第2章:追跡と潜伏、そして新たな兆候
新宿駅東口、人通りの絶えない雑踏の中。週末の午後だというのに、スマートフォンを片手にせわしなく行き交う人々、呼び込みの声、そして大型ビジョンから流れる音楽が混然一体となり、独特の喧騒を巻き起こしていた。そんな中、道の脇で立ち止まってスマホを操作している一人の男性に、二人の制服警官が近づいた。
「どういう関係のかた?」
やや早口で問いかけたのは、制服警官1、堀川巡査だ。彼の顔には、常に警戒心が張り付いているような表情が貼り付いている。男性は顔を上げ、きょとんとした表情で警官を見上げた。
「ん? 何のことですか?」
「うん、あなたの挙動が不審やから。身分証明書あります? 私は堀川いうんやけどな。あなたは?」
堀川巡査の言葉に、男性は少し顔を曇らせた。もう一人の制服警官2が、男性の背後に回り込むようにして言った。
「わたしらも権限でやっとやから、免許証見せてください。ほら。見せてください。」
男性はためらうようにスマホをポケットにしまい込んだ。
「なぜ身分証明書を見せる必要があるんですか?」
「名前がわからんからな。お宅」堀川巡査の声が、少しだけ語気を強めた。
「警職法に基づいてやっとやから。わたしら名乗ったでしょう。なんでもええから見せてください。」制服警官2が畳みかける。
男性は口元をきつく引き結んだ。そして、スマートフォンのカメラを警官に向けた。
「お宅の名前教えてくださいよ。名前言いなさいよ。職務質問です。警職法7条です。」堀川巡査がさらに圧をかける。
すると、制服警官2が男性の行動に苛立ったように声を荒げた。
「なんでそんなことするのって聞いとんや。我々のも肖像権があるんや。なんでそんなことするのって聞いとんや。不審やろ。わしらも名前なのっとんや。なんで名前いわんの。失礼やろ」
男性は冷静に言い放った。
「警察官には肖像権はないと思います」
この言葉に、堀川巡査の顔が真っ赤になった。
「侮辱したな。今警察官を侮辱したな。」
「なんでそんなことするのって聞いとんや。十分不審や」制服警官2も興奮している。
「ちょっと交番来てもらいます。」堀川巡査が、男性の腕を掴もうと一歩踏み出した。男性はそれをかわし、一触即発の空気が流れた。周囲の通行人が、何事かと彼らの方に視線を向け始めていた。第一章で報じられた公安による誤認逮捕と情報流出のニュースは、すでに人々の心に警察への不信感として深く刻み込まれており、このような些細な摩擦が、簡単に社会問題へと発展しかねない状況だった。
警視庁刑事部の一室。警視庁刑事部管理官は、部下である警視庁刑事部係長からの報告を受けていた。事件発生から3日が経ち、捜査は多岐にわたっていた。
「事件発生から現在までの捜査状況を報告してくれたまえ。」
係長は手に持った資料に目を落としながら、正確に状況を伝えた。
「7月18日、午前9時頃事件発生、現場から逃走したと見られる、被害者の知人である〇〇の乗った容疑者の車はさいたま市浦和インターから東北自動車道に入り、18日正午には佐野藤岡インターで降りていることをNシステムで確認しています。この所轄以外にも千葉県警、埼玉県警、栃木県警に容疑者の指名手配をすると同時に、車両の写真も公開しました。インター周辺に100人体制の捜査員を派遣し、宿泊施設やコンビニエンスストア、ガソリンスタンドなどの聞き込みを行った結果、インターから5キロ付近のガソリンスタンドで給油していることが確認されています。その後、19日正午に、同インターから10キロ付近の山林で放置された車両が発見されました。また、カード会社が被害者より奪われたと思われるカードが、車両を放棄した場所の近くのコンビニで使用されていることを確認。さらに、那覇行きの航空券を予約していることを確認し、捜査員を空港に派遣するも、搭乗便の航空機には搭乗せず。現在も行方が不明となっております。」
管理官は沈黙したまま報告を聞いていた。容疑者は巧みに足取りをくらましている。これだけの情報がありながら、まだ捕らえられない事実に、彼の表情にはわずかな焦りが浮かんでいた。
警察庁の一角。警察庁警備局長は、理事官と向き合っていた。会話は、警察内部の特定の人物に関するものだった。
「その警部補にはマークをつけているんだろうな」
警備局長の問いに、理事官は冷静に答えた。
「もちろんです。私服による尾行を目に見える形で24時間はりつけています。この状態ではやつもへたな行動はとれないと思われます。」
「特に対抗策はとってきていないんだな」
「はい。自家用車のナンバープレートを偽造して装着したようですが、気づかぬふりをしています。おそらくNシステムを警戒してのことでしょう。」
理事官の言葉に、警備局長は深く頷いた。警察内部に裏切り者がいる可能性。それは、外部からのテロの脅威以上に、組織の根幹を揺るがしかねない問題だった。警戒は怠れない。
再び、警察庁警備局長の執務室。議題はイラン領事館で発生した爆弾テロ事件への対応に移っていた。
「イラン領事館での爆弾テロ事件の対応について報告してくれたまえ」
警視庁警備部長が、緊張した面持ちで報告を開始した。
「はい。現在、国際テロリズム緊急展開班を現地に派遣しております。また米国のCIAとも協調をとりつつ対応しております。CIAは事件発生直後に現場入りをしており、部隊構成は40人規模。特殊部隊も帯同しております。FBIも同時に活動を開始しているもようです。ニューヨーク支局から10名、ワシントン支局から20名、LA支局から20名の50名体制です。緊急指導班および、特殊技術捜査班、鑑識班が主力です。事件発生直後におなじく派遣された軽装備のCATが現場での初動捜査をおこない、かなりの証拠を得ているもようです。」
警備局長は、眉間の皺を深くしながら尋ねた。
「TRT-2はどうなんだ。」
警備部長は、その問いに答えを濁した。国際連携は進むものの、その裏で燻る不透明な部分も存在していることを示唆していた。
その日の午後、警視庁公安部外事第三課のオフィス。机の上に置かれた一冊のファイル。表紙には『要警戒対象視察結果報告書』と記されていた。
警視庁公安部外事第三課国際テロ第一係長が、部下に向けて説明を始めた。
「報告書をお読みいただいたと思います。ジャイラはイラン大統領秘書官で、この9月3日に入国しています。」
ジャイラ。その名が、この後の事件に深く関わっていくことになるだろう。
翌日。警視庁公安部第一課第二公安捜査係長は、視察結果を報告するために公安部長の前に立っていた。
「本日の視察結果を報告いたします。まずイラン大使館秘書官のアランですが、18時38分にイマーム風の男と100円ショップ店内で接触、約10分ほど立ち話をしています。会話の内容は聴取できませんでした。以後特異動向はなく、19時05分宿泊先の赤坂のハイアットホテルに入りました。続いて労働アタッシェのバルマですが、大使館を出た後一度失尾しましたが、半蔵門前で再補足、特にだれとも接触することなく、13時00分自宅マンションへ帰宅。問題は最後ですが、アタミ二等参事官が特異動向を示してます。13時18分アタミ二等参事官はイラン国会副議長と3車両に分乗し、三菱重工業呉造船所を訪問しています。今回は3回目ですが、今回は今までとは異なりイラン大使とシャリム武官が現地で合流しています。16時15分一端会社正門を出、岩松交差点を左折、昭和通りを竹見方面へ進行中、追尾不能となり、失尾。付近を検索するも発見できず。22時30分イラン大使館前に帰着した事を確認」
公安部長は無言で報告を聞いていたが、アタミの動向を聞くと表情が険しくなった。呉造船所、そして追尾不能。これはただ事ではない。
「当該武官の給与支払先口座を調査したところ、前武官Mの現武官もともに給与支払い実態がありません。一般外交官とは異なるルートで支払われているものと思われます。おそらく軍部からの支給ルートがあるものと思われます。」
係長の報告に、公安部長の眉間の皺が深まった。軍部からの支給。それは、彼らが単なる外交官ではないことを強く示唆していた。
「要警戒視察対象を拡大しろ」公安部長が命じた。
「はい。現時点でイラン機関員のプロファイルとしては次ぎの対象を視察対象としています。まず大使館の文化広報担当職員、イラン大使館に出入りするもので、稼働実態と生活実態が相応しないイラン政府の背景が推定されるもの、宗教的施設の指導者的立場でコミュニティーに濃厚に接触しているものの3者です。」
「大使館要員で諜報機関員と判明しているものの数は」
「在京イラン大使館ローカルスタッフで領事担当のハミタ。情報提供者によると、東京入管に収容されていた反体制メンバーに本国帰国後の身柄拘束をほのめかした事実があるようです。おそらく留学生の元締めを兼ねているものと推察されます。もう一人は同じく在京のイラン大使館一等書記官。諜報員であることはほぼ間違いありません。東京入管に頻繁に出入りし、反体制メンバーの情報を収集しています。」
係長の報告は、イラン大使館が単なる外交拠点ではなく、国内の反体制派の監視、ひいては諜報活動の拠点となっている可能性を示唆していた。公安の警戒網は、確実に広がりつつあった。しかし、その網は果たして、見えない敵のすべてを捉えることができるのだろうか。テロの兆候は、すでに日本の足元にまで迫っていた。