1-5
「大丈夫だったか?」
昨日の今日で、なんとなく気まずさを感じながら教室に入ったが、特段どうといったこともなく、周囲の様子は普通だった。そんななか、飯田が寄って来て、そう声をかけてくれた。
えっと…こういう時はどうするんだったっけ?
頭をフル回転させて…思い出した!
「お、おはよう!」
「お、おう。おはよう」
何故か若干慌て気味に飯田が挨拶を返してきた。
よし、第一段階クリア。次はなんだったっけ?必死に『友達の作り方』の内容を思い出そうとするが、思い出せない。
「…宇佐、大丈夫か?」
気遣わしげな飯田の声にハッとする。そ、そうだった。
「飯田くん、僕は宇佐義博です。よろしくお願いします」
「あ、あぁ」
ようやく思い出した、名前を呼ぶ、名前を覚えてもらうという第二段階をクリアし、ホッとした。最近、ラビットとばかり呼ばれているから、自分の名前を忘れたかと思っていたけど、大丈夫だった。そういえば、飯田から「宇佐」と呼ばれた気がするけど…。
「宇佐、大丈夫か?」
ま、間違いない。僕はアリスたちから名前を教えてもらっといたから飯田の名前を知っていたが、まさか彼が僕の名前を知っていたなんて。いや、今名乗ったから知ってる?違う。その前から名前を読んでくれていたはずだ。…なんだか感動だ。
「お、おい」
あ、まずい。僕は慌てて我に帰った。
「あ、大丈夫です。…ちょっと飯田くんが僕の名前を知っていたのにびっくりして…」
「何を言ってんだ?それを言うなら宇佐だって俺の名前知っていただろ」
いやぁ、それはアリスたちから教えてもらっていたから、だなんて言えるわけもなく。
「まぁ、それに、あ…宇佐…だし、…ていて…」
なんだか飯田がぶつぶつ言っていたが、今ひとつよく聞き取れなかった。
「同じ専攻なんだし、仲良くしていこうや」
そう言って差し出された右手に反射的に同じ右手を差し出すと、握られ、それはけして力を入れらるだわけではなかったけれど、僕は思わず「痛っ!」と声を上げた。
「わ、悪い」
飯田が慌てて手を離し、そっと僕の右手を包帯の上から撫でた。
「昨日の、だよな」
気遣わしげな飯田の声に僕はコクン、と頷いた。
「まだ結構痛むのか?」
「いや、そんなには…」
さっき、「痛っ」と言ってしまったけど、普通にしている分にはそこまで問題ない。
「でも右手だよなぁ。色々不便だよなぁ」
うーん、と飯田は少し考え込むかのように頭に手をやった。
「なんかあったら言えよ。とりあえず、昨日の分、俺のでよかったら後でデータで送ろうか?」
あんまりきれいにメモしたりしてないけどな、と言いながらそう提案してくれた。
ありがたい。それなら…と、僕は思い切って言ってみることにした。
「た、助かります。あの、よかったら…よかったら、でいいんですけど…。その前の1週間分もお願いしてもいいですか?ちょっとその間来れてなくて…」
「あぁ、俺のなんかでよかったらいいぜ」
そう言えばいなかったなぁ、体調でも崩していたのか、と心配そうに見てくる飯田に、大丈夫です、と答えながら、僕はホッと胸を撫で下ろした。
「あとでアドレス教えてな」
そう言われて、連絡先を人に教えるなんて、大学で初めてだなぁ、と密かに感動しながら頷いた。
「あ、そうだ」
僕はハッと思い出すと、リュックからハンカチを取り出した。
「ありがとう、助かりました」
ハンカチを飯田に渡すと「あぁ」と受け取り、血の跡が少しも残らずきれいにアイロンがかけられたそれを見て、「…すが、宇……」とよく聴き取れないことを呟いていた。
講義開始のチャイムが鳴り、僕は慌てて席についた。
そこはいつもの定位置ではあったが、いつもと違い、僕の隣には飯田の姿があった。