しつこいほどに家族の話を
「別に暗い話なんかじゃない。ただ俺が弱いだけの話だ。
俺には親父がいた。昔の話だ。死別ではない。親父は居酒屋を営んでいた。定休日以外には毎日働いていたし、市内では一番でかい歓楽街に店を構えていたから家に帰ってくるのは午前三時と四時の間だった。それから風呂に入って寝て、起きたら正午くらい。仕込みのため午後二時ごろには家を出ていたからほとんど会ったことはない。たまの休日も家族サービスなんかしないで一日中寝ていたからな。仕方ないことさ。親父は忙しかったんだ。
俺には母親もいる。当たり前だが、親父がいなくなってから俺の唯一の親になったのがその人さ。だから俺は母親のことを親と呼んでいる。もちろん親の前では母さんと呼ぶことにしているが、心の中ではいつも親とだけ呼んでいる。そういう決まりを自分で作ったってわけでもない。俺にはそれが一番自然なんだ。ただそれだけのこと。で、親は親父が不倫しているとある日思い至ったんだ。本当のことは分からない。今更聞けたもんでもないしな。ただ、親はヒステリックにそう泣いていた。寂しかったんだろうな。それで離婚したんだが、少なくとも俺の記憶の中で離婚は事後報告によって知らされたんだ。そういえば親父の靴ないなぁって気が付いたときになってようやく、『これからは私とお姉ちゃんたちだけで暮らしましょうね』って。まぁ特に悲しくはなかったよ。別に好きになるほど親父と過ごしてもいなかったからな。
その頃俺は小学校に入りたてだったと思う。正確な年月日は分からない。ただそれから数週間かあるいは数か月がたって親が彼氏を紹介してきたんだ。その人はヤマトの配達員で親の職場に届ける担当だったらしい。いい人だったよ。少なくとも親父よりもその人との記憶の方が何倍も鮮明で暖かだ。俺は小さかったからすんなりと受け入れられたんだけどさ、姉ちゃんたちはそれなりに大きかったし、特に大きいほうは中学生だったから相当きたんだろうな。離婚してすぐ男作るって、私たちの血液はそんなあまちゃんな愛情で作られているのかよって思ったんだと思う。
だからさ、俺はつねに姉ちゃんたちの愚痴を聞かなければいけなかった。親だってそれなりに忙しくて残業も多かったし、離婚してからはなおさら会う時間は減っていったよ。だからさ、俺は自分で見た親の姿よりも、姉ちゃんたちから聞いた親の姿のほうが真実に思えてならなかったんだな。だからさ、いやそれ以外にも理由はあるんだろうけど、俺はその頃から親のことが嫌いだった。他の理由は、例えば家にいる間ずっと彼氏と電話していることとか、料理が下手なところとか、なんか不憫なオーラが出てるとか、あるいは、そうだな、俺は姉ちゃんにいじめられてたんだけど、それを見て見ぬふりすることとか。そんなもんだよ。どれも大したことじゃない。姉ちゃんのいじめだってかわいいもんさ。年の離れた末っ子だから仕方がなかったんだ。俺は弱いしへらへらしてるからストレス発散にはもってこいだったんだろ。たまに血が出たり内出血したりしたときは結構痛くて悲しかったんだけど、まぁ大したことじゃない。苛々してるときに弱い奴が目の前にいて、そんで殴っても蹴っても誰にも文句を言われない環境だったんだ。そりゃあ暴力に依存もするさ。
ここで問題なのは、暴力を親が看過したこと、それによって姉ちゃんが俺への暴力にすがって強くなろうとしなかったこと。それだけさ。
そんな弱い俺にも仲のいい友達が何人きて、一番仲良かった奴はカイって言うんだけど、そいつはすごいできた奴で友達も多かった。なのに俺と一緒にいてくれたんだ。だから俺はカイに依存した。そいつの人望を少し分けてもらって俺もすごい奴みたいな気分でいた。ただカイと話すことはもうできない。別に死んだわけじゃない。絶交されたってだけだ。
俺が中学生になる頃、姉ちゃんは二人とも市外に進学して、親は三人目の彼氏に夢中だった。俺はようやく家の中でも羽を伸ばして過ごしていて、もちろんカイとは一番仲が良かったんだけれど、その他にもたくさんの友達ができていた。その中の一人がアイカだ。アイカは一重だけど綺麗な人だった。部活が終わる頃俺を待つようになって一緒に帰るようになって寝るまで通話するようになった。俺はすぐにアイカが好きになった。アイカが欲しくてたまらなかった。アイカは気が強いが悪い人じゃなかった。アイカもまた俺のことを好きだと言った。秋になって俺たちは交際を始めた。カイに絶交されたのはそのときだった。カイもまたアイカが好きだった。アイカもまたカイに好きだと言った。アイカとカイは夏に交際を始めた。俺はそのことを後になって他の友達に聞いた。アイカは一方的に別れを告げて、俺と付き合い始めた。だからカイは俺との関係をないものにした。でも中学生の恋愛なんてそんなものじゃないか?漱石のこころじゃあるまいし、それだけで関係は終わるのか?
しかし俺はその時、胸に明晰な痛みを感じたんだ。死ななくてはいけない。中学校を卒業するより早く、終わらせなければいけないって。俺は弱かったんだ。カイもまた病んでいったよ。廊下を歩けば明らかに頬のやつれたカイがいやでも目に入ってしまうんだ。かつての快活さはどことやらって感じで友達にも心配されていた。カイは被害者だった。加害者は俺だ。アイカを責める者はいなかった。みんなこぞって俺を悪者にした。多かったはずの友人はゼロになった。それでもアイカは俺と別れなかった。だから俺はアイカに依存した。親がするみたいに、アイカとつねに通話して、話せないと不安で死にそうになった。なににともなく苛々して不安で寂しくて仕方がなかった。
姉ちゃんたちが家を出てから俺は家族がいなくなったような気がしていたんだ。だからアイカがいなくなれば俺はいよいよ一人になると思い至った。だけどさ、病んでるときの思考回路って本当に変でさ、俺は自分からアイカに別れを告げたんだ。死にたかったのかもしれない。孤独になりたかったのかもしれない。その方が向いているって直感したのかもしれない。あるいはアイカの所為だと心のどこかで思っていたのかもしれない。
だからアイカと別れた。でも俺はひとりじゃなかった。幸いにして女は俺を敵視していなかった。アイカが悪いというのが女の総意だったんだろう。だからすぐに新しい彼女ができた。その子とキスをしてセックスをして、すぐに別れた。次の彼女もすぐにできた。俺は付き合うたび、本当の意味で好きになるのがどういったことなのか分からなくなっていった。アイカといるときに感じた幸福はその後再び現れることがなかった。初めてのキスの感触は唇に残って消えないのに、その後何度キスをしてもその温もりやら柔らかさやらを超えるものが現れないのと同じだ。
俺は困惑した。もうアイカのように俺の全てを賭けられる人はいないのだと知った。だから俺は死ぬことにした。発作が起こって憂鬱になるのなんて大した問題じゃなかった。何人の女に触れても初めの温もりを超えることがないのがいけなかった。初めてがアイカだったからいけなかった。俺はアイカに呪われたんだと思った。だから死ぬことにしたのさ。方法はカフェイン中毒だった。オーバードーズってかっこいいし、俺が小学生の頃にニュースでさんざんやっていたから流行りのやり方だったんだと思う。俺は尾崎豊になりたかった。だけど二十六歳にはなれるはずがないと思った。俺にはそれほどの才能はないんだから。カフェイン錠はまずかったが飲むのは意外と苦じゃなかった。その頃の俺は五十キロもなかった。錠剤は一つに二百ミリカフェインが入っていたから、エナジードリンクを使って百錠飲めば確実なはずだった。何より飲んでしまえばもう後戻りはできない方法だったから、やっぱり一番魅力的なやり方だった。もう一度あの頃に戻れるとしても、俺はカフェインを使う。
でも、死ねなかった。その後は記憶がどんどん曖昧になっていった。相変わらずアイカの呪いは生きていた。しかし気が付くと卒業してアイカは遠くの学校に行った。俺は家から近い適当な公立の高校に進んだ。死のうとした弱い男のくせに学校生活はおおよそ順調だった。同じ中学の連中はほとんどいなかったから、ともすれば一連を忘れられるかもしれないと思った。中毒で吐いた痛みもそのとき思い出した様々な思い出もアイカの呪いも次第に曖昧になっていって、俺は生まれ変わったような気がした。親友と呼べるほどの関係になるまいと適切な距離を作っていたし、中学のときみたいに生活が悪い方向に一転することはないはずだった。
そんなとき、姉ちゃんが失踪した。年の近いほうの姉ちゃんだった。姉ちゃんは私立の薬学部に進学して奨学金を借りながら生活していた。失踪を報せるのはバイト先の店長だった。親はすぐに探しに行った。それこそ俺に失踪を知らせるより先に車を走らせた。俺は親のいない家で茫洋とテレビを見ていた。『お姉ちゃん、急にいなくなったって連絡来たよ。お母さん探しに札幌に来ているんだけど、合鍵で部屋に入ったら遺書が置いてあったの。警察にも電話したよ。今日明日は帰れそうにないけど、ご飯大丈夫?』とラインが入ったのは、ちょうどCMがおわったところだった。俺に電話がかかってくることはなかった。
結局姉ちゃんは死んだ。遺体は見つからなかったが、死んだとして処理された。それでも俺は悲しくなれなかった。テレビニュースで流れる芸能人や若者の自殺を聞いた時と同じほどの気持ちにしかなれなかった。俺が悲しいのは、姉ちゃんが死んでも泣くことが出来ない自分が情けなく、薄情な自分が恐ろしく、そんな自分と今後数年をともに生きなければいけないという事実によってだけだった。遺書の内容すら、俺にはもう思い出すことが出来ない。もう一人の姉ちゃんは今も生きているよ。生きていると言えるかは曖昧なラインかもしれないが。こっちの姉ちゃんは体に傷をつけて辛うじて生きていることが確認できる、そんな精神状態なんだ。会っていないから本当かどうかはわからないんだけれど。
それでも俺は高校を卒業するまで再び死のうとすることはなかった。死にたくなかったわけではない。どうせ死ぬんだろうな、という予感は常にあった。あるいは交通事故で、あるいは事件に巻き込まれ、あるいは病気のために、あるいは再び衝動に揺らされて、卒業の前に死ぬんだと思っていた。だけど、俺は死ななかった。それどころか旧帝の受験に合格していまここにいる。大学に入ってからも、高校同様順調に進んでいった。相変わらずアイカの呪いは生きていたし、俺は相変わらず女に依存しようとすることがしばしばあった。けれど、それらは健全と言えなくはないレベルまで落ち着いていた。病みに個性を感じ始めていたのも事実だから、病まなくなったことで個性を喪失したと感じ、虚しくなることもあった。が、それ以上に安住を手にしたのだということが嬉しくてたまらなかった。すべては順調だった。今年までは。
今年に入って、俺は元日から一週間眠ることが出来なかった。比喩ではなく、無心でベッドに横たわっても頭は冴えて、つねにアイカやカイや親の歴代彼氏のことなどで頭がいっぱいになって眠ることが出来なかった。死ななくてはいけない、と誰かに言われているような気がした。成人してはいけない、その前に消え去らなければいけない、と。しかし俺には死ぬことが出来なかった。怖かったのではない。手段がなかったわけでもない。ただ死ぬに値する理由がなかった。アイカの呪いは、そうはいってもやはり弱くなっていて、あるいは俺が成長してしまっていて、命を任せられるものではなくなっていた。
だから俺は数年ぶりにアイカと連絡を取り、会うことにした。会えばまた火は強く猛るだろうと信じて。やはりアイカでなければいけなかった。他の女にアイカを超えることはできないはずだった。アイカ自身の性質のためでもあるし、それが初めての女だったためでもある。
そうして三月にご飯の約束をして、それまで俺は数編の小説や詩を書いた。いずれもアイカを思って書いたものだった。俺はアイカに殺されたかった。俺が死ぬのはアイカのためでなければいけなかった。そういう確信があった。しかしアイカは俺を救ってくれなかった。アイカは二重になって、複数の男で遊び、俺ともまた遊ぼうと思って会いに来たのだと言った。その刹那、俺はアイカの呪いが解かれたのを知った。遊びだからいけないのではない。あるいは二重に変わったからいけないのだ。あるいは穢れを誇りめいた修飾子で飾るからいけないのだ。あるいは俺との遊びを覚えていながら、その遊びのことを嬉々として語りながら、カイの名を口に出さないからいけないのだ。俺はアイカに失望した。記憶の中の少女は、記憶の中で静かに死んでいった。残ったのはアイカを名乗る二重で黒髪でまぶたをピンクに染めて唇を艶めかせるありふれた女だった。殺されるつもりで会う約束をしたのに、俺は死ぬことが出来なくなったのだ。俺は初めて自分のために泣いた。悲しくて寂しくて虚しくて今にも消え入りたいのに、俺はやはり生きなくてはいけなくなった。アイカの変貌によって俺を呪うのは血液だけになった。そして今日までの毎日、家族のことだけを考えて生きている。
考えてみると、家族は俺を殺してくれるのではないかという希望がわずかに湧いて、しかしその光はすぐに隠れた。日々はその繰り返しだった。翳りのない青天に太陽が浮かんでいないようなものだ。俺は死ぬるほどの想いを家族にかけて照らされたアスファルト上を闊歩している。そこには確かに光が煌煌と差しているが、その光源がどうにも見当たらないのだ。思い返してみると、最古の記憶が親父と電車に乗っているものであること、その親父の消息を確かめるすべがないこと、親がヒステリックに絆を解き、その後数人の男に片割れの絆を差し出して、俺や姉ちゃんには紐のほつれすら向けられないこと、姉ちゃんが死んだこと、死ねなかった姉ちゃんが恨みがましく傷をつけて泣いていることなど、俺は充分に病む要因を与えられてきたようだ。しかしその家族の現在を、俺は知らない。親父の顔が思い出せないのはもちろんのこと、俺には十数年をともにした親の顔すら思い出すことが出来ない。背丈の近い中年の女を見るたび、それが親であるように思えて、同時に不審な生き物であるようにも思えて、しかし彼女が親であることは一度たりともない。俺が親同様にして、異性の存在にしか依存できないこと、死のうとしていること、死ねずに傷を作っていること。
これらは全て呪いの産物だ。体を今もどくどくと音を立てて流れる血気盛んな呪いだ。姉ちゃんは華々しく死んでいった。何が姉ちゃんを殺したのだろう。なんのために死んでいったのだろう。道端で轢かれたカエルはなんのために、壁につぶれた蛾はなんのために、折れた枝はなんのために。君はカエルや蛾や枝を、輪郭を持った三次元の生物によって、別の自己の明瞭な殺意や純粋な衝動あるいは不慮の事故によって死んだのだと思うかい?俺にはそれが分からないのだ。呪いのような思慮のために、あるいはそういった妄信のために死ぬのと、刺殺や事故死などによって死ぬのが、どういった点で異なるのか、それが分からないのだ。精神と物質は異なるのだろうか。いや、そんなことはどうでもいい。とにかく俺は紛れもない家族の遺伝子によって死を誘発されかけている。それでいて死ねずにいる。家族と二年ぶりに会えば、あるいは俺も死ねるだろうか。もしもまた呪いを解かれでもしたら、俺は何のために死ぬのだろう。君なら、アイカや死んだ姉のように、俺を殺してくれるだろうか?」