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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

その他、人×人恋愛系

歪んだ彼女の愛し方

この物語はフィクションです。

実在する人物・団体とは一切関係ありません。



 とある華族や財閥が現存するパラレル日本の中心地に、一つの私立学園があった。

 幼稚園から大学までエスカレーター方式で進学することができるこの学園は、最新かつ最高級の設備と講師陣を誇る、主に上流階級の子息令嬢が通うため多くの寄付を募って建てられた特別な施設である。

 そんな、いかにも金満(きんまん)といった(きら)びやかな生徒(せいと)集う学園の高等部に、一組のいびつな男女がいた。


 財閥令息のエンジと、子爵令嬢のサチハだ。

 彼らは婚約者という間柄ではあるが、実際のところ、エンジはサチハを召使い同然にこき使っていた。

 サチハの実家の子爵家はいわゆる没落寸前の状況にあり、そこに目を付けたエンジの父が華族特権を欲して金を積み、両家の縁談を成立させたのである。

 当時十二歳であったエンジは親に与えられた同年の婚約者サチハを認め受け入れながらも、分かりやすく冷遇した。


 婚約して間もなく、エンジはサチハを己の所有物であると明言し、子爵家から彼女の身柄を引き受ける。

 それから、住み込みの使用人たちの宿舎として建てられた別棟に住まわせ、本来は女中複数人であたるべき彼の世話を全てサチハ一人で行うよう命令した。

 あまりに横暴なエンジの所業であるが、しかし、反対の声は誰からも上がらなかった。


 二人の関係性を見せつけるかのように、エンジはサチハをどこへでも引き連れて歩く。

 こと学園において、彼は彼女をけして隣には並ばせず、斜め後ろでいつも己の荷を運ばせて、仮に用があってもまともに名を呼ぶこともない。

 そのくせ、(きた)る将来に自分が楽をしたいからと、彼女に多方面の学びを強要した。

 結果、優秀な成績を修めるサチハだったが、それを良いことにエンジが学園の課題を押し付けることも多く、彼女はただ命令をこなすだけで精一杯というプライベートなき日々を送っていた。


 更に恐ろしいことに、彼女は常にGPSで行動を監視されており、自由に歩き回ることさえ禁じられている。

 また、録音機器を持たされ、エンジのいない場でエンジ以外の人間との会話が発生した際は、全て記録し報告するよう義務付けられていた。

 歴史に聞く奴隷ですら、ここまで徹底管理された厳しい生活を強いられることはなかっただろう。



 ただし、一般的には、エンジは好青年として認識されていた。

 フランス人の祖母の血を継いだ色素の薄い爽やかなハンサム顔、文武ともに秀で、人当りもよく、それでいて十七らしい無邪気な笑顔で親しみやすい、いるだけで場を盛り上げ周囲を和ませるような、クラスの中心的存在。


 そんな彼が、婚約者に関することだけ豹変する。

 サチハが可哀想だとエンジに苦言を呈したり、彼女本人に対して親切にしたりといった善良な人間も、彼女を軽んじて(てい)よく利用しようとしたり、イジメの標的にしようとしたりといった悪辣な人間も、時に苛烈に時に冷徹に、等しく彼の手によって遠ざけられた。


 サチハを冷遇するエンジが善人はともかく悪人まで退(しりぞ)ける理由は、単に「自分の所有物を他人に使われたり汚されたりするのが気に食わない」から、らしい。

 趣味に合わずとも両親から贈られた物であり義理立てとして使っている道具が、大して親しくもない第三者に、特に目を離した隙を狙って好き勝手されていれば、普通に腹が立つ、と。

 そして、その程度の良識もない人間が身内にいる家は信用できないと、大財閥の社長たる父に今後の取引を控えるよう進言するのだ。

 損切りは早ければ早いほど良い、などと吐き捨てて。


 いつしかサチハは多くの生徒から、いないものと扱われるようになる。

 けして触れてはならぬ、学園最大のタブーとして。




 さて、ここで驚くべきことに、彼らの存在を全く知らずに過ごしている一人の特待生がいた。

 スポーツ推薦で公立中学から当の私立高等学園へ入学した男子生徒、スオウだ。

 彼は本命の部活業で忙しくしており、また同学年ではあるが別クラス、かつ、誰の話題にも上がらぬ二人の諸々を、目にも耳にも入れる機会のないまま、充実した学園生活を送っていた。

 が、二年の夏も終わりかけである現在、本当に偶然、廊下でエンジに凄まれているサチハの姿を()の当たりにしてしまう。


「さっきのアレは俺への当てつけか?

 薄汚れた不良品ごときが、随分と調子に乗っているようじゃないか」

「そ、そのようなことは断じて……お許しください、エンジ様」


 細い右腕を掴み壁に押し付けて、彼は息のかかりそうな至近距離で彼女を睨みつけていた。

 対して、サチハは青褪めた顔で視線を地に落とし、弱弱しく震えるばかりである。


 正義感の強いスオウは、当然の感情として憤った。

 それから、特に深い考えもなく、大声を上げながら二人に駆け寄っていく。


「おい、君、止めないかっ。

 女性はそんな風に酷く扱うものではないぞっ」


 公立中学から進学してきた体育会系の人間にしては珍妙なしゃべりだが、これは上品な振る舞いをするクラスメイトたちと過ごす内、己の粗野な言動に恥ずかしさを覚え、彼なりに見様見真似で努力を続けた末のものである。

 成果が出ているかと問われれば、沈黙をもって回答するしかないのが現状だ。


 闖入者(ちんにゅうしゃ)の叫びを耳にした瞬間、二人は大層驚いた様子で彼を見やった。

 学園内で真っ向から(くちばし)を挟んでくるような人間が、まさかこの()に及んで存在するとは思いもよらなかったのだ。


 サチハから僅かに距離を取り、エンジは数歩先で足を止めたスオウと正面から対峙する。


「……特待生か」

「え? あぁ、そうだが」


 幾分空気を和らげたエンジが、お節介者の正体を看破して呟いた。

 幼い仕草で瞼を瞬かせたスオウに向けて、彼はおもむろに深いため息を吐く。


「悪いが……俺とコレは婚約者同士で、あなたは初対面の赤の他人だ。

 無遠慮に首を差し込まれる(いわ)れはない」


 非常にわかりやすい、部外者は黙ってろ、である。

 エンジの言い分に、スオウはムッと顔を(しか)めて即座に抗弁した。


「僕が初対面だろうと、君たちにどんな事情があろうと、女性に暴言を吐いて良い理由にはならんっ。

 彼女に謝罪した上で、今後の態度も改めていくべきだ」


 まぁ、正論ではある。

 とはいえ、(かたく)なにサチハを冷遇し続けているエンジに、その程度のさえずりが効くはずもない。

 彼はただ呆れたような表情を浮かべ、肩をすくめて(きびす)を返した。


「話にならんな…………おい、行くぞ」

「……はい、エンジ様」

「あっ、待てっ!」


 もちろん、それで止まれば苦労はない。

 意味もなく手を伸ばすスオウの先、配慮の欠片もない大股で歩き去るエンジの背を、サチハが小走りで追いかけていく。


「な、なんなんだ、あの二人はっ」


 曲がり角の向こう側へ消えていく彼らを見届けながら、スオウはどこか狐に摘ままれたような気持ちで独り立ち尽くしていた。





 後日、例の二人組について友人等々に尋ねてみれば、必要以上の情報がスオウの元へと集まってくる。

 不可侵を貫いてはいるが、良くも悪くも彼らを気にかけている人間は多いのだ。

 そして、それによって、彼はサチハが想像を絶するような不遇を強いられている事実を知った。

 同時に、ありふれた正義感で、不幸な立場にある彼女を助けなければならないと奮起した。


 (くだん)の二人を昔から知る友人知人より考え直すよう忠告を受けるも、スオウは止まらない。

 むしろ、黙って見ている方も同罪だと、怒り、失望し、更に強情になりさえした。

 相手が天下の大財閥の社長令息だろうと、悪事を働いているならば見過ごして良い理屈はない、と。


 誰の力を借りることもできないので、スオウは独り、インターネットや本を漁ってサチハを開放する方法を探した。

 その中で、まず被害者本人の協力を得るのが一番の近道であると理解した彼は、彼女がエンジから離れた隙を見計らい、正面から接触を図る。

 といっても、見ず知らずの人間にいきなり君を救いたいだの何だのと言われたところで、まず信用されないだろうことは体育会系のスオウにも予想ができた。

 なので、彼はサチハへまめに挨拶したり、彼女が運んでいる荷物を一緒に持ってやったり、婚約者に押し付けられた課題やレポート等々を手伝ってやったり、といった小さな親切の押し売りじみた関わりを積み重ねていくことで、せめて知人と呼べるレベルにまで仲良くなろうとした。

 スオウが声をかけるたびに彼女は戸惑っているようだったが、けして断られはしなかったため、確実に距離は縮まっているはずだと、彼はそう信じて疑わなかった。


 しかし、一月も経たぬ内に、その幻想は打ち砕かれることとなる。


「な、なんの目的があって、私なんかに近付いて来るんですか」


 出たそばから(くう)に霞んで消え去りそうな、生気のない声だった。

 サチハは軽く俯いて、落ち着かな気に黒目を左右にうろつかせている。

 そこに、スオウに対する友好的な素振りはない。

 完全に裏を疑われていた。


「ええと、困っている人がいたら助けるのは、ごく当たり前のことだろう?」

「あぃ、相手が普通の人なら、そうかもしれません、けど、でも、私にそうするのは、へ、変です」


 いかにも人間不信といった彼女の返答を憐れみながら、彼はここで隠すのも得策ではないかと腹をくくり、真意を語るために口を開く。

 それが命令に忠実な被害者によって録音され、加害者に提出される運命とも知らずに。


「では、単刀直入に告げるが、僕は君の婚約解消の手伝いをしたいと思っている」

「えっ?」


 不審な男からの想定外の提案に、サチハの顔と瞼が上がった。


「君の婚約者はろくでもない、人の風上にも置けないヤツだ。

 立場上逆らえない君を、非のない女性を、気に入らないなんて下らない理由でいたぶってる。

 僕は君をそんな理不尽な状況から解放したい」


 途端、彼女は怒りとも悲しみともつかぬ表情で、慌てた声を響かせる。


「いっ、いらないっ、そんなのいらないっ」

「いらない?」

「あ、あのっ、エンジ様のこと悪く言うの、止めてください。

 彼は、っやさ、優しい人です」

「はぁ?」


 彼女は腹の上で握った拳を震わせて、喉から絞り出すように小さな激昂を唇から溢れさせた。

 まさか被害者の口から加害者を庇うような言葉が出るとは思わず、困惑に眉を寄せるスオウ。

 彼の頭の中では、子爵家への援助が途切れては困ると渋られることはあっても、横暴な婚約者自体には辟易(へきえき)し距離を置きたがっているはずだったのだ。


「あの男が優しいのは、あくまで君以外にだろう?」


 信じられない気持ちで零されたスオウの問いかけに、サチハは瞳を潤ませて緩く首を横に振る。


「そんな、そんなことないっ、私にだってちゃんと優しいですっ。

 冷たい残飯や寒い物置ではなく、使用人と同じ温かい食事や寝床も与えていただいていますし、お、お風呂だって、最後の掃除のついでに毎日入らせてくれます。

 言われたことが上手く出来ずとも、当然の躾けとして(なじ)られることはあっても、叩かれたり蹴られたり、痛いことはされません。

 それどころか、時には、その調子で役に立てと、お褒めの言葉をくれる日もあります。

 パーティーなど社交の必要な(おおやけ)の場では、私のような無能で華のない女でも婚約者として最低限のエスコートをしてくださるし、対外的に必要だからって、趣味に合わなかった贈り物を私に下げ渡してくださることだってあるんですよ。

 だ、だから、私はエンジ様に酷い扱いなんてされていません、彼を悪く言うのは止めてくださいっ」


 そう早口で(まく)し立てて、彼女は目の前の嫌な男をキッと睨みつけた。

 だが、必死の主張も(むな)しく、彼の視線に含まれる憐憫(れんびん)の色は濃くなるばかりだ。


「やっぱり、優しくも何ともないじゃないか。

 婚約者とは、普通、互いにもっと対等なものだ」

「な、なにを……」


 真っ向からの否定を受けて、おののき仰け反るサチハ。


「君が先ほど列挙した例えには、(いびつ)で異様な上下関係しかなかっただろう。

 どこがおかしいか分からないなら、詳細に指摘してやったっていい。

 もし、君が本気で彼を優しいと言っているのだとしたら、そんなのは心を守るための思い込みか、もしくは洗脳されているだけだ」

「っ違、違う、違うっ、思い込みなんかじゃ、洗脳なんかじゃない。

 私がっ、私はっ、エンジ様が好き、あ、愛してる」

「へ?」

「たとえエンジ様に愛されなくても、彼のそばにいることが、彼ために生きることが私の幸せなんですっ。

 だ、だからっ、私からエンジ様を奪おうとしないで……っ!」

「君は……」


 ついには泣き出してしまった彼女に、かける言葉が見つからず、そこでスオウは口を閉ざしてしまった。


 落ち込みつつも被害者本人を説得することは不可能だと判断した彼は、加害者たるエンジに直接抗議する方向に作戦を切り替える。

 彼を慕うサチハには気の毒だが、スオウの素人目にも、早急に元凶と切り離してカウンセリングを受けさせる必要性があるように思えた。




 嫌われただろうと自覚しつつも、彼は以降も彼女への親切行為を継続する。

 懐柔しようだとか、ましてや当て付けのつもりはなく、ただスオウにとって「困っている人を助けるのは当たり前」だったからだ。

 そして、サチハは怯えた様子を見せつつも、やはり彼の助力を拒否することはなかった。

 まるで、自分にはその権利がないと信じてでもいるかのように……。




 部活動のない放課後。

 スオウがエンジに二人きりで話したい旨を伝えれば、意外なほどアッサリとそれは了承された。

 サチハは彼らを不安そうに見上げていたが、婚約者の命令には逆らわず、迎えの車に独り向かわされる。


 その後、邪魔の入らぬ場所が良いということで、スオウは自身の寮室へエンジを招き入れた。

 箱買いしているスポーツドリンク、未開封の500mlペットボトルを差し出して、両者対面する形でテーブルにつく。

 口火を切ったのは、もちろんスオウだ。


「君が婚約者である彼女にやっていることは立派な犯罪だ。

 どうしても今のままの態度を貫くというのなら、僕は証拠を集めて法的措置を取る方向も視野に入れている」


 一般庶民が決死の思いで発した忠告は、しかし、ただ面倒そうな浅いため息ひとつで返されてしまった。


「……止めておけ。

 未来や家族を(しち)に取るのは容易いが、ただ掛け値なしの善意でのみ動くあなたを(おど)すような無粋は俺もしたくない」

「なっ!?

 ず、随分と物騒なことを言うじゃあないか」


 さらりと落とされたエンジの爆弾発言に、スオウの額から一筋の冷や汗が流れ落ちる。

 いち個人の正義感のみで突き進むには、あまりに強大な相手であると、今更になって彼は実感したのだ。

 とはいえ、ここで簡単に引き返すような男なら、そもそも友人たちに失望などしていない。


「だ、だが、僕が怖気(おじけ)づくと思ったら大きな間違いだぞ。

 そうやって彼女から人を遠ざけていたなら、ますます見過ごすワケにいかない」

「あぁ、だろうな。

 そう思ったからこそ、俺はこの場にいる」

「なんだって?」


 己を陥れる罠でも仕掛けられたかと、スオウが慌てて視線を周囲に巡らせる。

 が、特に普段と変わった点は見つからなかった。

 エンジは目の前の男の不審な挙動など気にも留めず、自身の主張を紡ぐ。


「率直に告げさせてもらおう。

 あなたの手前勝手なエゴで、画一的な価値観や正義感で、サチハに無用な心労を与えるのは止めてくれ」

「へ、心労?」


 思わぬ単語が耳に届いて、スオウの口から間の抜けた声が飛び出した。


「あなたが彼女に親切心で(おこな)ったことは全て、戸惑われるだけの結果に終わった……違うか?」

「あっ。まぁ、それは……確かにそうだが……。

 けれど、そんなものは君が彼女の普通をねじ曲げたせいであって……」


 加害者相手にかなりリスキーな返答だが、当のエンジは余裕のある表情で肩を(すく)めるだけだ。


「サチハはあなたが考えるほど愚かでも無知でも無能でもない。

 この俺が優しい人などと、本気で信じ込んでいるワケじゃあない。

 自身の扱いの悪さを、虐げられていることを理解した上で心から受け入れているんだ」

「なに?」

「彼女の反論に違和感を覚えなかったのか?

 本当に良くしてもらっていると思っていれば、出てくるはずのない単語や言い回しがいくらでもあっただろう」

「えっ…………え?」

「俺は彼女を洗脳などしていない。

 サチハは自ら望んで劣悪な環境に身を置いている。

 それこそが正しいことだと思い込んでいるからだ」

「っ待て、待ってくれ、理解が追い付かない。

 正しいって、まさか。どういうことなんだ、いったい」


 怒濤(どとう)のように明かされる真実に、スオウは軽いパニックを起こしてしまう。

 彼の生きてきた世界には存在しない不気味な概念が、そこには横たわっているようだった。


「俺が婚約者だとサチハを紹介された時から、彼女はとっくに壊されていたよ。

 実の家族の手によって、取り返しのつかないレベルでな」

「か、家族に?」


 そう語るエンジはとても婚約者を軽んじている男とは思えない、どこか悔やむような痛ましげな表情を浮かべている。


「サチハは己という存在が無価値だと信じきっている。

 いるだけで他者を不快にすると、本来ならば生きていることさえ間違いであると、根深く執拗(しつよう)に刷り込まれている。

 ゆえに、無償の優しさや愛情、賞賛などを受けると、自己評価とのギャップに耐えられなくなるんだ。

 己はそんな扱いを受けるべき者ではない、と。

 ある種の好意恐怖症、とでも称すべきか」

「そんな……い、いや、しかし、だ。

 たとえそうだとしても、彼女をあそこまで無下に扱う必要は……」

「本来は心地の良い風呂の湯でも、かじかむ手で触れれば熱湯の如く感じるものだろう。

 彼女の心も同じだ。

 氷の中で生きてきた壊死寸前の彼女の心は、温かな風呂の湯どころか、最低限の常識的な扱い、常温水にすら痛みを感じてしまう」

「な、なるほど……?」


 善良な父母に育てられ健全に育ったスオウにはとても理解しがたいが、さりとて適当な嘘をつかれているとも考え辛かった。

 続きを促す意味も含めて、彼は向かい合う男と同じ神妙な顔で、ひとつ頷いてみせる。


「これが婚約当初の彼女なら、今と変わらぬ扱いを受けたところで、過分すぎるとストレスを溜め、嘔吐(おうと)すらしただろう」

「そ、れは、流石に盛っていないか?」

「常に他者に怯え、粗末な残飯しか口にしようとしない、絨毯すらない冷たく硬い床でしか寝ようとしない、真冬でも水しか浴びようとしない、みすぼらしい中古服しか着ようとしない、言葉もろくに発せない、そんなあり得ない境遇を不満や疑問に思うことすらない、それが婚約当初の彼女だ」


 淡々と並べられたサチハの過去に、スオウの唇から(かす)れた笑いが漏れ出ていく。

 生きてきた世界が違いすぎて、頭に想像することすら失敗した。


「は、ぁはは、う、嘘だろう?

 そこまで(むご)いことを、まさか実の家族が」

「むしろ、親兄弟だからこそ好きに使う権利があると信じている様子だったが?」


 エンジの瞳に映る強い憤怒と侮蔑は、この場にいない子爵家の面々に向けられている。

 どこまでも残酷なサチハの現実に、スオウはただ絶句するしかない。


「俺は憐れな彼女を(ふところ)に囲い込み、つぶさに観察し、けして心身に負担をかけぬよう慎重に慎重をかさね、とにかく時間をかけて改善に取り組み続けた。

 本人が気付かぬよう、僅かずつ氷を溶かし彼女が身を浸す冷水の温度を上げていった。

 そして、五年以上の歳月を経て、今、ようやくサチハはあなたに自らの意思で反論をするような人間らしさを得るまでに至ったのだ」

「あんな、洗脳じみた態度ですら、君が彼女を癒してきた成果だった、ということか。

 己の意思どころか、感情すら失っていた彼女の……」


 ひたすらやるせない気持ちが彼の心を支配している。

 頭を抱えてしまったスオウに対し、エンジは腕を組んで宙を睨んだ。


「だが、まだまだ、サチハの意識は一般人のソレとは程遠い。

 彼女が唯一心の平穏を得られるのは、己が粗雑に扱われている時だけだ。

 だから、世の普通を、良心的な世界を彼女に見せつけて回る必要があった。

 マシになったようでも、自分はまだ不当に扱われているのだと、己を無価値と信じてやまないサチハに相応の扱いであることを納得させた」

「あぁ……つまり、逆だったのか。

 君は、人々に彼女の不遇を晒すためではなく、彼女に自身の不遇を悟らせるために引き連れ歩いていた」

「ついでに言えば、サチハが(つか)の間にでも自己肯定感を得られるのは、明確に誰かの役に立った刹那だけだ。

 その一瞬を得るため、彼女は常、無意識に、率先して、自分以外の誰かに利用されたがっている」

「そうして君は、彼女に肯定感を与えるため、君自身の手で彼女を絶えず利用し続けた、改善計画の不安要素となる他人を遠ざけた上で。

 婚約者を大切に想う本心とは裏腹に……?」


 当時十二歳だった少年の壮絶な覚悟と努力に思いを馳せ、スオウは泣きたくなった。

 少年も、少女も、互いに傷付かない日は、きっとなかっただろう。


「俺はサチハの安寧ために、彼女の幸福のために、どんなに心苦しくてもクズであり続ける。

 サチハに無理をさせない、追い詰めない程度のクズ男を演じ続ける。

 ソレでどれだけ自身の評判を下げようと、家名に泥を塗ろうと構いはしない」


 エンジの澄んだ目が、真っ直ぐにスオウを貫いていた。


「なあ、大事に想う相手に辛く当たるなんて、そんな地獄みたいなことを、君はこの先もずっと続けていくつもりなのか?

 本当にそれでいいのか、それしか方法はないのか?」

「俺は最善だと信じている」

「……まぁ、そう、なるよな」


 妙に落ち込んだ様子を見せるスオウに、エンジが薄い苦笑いを零す。


「例えばの話だ。

 今から俺がサチハを真っ当に婚約者扱いし始めたとして、彼女はろくに喜びもせず、ただ息苦しさに喘ぐ結果となるだろう。

 優しい人間の期待を常に裏切っているような罪悪感、いつ無価値である事実に気付かれ幻滅し捨てられるか分からない焦燥感、本当の自分を誰も見てくれない孤独感、きっと他にも沢山の苦しみが彼女を襲う」

「……うん」

「また、仮に、俺がサチハへ愛を囁いたとして、それを聞いた彼女の回答は、放つ言葉は……気持ち悪い、だ。

 青ざめた顔で、化け物でも見たような目を向けて、な」

「ええ……なんでそうなる?」

「存在価値のないゴミクズ同然の自分を愛する意味が分からないから、あまりに理解不能だから。

 怯え、怖がり、パニックになって、謎の怪物へと変貌した俺の前から逃げていく。

 あても計画性も何もなく、ただ遠く遠くへと」

「蛙化現象というやつか?

 しかし、君、彼女の特殊な思考回路をよくそこまで深く理解しているな」


 感心したように指で自身の顎を撫でさするスオウ。

 直後、苦い顔で、エンジが首を横に振った。


「そうでもない。

 実際、加減を間違え逃げられかけた過去はある。

 その時は、疑惑の払拭にいつもより酷いクズを演じる羽目になった」

「お、おぅ……」

「話を戻すが、万一、サチハの逃亡が現実のものとなった場合に重要なのは、本物のクズは嗅覚が利く、という点だ。

 こんなお上品な学園内でさえ、彼女は奴らに目を付けられ、使われかけた。

 それは必ずしも俺の振る舞いの影響だけじゃない。

 俺の傍から離れた彼女は、すぐに都合の良い獲物として捕らわれ、絶え間なく搾取され続けるだろう。

 やがて、彼女の心身が弱り切って使えなくなれば、当然ゴミのように捨てられる。

 その時、サチハの命が残っているかも分からない。

 そんな未来、俺は絶対に許せない、許さない」


 虚空を鋭く睨み付けるエンジに、ゴクリと唾を飲み込んだスオウが問う。


「ひとつ、疑問なんだが……君は、なぜそこまで彼女を……?」


 すると、彼は纏う空気を緩めて、自らを(あざけ)るように唇を曲げた。


「さぁ、どうしてだろうな。

 憐憫(れんびん)か、庇護欲か、責任感か、はたまた父性か、あるいは妄執(もうしゅう)か。

 これが愛だとしたら、相当歪んでいることだけは確かだろう。

 ただ、サチハの存在を警察や保護施設に任せることは……一瞬だけ関わった赤の他人として、いつしか彼女を忘れて生きていくような真似はしたくなかった。

 行政のやることは往々にして半端で、本当の意味でサチハを幸せにしてやれるのは、きっと俺だけが出来ることで……だから、そう、理由なんてそれだけだ」

「えっと、その、すまん。言葉もない」


 重い沈黙が場に落ちる。


 当初の、スオウの決意は、彼を改心させようなどという気持ちは、とっくに雲散霧消していた。

 事実を知った今、彼は、むしろ、この同年の男に畏敬の念すら抱いている。


「あの、何か、君の助けになれることはないか?」

「半端に介入されても邪魔になるだけだ。

 サチハの意識を完全に矯正するまで、俺は俺の人生を何十年だって捧げるつもりでいる。

 まぁ、あなたに同等以上の覚悟があるなら、申し出を受け入れるにやぶさかではないが」

「……すまない。そこまでは無理だ」

「だろうな」

「ああ。僕はもう彼女に関わるのは止めにするよ」


 そこまで言って、スオウは勢い良く起立し、エンジに向かって深々と(こうべ)を垂れた。


「迷惑をかけて、大変申し訳なかった」


 己の一方的な勘違いで彼とサチハを振り回してしまった、その事実に対する謝罪だ。


「……いや、今回が特殊なケースだっただけで、あなたの掛け値なしの善意に、正義感に助けられる人間は、きっと大勢いるだろう。

 彼女を気にかけてくれて、ありがとう。

 特待生たるあなたの今後の活躍を、陰ながら応援しているよ」


 スオウの折れた背の上に、なぜか感謝の言葉が降ってくる。

 それは、クズを演じる彼とも、クラスメイトに見せる快活な姿とも違う、エンジという男本来の心根が透けるような、どこまでもあたたかく優しい声だった。






「っあ、お、お帰りなさいませ、エンジ様」

「目障りな羽虫は排除した。

 残念だったな?

 逃亡の(とも)(たら)し込んだ男が役立たずで」

「えっ、そんっ、そんなっ、とんでもない誤解でございますっ。

 逃げるなんて、私、私は、私の全てはエンジ様のものです、ほ、本当です」

「……ふん、それでいい。

 俺に恥をかかせるなよ、不良品」

「は、はい。エンジ様」






『歪んだ彼女の愛し方』 完



どうでもいいメモ


サチハ→幸が薄い

エンジ→演じる

スオウ→スポーツ王



※子爵家は結婚後にざまぁされます

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― 新着の感想 ―
[一言] すっかり、スオウ君と同じ感情で読んでしまいました。 エンジ君の思考、行動、すごいものです。 今後ますますのご活躍を期待して、サチハさんの実家の話も楽しみにしております。
[一言] そういう愛し方もあるんだなぁ、ともちろん架空の事ではあるのですが、心の動きや結末に深く納得しました。
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