取り替える。崩れそうな箇所を補強する。
戦いながら、直す。
それが、大工にできる戦い方だった。
三十分後。
戦いは、終わった。
十二頭の魔獣のうち、八頭が倒された。残りの四頭は、傷を負って森へ逃げ帰った。
村人に、死者は出なかった。
ボルクが、軽い傷を負った程度だ。
「……勝った」
リーネが、呆然と呟いた。
「勝ったのか? 本当に?」
「ああ」
ボルクが、剣についた血を拭いながら答えた。
「この防壁がなければ、全滅していた。突進を止められなければ、俺たちは蹂躙されていた」
ボルクは、匠を見た。
「お前の——お前の壁が、俺たちを守った」
匠は、防壁に手を当てていた。
木材は、傷だらけだった。ひび割れ、歪み、今にも崩れそうになっている。
だが、崩れなかった。
最後まで、立っていた。
「……よく頑張った」
匠は、防壁に向かって、そう呟いた。
まるで、生き物に語りかけるように。
その夜。
村人たちは、初めて笑顔を見せた。
焚き火を囲み、倒した魔獣の肉を焼いて食べた。子供たちが、はしゃいで走り回っている。老人たちが、涙を流しながら酒を飲んでいる(どこから持ってきたのかは分からない)。
匠は、輪から少し離れたところに座っていた。
「なぜ、一緒に祝わない?」
リーネが、隣に腰を下ろした。
「……俺は、そういうの苦手だから」
「そうか」
リーネは、匠と同じように、焚き火を見ていた。
「お前のおかげで、私たちは生き延びた」
「俺は、壁を作っただけだ。戦ったのは、お前たちだ」
「その壁がなければ、戦えなかった」
リーネの声は、静かだが、確かだった。
「タクミ。お前は——何者なんだ?」
匠は、しばらく黙っていた。
何と答えるべきか、分からなかった。
異世界から来た転生者? 神から力を授かった選ばれし者?
どちらも事実だが、どちらも嘘くさく聞こえる。
「……俺は、大工だ」
結局、匠はそう答えた。
「それ以上でも、それ以下でもない。建てることしかできない。だから、建てる。それだけだ」
リーネは、匠の横顔を見ていた。
「お前は、本当に——変わった奴だな」
「さっきも言われた」
「だから、もう一度言った」
リーネの口元に、かすかな笑みが浮かんだ。
「でも——悪い意味じゃない」
匠は、何と答えていいか分からなかった。
ただ、焚き火を見つめていた。
炎が、夜空に向かって揺らめいている。
二つの月が、その上で輝いている。
異世界。
魔獣。
神から授かった力。
全てが、まだ夢のようだ。
だが、手の感触だけは、確かだった。
木を削る感触。釘を打つ感触。建物が形になっていく感触。
それだけは、現実世界と同じだった。
「……なあ、リーネ」
「何だ?」
「この村を、もっとちゃんと直したい。家も、道も、井戸も。全部」
リーネは、匠を見た。
「時間がかかるだろうな」
「ああ。でも、やる」
匠は、拳を握りしめた。
「一本一本、丁寧に。それが、俺のやり方だから」
リーネは、しばらく匠を見ていた。
そして——
「分かった」
静かに、頷いた。
「私も、手伝う。この村は——私の村だから」
匠は、少しだけ口元を緩めた。
「ありがとう」
「だから、礼を言うのは——」
「分かってる。建物が完成してからだろ」
リーネも、少しだけ笑った。
焚き火の炎が、二人の顔を照らしている。
夜は、深まっていく。
だが、明日はまた、日が昇る。
そうしたら、また仕事だ。
木を切り、削り、組み、建てる。
一本一本、丁寧に。
それが、黒田匠の、生きる道だった。




