第3章:爆発物への対抗とコミュニティへの接近
緊迫した空気が、三沢の米軍基地に張り詰めていた。普段はのどかな航空自衛隊の基地の一角に設けられた訓練場に、警視庁公安部の精鋭たちが集結していた。彼らは、国際テロ対策の一環として、爆弾探知と処理の実践技術を学ぶためにここにいた。指導にあたるのは、在日米空軍第35施設中隊爆発物処理班(EOD)と米空軍特別捜査局(OSI)東京事務所のベテランたちだ。
警視庁公安部外事第三課国際テロ第一係長が、集合した公安第2課から7課の防諜要員、そして警察庁警備課、外事課、国際テロ対策課、公安機動捜査隊から派遣された警部補たちに訓示を述べた。
「緊急に公安第2課から7課の防諜要員に爆弾探知と処理の実戦技術の研修をさせろ」という係長の指示のもと、この研修が急遽組まれたのだ。
「場所は三沢の米軍基地で受け入れてもらう。具体的には在日米空軍第35施設中隊爆発物処理班と米空軍特別捜査局東京事務所がおこなう。参加要員は他に警察庁警備課警部、外事課ロジ担当警部、国際テロリズム対策課警部、公安機動捜査隊警部補が加わる。米軍側は曹長クラスが実戦的内容をマンツーマンで研修する」
米軍側から派遣されたのは、レベル7のスキルを持つと称される曹長クラスのベテラン2名だった。彼らの顔には、幾多の危険な現場をくぐり抜けてきた者の証が刻まれている。
「具体的な研修内容はここにある。」
警視庁公安部長が配布された資料を指しながら、厳しい声で説明した。
「すべて実戦的におこなう。導火線による電気雷管の点火、C4の爆破実験、秘匿爆弾の処理、最重点研修は米軍が使用する爆薬だけではなく、テロリストが独自に作成する可能性のあるTATPやANFOを対象に入れる。海外法執行機関、つまり我々のことだが、基本的にはFBIを通じ手おこなうことが基本であるが今回は特別ケースだ」
訓練場では、模擬爆弾が次々と設置された。その中には、ペットボトルに入った液体爆弾や、一般的な肥料と軽油を混ぜ合わせただけの簡易爆弾「ANFO」の模型まであった。
「ニトロ系爆薬は揮発性ガスが多い。特に密閉された空間では危険度が増す。空港の探知機では微量な漏洩ガスを検知するが、現場での処理となると話は別だ」米軍の曹長が、真剣な眼差しで説明する。「TATPは家庭にある洗剤の原料でも作れてしまう。不安定で少しの衝撃で爆発する。扱いは慎重に、まるで硝子細工を触るようにだ。」
公安の要員たちは、曹長の説明に真剣に耳を傾け、一つ一つの工程をメモしていく。そして、実際に爆破実験が行われた。C4爆薬の炸裂音は想像以上に大きく、地面を揺らした。土煙が上がり、標的として置かれた廃材が吹き飛ぶ。それは、テロの破壊力を肌で感じる瞬間だった。彼らは、爆発物処理の技術だけでなく、その恐ろしさを再認識した。
「現在米空軍特別捜査局が情報を収集している。座間基地への飛翔弾着弾事案については東京のOSI支部にて分析中だ」
公安部長は、具体的な事案を引き合いに出し、この研修が単なる訓練ではないことを改めて強調した。
「爆発物処理については三沢のEODに支援を依頼している。米空軍の実務部隊の支援は必須だ。現時点はレベル7のスキルを持つ曹長クラス2名が派遣される予定だ。」
実践的な知識と技術を叩き込まれる公安の要員たち。彼らの表情には、覚悟と緊張が入り混じっていた。
日本に暮らすイスラムコミュニティへの接触は、繊細かつ喫緊の課題だった。前章で明らかになった情報流出事件の余波は大きく、公安への不信感は募るばかりだ。しかし、公安部長は、その中でも情報収集の必要性を強く訴えた。
「要警戒対象はモスクだ。視察実施モスクは3つ。東京ジャーミイ、大塚モスク、AI学院だ。視察体制は係長以下32名体制。22日からサミット本番前まで、基本的に午前8時30分から日没の礼拝が終了する午後7時30分をめどに拠点員、行確員配置し、モスク動向の把握、モスクへの新規出入者、不審者の発見把握に努める。」
幹部たちが集まる会議室で、公安部長は厳しく命じた。情報流出によって、公安の活動に対する社会の目が一層厳しくなっていることは承知の上だった。だが、テロの脅威が現実となる中で、情報収集の手を緩めるわけにはいかない。
「イスラムコミュニティーが我が国に根をおろしつつある中、各イスラムコミュニティー内部の情報を収集することは喫緊の課題である。その一方法として幅広い情報を袖手できる情報提供者を獲得することが必要不可欠だ。情報者獲得作業は外事担当者に限らず、広く所轄の公安職員にも担当させる。対象選定は基礎調査を確実におこない、選定そのものは本部指導班が他署との重複チェックのうえ、候補者カードを作成しおこなう。防衛措置として、情報先行に走らず、あくまでも善意の接触であることを意識付け、不信感、不安感をいだかせないよう留意せよ。警察官であることの身分は明らかにするが、名刺交換はおこなわない。提報者としての認定は、協力姿勢があり、継続接触が可能で、かつ言語上の障害がないことを十分に見極める。」
公安部長は、かつてないほど慎重な姿勢を求めた。過去の誤認逮捕事件は、彼らに大きな教訓を与えた。市民の信頼を失えば、情報も得られず、テロ対策は絵空事になる。
しかし、その言葉の裏には、個人のプライバシーに深く踏み込むことへの葛藤も透けて見えた。善意の接触。だが、相手が警察官だと分かれば、どれほどの「善意」が残るだろうか。
公安部の内部資料には、警戒対象者の詳細なプロファイルが記載されていた。それは、いわゆる「要注意人物」のリストだった。
そこに記載されてあったのは、マディカスブラヒムという男の情報だ。
要警戒対象視察結果報告書
基本的基礎調査事項
人定事項:
国籍: チュニジア
氏名: マディカスブラヒム
生年月日: 1975年6月9日
旅券番号: P304607
在留資格: 日本人配偶者
職業: 板橋清掃事務所
出生地: サフィクスシティー
本国住所: 88 サフィクスシティー テネシア
日本国内住所: 東京都豊島区池袋本町2-22-2 シャトワール201号室
日本国内携帯電話番号: 090-4534-8765
家族: 妻 朝永佐知子 1994年1月5日
出入国履歴: 1998年11月12日 チューリッヒから成田入国
神奈川県警察本部長が、その報告書を読み上げながら、懸念を示した。
「このものの容疑情報はみたところそれほど特異なものとは思えませんが、池袋モスクに毎週参加、池袋メトロで個人集会開催、周囲を警戒し、尾行者をチェック、不審だと思う者に対して攻撃的態度。特に事件化した事案もない。」
彼の言葉は、公安が抱えるジレンマをそのまま表していた。具体的な犯罪行為には至っていない。しかし、その行動は明らかに不審であり、警戒を怠ることはできない。彼は「シロ」とは断定できないが、「クロ」とも断定できない、グレーゾーンの存在だった。
再び、警視庁公安部長の声が会議室に響く。
「ホームグローンテロリスト、手製爆弾、ソフトターゲットの3点が要重点対策事項だ。非イスラム圏育ちであっても何らかの影響で過激化したホームグローンテロリストが増加している。国際テロ対策として外事三課長以下230名体制で、対象国人の実態把握と各種管理者対策をおこなう。特に化学在取り扱い業者、ホテル、インターネットカフェ、中古車業者等インフラとして利用さえるおそれのある業態ごとに、時期を指定して当該業態の管理者と面接をじっし、不審情報の収集と速報体制の強化をおこなえ」
公安の目は、国内に潜む潜在的な脅威へと向けられていた。海外のテロ組織と直接の繋がりがなくても、SNSやインターネットを通じて過激思想に染まり、自らテロを実行する「ホームグローンテロリスト」。彼らは、手製の爆弾を容易に入手可能な材料で作り上げ、警備が手薄な「ソフトターゲット」を狙う。
彼らの対策は、もはや国境を越えたテロリストの入国阻止だけでは間に合わない。国内に溶け込んだ外国人、あるいは日本国籍を持つ者までもが、いつテロリストに変貌してもおかしくない時代になっていた。
公安は、化学薬品業者、ホテル、ネットカフェ、中古車販売業者など、テロリストが活動の足場にする可能性のあるあらゆる業種に対し、定期的な面接と情報収集を強化する方針を打ち出した。それは、社会のあらゆる場所に公安の目が光ることを意味していた。
しかし、その監視の強化は、同時に市民の生活への介入を深めることにも繋がる。前章で浮き彫りになった公安への不信感は、このような広範な監視によってさらに高まる可能性を秘めていた。正義の名のもとに進められるテロ対策は、市民の自由と公安の使命の狭間で、常に倫理的な問いを突きつけていた。
爆発物への対抗策は着実に進められ、潜在的な脅威への情報収集も強化された。だが、それは新たな葛藤と課題を生み出す過程でもあった。見えない敵は、テロリストだけではない。社会の不満、不信、そして時に過剰な監視による市民の反発もまた、公安が直面するもう一つの「脅威」だった。