5話 ユリア、壁ドンの後(のち)ビンタをする
あらすじに「笑いは少なめ」と書きましたが、今回のお話はコメディーもシリアスもあるのでプラマイゼロだと思うのです。(言い訳)
※9/30追記。挿絵を一番最後に追加しております。
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王都に構えられたアッシュノット侯爵のお屋敷が大きいことは知っていたが、その豪奢な佇まいにユリアは度肝を抜かれた。煌びやかな装飾にどれだけのお金を注ぎ込んでいるのか、想像もつかない。
目を丸くしている彼女を引っ張るように両親はユリアを馬車から降ろした。姉はどうやら本当にユリアの支度を手伝うためだけに来たらしい。馬車の窓から首を出し「上手くやりなさいよおぉ~~~……」と言う姉の声が馬車と共に遠ざかっていった。
出迎えたアッシュノット侯爵夫妻は心からの歓迎の意志を表していて、侯爵夫人等はユリアを抱きしめさえした。
「素敵なお嬢さんで嬉しいわ! うちのウィルったら今まで結婚もしないし爵位も継がないなんて言うからハラハラしてたの。それが急に気が変わったのは貴女のお陰よ! 本当に感謝してるの」
満面の笑みの夫人。とてもじゃないが「そちらのご令息とは会ったこともないので、何かの間違いでは」とユリアが言える雰囲気ではなかった。
せめてもの抵抗に「二人で話をさせて欲しい」と伝えると令息は自室で必要な書類を書いていると言う。
ユリアはそちらに案内され「後は若い二人で」と言われた。勿論ドアは開けたまま、ドアの外には従僕とメイドが控えた状態だ。
部屋に入ると侯爵の次男は書き物をしていた。大きな身体が机に覆い被さるかのようだ。彼の後ろの大きな窓からたっぷりの陽が射し込み、逆光もあって彼の顔や服装はよく見えない。
「あの、お初にお目にかかります。キースリング子爵家の次女、ユリアです」
ユリアの言葉を受け、さらさらと小さな音を立てていた彼のペンがぴたりと止まる。
「本日はお招き頂きありがとうございます。それと、この素敵な髪飾りも」
彼はほんの僅か顔を上げ、チラリとユリアを見てまた俯き返事をした。
「あ、ああ……」
まるで石臼から挽き出されたような、不自然なまでにかすれた声にユリアは少しだけ驚いた。侯爵令息はゴホン、と咳払いし立ち上がって窓を向く。ユリアはごくりと唾をのみ、その背中に話しかけた。
「ですが、私はこのような物を頂ける女では無いのです」
「何故だ」
ユリアは小さく息を吸うと、普段通り背をビシリと伸ばしよく通る声で言った。
「私は傷物の女なのです!」
「……何!?」
彼は少しだけ顔をこちらに向けた。顔はまだ逆光で見えないが、整った横顔のシルエットはなるほど美丈夫だと言われるのも頷ける。しかしその声は明らかに怒気をはらみ、身体は一回り大きくなったかのようだし、キッチリと撫で付けた髪はチリチリと逆立ちそうな勢いだった。
「傷物とは何が、何があった!?」
「その……」
ユリアは言い淀んだ。きちんと侯爵令息に話すつもりだったのにいざあのときの事を思い出すと顔に熱が灯る。思わず左手を頸に充てた。
「無理やりではありましたが、他の男性が、私の頸に口づけを」
「…………」
たっぷり10秒は氷漬けのように固まった侯爵令息が、今度は氷が融けたかのようにくずおれ、窓枠に身体を寄せた。深い安堵のため息が漏れる。
「はぁ…………なんだ。それなら」
「違うのです!」
ユリアは慌てて彼の言葉を遮る。
他の男性に触られたと言えば侯爵令息は怒るだろうと思っていたが、目の前の大男はそれを大したことでないと考えているようだ。しかしユリアはきちんと最後まで話をしなければ彼に対してアンフェアだと思っていた。
最後まで話して、それでも侯爵令息がかまわないと言ってくれるならば、家の為に嫁ぐ覚悟もできるかもしれない。しかし彼に対する裏切りを抱えたまま侯爵家へ嫁ぐのは違う。道理に反している。
「私はその時まではわかっていませんでした。その不埒な真似をした男の事をただの友人だと思っていました。でも」
ユリアの声は知らずと震え、目が潤んだ。
「わ、わかってしまったんです。ずっと前から彼のことが好きだったと」
「……」
「でも、彼は平民です。両親は許してくれないと思いました。私は迷って……」
ユリアの視界が涙で歪み目の前がなにもわからなくなった。ゆらゆらと揺れる窓際の影から、先程と同一人物とは思えぬ程の優しい声が聞こえる。
「迷って?」
「……まよって、両親に話す前に彼の気持ちを確かめようとしたんです。でもダメだったんです……」
「ダメではないだろう」
「ダメだったんです! 私は彼の職場には近づいてはいけない、と言われました。それに長期休暇を取っていて……もしかしたら私を避けているのかも」
「そ、そんな事は」
揺れる影が一際大きくなった気がした。
「でも、そうしている内に侯爵家から今回のお話を頂いて……両親はとても乗り気だし、彼とはまだ話せないし、私、私、このままじゃそちらにも申し訳ないと思って……」
ユリアの両の目から大粒の涙がぼろぼろと落ち、彼女が目をしばたたかせると目の前の白く歪んだ景色が少しだけ元に戻る。
「あぁ、もうわかった……わかったから。キースリング、泣かないでくれ。俺が悪かった」
侯爵令息がすぐ近くまで歩み寄っていた。
普段はボサボサの栗色の髪は後ろへ撫で付けられ、モジャモジャの髭は綺麗に剃刀があてられて跡形も無くなっている。衣服も如何にも質が良く高級品だとわかるものだ。だが、瑠璃色の瞳と、大きな身体を縮こめてこちらを心配そうに見る姿はあの日と同じ。
「……バスク……?」
ユリアは自分が幻覚を見ているのだと思った。逢いたくて堪らないひとを、目の前の美男子に重ねてしまったのだと。だが彼は照れたように微笑んだ。
「黙っていてすまなかった。バスクは母の旧姓でね。俺の本当の名はウィルフレッド・ヒューゴ・アッシュノットだ」
少し後、開け放たれた扉から部屋の外までバァン! と、大きな音が響いた。
先程「傷物の女」という言葉が子爵令嬢から飛び出し、それに対して侯爵令息が怒りを滲ませて返事をする声も聞こえている。その上で壁を叩くような音まで聞こえては、流石にベテランのメイドと従僕も心配してドアからチラリと中の様子を伺った。
彼らが見たものは、壁を背にし、両側を突っ張った腕に囲まれた……所謂「壁ドン」をされている状態で……顔を赤らめ、相手と目を合わそうとしない侯爵令息の姿。
「貴様、どう言う事か説明しろ!」
「わかった……わかったから。キースリング、この状態は勘弁してくれ。俺が悪かった」
「いいや許さん! 悪ふざけにも程があるぞ! こんな、家を巻き込んでの求婚など冗談ではすまされぬ! 私がお前をからかったのより何倍も性質が悪いぞ!!」
「結婚を冗談で申し込むわけないだろう」
「じゃあ何故こちらを見ない? やましい事があるからだろう!」
「いや……その……」
ヒューの……いや、ウィルフレッドの顔がますます赤くなる。顔をそむけたまま、ボソッと言った。
「お前、意外と胸、あるんだな……」
ユリアはハッとし、自分の胸元を見下ろした。普段は激しく動く時に胸が邪魔になる。その為布できつく巻いて抑えているが、今朝それを母に剝ぎ取られてしまった。そして着ているドレスは元々サイズの違う姉の物だった為に今は少々胸がきつく、そのふくらみが強調されている。
ちょうど背の高いウィルフレッドが至近距離でユリアを上から見ると、谷間が見えるくらいに……。
「……ば、馬鹿ぁ!!」
今度は部屋にバチーン! という、手首のスナップがよく効いた音が響いた。
廊下にいたベテランのメイドと従僕はこう囁きあう。
「あらあらまあまあ。あのお嬢様が奥様になるなら心配なさそうですね」
「ああ、以前は『アッシュノットの暴れ馬』って呼ばれていたウィルフレッド坊ちゃんをあんな風に御する女性がいるとは。いい奥方様になるだろうよ」