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第1章:闇からの流出と、揺らぐ信頼


サイレンの音が遠くで呻く。それは決してこの場にいる者たちに届く音ではなかった。防音された特殊車両の内部は、まるで外界から隔絶された秘密基地のようだった。車両後部の小さなスペースでは、二人の男が黙々と作業を進めていた。一人は腕まくりをした精悍な顔つきの係員、もう一人はその横でタブレットを操作する若い助手だ。


彼らの目の前にあるのは、現場で取得されたばかりの携帯電話だ。見たところ、ごく一般的なスマートフォン。だが、その中にはテロ事件の重要な手がかりが眠っているはずだった。通常、携帯電話のデータには厳重なセキュリティがかけられており、市販の器具で情報を抜き取ることは不可能に近い。しかし、公安には切り札があった。


「よし、始めるぞ」


係員が呟き、黒いアタッシュケースの蓋を開いた。ケースの内部は、精密機器とケーブルでぎっしり詰まっていた。まず目を引いたのは、三十本近い端子の束だ。マイクロUSB、USB-C、Lightning、そして旧式のものまで、日本で使用されているあらゆるタイプの携帯電話の端子が全て用意されていた。


「機種は?」係員が問うと、助手はタブレットの画面を見ながら即座に答えた。「サムスン製の最新モデルです」


係員は迷いなく、その中から適切な端子を一本選び出し、携帯電話のポートに接続した。カチリ、とわずかな金属音が響く。次いで、テレビのリモコンほどの大きさの本体を手に取った。液晶ディスプレイが内蔵されたその装置にケーブルを接続すると、係員はいくつかのボタンを押して何かを確認した。ディスプレイには意味不明なコードが高速で流れ、やがて「CONNECTION ESTABLISHED」の文字が緑色に点滅した。


彼は解析装置の横から切手大の小型メモリーを取り出した。そして、カバンの大部分を占めていた弁当箱状のものを引っ張り出すと、その上蓋を開いた。それはB5版サイズのノートパソコンだった。メモリーをスロットに差し込むと、電源をONにした。一瞬のうちに起動し、液晶モニターには、メモリー内のデータ構造がツリー形式で表示された。


「さすがイスラエル製、速いな」助手がつぶやいた。この装置は、公安が国際テロ対策のために極秘裏に導入したもので、その性能は世界最高峰と謳われていた。


係員はさらに操作を行い、画像とテキストデータを分類した。必要な情報が抽出されたことを確認すると、無線機を取り出し、本部に連絡を入れた。


「こちら現場、解析完了。データは送信準備完了だ」


手短に要件を済ませると、ノートパソコンの端からアンテナを伸ばし、画面上に現れた送信ボタンを躊躇なく押した。画面が2、3秒点滅したかと思うと、「データ送信完了」という表示が現れた。携帯内のデータはすべて取り出され、送信用に圧縮された後、本部のデータ解析センターにデジタル無線伝送により、バースト送信されたのだ。後は解析センターの大型コンピュータの解析結果を待つだけだった。


僅か5分後、本部の解析官から解析結果がデータ送信された。操作に使えそうな画像と電話番号、それとテキストデータが、彼らのノートパソコンの画面に表示された。迅速な情報収集の成果に、二人の顔にはわずかな安堵の色が浮かんだ。しかし、それは束の間のことに過ぎなかった。


空港のカウンターには、持ち込み用のペットボトル飲料水をチェックする装置がずらりと並べられていた。最近では、どこの国際空港にも設置されている。普及されてきたせいか、以前に比べてカラフルなデザインになっていた。正面にはボトルをすっぽりと入れる穴があり、乗客は持ち込みを許された500ミリリットルサイズまでの飲料水のペットボトルを次々と入れていた。そのたびにピンポンという軽快な音とともに、上部に設置された緑のライトが点滅する。緑のライトの下には、さらに黄色、赤と警戒レベルを示すライトが並んでいた。


この装置は、簡易式の爆発物検知装置だった。通常、ペットボトルの中に仕込まれる爆発性の液体に含まれる過酸化水素水を、近赤外線で検知する仕組みだ。ある国内の検査機器会社が、果物の糖度を測る民生品の技術を転用して開発したものだという。人々の生活に溶け込む技術が、テロ対策の最前線で活用されている事実に、皮肉にも警備の現実が垣間見えた。


その日、警察庁の理事官は、空港のセキュリティチェックを視察に訪れていた。厳重な警備体制を前に、彼は同行する管理官に問いかけた。


「空港のセキュリティーチェックは万全だろうな」


管理官は淀みなく答えた。


「はい、爆破テロ予告があってからは、通常の爆発物検知装置に加え、主たるハブ空港には最新のイオン分光測定式爆発探知装置を設置しました。この装置は爆発物からわずかに漏れ出る特有の揮発性ガスを検知するもので、極めて感度の高いものです」


理事官は深く頷いた。


「確実に爆発物が探知できるというのだな」


「感度をかなりあげてますので、誤陽性の頻度はあがっています」管理官は表情を変えずに続けた。「航空会社からのクレームはありますが、やむを得ません。昨日はハネムーンのカップルが登場前に爆竹の歓迎を受け、その延焼反応が衣類に残っていたため、予定していた搭乗便に乗れないというハプニングがありました。これに類したものはほぼ毎日発生しております。」


理事官は眉をひそめた。


「爆発物特有のガスがあるのじゃなのか」


「理事官がおっしゃっているのは爆発物マーカーのことだろうと思います。アメリカ合衆国では1996年に法律ですべての軍用爆薬に特定の物質の転化が義務化されました。日本においても平成9年に可塑性爆薬に対し、探知剤の混入が義務化されています。例えば、エチレングリコールジニラート、パラ-モノニトロトルエンなどです。しかし、爆薬を製造している国は他にも多数あり、マーカーだけを探知するというわけにはいきません。そのため、爆薬の原料に含まれる揮発性の物質もその探知機の対象成分に含めているのです。例えば、ニトログリセリンから揮発する二酸化窒素、黒色火薬や俗にいうアンモ爆薬からでる二酸化硫黄などです。これらの物質は爆薬だけに含まれるものではありません。例えば二酸化硫黄はマッチにも含まれます。航空機の乗客がトイレでマッチを1本すったため爆発物探知機が作動し、その便が運休となったケースが先週地方のハブ空港で発生しました。」


管理官の説明に、理事官は重い息を吐いた。


「アンホ爆薬は実際航空機では使用できないだろうが、他の場所では一番使用される可能性が高い爆薬だ。窒素系肥料と軽油さえあればだれでも簡単にできる。そしてどちらもだれでも簡単に入手できるものだ。」


「そのとおりです。すでにダイナマイトの製造量の3倍以上に達しています。発破業界では、現地で肥料硫安と軽油を混合する移動式製造器を使用しています。ただ、このアンホ爆薬は基本的に雷管だけでは起爆しません。少なくとも起爆用のダイナマイトが1本必要です。そう言った意味ではある程度の規制はかかっていると」


「まあ、その部分はいかんともしがたい。」理事官は諦めたように首を振った。テロ対策の難しさ、その限界を改めて実感させられる瞬間だった。


警視庁公安部の執務室に、公安部長の怒声が響き渡った。


「いったいなんだこの記事!」


机に叩きつけられた新聞には、あるイスラム人男性の顔写真と実名、家族の情報、そして携帯電話の番号までが大きく報じられていた。しかも、その男性は「テロリスト」と断定され、その情報が公安によって流されたとされていた。


「誠に申し訳ございません」


警視庁公安部第一課第二公安捜査係長が、顔面蒼白になって平身低頭する。彼の額には、冷や汗が滲んでいた。


「この男性は顔写真、本人、家族の実名、携帯電話の番号にいたるまでプロフィールを公にされ、しかもテロリスト扱いにされた。そしてそれを行ったのは公安だと。おまえのところの情報管理はいったいどうなっているんだ。おまけにこの男はただのイスラム人のカフェのマスターで、テロ事件とはいっさい関係なかったという話しじゃないか。だれなんだ内定をしたのは」


公安部長の目は、怒りで充血していた。


「申し訳ございません。担当者には厳重に注意いたしております。」


係長はそれ以上、何も言えなかった。今回の件が、公安の信頼にどれほどのダメージを与えるか、痛いほど理解していたからだ。


テレビのワイドショーでは、まさにその「誤認逮捕された男性」が顔を伏せながらインタビューに答えていた。リポーターが問いかける。


「つまり、開店直前に失業保険を受給していたというただそれだけで逮捕されたのですね」


出演者と表示された男性は、絞り出すような声で答えた。


「はい。当時は開店準備中で、収入はなかったわけですから、問題はないはずなんです。実際、警察では容疑とは関係ない話しばかり聞かれ、結局は釈放されました。それでも弁護士費用がかかったし、腹が立ったので、警察を訴えようと思ったんですが、それは警察から恨まれるからやめたほうがいいと弁護士にいわれ、泣く泣くあきらめたんです。」


リポーターは同情的な眼差しを向ける。


「いわゆる微罪逮捕というやつですね。最初はどのようにしてあなたに接触してきたんですか」


男性は遠い目をして語り始めた。


「ある日、警察の人が突然やってきてイスラム教を勉強したいっていうんです。変だなと思ったんですが、そのうちお茶を飲み雑談をかわす仲になったんです。ところが、あるイスラム教の礼拝堂で礼拝をしている時にたまたまそこの事務所の電話をとったんですが、それがその男だったんです。相手は私だということがわからなかったらしく、私に切り出したときとまったく同じ言いぶりで同じ話をし始めたんです。私は知らんぷりをして聞いていました。その時相手の素性を知ったというわけです。」


リポーターは思わず息を呑んだ。それはまさに、公安が情報提供者を獲得する際の常套手段だった。


「ところが突然ある日逮捕されてしまった」


男性は深く頷いた。


「はい。私は10年前イランから日本に渡ってきました。当初は数年間オーバーステイ状態でしたが、その後日本人と結婚し永住権を得、子供二人も設け家族で小さなカフェーをオープンしそれを懸命に切り盛りしてきました。それなのに、突然テロで逮捕され、しかもテロリスト扱いされた上に、そのでたらめな個人情報をネット上にばらまかれるなんて。こんなデマが広がれば店はつぶれてしまいます。それに子供はどうなります。父親がテロ関係者などと言われたら。仲間はずれにされ、いじめに遭いかねません。」


男性の声は震えていた。彼の言葉は、公安の情報管理のずさんさが、どれほど個人の人生を破壊しうるかを痛烈に示していた。


警察庁長官の執務室は、重苦しい空気に包まれていた。彼の向かいには、警視庁公安部長と警察庁警備局長が座っている。


「今回の公安情報流出事件はかなり高いレベルからの意図的な流出の可能性が高いと思われます」


公安部長が口火を切った。長官の顔には、隠しきれない疲労の色が浮かんでいる。


「9月のAPEC開幕を前にして全国規模で戒厳体制が敷かれているなか、このような国際テロ関係の極秘情報が流出したということはそれがどのような形であれ極めて遺憾なことだ。検察崩壊に続き公安崩壊となりえる」


長官の言葉は、組織の根幹を揺るがす事態への強い危機感を示していた。


警備局長が冷静な声で続けた。


「このスクープを報じたのは新聞社でなく、民放のテレビ局であるという点が特徴です。スクープが流れると同時に各メディアがはじかれたように反応し、追随報道を流しました。」


公安部長は頷き、今回の流出の規模を説明した。


「流出した情報は公安外事3課、警察庁、警視庁の3機関にまたがる、A4版で1000ページ以上にわたる膨大なものです。しかもその中身は詳細にわたっています。捜査員の顔写真入りの身上書、サミットでの警備体制、イランイスラム関係の追尾対象者資料、尾行記録、捜査協力者の聴取資料が含まれています。」


長官は腕を組み、考え込むような表情を見せた。


「なぜ、この情報が上層部から意図的に流されたと判断される。情報の内容が詳細にわたるという点だけなら、過失の可能性もありえると思うが」


公安部長はPCの画面を指し示した。


「はい。実はこれらの資料は非常に複雑なコンピュータ操作を経て、ネット上に流されていることが判明しております。まず、すべての文書は一端PDFという画像形式に変換されているのですが、その変換した場所がファイル内に書き込まれるのですが、その場所がタイムゾーン12となっています。そこがどこかと言うと、太平洋のど真ん中、ベーカー諸島という無人島です。さらに犯人はタイムゾーンをいじっただけではなく、ネットに流出させる時に使うサーバーをヨーロッパのある国に設置しているものを使い、しかもそのサーバへのアクセスは無線LANを不正に乗っ取り流しているのです。おそらく日本のPCを操作して遠隔でやったのでしょうが、相当に手の込んだことをしているのは事実です。」


公安部長の言葉に、長官の顔に深い影が落ちた。それはただの過失ではなかった。組織の内部に、これほど巧妙かつ悪意に満ちた意図を持った存在がいることを示唆していた。信頼は揺らぎ、見えない敵の影が、公安の内部にも忍び寄っていることを予感させた。テロの脅威が外部から迫る中、彼らはまず、組織の足元から崩壊を食い止める必要があった。










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