第5章:真実と代償、そして残された課題
2025年9月23日午後2時17分。東京ビッグサイトの国際会議場は、APEC首脳会議の最終セッションを迎え、厳重な警備網が張り巡らされていた。日本の警視総監 沢田と副総監 沼田は、最高警備本部のモニター室で固唾を飲んで事態を監視していた。数日前から続くテロ警戒レベルは最高潮に達しており、都内全域が戒厳状態に近い緊張感に包まれていた。
その時だった。警視庁公安部長の目の前のモニターに、赤坂のハイアットホテル付近に設置された監視カメラの映像が突然乱れ、「ALERT!ALERT!」の文字が点滅した。同時に、公安機動捜査隊からの緊急無線が入る。
「本部、赤坂ハイアットホテル付近で爆発音! 煙を確認!」
沢田警視総監が瞬時に指示を飛ばす。「直ちに現場対策本部、丸の内署に状況を通報! 全員、現場へ急行! 負傷者の救護と爆発物の特定を最優先!」
警視庁公安部外事第三課国際テロ第一係長が叫んだ。「爆弾処理班を急行させてください! 三沢で研修した部隊を最優先で!」
数分後、ハイアットホテルの一角が黒煙に包まれている映像が、鮮明にモニターに映し出された。幸い、爆発はホテルの中央部ではなく、裏手の業務用搬入口付近で発生したようだ。爆発によって、壁の一部が崩れ落ち、瓦礫が散乱している。周辺には警報が鳴り響き、混乱の中、人々がパニックに陥って逃げ惑う姿が見えた。しかし、被害は最小限に抑えられているように見えた。
「現場から報告! 爆発は小型です! 人的被害は軽傷者数名と確認! 建造物への被害も限定的!」
警視庁公安部第一課第二公安捜査係長の声が、無線を通して入ってくる。彼は現場に急行し、状況を把握していた。
「爆発物の種類は?!」公安部長が問い詰める。
「現在、爆弾処理班が分析中です。しかし、現場に残された痕跡から、恐らくはTATPかANFO、またはその複合型と思われます。通常の軍用爆薬のような組織的な大規模テロではない可能性が高いです!」
この報告に、沢田警視総監の表情にわずかな安堵の色が浮かんだ。最小限の被害で済んだのは、公安がこれまで敷いてきた厳重な警戒体制と、爆弾処理班の緊急研修が功を奏した証だろう。しかし、事件はまだ終わっていなかった。爆発は、単なる陽動かもしれない。
時を同じくして、公安内部の情報流出事件の捜査にも大きな進展があった。警察庁警備局長の執務室に、警視庁公安部長が重い足取りで入ってきた。
「長官、情報流出事件の真犯人が判明しました」
警備局長は息を呑んだ。
「誰だ」
「警視庁公安部第一課の警部補、佐々木です。彼が、例の偽造ナンバープレートの自家用車を所有していました。そして、彼のPCから、ベーカー諸島を経由した不正アクセスと、ヨーロッパのサーバーへの接続履歴が確認されました。全てを自供しています。」
公安部長の声には、苦渋が滲んでいた。まさか、身内から裏切り者が出るとは。しかも、佐々木警部補は、以前から公安内部で「優秀だが、組織への不満を口にすることが多い」と評されていた人物だった。
「動機は?」警備局長が沈痛な面持ちで尋ねた。
「彼は、かつて公安が主導したとある外国人コミュニティへの捜査で、過剰な監視と誤認逮捕が横行したことに強い不満を抱いていました。特に、彼が担当していた情報提供者の一人が、誤った情報により不当な扱いを受けたことを深く恨んでいたようです。公安のやり方が『正義』とはかけ離れていると主張し、今回の情報流出は、その『腐敗』を世間に晒すための行為だったと供述しています。」
警備局長は深く目を閉じた。第一章で報じられた「イスラム人カフェのマスター」の誤認逮捕事件。あれが、組織内部にここまで深い亀裂を生んでいたとは。
「検察崩壊に続き、公安崩壊となりえる」
警察庁長官の言葉が、警備局長の脳裏をよぎる。組織の正義が問われている。佐々木警部補は、組織の闇を暴こうとしたのかもしれない。だが、その方法はあまりにも危険で、無関係な人々を巻き込むものだった。
一方、情報流出によって人生を狂わされたイスラム人カフェのマスター、アハマド(誤認逮捕された男性)の店は、爆発テロ事件を受けて、さらなる苦境に立たされていた。テレビでは連日、テロのニュースが報じられ、アハマドの個人情報が再びネット上で拡散された。
「テロリストの仲間」「テロ資金提供者」といったデマが飛び交い、カフェには無言電話や嫌がらせのメールが殺到した。店のシャッターには、誹謗中傷の落書きまでされた。
「こんなデマが広がれば店は潰れてしまいます。それに子供はどうなります。父親がテロ関係者などと言われたら。仲間はずれにされ、いじめに遭いかねません。」
アハマドの妻、佐知子もまた、憔悴しきっていた。子供たちは学校で謂れのない差別を受け、登校を渋るようになった。アハマドは、何度も警察に助けを求めたが、彼らの回答は常に曖昧だった。「捜査中」「証拠不十分」。以前、警察を訴えようとした際、弁護士に「警察から恨まれる」と言われ諦めたことを、今更ながら後悔した。
彼の人生は、公安の「正義」と「過失」の狭間で、完全に破壊されようとしていた。彼は、テロの真の被害者であるにもかかわらず、社会からテロリストとして扱われていた。
赤坂の爆発現場。爆発物の痕跡から、やはり手製の爆弾であることが確定した。それは、特定の組織的な犯行というよりも、内なる過激化、すなわちホームグローンテロリストの犯行である可能性が高いことを示唆していた。
「爆発は、恐らく本命ではない」警視庁公安部外事第三課国際テロ第一係長が、現場から戻った報告を聞きながら分析した。「APEC首脳会議という最高の『ソフトターゲット』を狙うなら、もっと大規模な手段を選ぶはずです。」
彼の言葉が、不穏な可能性を暗示していた。これは陽動だ。では、真の目的は何か。
その時、警視庁公安部第一課第二公安捜査係長から緊急の報告が入った。
「アタミ二等参事官の動きです! 先ほど、彼の追尾班から報告がありました。呉造船所訪問後、追尾を振り切った際、都内近郊の廃工場でマディカスブラヒムと接触していた模様です!」
公安部長の目に、緊張の色が走った。マディカスブラヒム。警戒対象リストのグレーゾーンにいた男だ。そして、イラン国会副議長と共に軍事施設を視察していたアタミ二等参事官。点と点が、今、線で結ばれようとしていた。
「廃工場の監視カメラ映像を解析したところ、アタミとマディカスの間で、小型の金属製アタッシュケースが受け渡しされているのが確認されました。そして、マディカスブラヒムは、その後、都内の繁華街へと移動し、姿をくらましました。」
公安部長は直感した。これが本命だ。ハイアットホテルの爆発は、警備の目を逸らすための陽動。真の標的は、APEC首脳会議、あるいは別の重要な施設だった。そして、マディカスブラヒムがその実行犯である可能性が高い。
「ただちにマディカスブラヒムの身柄を確保しろ! 全国の警察に手配! あらゆる交通機関を封鎖し、逃亡を阻止しろ!」
警視庁公安部長の命令が、最高警備本部に響き渡った。
その日の夜、東京湾に面した埠頭。APEC首脳会議の参加国の一部が、会議終了後にチャーター船で東京湾を周遊する予定だった。警視庁公安部と刑事部は、埠頭周辺に厳重な監視網を敷いていた。夕闇が迫る中、神奈川県警察本部長からの情報が届く。
「マディカスブラヒムらしき人物が、東京湾岸の倉庫街に潜伏している可能性があります。彼は、過去の記録から、周囲を警戒し、不審だと思う者に対して攻撃的態度を取る傾向があります。単独での接近は危険です。」
無線機の向こうから聞こえる声に、公安の捜査員たちは身を引き締めた。
数時間後、廃工場周辺を徹底的に捜索していた捜査員から、決定的な情報が入る。
「本部! マディカスブラヒム、発見! 倉庫内部に潜伏しています! 内部から異臭がします! 恐らく爆弾を製造中です!」
警備局長が、総監に報告する。
「マディカスブラヒムを確保しました。爆弾は起爆寸前でした。彼は抵抗しましたが、確保時に自爆装置のようなものを起動させようとしたため、やむなく発砲。現在、搬送中です。爆弾は爆弾処理班が処理にあたっています。」
公安部長が深く息を吐いた。間一髪だった。
数日後。APEC首脳会議は無事に閉幕した。テロは未然に防がれ、日本は最悪の事態を免れた。しかし、その裏では、多くの代償が支払われていた。
警視庁の幹部会議室では、事件後の報告と今後の課題が議論されていた。
「今回の事件は、警察組織が抱える課題を浮き彫りにしました。」警察庁長官が重い口を開いた。「情報流出事件は、組織の規律と信頼を根底から揺るがすものでした。佐々木警部補の行為は決して許されるものではないが、彼が抱いた不満の根源にも向き合う必要があります。過剰な監視、誤認逮捕。これらは、公安の活動に対する国民の信頼を損なうものであり、今後、厳しく是正しなければなりません。」
長官の言葉は、情報収集と人権保護のバランス、そして組織の透明性という、公安が長年抱えてきた根深い問題を示していた。
「誤認逮捕されたカフェのマスター、アハマド氏への対応はどうなっている」警備局長が尋ねた。
「現在、事実関係を調査し、謝罪と補償を検討しています。しかし、一度失われた信頼を取り戻すことは容易ではありません。」警視庁公安部長が答えた。彼の顔には、疲労と、そして後悔の念が深く刻まれていた。アハマド氏の家族が被った苦しみは、公安の「正義」の名のもとに生じた、決して見過ごせない代償だった。
テロの脅威は去ったわけではない。会議の最後に、公安部長は改めて強調した。
「ホームグローンテロリストの台頭、手製爆弾の脅威、そしてソフトターゲットへの狙い。これらは、今後も我々が直面し続ける課題です。国際テロ対策は、継続して強化していきます。そして、何よりも、国民の皆様の信頼を取り戻し、協力体制を築き上げることが、真のテロ対策に繋がると信じています。」
窓の外には、高松の青い空が広がっていた。事件は一応の解決を見た。だが、公安の戦いは終わらない。見えない敵、そして組織内部の闇。彼らは、その両方と向き合い、未来へ進まなければならない。代償は大きかった。しかし、その代償は、公安が真に国民を守る組織として再生するための、痛みを伴う第一歩となるだろう。