12│静かな制御、近づく距離 -03-
訓練区は、夏の陽射しの名残をまだ抱いていた。
昼の熱を吸い込んだ石畳は、足裏にじんわりと温もりを返してくる。
結界の内側には人の気配がなく、遠くで鳴く蝉の声だけが時間を刻んでいた。
魔法陣の中央で、フィーナは深く息を吸う。
肺いっぱいに空気を取り込むと、
空間に満ちる魔力の流れが肌の内側を撫でるのが分かった。
目を閉じる。
するとすぐ背後に立つ彼の存在がはっきりと意識に浮かび上がる。
「力を押さえようとしなくていい。
流れに耳を澄ませて。……感じるだけでいい。」
低く、静かな声。
けれど今日は、その声が妙に近く、
耳元に直接落ちてくるように感じられた。
夏休み前はこの場所にはいつも誰かがいた。
笑い声や、失敗を指摘する声、複数の魔力が混ざり合う気配。
でも今は、二人だけ。
聞こえるのは自分の呼吸と、彼の気配が空気を押す音だけだった。
ルークランの指先が動き、魔法陣が淡く脈を打つ。
青白い線が床を走り、空気の流れがはっきりと変わった。
「呼吸を整えて。……俺の魔力の流れを感じてみて。」
――俺の。
その言葉が胸に落ちた瞬間、心臓がわずかに跳ねる。
(……近い)
背後の気配が、さっきよりも近づいている。
振り返らなくても分かるほど。
胸の奥に覚えのある感覚が触れた。
説明できないのに、確かに「知っている」と思ってしまう感触。
視界の奥が、ゆらりと滲む。
焼け焦げた大地。
シルヴァリアの畑。
逃げ場もなく立ち尽くしていた夜。
暴れる光。
白く塗り潰される視界。
――もうだめだ、と思った瞬間。
闇が、伸びてきた。
何も言わず、
ただ包み込むように。
――あのときの感覚が、今。
背後にいるルークランの気配と、記憶の中の「守られた感覚」がゆっくりと重なってしまう。
その瞬間、胸の奥が熱を帯びた。
「……っ」
集中がふっとほどける。
魔力の流れが乱れ、白い光が目の前ではじけた。
「あ――」
踏ん張ろうとしても体が言うことをきかない。
足の力が抜け、視界がぐらりと揺れる。
「セレス!」
鋭く響く声。
次の瞬間――背後から強く引き寄せられた。
腕が回され、身体が確かな温もりに受け止められる。
倒れるはずだった衝撃は彼の胸に吸い込まれた。
「……っ」
顔が彼の胸元に埋まった。
息が、近い。
布越しに伝わる体温。
鼓動の速さまで分かってしまう距離。
闇の魔力が二人を包むように広がり、暴走しかけた光をやさしく押し戻していく。
その間――彼の腕が、ぎゅっと強くなる。
一瞬。
守るためというより、逃がさないためのような力。
(……え)
抱き留められただけではない。
確かに、抱きしめられた。
それは魔法の制御でも、訓練の動作でもない。
ただの、衝動みたいだった。
やがて魔力の揺れが完全に収まり、訓練区に静けさが戻った。
蝉の声が遠くで現実を呼び戻す。
「……大丈夫か。」
すぐ耳元で聞こえた声に、フィーナははっとする。
気づけば、まだ抱き寄せられたままだった。
もう必要ないはずなのに、ルークランは離れる気配がない。
心臓の音が近すぎて、自分のものなのか彼のものなのか分からない。
「は、はい……」
声に震えが混じった瞬間、彼の腕がまたほんのわずかに強まった。
もう一度、確かめるみたいに。
そして、はっとしたように力が抜ける。
「……すまない。」
低く抑えた声。
いつもより、少し掠れている。
ルークランは慌てるように腕を解き、一歩、距離を取った。
「無理はしなくていい。」
声を整えようとしているのがはっきり分かる。
「今日は、ここまでにしよう。」
結界が解かれ、外の風が流れ込む。
夏の光が差し込み、二人の間に残った熱をゆっくりと攫っていった。
フィーナはまだ熱の残る胸元を押さえながら、彼の背中を見つめていた。
――どうしてだろう。
抱き留められた瞬間、怖さよりも先にひどく懐かしい気持ちが溢れてきて。
理由も分からないまま、胸の奥が泣きそうになるほど熱かった。
訓練区を出ると、結界の外の空気は思ったよりもやわらかかった。
石畳にこもっていた熱は木々の影に入った途端、少しだけ和らぐ。
風が吹くたびに草と土の匂いが混じり、肺の奥までゆっくりと冷えていくのが分かった。
二人は、訓練区から少し離れた木陰で足を止めた。
葉を透かした光が地面にまだらな影を落とし、その境目が時間とともに静かに揺れている。
フィーナは腰を下ろし、冷めきらない息を意識して整えた。
胸の奥に残る熱は深呼吸をしてもなかなか引いてくれない。
――さっきの感覚が、まだ身体のどこかに残っている。
隣を見ると、ルークランは少し距離を取って立っていた。
訓練のときよりほんの一歩分、遠い。
けれど、その立ち位置がかえって意識に引っかかる。
近づきすぎないようにしている――
そんな不自然さが、はっきり伝わってくる。
彼は空を仰ぎ、額にかかる前髪を、袋越しに押さえた。
呼吸がいつもより深い。
(……ルークランさんも、落ち着いてない)
そのことに気づいた瞬間、胸の奥がまた小さくざわついた。
しばらくのあいだ、二人とも何も言わず、空を見ていた。
蝉の声が、途切れ途切れに続く。
雲がゆっくりと流れ、夕暮れの色が少しずつ空に滲み始めている。
「……さっき。」
フィーナは、ぽつりと口を開く。
「少しだけ、昔のことを思い出しました。」
声は、思ったよりも静かだった。
自分でも驚くほど。
ルークランが、ゆっくりとこちらを振り向く。
視線は合うけれど、すぐには言葉が返ってこない。
「昔のこと?」
「はい。シルヴァリアにいた頃のことです。」
視線を落とし、膝の上で指先を揃える。
「……死んでいたはずの大地が、
息を吹き返したことがあるんです。」
言葉を選びながら、一つひとつ、確かめるように続ける。
ルークランは何も言わない。
ただ、遮らずに聞いている。
風が吹き、木の葉がさらさらと音を立てた。
「昔、魔力を暴走させてしまって……
そのとき、闇魔法で助けてくれた人がいました。」
声は小さい。
けれど、その中には、確かな温度があった。
「まるで……神さまみたいで。」
言った瞬間、少しだけ恥ずかしくなって、唇を噛む。
「光が消えたあと、
焦げた土の間から芽が出て……
まるで、誰かが生き返らせてくれたみたいで。」
言葉が途切れる。
しばらく、沈黙が落ちた。
蝉の声と、風の音だけが、変わらず遠くで続いている。
ルークランは何も言わず、ただ空を仰いでいた。
夕陽の光が彼の横顔を柔らかく照らす。
その瞳の奥で一瞬だけ、何かが揺れたように見えた。
――あの人と、似ている。
胸の奥で、その考えがはっきりと形を取る。
助けてくれたときの、あの声。
今、隣で聞いている、ルークランの声。
指先に残っている光の感触と、さっき、抱き留められたときの闇の温もり。
重なっていく。
(……まさか)
喉の奥まで、言葉がせり上がってくる。
「あなたじゃないですか」
――あと少しで、言えたのに。
でも、彼の横顔を見た瞬間、その言葉はそこで止まった。
どこか遠くを見るような、静かな表情。
何も言わず、それでも何かを、強く抱え込んでいる瞳。
その空気に、言葉が入り込む余地はなかった。
フィーナは小さく息をのみ、代わりに微笑む。
「……ごめんなさい。
変な話をしてしまって。」
ルークランは少し遅れてから、ゆっくりと首を横に振った。
「いや。」
短い否定。
「……聞かせてくれて、ありがとう。」
その声はどこまでも穏やかで、けれど、どこか遠くへ流れていくように聞こえた。
二人の足元に落ちる影が夕陽に溶けていく。
問いかけられなかった言葉も、確かめられなかった答えも、そのまま胸の内に残されたまま。
ただ――
抱き留められたあの一瞬を思い出したとき、ふとリーザさんの穏やかな笑顔が脳裏に浮かんで、なぜだか胸の奥が、ほんの少しだけざわついた。




