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「君を制御するのが僕の役目だ」 闇魔法の天才は、暴走する光を離さない  作者: 雪ノ燈子


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11│静かな制御、近づく距離 -02-

――数日後。


夏休みに入った学院は、驚くほど静かだった。

普段なら講義の合間に行き交う足音や笑い声が響く回廊も、今は風が通り抜ける音だけが白い石壁にかすかに反響している。


中庭の噴水も止められ、水面は一枚の鏡のように空を映していた。

蝉の声さえ、厚い建物に遮られて遠く滲み、この場所からは現実感を失っている。


午後の図書館もまた夏休みらしい静寂に包まれていた。


高い天窓から射し込む光は人の動きを探すように床をゆっくりと滑り、書棚の影を長く引き伸ばしている。


利用者はほとんどいない。

広い閲覧室に並ぶ机の多くは空席のままで、椅子がきちんと押し込まれたまま、誰かが来るのを忘れられたように整列していた。


その静けさは「音がしない」というより、音を立てること自体を躊躇わせるような空気だった。



フィーナは窓際の席で、分厚い理論書を開いていた。


人の気配がほとんどないせいか、紙をめくる音さえ、やけに大きく感じられる。


難解な公式の合間に書き込まれた古い研究者の注釈を目で追いながら、フィーナは思わず小さく微笑んだ。


(……夏休みの図書館って、こんなに静かなんだ)


授業期間中はこの時間帯でも誰かしらが調べ物をしている。

けれど今は、学院そのものが深く息を潜めているようだった。


そのとき――


石の床を踏む、控えめな足音が近づいてくる。


音の少ない空間だからこそ、その存在はすぐに分かった。


フィーナが顔を上げると、予想通り、数冊の本を抱えたルークランが立っていた。


白いシャツの袖をまくり、制服姿よりもどこか気負いのない佇まい。

この静かな図書館の空気に不思議とよく溶け込んでいる。


「……ルークランさんも、残ってたんですね。」


声を落として言うと、その響きは広い図書館の中でひどく近くに感じられた。


ルークランは立ち止まり、軽く頷く。


「セレスもか。」


短い返事。

けれど、この静かな空間ではそれだけで十分だった。


「はい。実家が遠いので……帰ると何日もかかってしまって。」


窓の外には、人影ひとつ見えない中庭が広がっている。

夏の光は眩しいはずなのに、学院全体が眠っているようで、時間の感覚が曖昧になる。


「そうか。」


それきり言葉が途切れる。

だが、気まずさはなかった。


ルークランは対面の席に本を置き、静かに腰を下ろす。

椅子が床に触れる音が、やけに鮮明に響いた。


普段なら、誰かの咳払いやページをめくる音に紛れてしまうような小さな音。

今はそれさえもこの場にある出来事として、はっきりと残る。


少し間があって、フィーナは自分でも意外に思いながら、口を開いた。


「……夏休みの間、帰らなくて大丈夫なんですか?」


言葉を選ぶより先に気持ちが口を突いて出た。


「ご家族の皆さん、心配されませんか?」


言ってから、ほんのわずかに視線を落とす。

この静けさの中では自分の声や感情が、いつもよりはっきり伝わってしまう気がした。


ルークランはその問いを聞いて、一瞬だけ目を瞬かせた。


まるでそんなふうに問われること自体が久しぶりだったかのように。


意外そうにフィーナを見てからふっと力を抜いたように、苦笑する。


「……心配、か。」


その言葉を確かめるようにゆっくり繰り返す。


「されないわけじゃない。

 ただ、帰れば言われることは決まっている。」


「決まって、いる?」


「婚約者を決めろ、だ。」


声の調子は淡々としている。

けれど、この静まり返った図書館ではその一言がやけに重く落ちた。


書棚の奥でどこかの窓が風に揺れる音がした。


「アストレイドは、伴侶を自分で選ぶ。」


ルークランは、視線を落としたまま続ける。


「貴族の中では、珍しい方だ。

 婚姻には家の関係や、金、政治――

 いろいろなものが絡むからな。

 本来は、誰かに決めてもらう方が楽なんだ。」


その口調は冷静であまりにも当然の事実を述べているようだった。


フィーナは、その言葉の奥に彼がずっと当たり前として受け入れてきた世界を感じ取る。


「決められていれば、迷わなくて済む。

 余計なことを考えずに済む家も多い。」


フィーナは、すぐには言葉を返せなかった。


広い閲覧室には二人の他に誰もいない。

夏の午後の光が、ゆっくりと床を移動していく。


「……そうなんですね。」


ようやくそう答えながら胸の奥に浮かんだ感覚を、言葉にする。


「平民は、自分で選ぶのが普通なので……

 なんだか、遠い世界の話みたいです。」


ルークランが、わずかに目を瞬かせた。


「……そうか。」


少し意外そうな声音。


「君たちは、自分で選ぶのか。」


「はい。」


短く頷くと、静かな図書館の中で、その仕草がやけに大きく感じられた。


「何を基準に?」


思いがけず真剣な問いだった。

図書館の静けさの中で、その言葉だけが、ゆっくりと浮かび上がる。


フィーナは、すぐには答えられなかった。

問いそのものよりも、それを向けてくる彼の視線がいつもより少しだけ深く、逃がしてくれない気がして。


「えっと……」


小さく息を吸う。

窓の外では、葉擦れの音ひとつしない。

まるで、世界が二人の会話に耳を澄ませているようだった。


「……基本は、好きになった人と結婚します。」


口にしてから自分でも少し照れたような気持ちになる。


「もちろん、家族の意見は聞きますし……

 全然、反対されないってわけじゃないですけど。」


そう言いながら胸の奥に自然と浮かんできた光景があった。


朝の畑。

土の匂い。

並んで鍬を振るう両親の背中。


「……私の両親が、とても仲が良いんです。」


声は、自然とひそやかになった。

この静かな図書館で、大切なものを扱うみたいに。


「特別なことは何もなくて……

 毎日、一緒に畑に出て、同じ食卓を囲んで。」


言葉を選ぶたび、記憶の中の情景がやさしく胸を満たしていく。


「でも父は、今でも母のことを“好きだ”って、普通に言うんです。

 母も、それを当たり前みたいに受け取っていて……。」


少し照れたように、けれどどこか誇らしく、フィーナは微笑んだ。


「だから……

 結婚して終わり、じゃなくて。」


言葉の途中でルークランの視線が、ほんのわずかに動いたのに気づく。


彼は何も言わない。

ただ、こちらを見ている。


「一緒に暮らしてからも、ずっと大好きでいたいですし……

 できれば、ずっと大好きでいてもらえたら、嬉しいなって思います。」


言い終えたあと、胸の奥が少しだけ、あたたかくなった。


「条件が合うから、じゃなくて……

 一緒にいたいと思うから、だと思います。」


フィーナはそこで言葉を切り、小さく付け足す。


「……私はまだ、そんなふうに思った相手はいないんですけど。」


視線を落とすと、指先が無意識に揃えられていることに気がついた。

照れを隠すみたいに。


しばらく、沈黙が落ちた。


それは、気まずい沈黙ではなかった。

むしろ、言葉を置く場所を探すような、静かで重たい間。


ルークランは、すぐには口を開かなかった。

視線を逸らすこともせず、けれど、どこか遠くを見るような目をしている。


――考えている。

それも、かなり深いところで。


「……なるほど。」


やがて、噛みしめるようにそう呟いた。


「君たちは、

 選ぶことから始まっているんだな。」


その声音には理解しきれないものに触れた戸惑いと、それでも目を逸らさずに受け取ろうとする誠実さが混じっていた。


ルークランは、静かに視線を落とす。


「俺は……

 選ぶ理由を、先に考えていた。」


低く、独白のように続ける。


「家にとって正しいか。

 釣り合っているか。

 周囲が納得するか。」


ひとつひとつ、

まるで書類を確認するように並べながら。


「だが……」


言葉が、そこで途切れた。


彼は顔を上げ、もう一度、フィーナを見る。


今度は、はっきりと。


「君の話を聞く限り、

 理由は後からついてくるものなのかもしれないな。」


その視線は探るようでいて、責めるものではなく、どこか――迷いを含んでいた。


フィーナは少し驚きながらも、小さく頷く。


「……そうかもしれません。」


その一言が落ちたあと、また沈黙が訪れる。


夏の図書館は相変わらずがらんとしていて、二人の存在だけが、そこに確かにあった。


光が、書架の影をゆっくりと動かす。

時間が進んでいることを示すのは、それだけだった。


ルークランはしばらく何かを考え込んだまま、動かない。


そしてふっと、ほんのわずかに口元を緩めた。


「……難しいな。」


その声は小さく、けれど今までになく柔らかかった。


フィーナは、その瞬間、気づく。


彼が――

自分から目を逸らしていないことに。


責めるでも、探るでもない。

ただ、考えの途中で、無意識に視線が止まってしまったような、そんな見方。


(……あれ?)


胸の奥が、ほんの少しだけざわつく。


「すみません。

 ちゃんと説明できてなくて。」


そう言うとルークランははっとしたように瞬きをし、ようやく視線を外した。


「いや。」


短く首を振る。


「説明できない、というのが答えなのかもしれない。」


そう言って、ルークランは視線を落とした。

けれど、その直後――何かを確かめるように、もう一度だけ、こちらを見る。


その眼差しは、まっすぐなのに定まらず、戸惑いと、考えごとと、そして理由の分からない名残のようなものが、静かに混じっているように見えた。


(……気のせい、かな)


そう思おうとしても、視線が離れたあとに残る沈黙が妙に重く、長く感じられた。





二人とも、しばらく言葉を失ったままだった。


ルークランは、机の上に置いた本へと視線を落とし、そのまま動かない。

ページを開くわけでもなく、閉じるわけでもなく、ただ指先だけが、紙の端をなぞっては離れる。


同じ動きを、何度も。


(……落ち着かないみたい)


その仕草が、この沈黙をただの静けさではないものにしていた。


(……どうしたんだろう)


さっきまでの沈黙とは、少し違う。

考え込んでいるというより何かを決めかねているように見えた。


やがて彼は、小さく息を吐く。

それから、ほんのわずかに姿勢を正した。


「……それで、だ。」


急に話題を切り替えるような声。

けれど、その響きにはいつもの迷いのなさがなかった。


ルークランは一度、机の上の本に視線を落とし、

それから――

ゆっくりと、こちらを見る。


その目が思ったよりも近く感じられて、フィーナは思わず背筋を伸ばした。


(……目、合ってる……)


視線は真っ直ぐなのに、どこか熱を帯びている気がする。

責めるようでも、試すようでもない。


ただ――

考えあぐねた末に、逃げ道を探すのをやめた。そんな目だった。


「……セレス。」


名前を呼ばれるだけで、胸の奥がかすかに揺れる。


「夏休みの間も、訓練を続けようと思う。」


言葉は淡々としているのにその前後にほんの短い間が挟まれる。


「……付き合ってもらえないか?」


その瞬間、ルークの視線が一度だけ揺れた。


(え……?)


フィーナは、少し驚いて瞬きをする。


「えっ、でも……

 夏休みなのに、迷惑じゃありませんか?」


言いながら自分の声が少し高くなっていることに気づく。


ルークランは、すぐに答えなかった。


視線を外し、今度は窓の方へと目を向ける。

夏の光が、彼の横顔を強く照らしている。


「迷惑なわけない。」


返事は早かった。

けれど、どこか――言い切るために、少し力を込めたような声音。


彼は、もう一度こちらを見る。


さっきよりもほんのわずかに距離が近い気がして、フィーナは思わず指先を膝の上で揃えた。


「……むしろ助かる。」


そう言ってから一瞬だけ、言葉を探すように口を閉じる。


「学院で訓練をする、と言えば……

 家に帰らなくて済むから。」


「え、それ理由そこなんですか?」


思わず笑ってしまうと、ルークランは一瞬だけ目を伏せ、小さく息を吐いた。


「半分は、冗談だ。」


そう言いながらも表情はどこか落ち着かない。


「でも……」


言葉を継ごうとして彼は一度口を閉じた。


視線が、またこちらに戻る。

さっきよりも、はっきりと。


「君の魔力は、まだ変化の途中だ。」


理性的な言葉。

いつものルークランらしい理由。


「今のうちに、もう少し基礎を固めておいた方がいい。」


そこまで言ってからほんの一瞬、沈黙が落ちる。


(……あれ?)


理屈としては、きちんとしている。

でも、その視線は――

それだけじゃない気がした。


ルークはなぜか目を逸らさず、フィーナの反応を待っている。


まるでこの誘いを断られたら、何か大事なものを失ってしまうみたいに。


「……わかりました。」


フィーナは少し考えてから、真っ直ぐに頷いた。


「お願いします。」


その瞬間。ルークランの肩からふっと力が抜けたのが分かった。


「ありがとう。」


短い言葉。

けれど、その声はさっきまでよりもはっきりと柔らかい。


彼は静かに本を閉じる。

動作はいつも通り整っているのに、視線だけが、まだ少しだけ落ち着かない。


(……なんだろう)


胸の奥が小さく、でも確かにざわついている。


図書館の窓の外では夏の風が木々を揺らし、葉の影が机の上にゆっくりと落ちた。


その影は二人のあいだで静かに重なっていた。

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