イザベラの思惑
至高の賢者がイザベラの執務室を訪れたのは、彼女がハーキム伯爵をけしかけた翌日だった。
「お忙しいところすみません、イザベラ先生」
「いいえ、構いませんよ。それで、どのようなご用事が?」
ソファーに座らせ、お茶をイザベラ自ら淹れるその間、黒髪の青年は言いにくそうにしていたが、ティーカップを差し出されて意を決したようだ。
「ハーキム卿に、僕をそれとなく監視するようお願いしましたよね?」
イザベラは微笑みを消し、彼の対面に腰かけた。だがその内心では、ほくそ笑んでいる。
「……ごめんなさい。気を悪くさせてしまいましたね」
「いえ、僕を心配してのことだと理解していますから」
ハーキムが対談の内容を包み隠さず至高の賢者に伝えたのは想定内だ。
ハーキムがこちらに不信を抱いているのは感じていたし、マティス・ルティウス個人に好感を持っているのも知っていた。
むしろ彼がそうするよう、あえて仕向けた結果がこれだ。
(もうすこし様子を見るかと思いましたが、決断が早いですね)
子ども時代から変わらない、と懐かしむ彼女に、鞄の中から取り出した紙束を渡してくる。
「……ッ!? これは――」
一枚一枚捲っていくと、そこには六名の聖王国貴族による不正行為の数々が記されていた。
「僕と親友を嵌めた貴族たちを僕なりに調査した結果です」
イザベラは捲る手を止め、震えを堪えて尋ねる。
「どうして、これを私に?」
「先生に隠れて進めていたら、余計心配させてしまうと思ったんです。だから――」
濁りのない瞳がイザベラに向く。
「〝僕〟の汚名を濯ぐため、ご協力いただけないでしょうか?」
イザベラはゾクゾクするのを抑えられない。
(ああ、こうも上手く事が運ぶなんて!)
勇者殺しを主導した九名の貴族をこちらが知ったとなれば、その身の潔白を証明するため助力を求めてくる。
そうでなくても探りを入れてくれば、そのときはこちらから引きこむつもりだった。
相手の方から懇願してきたこの状況は、考えていた中では最良だ。
(これで、私の主導で彼らを糾弾できます)
あとはダボン公などすでに聖王国からいなくなった三名を加え、彼らが勇者殺しの真犯人だと世間に知らしめればいい。
ただ恩を売るだけではない。
至高の賢者と謳われたマティス・ルティウスの信頼を勝ち得て、彼をようやくこの手に入れられるのだ。
(私はこの子と二人で、さらなる高みを目指せましょう)
勇者を排し、賢者を擁する。
三年前から――いやそのずっと前から描いてきた夢が、もうすぐ現実となる。
だが喜ぶのはまだ早かった。至高の賢者を相手に、これから主導権を握り続けなければならないのだ。
逸る気持ちを抑え、平静を装って告げる。
「もちろん協力は惜しみません。ただ、ここに記されている者たちは聖王国でも相当な地位のある貴族たちです。いまだ首輪を嵌められた貴方が動き回れば、彼らを糾弾する前に気取られかねません」
「そうですね。協力をお願いしておきながら、先生に大きなご負担をかけてしまって申し訳ないのですけど……」
「構いませんよ。これは私にとっても大切なことですから」
イザベラは完全勝利に向けて思考を巡らせる。
憂慮すべき問題があった。
勇者殺しに聖王が関与している事実を、闇に葬らなければならないのだ。
イザベラは直接的に聖王をそそのかしてはいない。
勇者が危険であるとの心情を増幅させるよう、それとなく仕向けただけだ。
だから自身にまで疑いの目が向けられるとは微塵も考えてはいない。
それでも、聖王という最強の後ろ盾を失うような事態は避けなければならなかった。
また国を揺るがすほどの大スキャンダルに発展すれば、今後の見通しがまったく立たなくなる。
残る六名は一人一人、じっくり丁寧に不正の裏を取りつつ牢へ送っていく。
みなが処刑されるほどの大罪人。刑が執行されてのち、死人に口なしとしてから勇者殺しの罪をも被ってもらうのだ。
(問題は、国外逃亡したガディフ将軍の動向ですが……)
逃げ出した者の言い分など誰も聞きはしないだろうが、至高の賢者が疑えば面倒だ。
思考に埋没するイザベラの耳に、教え子の声が不意に届く。
「ところで先生、その資料を最後までご覧になりましたか?」
「ぇ? いえ、これからですけれど……」
「ひとまず最後のページだけ見ていただけますか?」
ぞわりと背に悪寒が走る。得も言われぬ恐怖から、乱暴にページを捲って最後の一枚に目を通し――。
「なっ!? なに、を……貴方は何をぉ!」
「あ、やっぱりご存じなかったようですね。先生がハーキム卿に伝えた連中の名前が九名だけだったので、もしかしてと思っていたんです。本当の首謀者は連中じゃありません。そこに書いてある通り――」
屈託のない笑みに背筋が凍る。
「真の首謀者は聖王です。奴がダボン公のほか数名に、直接命令を下したんですよ」
「そんな、証拠は……」
「ないですね。でも残る六名を裁判にかければ、複数から証言が出てくると思いますよ?」
「裁判で、勇者殺しの罪を、裁くと言うのですか……?」
「まさか処刑した後に勇者殺しの罪を押しつけるつもりだったのですか? それでは僕の名誉は回復しません。死人に口なし、なんて揶揄されたくないですからね」
いくら物的な証拠がなくても、他の不正で糾弾され、処刑が決まって自暴自棄になり、聖王に勇者殺しの不名誉だけでも押しつけようとする者がでてきてもおかしくはない。
イザベラは奥歯を噛む。
その様を無表情で眺めるジークは、ここぞとばかりに畳みかけるのだった――。




